「天を造る神、天に召される私達」

及川 信

創世記 1章 6節〜 8節

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 9月から第一主日には創世記の御言葉を聴くことを始めました。そして、今日で3回目となります。その日がたまたま、昨年から召天者記念礼拝と呼ぶようになった礼拝の日に重なった偶然を、やはり意味あるものとして受け止めたいと思います。
 今日は、まさに天地創造物語の中の「天の創造」にあたるからです。天の創造、それはその先を見れば分かりますように、地の創造でもあります。天が造られなければ地も造られません。しかし、「天」という言葉、これは実に含蓄があるというか、深い意味がこめられていますし、また広い使われ方をするのです。私のようなものが、その深さ広さを捉えようもありませんし、まして、一回の説教の中で語り尽くせるはずもありません。ですから、ある事柄にポイントを絞っていきたいと思います。それは、「天」は永遠かという問題です。
 今日の説教題を、最終的には「天を造る神、天に召される私達」と致しました。この題の中でさえ、「天」という言葉は、二重の意味、あるいは、矛盾した意味を持っています。天が神様に造られたということは、天は被造物、一つの物質なのです。それは聖書を読めば明らかです。しかし、その被造物である天に、私たちは召されるのかと言えば、そんなことではありません。生きている今も、死んだ後も、私たちは被造物である天、ここでは「大空」と言ったほうが良いかもしれませんが、その天に召されているわけではない。呼び出されているわけではありません。私たちは神様に召されているのです。今日の課題は、こういうところにあります。
 もう何百年も前に「国敗れて山河あり」と言った人がいます。人間同士が血で血を洗う争いをした後も、山や川は前と変わりなくそこに存在し続けている。そういう悠久の自然の中にあって、短い人生を争いで過ごす人間の愚かさ、その人間が作り出す歴史の空しさ、そういうものを嘆く思いがそこにはあるのでしょう。そして、その時代の人間にとっては、自然は変わらざるもの、永遠に存在するものと捉えられていたのかもしれません。しかし、最近の戦争では、自然もろとも吹っ飛ばす、あるいは焼き尽くし、滅ぼし尽くすことがありますから、少なくとも地上の自然の姿に永遠を感じることは出来にくくなっています。戦争だけでなく、開発という名の元の破壊、人口増加による住宅建設などで、緑豊かな丘陵地帯が平野にされて住宅の密集地になっていることも珍しくありません。
しかし、地上がそうであっても、天は違う。つい最近までは、誰もがそう思っていたでしょう。しかし、それも最近は、先進諸国が出す二酸化炭素ガスや、貧しい国々の熱帯雨林の焼却の影響で、大気中のオゾン層が破壊されるということが起こっています。つまり、変わることのないはずの天もまた、実は変化し、破壊され、ついには天地が滅び去っても可笑しくないということを、現代に生きる私たちは次第に気づき始めています。しかし、そんなことは、つい最近の話であって、人類の歴史が始まってから今日までを一日とするならば、それはほんの数秒、あるいは一秒くらいのことです。その一秒で、私たち人間は、地上はもとより天上までも破壊するようなことをしているわけですが、それ以前の人々にとっては、大地も変わらざる永遠のものでしたし、まして天はそれ以上に永遠のものと感じていたのです。そして、天そのものが、畏敬の対象、信仰の対象にもなっていました。
 私たち日本人も、太陽のことをお天道様とかお日様と呼び、月もお月様、星もお星様と言っています。それは天体崇拝の名残りでしょうし、星占いは今以って衰えることを知らない人気があります。古今東西を問わず、天を仰いで、畏れたり、憧れたり、敬ったり、ひれ伏したり、様々なことを人間はしてきました。人が死んだら空の星になるという話は、あらゆるところにあるのです。それは国民性あるいは民族性を超えた話です。人は、不老長寿さらには永遠の命を求めて生きてきたのです。
そういう人間の歴史の中にあって、今から2500年以上も前、古代世界において書かれたこの創世記1章は、徹底的に天体崇拝を排除している、拒絶しているのです。天は、神が造った被造物であり、信仰の対象ではないと宣言しているのです。そして、それは、天は永遠の存在ではないということでもあります。また、人間が死んだら天に昇って星になるわけではないということです。

「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」

 ここで「大空」と訳された言葉は、もともとは鉄鎚で打たれたものという意味だそうで、大きな鉄板というか、皿というか、そういうものです。英語ではしばしばドームと訳されています。神様はそのドームを創造し、そのドームが、地を覆っていた水を上下に分けていくようにして下さったのです。昔の人々は、大地は平らで、その上にドーム(天蓋)が被さっていると考えていました。その天蓋の上に水が溜まっていて、時折、天蓋の窓が開けられてそこから雨が降ってくる。そう思っていたのです。その先を読むと、次の日、天蓋の下の水が、一か所に集められて海となり、陸が出てくる。そうやって、世界は人が生きていける状態になっている。そして、空には鳥が、海には魚が生きるように創造されるのです。
それはとにかくとして、水というのは、人間にとっては恐ろしいものなのです。すべてを飲み尽くす洪水、氾濫、津波、大波、こういうものほど抵抗し難い力はありません。その恐るべき水を、神様はこのようにしてそれぞれの所に閉じ込めて、必要に応じて雨を降らせて下さるようにしてくださった。聖書は、そう宣言しているのです。
 つまり、大空にしても天にしても、徹底的に非神話化し、信仰や崇拝の対象ではないと言っているのです。そのことがもっとよく分かるのは、14節ですけれども、そこにはこうあります。

「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。(中略)神は二つの大きな光る物と星を造り 云々」

ここでも徹底的に「太陽」とか「月」という言葉が排除されています。それは「お天道様」とか「お日様」、「お月様」と同じように、その言葉自体が、もう太陽や月を神格化し、拝む対象としている言葉だったからです。だから、わざわざ「光るもの」という言い方で、太陽や月は人格のない物質に過ぎないと言っているのです。
 つまり、この世界、宇宙にあるものはすべて、神様によって造られた被造物なのであって、拝むような対象ではない。拝むべきは、これらを造った神様なのだということです。その神様が、私たちが生きていく時間と空間を造ってくださったのだし、その神様の守りの中で、私たちは生きている、いや生かされている。そういうことが、ここに記されているのです。
 そして、神様は大空を「天」と名づけられました。それは「地」に対する名前です。天と地、そのことで宇宙というか、神様の被造世界の全体を言い表すのです。そして、面白いなと思うのですが、ヘブライ語はその天を複数形で表します。単数形の天という言葉はありません。「もろもろの天」という言い方もあるのですが、とにかく、古代のイスラエル人は、大空の上、ドーム、天蓋の上の空間が幾層にもなっていると考えていたようです。そして、その天に神はいます、彼らはそう信じました。そして、私たちも同じです。神様は天にいます。そういうことから、新約聖書、特にマタイによる福音書などでは、「天」は「神」と同義に使われている場合もある程です。
 こういうことから、「天」という言葉の広がりと深さが出てくるわけですが、天に神がいます、あるいは天が神を現すということが、何を意味するかと言うと、第一には、神様は地に住む人間とは全く隔絶された存在であるということです。神様は私たちをはるかに超越した神様なのです。それは極めて大切なことです。しかし、私たち人間は、誰でも天下、つまり天の下にしか生き得ないわけで、そういう意味では、私たちが生きている所のどこにでも神様はいますということでもあります。つまり、神様は遍在しておられる。ですから、神様は近い。神様に会いに行くために、私たちはどこかへ行かねばならないということはあり得ない。神様はここにいます。私たちのいるところに神様はいます。そういうことでもある。そういう超越性と偏在性、あるいは臨在性、遠さと近さ、そういうものが、「天にいます神様」にはあります。そして、天をも造り給うた神様こそが唯一の神様であり、永遠の神様であるという信仰の告白が、ここにはあります。
 その神様をこそ仰ぎ、敬い、信じ、従う。そこに人が人として生きる道があるのです。それ以外のものを信じたり、畏れたりする時、人間は人間ではなくなる。
 つまり、被造物である天、あるいはそこにある太陽や月を、永遠の象徴であるかのように思って拝んだり、畏れたりすることによって、人間は人間でなくなるのです。
旧約聖書には『コヘレトの言葉』という不思議な魅力をもった書物が入っています。その中に、多くの方がお好きな言葉だと思いますが、こういう言葉があります。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」

 以前使っていた口語訳聖書の方が、馴染みがあるかもしれません。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見極めることはできない。」(口語訳)

   永遠を思う心、そこに人間と他の動物との違いがあるのです。私は最近、また犬を飼い始めました。犬ともそれなりにコミュニケーションが取れることは知っています。犬が、人間が言わんとしている事をかなり理解することは分かります。しかし、犬が永遠を思うとは思えません。猫だってそうじゃないでしょうし、かなり頭がいい猿だって、やはり永遠を思う心は与えられていません。空の星を見つめて、彼らが永遠を思うとはやはり思えないのです。
しかし、永遠を思う心を持っているはずの私たち人間がやっていることは、一体何なのでしょうか?テロだとか報復だとか、結局、殺し合いです。お互いに怒鳴りあい、喚き散らしつつ、殺しあっているのです。 詩編2編の書き出しはこういうものです。

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。」

昔から国々は、自分の支配や栄華を永久に続かせようと謀って、争いを繰り返しています。しかし、そういう様をご覧になって「天を王座とする方は笑い」「嘲り」「憤る」とあります。 コヘレトはこう言っています。

「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。」

そして、こうも言っています。

「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死にあれも死ぬ。同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵からなった。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」

ここでコヘレトと呼ばれる謎の人物が言いたいことは、人間が永遠を思わなくなれば、それは動物と同じということでしょう。天にいます神を、その永遠なる存在を思うことなく語られる言葉は、空しい戯言に過ぎず、神を畏れることなく生きるということは、結局、自分を神の位につけること以外の何ものでもないのです。つまり、私たち人間は動物とは違って、永遠の命を求めながら、実は全くその逆を生きてしまうという悲劇、あるいはアイロニー、皮肉を、コヘレトは警告し、シニカルに冷笑しているのです。
犬は、まだ訓練が出来ていない間は、なんとか自分が主人になろうとして、飼い主に向かってでも歯向かってきます。自分が犬だということが分からない間は、まるで家の主人であるかのような態度を取りたがるのです。私のところの子犬も、気がつけばソファーの上に偉そうに寝ていますし、私が呼んでもビーフジャーキーを持っていない限り、滅多に来ません。ですから、まだまだ仕込まなければならないのですが、そういう関わりの中で、犬がちゃんと自分が犬であることを分かるということが、犬にとっても大事なことなのです。犬が、ちゃんと自分が犬だと分かるというのは、飼い主は自分よりもはるかに強い人間で、自分を守ってくれるボス、導いてくれるボスだと分かるということなのです。そのことが分かった時に、そして、ボスを本当に信頼した時に、犬は始めて落ち着き、ボスの喜ぶことが自分の喜びになるのだそうです。その日まで、ボスである人間と犬の長く苦しい日々が続くのです。
私のところの犬は、まだまだそんな風にはいきませんけれど、こういう関係は、神様と人間の関係にとっても同じなのです。聖書の比喩では、私たちと神様の関係は、羊と羊飼いの関係です。羊は、本当の羊飼い、よい羊飼い、死の陰の谷を通るときも共にいてくださる羊飼いと出会い、恐ろしい獣に襲われる時も、杖と鞭で命をかけて戦い、追い払ってくださる羊飼いと出会い、その羊飼いについていく、従っていくときに、本当の幸いを得るのです。この神様との出会い。それがあるかないか。そして、その出会いに応えて、神様の招きに応えて生きるか否か。そこに全てが掛かっている。救いか滅びかが掛かっているのです。
永遠の存在、それは山河でも宇宙でもありません。そのことを、現代人である私たちは現代の経験と科学的知識によっても知っています。しかし、そんなことを知る由もない古代社会を生きた人の中にも、ある意味では同じことを神様から知らされた人々がいるのです。しかし、彼らは、ただ単に物質には終わりがあるということを知ったのではなく、空も星も神様が造った被造物である限り、神様がその終わりをもたらすことがお出来になるということを知った、いや知らされたのです。
旧約聖書の中のハガイという預言者が、主なる神様の言葉としてこう語っています。

「わたしは、間もなくもう一度
天と地を、海と陸地を揺り動かす。
諸国の民をことごとく揺り動かす。」


こんなことを語ることが出来るのは、人間ではありません。たとえば今をときめくアメリカ大統領でさえ、こんなことは言い様がありません。彼は精々、イラクを叩くだとかつまらぬことを言えるだけです。しかし、そんなつまらぬことを言い続けている彼に限らず、私たち人間の所業を、天に座する方は見て、笑い、憤り、怒りをもって揺り動かす、その根底から覆すとおっしゃっているのです。つまり、こういうことは、単なる物質の終わりとして起こることなのではなく、繰り返される人間の罪の所業に対する裁きとして起こることなのです。
その事実を、最も端的に表しているのは、ペトロの第二の手紙の3章の言葉です。少し長いのですが、ご一緒に読みたいと思います。

「愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の始めから何一つ変わらないではないか。』彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によって出来たのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなくて、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束にしたがって待ち望んでいるのです。」


 天は激しい音をたてながら消えうせる、焼け崩れる。こういうことが、現実に核戦争によって実現するのか、それとも地球に巨大隕石が衝突することによって起こるのか、太陽に異変が生じて起こるのか、地球という惑星の寿命によって起きるのか、そういう議論はあり得ることです。
しかし、ここではそんなことが問題になっているのではありません。ここで見つめられているのは、神様とその御業です。罪人に対する神様の最後の審判が語られているのです。その日、人間が永遠だと思っているすべてのものも消え失せるのだと言うのです。その審判を経て、「義が宿る新しい天と新しい地」が造りだされる。不信心な者が滅ぼされ、信心深い生活をしていた者が、新しい天と地に入れて頂ける日が来る。私たちが、真の信仰に生きているのならば、その日は待ち遠しい日なのです。恐ろしい日ではなく、むしろ救いの完成の日ですから待ち遠しいのです。先ほど、聖歌隊が捧げた讃美歌にも、「こいしきふるさと ややにちかし」と歌われましたし、この後に皆で歌う讃美歌でも「み神をうやまい、世びとをあいし、日毎の御業に いそしみはげまん、旅路を終わらば、御国にのぼり、主イエスにまみゆる、幸にあずからん」と歌うのです。
 しかし、何故、私たちはそんな歌を歌うことが出来るのでしょうか。そんな歌を喜ばしく歌うことが出来る人間ではないはずです。教会は聖なる者たちの集まりでしょうか。もちろん、そのことを神様は望んでおられます。「聖なる信心深い生活」を送ることを望んでおられるのです。しかし、その生活が出来た者だけに、資格証書のように新しい天と地に、つまり、天国、神の国に召すという救いを与えてくださるのでしょうか。そうではありません。そうであるとすれば、今日お手元に配られたプリントに名が記されている人の、一体何人が、天に召されたのでしょうか。もちろん、そんなことは私たちが知り得ようはずがありませんが、神様はここで何を求めておられるか。

「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

 主イエスの宣教の第一声はこういうものです。

「悔い改めよ、天国は近づいた。」

 主イエスの言葉の全て、業の全て、そして、十字架の死、復活、昇天、そして聖霊の降臨と教会の誕生、その全ての出来事が、天の国、神様の国への招きです。滅び行くこの世の栄華を求める生活から、永遠の御国の命を求める生活へと方向を転換するようにとの招き、悔い改めへの招きなのです。その招きに応えること、罪の一切を隠すことなく、すべてを委ね、赦しを求めて、その招きに応えること。そこに私たちの救いが掛かっているのです。天に召されるか否かがかかっているのです。永遠の命を生きるか否かの違いは、よい羊飼いである主イエスの招きに応えて、罪を悔い改めるか否かの違いなのです。そして、ルターが言う如く、キリスト者の生涯とは、悔い改めの生涯なのです。
 これから私たちは聖餐の食卓に招かれようとしています。罪にまみれた私たちを、天に召すために、裂かれた神の独り子主イエス・キリストの御体、流された血潮、その御体と血潮を、私たちの罪の赦しのためと信じて、食し、飲むものは、ただ主の憐れみの故に、天に召される約束を与えられるのです。
 そして、罪の悔い改めと、赦しを信じる信仰をもって、この食卓に与る者だけが、こう歌うことが出来るのです。

「おもかげうつししのぶ、今日だにかくもあるを、御国にて祝う日の、その幸やいかにあらん。」

   目に見える天地は滅びます。永遠ではありません。しかし、天地の造り主なる御神は永遠の神であり、毎週の礼拝で歌っていますように、「昔いまし、今いまし、永久にいます」神です。この神様を信じ、その独り子である主イエスを聖霊によって「救い主・キリスト」と信じ、告白し、自分の罪を悔い改めてこの食卓に与る者は、ただその信仰の故に、恵みによって、「義の宿る新しい天と地に」召されるのです。そこで主イエスに見え、喜びと感謝と讃美の礼拝を捧げる者とされるのです。そのようにして、永遠の命に生きる者とされる。何たる幸い、何たる喜び。ただ「主の御名はほむべきかな」と言う外にありません。
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