「神は光を昼と呼ばれた、私たちは何と呼ばれるのか。」

及川 信

創世記 1章 1節〜 5節

 

 最近の北朝鮮関連の報道で、皆様もお感じになっておられると思いますが、拉致された日本人の方たちが、一様に朝鮮名をつけられているということは、一体何を現しているのでしょうか。拉致被害者(日本側からすれば、そう言わざるを得ません)の方たちは、日本名を奪われ、朝鮮の名前を付けられ、その名で呼ばれているのです。日本もかつて大規模にそのことを朝鮮半島の人々に対してしました。朝鮮半島を植民地支配した日本は、すべての朝鮮人の名を奪い、日本名を名乗らせました。それは、特に代々の家系を重んじてこられた朝鮮の方々にとっては屈辱的なことであり、尊厳を奪われ、アイデンティティーを奪われることでした。しかし、それでは何故、日本は、また今の北朝鮮は、相手の名前を奪い、自分たちの国の名前を付けるのでしょうか。
 同じ国家と言っても、アメリカなどの国籍を取得する場合に、自分の名前を変えろとは言われないでしょう。表記がアルファベットになるだけで、ファーストネームもファミリーネームも変えろとは要求されないと思います。しかし、外国人が日本国籍を取得する場合は、日本名をつけなければなりません。その違いはどこから来るのか?その問題を考えていくと、色々と興味深いものがあります。人間観、国家観の相違がそこにはあるでしょうし、一個の人間と国家との関係とか、名前の由来あるいは根拠が家にあるのか神にあるのかの違いなど、色々と面白い問題があると思います。
 以前、『ゴッド ファーザー』という、アメリカのマフィアを扱った映画が、何年もかけて三部作として完結しましたけれど、ゴッド ファーザーとは、「神のような父」とでも訳せばよいのでしょうか?犯罪組織であるマフィアの世界独特の言葉なのか、一般的にも使われるのか、私にはよく分かりません。しかし、辞書を見ると、それはマフィア一家のボスという意味と同時に「名付け親」という意味を持っています。子供が生まれる、その時に、その子に誰がどういう名をつけるか、これは本当に大切な問題です。昔の日本では、それは家長の仕事だったでしょう。家制度が社会の土台でしたから、圧倒的な権威をもっていた家の主人がそういう重大な決定をするのです。名前を付けるということの重要性は、いずこの国、あるいは民族でも変わることはないはずです。それ故に、誰が名前を付けるのか、誰が最初にその子の名前を呼ぶのかが、また重要なことになるのです。その子供の名前を最初に呼ぶ人間、それは神のような権威をもつ者としてゴッド ファーザーと、ある人々は呼ぶようになったのだと思うのですが、その名前を呼ぶ存在が本当に神なのか、人なのか、国家なのか、そのことによって、私たちの人生は大きく変わります。
 聖書の中には沢山の命名の記事があります。また、名前を呼ぶことが極めて印象深く表現されている個所も沢山あります。その一つ一つを検証していくことも実に興味深いことですが、今日はそうする時間はありません。ただ、今までの話の関連で、旧約聖書から一つ例を挙げておくことは良いことだろうと思います。それは列王記下二四章に出てくる話ですけれど、ユダ王国がバビロン帝国との戦争に負けて、第一次の捕囚があった時、ユダの王ヨヤキンは廃位させられて、代わりにバビロンの王ネブカドネツァルによって、ヨヤキンの叔父であるマタンヤという名の人が王にさせられたのです。しかし、その時、バビロンの王ネブカドネツァルは、マタンヤを「ゼデキヤ」という名前に変えました。それは「心に適う王」という意味だそうです。つまり、バビロン王の意思に適う、意志どおりに動く王という意味です。このような命名、バビロン王から「ゼデキヤ」と呼ばれる場合、それは支配者の力に屈服した徴ですから、屈辱以外の何ものでもありません。
 かつての日本人が朝鮮人の名前を無理やり変えるという場合は、そのことによって、朝鮮人を日本人に、当時の憲法の下では天皇の臣民にするということです。今の北朝鮮が日本人の名前を朝鮮名に変えることも、それと同じ意味があるでしょう。金イルソン、ジョンイル、あるいは朝鮮労働党に奴隷のように忠誠を尽くす人間になれという意味が、そこにはあると思います。
 命名するということ、それはその存在を作り出すことなのです。天皇の臣民を作り出したり、党に忠誠を尽くす人民を作り出すことです。少なくとも、地上の支配者、あるいは国家が名をつける場合は、そうです。
 しかし、私たちがゆっくりと読み進めようとしている創世記の天地創造物語の主語は、王とか天皇とかいう権力者でもありませんし、国家でもありません。聖書の主語は、神様です。神様が天と地をお造りになり、光を造られたのです。そして、光と闇とを分け、光を良しとされた。裏を返せば、闇を良しとはされなかった。そして、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたのです。これは光を昼と命名し、闇を夜と命名したということですし、さらに言えば、こうして時間をも造り出されたということなのです。天地創造というと、空間的なイメージだけを持ちがちですが、神様は光と闇を空間的に分けると同時に、ここではむしろ、そのことで昼と夜を分け、時間を造り出されたのです。それはさらに、この時から歴史を始められたということなのです。私たちが生きる空間と時間を、神様はお造りになり、その名を呼ぶことを通して関係をもたれ、支配をしておられる。聖書は、そう私たちに告げているのです。神様は世界の主であると同時に、歴史の主であるという宣言、あるいは賛美がここにはあるのです。世界の主、歴史の主は唯一の超大国の大統領でもなければ、バビロン帝国の王でもない。神様なのだ。そのことを知る喜び、信じることが出来る喜び、それがここにはあるのです。
 そのことを踏まえた上で、今度は、私たち一人一人が、神様によって何と呼ばれているのか、そのことを考えていきたいと思います。私たちもまた神様によって造られた者であり、そうであるかぎり、いわゆる固有名詞としての名前だけではなく、光とか昼とか、いう意味でも名前を呼ばれているはずなのです。その呼びかけを聞くことがなければ、私たちは自分自身の存在を、その意義を、自分でも知ることなく、不安を抱えたまま、無為に生きるほかにないのです。
 私たちは、誰しもこういう経験をしたことがあるでしょう。たとえば、幼稚園でも小学校でもいいのですが、初めて会う人たちばかりの集団に入園なり入学して、教室に入った時、担任の先生が名簿を見ながら一人ずつの名前を呼ぶ。そういう時に、自分の名前が呼ばれるまで、私たちは心の中に若干の不安を覚えているものです。名前が呼ばれて、その呼んだ先生と目と目が合う時に、自分がそこにいて良いのだということが分かってホッとする、あるいは喜びが湧き上がる。そういう経験を誰しもがしているはずです。大人になってからでも、新しい人々と出会う時には、名前を呼び合う関係を持つまでは、精神的に疲れるというか、不安を感じるものです。私も昨年は、皆さんは私の名前をご存知でも、私は知りませんし、なかなかお互いに丁寧な自己紹介も出来ないのですから、随分長い間不安を抱えていましたし、多くの方々も同じだったろうと思うのです。今もって、名簿上で名前を見ているだけでお会いしていない方が何人もおられるわけですから、不安は今もなお残っています。わたしもその人の名を呼んだことがないし、その人から呼ばれたこともない。そういう時、お互いはまだお互いにとっては存在し合っていないのです。
名を呼ぶ、それは人を存在へと呼び出すことです。そして、応答を求めることです。初めて入った教室で最後まで名前が呼ばれなかったとしたら、それは存在が認められない、そこにはいない人ということになってしまうのです。そんな悲しい、まさに所在のない寂しさはありません。そこにいるのに、無視されている。そのとき人は、自分の存在が抹殺されたような悲しみを経験します。しかし、それはまた逆に、名前を呼んだのに、相手から応答が為されない時の、呼んだ方にとっての悲しみも深いということでもあります。
私たちと神様との間にある関係は、どういうものなのでしょうか。そこには呼ばれる喜びがあるのでしょうか、また呼びかけに応える喜びがあるのでしょうか。それとも冷たいうら寂しい悲しみがあるのでしょうか。私たちは、呼ばれているのでしょうか、そして、応答しているのでしょうか。神様に喜んで頂いているのでしょうか。それとも、悲しませているのでしょうか。
 よく「人生は空しい」と言います。私の若い頃は、「近頃の若者は三無主義に陥っている」と言われたものです。自分でもそう思いました。無感動、無責任、無気力だったと思います。その当時の大人、今の中・高年齢者の方たちは、国家に対して、あるいは戦後社会に対して、忠誠を尽くすというか、貢献するという目的や喜びや責任感が、まさに良くも悪くもあったのだと思います。しかし、その世代も含めて、今は、理想だとか、目的だとか、責任感を持つことが難しいのではないでしょうか。官民を問わず、その不正の数も規模も拡大の一途をたどっているように思います。官公庁も民間企業もその内側から崩れているのではないでしょうか。また、様々な意味での家庭崩壊も年々増加し、自殺者も年々増加している。経済至上主義の行き着く先は倫理の崩壊であり、社会の崩壊であり、家庭の崩壊だと思います。そしてそれは、結局、人間の崩壊、人格の崩壊に繋がるでしょう。私たち人間が単なる富を追い求める結果、自分自身と他人の人格を破壊することになるのです。富があれば幸いになれると思って、一生懸命に働きながら、実は私たちは互いの目を見て、互いの名を呼び合うことをしなくなったのです。相手の役職や地位を見て、その役職名で呼んだり、利益にならない相手とは目も合わさないような付き合い方しか出来ない。そういう希薄にして、単なる功利的な人間関係が、大人社会から家庭にも入り込み、子供はそこでも人格を無視されて、学校でも偏差値教育によって子供の人格が無視される。そうやって、結局、老いも若きも、その心や魂が痩せ衰えていく、あるいは枯渇していくのです。そして、死に向かっていくのです。それが、私たちの今の現実なのではないでしょうか。その根源的な原因は、私たちが神様の眼差しを見ず、その呼びかけ聞かないところにあります。
 創世記1章の2節の言葉は、言ってみればそういう現実を現しているのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」とは、闇に覆われ、空しい世界を現しているのです。命の充満、光の充満ではなく、死の闇が覆い被さっている空しさを、この2節の言葉は、表現している。
 そういう現実、それはまさに人間の罪による現実としか言い様がありませんが、その闇と混沌の世界に、神様はまず「光あれ」という呼びかけによって、光を創造されました。まさに、呼び出されたのです。そして、光と闇を分け、一方を昼と呼び、他方を夜と呼んで時間を造られました。そのように秩序付け、光を良しとされ、闇を良しとはされませんでした。そして、その闇は、いかにも象徴的なことですけれど、死の闇を現しつつ、いわゆる夜の闇でもあります。そして、その夜の闇もまた、16節以下で分かりますように、小さな光、つまり、月ですが、その光によって治められているのです。また、闇も神に名づけられており、それは神様が闇を支配していることの現われでもあるのです。闇は存在するけれども、支配はしない。もう闇の支配は終わった。光が、その闇の中で輝いているし、今は闇でも、光が満ちるときが来る。そういう現実を、神様は造り出して下さった。その事実の宣言がここにあり、それがそのまま賛美になっているのです。そして、忘れてはならないのは、光は呼びかけに応えるときにのみ、光として生きるのであり、その限りにおいて、神様の栄光を現すものだということです。
 私たちは神様に何と呼ばれているのでしょうか。ここで「私たち」とは、キリスト者のことです。キリスト者とはどのように誕生し、どのように生きることなのか。そのことを、「呼ぶ」という言葉を手がかりとして考えてみると、ギリシャ語で「呼ぶ」とはカレオーという言葉です。そして、教会を現す言葉、つまりキリスト者の集まりを表す言葉はエクレシアと言うのです。これは、「〜から呼び出された者」という意味で、カレオーと深い関係のある言葉です。世から呼び出された者たち、それがキリスト者なのです。それでは、聖書において、世とは何でしょうか。世は、闇です。罪の闇が覆っているのです。しかし、神様は、その闇の世に光なる、命なる、主イエス・キリストを送ってくださり、その主イエスが、まさに神様の言葉として、呼びかけの言葉として、私たちをこの世から召し出してくださったのです。そのことをヨハネによる福音書は、こう言っています。これは、主イエスのお言葉です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 神様は、私たち罪に支配されて、闇に覆われていた者を、救い、神様との愛の交わりの中に生かすために、御子を世に、つまり、私たち罪人の所に遣わされたのです。それは闇の中に輝く光として、死の中に生きる命として遣わされたということです。それは、御子に全ての罪を負わせて、御子を裁いて、世の罪人を救うために遣わされたということです。この御子を通しての救いに与るために必要なことは、御子を通しての呼びかけ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに応えるか否かなのです。神様が御子を惜しまずに与えるほどに愛してくださったその愛の呼びかけ、御子が御自分の命までも捧げて愛してくださったその愛の呼びかけに、私たちが悔い改めの信仰をもって応えるか否か、ただそのことだけが、問題なのです。
 ヨハネ福音書の中で、主イエスは、こうもおっしゃいました。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 そして、こうもおっしゃいました。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光あるうちに、光を信じなさい。」
 そして、この福音書の最後で、復活の主イエスが、「あなたと一緒に死ぬ」と言いつつ、その直後に三度も主イエスを否んだペトロに、三度も「ヨハネの子シモン」とその名を呼びつつ、問い掛けた言葉は、「あなたは私を愛するか」であり、命令された言葉は、「わたしの羊を飼いなさい」でした。そして、最後に一言、「わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃったのでした。
 私たちキリスト者、それはそれぞれ様々なあり方を通して、名前を呼ばれ、召し出されて、今、この礼拝堂に集められているのです。私たちがここに来たのではなく、私たちは呼んでいただいたからこそ、ここに来させて頂いているのです。そして、世の闇から光へ、死から命へ、孤独から交わりへと移されているのです。闇の子ではなく、光の子となるために呼び出されているのです。
「光あれ」と神様は仰いました。すると、光があったのです。私たちは、その光であり、命である、人を生かす言葉であり、霊である、主イエスを信じるようにと召し出され、そして、その信仰を告白するまで導かれ、その後、様々な過ちを繰り返し、罪を犯しながらも、尚も神様の愛、御子をさえ惜しまずに与えてくださった愛、その憐れみの故に、今日も、この礼拝に呼ばれているのです。何という恵みかと思います。私たちは、この礼拝を通して、命の御言葉、闇を照らす光の御言葉を頂きます。その言葉を通して、私たちは自分の惨めな姿を知り、そして、さらにその惨めさを覆ってくださる神様の愛と恵みを知らされます。そして、聖霊の注ぎの中で、そのことを信じる恵みを与えられるのです。そのようにして、私たちに主イエスの命が宿り、光が宿るのです。
今日はさらに、聖餐の食卓へと招かれようとしているのです。この食卓に与るのは、主イエスの招きに応え、信仰を告白し、洗礼を受けた者に限られます。それは、「私を愛するか」の問いに、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白する者だけに限られるということです。このペトロの愛の告白、すべてをご存知の方に対する愛の告白、それは、三度も主イエスを否む罪を犯した自分、その後も、肉の弱さを抱えている自分、そのすべてをご存知の上で、尚も愛し、共に生きてくださり、呼びかけ、問い掛け、栄光に満ちた使命を与えようとしてくださる主イエスに、丸ごとの自分をさらけ出し、委ねきった愛と信仰の告白なのです。ただ、その懺悔と告白をする者だけが、このパンとぶどう酒を頂くことを通して、聖霊の導きによって、主イエスとの一つの交わりに与り、主にある兄姉との一つの交わりに与ることが出来るからです。既にキリスト者にされた者たちは、今日も新たに、主に招かれ、主が丸ごとのご自身を捧げ尽くして愛してくださったことに、献身の思いを新たにして応えるものでありますように。そして、まだ信仰を告白されておられない方は、光あるうちに光を信じることが出来るように祈りつつ、これからの時を過ごすことが出来ますように。そして、共々に、「あなたがたは、世の光である」と、主イエスから呼んで頂ける恵みを分かち合い、御名を呼びつつ、讃美の声を合わせたいと思います。
最後に、瞬きの詩人と言われた水野源三の詩を読んで終わります。

「主のお召しを受けたならば」

主のお召しを受けたならば
主のお召しを受けたならば
明日に延ばさないで
今すぐに従い行けよ

主のお召しを受けたならば
主のお召しを受けたならば
今までの生活を捨て去って従い行けよ

主のお召しを受けたならば
主のお召しを受けたならば
すべてのことを委ね 御旨のままに従い行けよ

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