「私たちが立っている所とは」

及川 信

創世記 1章 6節―10節

 

 今世界中の目がイラクの核査察に向かっています。現在のイラクという国家がある地域は、その昔の紀元前6世紀頃はバビロンという国でした。先週の聖書個所に出ていた「バベルの塔」が立っていた土地です。今でも、イラク国内には、その当時に建てられた「ジグラッド」と呼ばれる塔の遺跡がいくつもあります。バビロンは、非常な権勢を誇った大帝国です。しかし、その大帝国も、滅びました。永遠の運行をすると信じられた天の太陽や、月や星を拝み、高い塔を建て、永遠に世界の中心とならんとしたこの国は、大きくなるに従って、内部に多くの不満分子を抱え、弾圧を繰り返すうちに、国力が疲弊し、ついにペルシャに滅ぼされていったのです。「国敗れて山河あり」ではありませんが、この世はまさに諸行無常、栄枯盛衰の習いの中で、愚かな罪が繰り返されているのです。「私は、そんな愚かなことはしない」と決意しながら、しかし、実際には誰しも、先人の失敗を何らかの意味で、あるいはそれぞれの程度で、繰り返してしまうのです。人間とはそういうものだと思います。
 創世記1章が書かれた時代、それはバビロンの全盛時代にユダ王国が征服され、多くの貴族階級や職人たちがバビロンに連れ去られた時代、「バビロン捕囚」と呼ばれる時代です。イスラエルにしてみれば、全てが泡と消えてしまった、全ての土台が崩壊してしまった時代です。先祖アブラハムに約束された土地が奪われる、神聖不可侵と信じていたエルサレム神殿が破壊される。住民は虐殺され、陵辱され、あらゆる財産は略奪され、ついに、遠い異国の地に拉致されてしまい、帰る希望も消え果てた時代。そういう時代に、この創世記1章の天地創造から始まる壮大な歴史は書かれたのです。
 その1章には、一体何が書かれているのでしょうか。その点については、色々な見解があるに違いありません。しかし、確かなことは、ここには神様への讃美があるということです。溢れるばかりの讃美がある。私たちは礼拝の最初の方と終わりに讃詠と頌栄を歌います。それはただただ三位一体なる神様を讃美している歌です。神様が何をしてくださったとか、私たちもそれに応えてこうしますというようなことは、他の讃美歌で歌います。しかし、讃詠や頌栄では、ただ神様が神様であることを讃美するのです。栄光が世々限りなく神にあるようにと願いつつ、讃美する。そういう讃美が、創世記あるいは聖書全体の最初の言葉、「初めに、神は天地を創造された」という言葉にはあります。これだけで、もうすべてが言い尽くされているとも言えるでしょう。この世界は神様がお造りになった。更に、この歴史は神様が始められた。そういう宣言がここにはあり、それが同時に讃美になっているのです。何故なら、神様がお造りになった世界、神様がお始めになった歴史であるなら、神様がすべてをご自身の栄光に従って完成し、終わらせる時が来るという、大いなる希望がここにはあるからです。そして、その希望を与えて下さった神様に対する讃美が、ここにはあるのです。
バビロン捕囚という絶望的な状況の中で、こういう希望が与えられ、讃美が与えられるということ、そのことがまさに神様の恵み、神様の奇跡と、私は言わざるを得ないと思うのです。
今日の個所は、前回の「大空」の創造に続く場面、つまり、「地」の創造です。しかし、読んでお分かりのように、この場所は、何かを造り出す「創造」ではなく、既にあるものにそれぞれの領域を指定して秩序を与えるという御業です。前回も申し上げましたように、古代の人々は、天は固いドームのようになっていて、その上に水があり、さらに地下にも水があり、さらに海の水があると考えていました。つまり、天上、地上、地下に水があるのです。創世記の冒頭で描かれている世界は、まだ水がそのように分けられていない、すべてが水に覆われて闇が支配している恐るべき不気味な世界なのです。その世界に光を創造して与え、闇を夜に閉じ込め、昼と夜を造り出す事によって時間を作り出して下さった。さらに、水を大空の上に閉じ込め、続いて、天の下の水を一つ所に集めて、乾いた地を現れさせて下さったのです。このようにして、次第に生物が生きる環境が整えられていき、最後に人間が創造されるのです。
ここで語られていること、そして讃美されていること、それは、神様こそが全てのものの主であり、支配者であるということです。空と海、それは永遠の象徴であり、また捉えようもない大きさの象徴でもある。そして、それはまた恐怖と畏怖の対象でもあります。空から降ってくる雨は、恵みの雨であると同時に、洪水をもたらす恐るべきものでもあります。人間は、ある時は雨乞いの祈りを献げ、ある時は、もう雨を降らせないで下さいと祈って、今日まで生きているのです。あるいは、空から落ちてくる雷、これは人間にとってはどうしようもない恐怖でしたし、今でもそうです。朝のテレビ・ドラマで、気象予報の世界が描かれていますが、今でも雷雲の発生と成長、あるいは台風の進路などは、私たちにとっては時に命を左右する問題です。もう何年も前のことになりますが、奥尻島の津波を見ても分かりますように、地震などで発生する大津波に対しては、人間は全く為す術がありません。大洪水も然りです。数年前の愛知県南部の洪水にしても、突発的な大雨が降ったときの東京の地下街にしても、現代の都市においても、水の脅威は消え去ることはありません。水は全てを呑み尽くし、滅ぼし尽くす力を持ったものなのです。
こういうことを考えて、改めて6節から10節までを見てみますと、空の創造にしろ、地の創造にしろ、そこで問題になっているのは結局「水」なのです。

「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」

 ここで語られていることは、神様こそがこの水を支配しておられるということです。そして、この神様こそが、私たち人間の支配者だということなのです。つまり、バビロン人が、イスラエル人の支配者であり、王なのではない。そんな小さなつまらないレベルの話ではなく、バビロン人もイスラエル人も、何人も、およそ天の下に住むすべての人間は、この神様の御支配の下に生かされている。神様の守りの中で生かされている。神様が水をそれぞれの所に押し込めて抑えていて下さるから、地の上の生き物は皆一日一日を生きることが出来るのだ。この神様を讃美し、その讃美において一つになろう。そうでなければ、世界は上下左右に分裂し、敵対を深めていくだけなのだというメッセージ、それがこの個所に込められた一つの大きなものだと思います。
 そのことを踏まえた上で、今日はもう一歩先に進みたいと思うのです。詩編の詩人はこう詠っています。

「地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。」

「主は地をその基の上に据えられた。
地は、世々限りなく、揺らぐことがない。」


 ここに「基を置き」とか「基を据える」という言葉が出てきます。原文では同じ言葉で、「確立する」とか、「土台に据える」とか、そういう意味です。これらの詩編で語られている大海、神様が大海というすべてを呑み尽くす巨大な力の上に、地を確立してくださっていることを覚えよということであり、神様が据えてくださった土台の上にしっかりと立っている限り、地は永遠に揺らぐことはないということでもあります。そうであれば、こうも言えることにもなります。神様が据えて下さった基の上にしっかりと立っていなければ、地もまた揺れ動く。そういうことでしょう。
 この「基を置く」とか「基の上に据えられた」という言葉が、新約聖書でどのように使われているかを調べてみると、旧約聖書の引用以外では、四箇所で使われていました。
 最初に、マタイによる福音書の言葉を読みます。これは主イエスの山上の説教という長い説教の締めくくりの言葉ですが、主イエスはこうおっしゃいました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 この「岩を土台としていたからである」「土台とする」が、「基を置く」と同じ言葉です。この岩、それは主イエスを信じる信仰と服従と言うことが出来ますし、主イエス・キリストそのものとも言えるでしょう。そこに立つか、それともそこから離れるか、すべてはそこに掛かっているのです。
 だからコロサイの信徒への手紙において、パウロは、こう言うのです。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」

 揺るぐことなく信仰に踏みとどまる、ただそこにおいて、神様が御子イエス・キリストの十字架の死と復活という奇跡の御業を通して与えられた福音、つまり罪の赦しが与えられ、永遠の命に生かされるという救いがまっとうされるのです。御子イエス・キリストのご自身の命を捨てる愛、そして、その御子を死の中から復活させられた神様の全能の御力、その愛と力によって罪の汚れをきよめて頂いた感謝と喜びを、信仰と讃美を通して神様にお捧げし、栄光を神様にお返しする。そこにとどまる限り、何があろうと、私たちは倒れることはない、洪水が押し寄せてきても流されることはない、沈み込んでしまうことはないのです。

 次にエフェソの信徒への手紙の言葉を読みます。
「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

 最後の文章、「愛にしっかりと立つ」が、「基を置く」と同じ言葉です。ここでパウロは、天地をお造りになった神様の下で、すべての者は一つの家族なのであり、その家族同士が、主イエス・キリストを通して現された神様の絶大な愛に根ざし、愛にしっかりと立って、神様を愛し、そして互いに愛し合うことが出来るように祈っているのです。
 この祈りはさらに続きます。今日の礼拝における私たちの祈りとして、読ませていただきます。

「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

 ここでは、神様はその栄光によって世界を、そして、私たち一人一人を救いへと導いてくださることの希望と讃美が満ち溢れています。
 最後にペトロの手紙一の言葉を読みたいと思います。

「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

 言うまでもなく、「揺らぐことのない」という言葉が、「基を置く」と同じ言葉なのですけれど、エフェソ書や第一ペトロ書に共通していることは、私たちが「しっかりと立つ」「揺らぐことが無い」ようになるために、神様の恵みに縋り祈っているということです。私たちの決断、決心、努力、それは大事なことです。そのこと抜きに、何も起こり得ないかもしれません。しかし、もっと大事なこと、あるいは、根源的なこと、それは神様の恵みです。そして、神様の栄光、何ものも侵すことが出来ない栄光の力。その恵みの神様、栄光の神様が、その力をもって、私たちを強め、あるいは私たちの内にキリストを住まわせ、主イエス・キリストを通して現された神様の愛の上に立って揺るがぬ者、しっかり立ち続ける者にして下さる。そのことを、信じて祈る。それこそが、最も大事なことであり、根源的なものなのです。
 聖書の最後は、ヨハネの黙示録です。その黙示録が、世の終わりの救いの完成を表現する言葉として、こういう言葉を使っています。私は、しばしば葬儀が終わった後、火葬場での最後の祈りに際して読みますけれど。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」

 「もはや海もなくなった。」これは、私たちの目に見える海だけではなく、地下にあると考えられていた海も含めて、要するに、地上を呑み尽くす力、滅ぼし尽くす力が完全に無くなることです。と言うことは、現在はまだその力が存在するということでもあります。たしかに水は空の上に閉じ込められ、地上を覆い尽くしてはいない。また地下から水が噴出してきてもいないのです。神様が、すべて治めてくださっているからです。しかし、その神様の御業をいつも覚え、その神様にいつも感謝し、讃美し、神様に生かされているこの命を、感謝と喜びの応答として献げつつ生きることをしないのならば、雨が降り、川が溢れ、洪水が押し寄せてきた時にはひとたまりも無いのです。私たちは、まだ「海」がある歴史の中を生きています。大地でさえ、神様に据えられた基から離れれば、上からの水、横からの水、下からの水に、いつ呑み込まれても可笑しくない歴史の中を生きているのです。国家体制だとか経済的繁栄だとか、社会的地位だとか、とにかく、私たちがこの世にあるものの上に立って生きているとするならば、私たち自身が揺らがなくても、世それ自身が揺らいでしまうのです。そんなことは、私たちは十分知っているはずです。戦前と戦後、バブルの前後、価値観も預金利率も全く変わってしまったのです。天皇を現人神として信じて、軍国主義に固く立っていた人はそれまでの自分が崩れることを経験したはずですし、バブルの上に立って踊っていた人は、所詮、泡の上には立てないのですから、見事に沈んでいるのです。私たちは多かれ少なかれ、そういうことを繰り返しています。国家レベルでも個人レベルでも。そうやって、罪の中に沈み、死の滅びに呑み込まれていくのです。
 しかし、私たちの主イエス・キリストは、その水の上を、小さな舟で渡る私たちと共にいてくださるのではないでしょうか。あのガリラヤ湖での出来事、嵐が吹き荒れ、波が逆巻き、今にも弟子たちが乗っている舟は波に呑み込まれそうになっても、主イエスは、艫の方で枕をして眠っておられる。弟子たちは、恐怖のあまり、主イエスを叩き起こして、「私たちが溺れ死んでも構わないのか」
と、なじるのです。その時、主イエスは起き上がって、弟子の不信仰を嘆きつつ、風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まれ」とおっしゃった。するとすっかり風は止み、凪になったとあります。その時、弟子たちは、その主イエスの姿に、天地の造り主なる神様だけが持っておられる権威、その全能の力を感じて恐れを抱いたのです。
 神の御子主イエス・キリスト。この方の十字架の死と、死からの復活。そのことを通して、何が起こったのか。それは神様による罪と死に対する勝利が宣言されたのです。罪の力、死の力、それは今も私たちを責めつづけ、襲い掛かってきます。しかし、私たちがその力を恐れて、本当に心から助けを求めるならば、主イエスは、その不信仰を責めつつも、必ず助けてくださいます。試練にあっても、主イエスに助けを求めるならば、私たちは強められ、また逃れる道を示されます。主に助けを求めず、自分の力で何とかしようとすれば、必ず溺れます。私たちは、それでも最後には死にます。しかし、その死は、主イエスの十字架の贖いを信じ、罪の赦しを与えられた人間の死は、罪と死の勝利としての死ではなく、海もなくなった新しい天と地に迎え入れられる死なのであり、復活に向けた死なのです。主イエス・キリストの勝利に与る死なのです。
 私たちは、この世にある限り、この世の波風に襲われ続け、罪の誘惑、試練に襲われ続けるのです。だから、岩の上にしっかりと家を建てましょう。この教会を主イエスの十字架と復活を通して与えられた福音の上にしっかりと建て、毎週の礼拝において、主イエスの十字架の前にひれ伏し、罪を赦していただき、主イエスを受け入れ、主イエスとともに復活の命に生かされるように、熱心に祈り求めましょう。そして、信仰において救いを望み、信仰において与えられた望みは、神様によって必ず叶えられることを信じて、既に喜び、感謝し、讃美しつつ歩みましょう。水を天上と地上と地下に押し込めてくださった神様、すべての基としてキリストの十字架を打ち建ててくださった神様、ついには海も無い、神と人が共に住む新しい天と地に、私たちを迎え入れてくださる神様に、栄光が世々限りなくありますようにと、讃美しつつ歩む者とされたいと願います。
 これから与る聖餐の食卓、それははるかに世の終わり、救いの完成を指し示す食卓です。悔い改めと感謝と讃美をもって与りたいと思います。
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