「造り主なる神を信じるとは?」

及川 信

創世記 1章11節〜13節

 

「神は言われた。 『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。 そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」



これが、今日私たちに与えられた御言葉です。第三の日、この日に、神様は地上の水を分離させ、海と陸地の境界を定められました。そして、もう一つの創造の御業を為さったのです。それが草や木など植物の創造です。植物の創造と言っても、光の創造とは違って、何も無いところに、「植物あれ」とおっしゃって、造り出されたわけではありません。神様は、大地に命じて、草や木を芽生えさせられたのです。私たちはよく「母なる大地」、つまり、地上の命の源としての大地と言いますけれど、大地こそが、それらの命を生み出すものなのです。神様は、その大地をお造りになり、そして、その大地に命じて、木や草を芽生えさせられた。そして、それは何のためかと言えば、この後に創造される動物と人間の食物とするためです。29節にはこうあります。

「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」  この時代には、植物が人間を含めた動物にとって、絶対に必要な空気中の酸素を作り出しているということまでは、知り得ようはずがなかったと思いますが、現実に植物は私たちの肉体の命を支える上で、必要欠くべからざるものです。そして、そういう植物を芽生えさせる大地、それも私たちにとって無くてならぬものです。
私は先日、八ヶ岳の中腹、標高千五百メートルのところに私の兄が数年前から現在に至るもまだ建築中の山小屋に行きました。着いたのはもう夜でしたけれど、雪の道を車で走っていると、突然、小鹿が道路の上に立っているのが目に入って来て、びっくりしました。そういう動物を間近に見ることが出来た喜びと、そういう野生動物が住んでいる土地に、人間が入り込んでいくことに対する後ろめたさの両方を感じました。しかし、束の間のことではありましたが、雪に覆われた大地の静けさ、空の星の美しさ、雪を乗せた木々の枝の輝き、そういうものに触れて、やはり命の息吹を吸い込んできたという感じがします。
そして、再び、木ではなくビルディングが林立し、土を踏むことすら出来ず、コンクリートとアスファルトに囲まれた渋谷での息苦しい生活の中で、今日の説教準備を再開し始めた時に、もう十年位前に初めて読んで、それから何度か読み返している文章を思い出しました。その文章を、印刷して皆様の手元にお配りしてあるはずです。それは1855年にアメリカのシアトルに住む先住民族の酋長が、大統領に書いた手紙です。
アメリカという国は、その当初から圧倒的な武力を使って、先住民から土地を奪い続けて領土を広げてきたのですし、自らの文化を絶対視して先住民族にも押し付けてきました。(日本人がアイヌの人々にやったことに非常に似ていると思います。)しかし、えてしてそういういわゆる先進文化と自分で思っている文化、アメリカの場合で言えば、西欧近代のキリスト教信仰と文化が、実はいかに野蛮なものであるかが、この文章から良く分かるのではないでしょうか。「インディアン」と長く呼ばれていた人々のリーダーは、約150年前にアメリカ大統領にこう言っている。

「ワシントンの偉大な指導者は、われわれの土地を買い取ろうとしている旨を、お知らせくださいました。そのために、親愛なる言葉と善意とをわれわれに寄せられました。このことは、たいへん喜ばしいことであります。他の場合には、ちっともわれわれの友情を信じていただけないことを、われわれは知っているからであります。われわれは、あなたがたの提案をとくと考えるでありましょう。それというのも、われわれがそうしないときには、おそらく、白人の方々がやって来て、われわれからこの土地を武力でもって取りあげてしまうだろうということを、われわれは知っているからです。
 でも、どうして人は天を売り買いできるのでしょうか!どうして大地のあたたかみを売買できるのでしょうか!そのような物の考え方は、われわれにはとてもふしぎでならないのです。われわれは大気の新鮮さや、水のきらめきでさえ所有できないのです!あなたがたは、どうしてそれをわれわれから買い取れるのでしょうか。この一画の大地は、わが同胞にとっては聖なるものです。光沢のある松葉、林間の空地、ぶんぶんうなる昆虫の一つ一つが、わが同胞の思い出や経験からすれば、聖なるものなのです。
 白人の方々にはわれわれの流儀や方法をわかっていただけないことを、われわれは知っています。大地の運命は、白人の方々には、他の事物と同じようにどうでもよいことなのでしょう。だから、白人の方々は夜のうちにやって来て、自分たちに入用なものを土地からとっていくのでしょう。大地は、白人の方々にとっては兄弟ではなく、敵なのです。その土地を略奪しつくすと、白人の方々はさらに進んでいくでしょう。先祖たちの墓をあとに残したままにし、また、子どもたちのための大地をめちゃくちゃに荒らしてしまうでしょう。その食欲は大地を食いつくし、荒地だけを残していくのです。あなたがたの町々の眺めは、われわれの目には痛々しく思われます。だが、おそらく、われわれがただ野の人間(野蛮人)であり、何もわからないためだということになるでしょう。・・・・・
 白人の方々の町には静かな場所がありません。春の若葉の歌や、虫の羽音のぶんぶんいう音に聞き耳をたてる場所がありません。われわれは、風が湖水の表面をなでていくとき、そのやさしい調べを愛するのです。そして、風が、昼の雨に洗われてすがすがしくなり、アメリカ松の甘い香りをたっぷりと含むとき、その風の香りを愛するのです。大気はわれわれにとっては貴重なのです。そのわけは、誰もが同じ呼吸をしているからです。―――動物、樹木、人間が。
 万一、私が提案に同意すべく決断する場合には、私は一つの条件をつけないわけにはいきません。―――白人の方々は、この土地の動物すべてを自分の兄弟のように扱ってほしいということです。私は野の人間です。そして、私はそのこと以外には理解しないのです。私はすでに、何千頭にも及ぶ野牛が草原で殺されているのを見てきました。白人の方々が、とおりすがりに車から撃って、放ったらかしにした野牛たちです!私は野の人間であり、どのようにして煙をだす鉄の馬(機関車)が野牛よりも力が強いのか、ほんとうにわからないのです。われわれは生きるためにだけ、野牛を殺すのですが。
 動物を抜きにした人間とは、何なのでしょうか。もしも動物がみないなくなったら、人間はこのうえもない孤独のうちに死ぬでしょう。なぜなら、動物の上に生ずる事柄はみな人間にものぞむからです。すべてはたがいに結び合わされています。大地にふりかかることは、大地の子らにもふりかかるのです!
 ある一つのことを、われわれは知っています。そして、白人の方々もまた、おそらく、そのことをいつの日か発見するでしょう。―――われわれの神は同じ神だということです。あなたがたは、今、あなたがたが土地を所有しょうとしていると同じように、あなたがたが神をもつのだと思っているでしょう。しかし、あなたがたには、そんなことはできないのです。神は、すべての人間の神です。そして、白人の方々とわれわれとにたいする神のあわれみは、同じなのです。神にとって、大地は尊いものです。そして、大地を損なうということは、被造物の上に軽蔑を積み重ねることなのです。
 おそらく、われわれは、白人の方々の大きな夢が何であり、白人の方々がその子らに長い冬の夜どんな希望を物語り、将来に願いとしてもつべきどんな幻をその子らの心に燃えたたせているかを知れば、あなたがたを理解できるかもしれません。けれども、われわれは野の人間です。白人の方々の夢はわれわれにはわからないのです。われわれがあなたがたにわれわれの土地を売るときには、われわれが愛しているように、土地を愛してやってほしいのです。われわれが配慮しているのと同じように、配慮してやってほしいのです。
 あなたがたが土地を手に入れるときには、その土地のすがたをしっかりと記憶にとどめておいてほしいのです。あなたがたが力と勇気と真心を尽くして、あなたがたの子孫のためにその土地を保護し、そして、神がわれわれすべてを愛すると同じように、それを愛してやってほしいのです。つぎの一つのことをわれわれは知っています。―――あなたがたの神と、われわれの神は同じ神であり、そして、大地はその神にとって大切なものなのだ、ということを。」


 この文章から教えられること、考えさせられること、それは非常に多く、また深いと思います。 私は東京の都心に住むようになって、色々なことを発見しましたが、その内の一つは、東京の都心は地図を見る限りは真平らなようで、実は丘陵地帯が多いということです。この教会の地名は「桜ヶ丘」ですが、まさに丘の上です。駅に下れば、そこは渋谷という谷、反対側は鶯谷で、そこを過ぎて登ったところが代官山で、渋谷から宮益坂を登るとそこは青山なのか。だから、ここに住むということは、足腰を鍛えなければ駄目だと思うと今年の年賀状には書きました。先日、この教会の平林敏子さんをお訪ねした。平林さんは、90年近く前に、桜ヶ丘に生まれ育った方ですが、当時の「桜ヶ丘」は本当に桜の丘だったとお話して下さいました。
シアトルの先住民族の酋長は、文明人であることを自負している白人たちが、あるいは近代人たちが、土地を手に入れるときには、「その土地のすがたをしっかりと記憶にとどめておいてほしいのです」と書いていました。しかし、この都心には、昔の面影、その土地の地形を思い出す術すらありません。近所にまた大きなビルが建設中ですけれども、まずそこでやっていたことは、傾斜をすべて削り取って平らにする大規模な基礎工事でした。そうやって、木を切り倒し、そして土を削り、何もかも経済的な利益を基準に造り替えてしまう。それが近代人の私たちのやることです。人口増加と近代の産業形態が人口の集中を生み出し、その結果、巨大な自然破壊を伴う都市の建設が余儀なくされるわけでしょうし、私たちはもうその流れに逆行は出来ないでしょう。この文明の行き着く先、それはやはり滅亡だろうと思います。古代文明も皆、滅亡してきました。人口の増大、権力闘争、自然災害、気候の変化、民族の移動、様々なことを通して、姿形を変えて滅亡したのです。滅亡しないのは、いわゆる文明らしいものを作り出さないで生きてきた人々の生活なのですが、そういう人々の生活もまた、いわゆる文明人が森や山の奥まで入り込み、そこが自分達の経済的利益になるとなれば、あっという間に、その生活形態が破壊されてしまうのです。
とにかく、近代以降の人間の生活は、自然との共存ではなく、自然からの搾取の上に成り立ち、膨大なエネルギーを必要とするものです。電気、ガス、石油を必要とし、その必要を満たすために、山を削り、ダムを造り、一つや二つの村落を潰すことだって平気でするのです。そこに住んでいた人々や動物は、「公共の利益?」のために追い払われ、生えていた植物は殺されるのです。あるいは、一部の巨万の富を持つ者たちが広大な土地を買い占め、好き勝手に手を入れて、さらなる富を生み出すために利用する。
 酋長は、「大地を損なうことは、被造物の上に軽蔑を積み重ねることなのです」と言う。神が我々一人一人を大事にしてくれるように、我々も大地を大事にすべきであると。大地は人間が勝手に売買できるものではなく、神から与えられたものとして、皆でその恩恵に浴すべきものだし、子孫に残していかねばならぬものであると。大地は神のもので、神にとって尊いものであると。その大地を破壊すること、そこに生きるものを殺すことは、すべて自分達にも降りかかってくることなのだと。
 事実、大地を破壊しつつ私たちは自分達の生活環境を破壊しているのですし、動植物を殺すのと同じくらい人間同士が殺しあっているのです。そして、結局何をしているのか?それは大地を造り、そこから木々や草花を芽生えさせ、私たちを生かしてくださる神様に敵対しているのです。そして、神様を亡き者にしようとしている。そのようにしつつ、私たちは自分の命の源を殺している愚かにして傲慢な者たちなのです。
 日本のある自称哲学者が、数年前から「森の思想が世界を救う」という主張を繰り返しています。西欧のキリスト教のような一神教は、すべてを敵に回す非常に好戦的な宗教であり、人間を他の動植物の管理者という特別な地位を与えているから人間中心になり、自然破壊を平気でやる。しかし、多神教、それも特に日本に入ってきてから自然崇拝を中心とする神道と結びついて発展した大乗仏教などは、すべてのものに神が宿ると信じるので、自然破壊はしないし、他宗教を重んじるし、まさに平和と共存の教えだ。この教えに従えば、世界は救われると言うのです。果たして、そうなのでしょうか?
 私は宗教や思想に関して全くの素人ですから、反論を正しく出来るとは思えませんし、この場でそんなことを丁寧にする必要もないでしょう。ただしかし、西欧のキリスト教が、長い間、この学者に指摘されるような世界観、つまり人間中心の世界観を持っていたことは一面の事実だと思います。しかし、それがキリスト教の本質かと言うと、決してそうではなく、それはキリスト教の誤解であると言わざるを得ません。キリスト教徒自身がキリスト教を誤解している。曲解している。歪曲している。私たちキリスト教徒の思想と言動が、そのままキリスト教の思想、あるいは本質ではない場合が多いのです。残念ながら、それが事実です。それと同じことが、仏教と仏教徒の関係でも言えるでしょう。つまり、問題は人間のエゴイズム、罪なのです。その罪によって、私たち人間は聖書やその他の経典の教えを、自分の都合の良いようにいくらでも歪曲するのです。ですから、その教えとして、自然の山川草木、またあらゆる動物の中に仏が宿るとか、神が宿るとか言おうが、自然のものはあくまでも神の被造物であって、神ではないと言おうが、人間の欲得が絡んでしまえば、人間のやることは同じです。
私たちが属している日本基督教団の信仰告白の中に、聖書は、「私たちの信仰と生活との誤りなき規範」であるという言葉があります。その聖書が、神が「乾いた所が現れよ」と仰ったことによって、乾いた所が水の中から現れてきて、神はそこを「地」と名付けられ、それを「良し」とされたと言っている。そして、神はさらに「地は草を芽生えさせよ云々」とおっしゃり、そのようになった。そして、神はこれを見て「良し」とされたと言っている。そして、その草や木の実、今の私たちに身近なものとすれば、白菜やほうれん草、またリンゴやミカンなどを、私たちの食物として下さったと言っているのです。
 聖書は、自然の中に神がいるとは言いません。自然は神が造って、人間に与えてくださったものだと言っている。つまり、大地は主のもの、大地から芽生えているすべてのものは主のものであり、すべては人間と動物への賜物、命を支える贈り物だと言っているのです。しかし、そのことを、本当に受け止めたならば、私たちキリスト教徒は、日本の仏教徒や神道の信徒と共に、アメリカの先住民と共に、現代のエコロジストと共に、自然を無闇矢鱈に破壊したりすること、食べる以上に乱獲すること、食べるものを平気で残して捨てることなどは、とんでもない悪行であり、罪であると言うことになるのではないでしょうか。
神様が造った自然、神様が名付け、神様が良しとしたものを、神様によって造られた被造物である人間が、まるで自分のものであるかのように形を変えたり、殺したり、売り買いしたりする権利が一体どこにあるのか、その聖書的根拠はどこにあるのか、信仰と生活の誤りなき規範である聖書に、人間はそういうことをして良いと書いてある個所を指摘することが出来るキリスト者がいるのか?それはいないと思います。また、キリスト教というものは自然破壊的宗教だと主張する学者は、聖書のどこを、どのように読んでそう言っているのか?恐らく創世記1章28節の「地を従わせよ」「生き物をすべて支配せよ」という言葉をもって言っているのでしょう。しかし、その言葉は、神に似せて造られた人間が、神様に委託された御業を忠実に果たすようにという意味なのです。被造物である人間の恣意、あるいは罪に落ちた罪人の欲望のままに何でもして良いということでは断じてあり得ません。罪に落ちた人間に対して、土は茨とあざみを生え出でさせると、3章18節にあります。神の如くに振舞おうとした人間は、神様が造って与えてくださった自然と、あの酋長が言う如くに敵対関係に入るのです。そして、それは取りも直さず、神様との敵対関係に入るということです。いつも聖書で教えられますように、罪とは神様との敵対関係を生きる、神に敵することなのだということが、自然との関係の仕方においても現れるのです。聖書は、そのことを教えているのです。
ある人が、「信仰者は箸の上げ下げからして違ってくるのだ」と言っていました。それは本当でしょう。何を信仰するかによりますが、食べる物も食べ方も、それぞれの宗教で違います。キリスト教の場合は、ユダヤ教やイスラム教、またヒンズー教のように、牛は駄目だとか豚は駄目だとかいう戒律はありません。また本来仏教は肉食をしなかったと思いますが、そういう戒律もない。創世記1章では菜食のみですが、ノアの洪水以後は肉食も許可されます。ユダヤ教は、それ以後、食物規定を設けて、様々な規制を作りました。しかし、キリスト教には、それがありません。何でも食べてよい。テモテへの手紙一の中に、こう記されています。

「食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるからです。」

 問題は神様への信仰をもって感謝して受け取るか否かです。命を与え、支えて下さっているのは神様であると信じ、一回毎の食事も神様の恵みの賜物と思って感謝して頂くのと、この食事は自分の労働に対する当然の権利なのであって、誰に感謝することもないと思って食べるのとでは、同じ食べるでも、その意味内容は全く違うでしょう。それは金持ちがご馳走をたくさんテーブルに並べて、好き勝手に食べ残すのに対して、貧しい人間が、一杯のご飯に塩をかけて食べるという目に見える違いに勝って、違うはずなのです。問題は、食物の量とか質ではありません。すべては主のものであり、主が与えて下さっていると信じて感謝出来るか否かの問題です。そして、それは命そのものが誰のもので、誰から与えられ、誰にお捧げするか否かの問題です。だから、それは根本的な問題なのです。命は神のものであり、神から与えられているのだから、神様のために生き、神様にお献げすると信じて生きるのと、命は自分のものであり、自分のために生きるというのとでは、同じ命、同じ人生と言っても全然違う。
 大地は主のもの、食物は主が与えてくださったもの、そのことを深く承認し、感謝すれば、食べ方が変わる、食物の残し方が変わる、生ごみやいわゆる不燃ごみの捨て方も変わる。お金の使い方も変わる。何もかも変わるのです。人生の根本が変わるのです。変わらなければ可笑しいのです。
 主イエスは、神と富とに兼ね仕えることは出来ないとおっしゃってから、自分の命のことで思い煩ったり、食物や着物のことで思い煩う人間の愚かさと傲慢さを指摘されたでしょう。そして、空の鳥を見るが良い、野の花を見るが良いと、おっしゃった。神は一羽の鳥も養って下さる、一輪の野の花は栄華を極めたソロモンよりも美しく装っていると。
「まして、あなたがたはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い煩うな。その日の苦労は一日だけで十分である。」

 神様が食物を与えて下さる。神様が着物を与えて下さる。どのようにしてかは分からないし、どんな食べ物でどんな着物かも分からない。でも与えて下さる。そのことを信じて生きたことなど私を含めてほとんどの人がいないだろうと思うのです。私たちは食べ物だったらこの程度のものは食べたいと思って努力をしますし、着物も何でも良いわけではありません。もちろん、神様はそういう嗜好や努力をすべて悪とされているわけではないでしょう。しかし、必要以上の量の食物や、必要以上の華美な装いは、現代風に言えば、資源の無駄使いですし、聖書的に言えば、不信仰なのです。さして寒くもない都会の真ん中で、毛皮のコートを着るなんてことは、単なる見栄なのですから、その見栄のために何匹もの動物が殺されるということは、動物愛護協会の人間でなくても、神様の大切な被造物に対して「軽蔑を積み重ねている」ことでしかないと言わざるを得ないだろうと思います。見栄や外聞のために、日夜頭や心を悩まし、体もただそのために使っているなど、不信仰の極みです。神様の愛を信じておらず、金の力を信じ、神様のために働くのではなく、金のために働くのですから。しかし、金は私たちを愛するわけでも、生かすわけでもないでしょう。それなのに、気がつけばそういう風に生きてしまう、私たち人間の愚かさと傲慢は、もう骨身に染み込んだもので、意識のレベルではありません。
 だからこそ、主イエスは、肉を取り、人間となって生まれて下さり、私たちのこの全存在に染み付いたすべての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの全存在を義とし、新しく神の国に生きる人間に造り替えて下さったのです。それが、私たちを造り生かしてくださる造り主なる神様の御心なのです。そのことを覚える。いつも新たに思い起こす。そして、私たちの命のこと、体のことで、誰よりも思い悩んで下さったのは、その命、体を造り生かして下さっている父なる神であり、主イエス・キリストなのだということを、いつもいつも新たに深く思い返すべきです。そして、私たちを、本当に祝福された神の国、神様が「良し」と言われる世界に生かすために、神様は今日も御言葉を与えて下さり、聖霊を与えて下さり、そして、主の食卓においてパンとぶどう酒を与えて下さるのです。私たちのために裂かれた主イエスの体、私たちのために流された主イエスの血、この主イエスの命、愛と赦しこそが、神様が私たちに与えて下さった霊的な食物なのです。この霊の食物を全き悔い改めと感謝をもって頂くとき、私たちは義を与えられ、新たに造り返られ、神の国に生きる者とされるのです。造り主なる神の御業は、ついに御子の十字架の死と復活を通して、私たちを新たに造り、生かしめてくださるところまで行き着くのです。この年も、その恵みを感謝して、一回毎の礼拝を厳守し、毎週この礼拝に結集して御国を仰ぎ見、体験し、その御国を私たちの生活の場に広げていくことが出来ますように。この恵みの食物こそ、まさに独占すべきものではなく、神に造り生かされているすべての人々と共に分かち合うべきものだからです。
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