「お日様と神様」

及川 信

創世記1章14節〜19節

 

 今日の個所は、天体の創造です。もう一度、読ませていただきます。

「『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。」



少し不自然な感じがするのは、ここでは敢えて「太陽」とか「月」という言葉を使っていないからです。ヘブライ語に「太陽」や「月」を表す言葉がないわけではありません。しかし、その言葉そのものの中に、太陽や月を拝む響きがあるが故に、ここでは、徹底的にその言葉を避け、敢えて「光る物」という極めて物質的な呼び方をしているのです。
私は今日の説教題を「お日様と神様」としましたけれど、私たち日本人も太陽のことを、「お日様」と呼び、あるいは「お天道様」と呼びます。月も「お月様」、星も「お星様」と呼んだりする。少なくとも、自分の幼い子どもに語りかける時には、「あれはお月様だよ、お星様がきれいだね」とか言うのではないでしょうか。そういう呼び方の中に、既に、天体に対する崇敬が込められていることは言うまでもありません。天体崇拝は、古今東西を問わず、存在する風習というか、一つの宗教です。最近はあまり聞かなくなりましたが、昔は親が子どもを躾るときに、「誰も見ていなくても、お天道様は見ているんだからね」とか言って、人間のやることなすことすべて、天上から太陽が見ているという恐れを抱いていたわけでしょう。そして、それはある意味では健全な教えでもあると思います。そういう恐れがなくなったことによって、私たち現代人はその倫理性、道徳性が崩壊しているとも思えるからです。
天体というもの、それは私たち人間にとって永遠の象徴でもありますし、また生活する上で不可欠のものです。昼と夜という一日のリズム、季節の移り変わり、一年の区切り、そういった時間の枠組みの中で、私たちは生活しています。また地球上のすべての存在が、太陽や月の存在によって生きているのです。太陽が照りすぎれば旱魃となって多くの人間の生命が危機にさらされますし、太陽が照らなければ照らないで不作となり、これまた危機にさらされる。ですから、私たち人類は世界各地で季節の変わり目に祭りをして生きてきたのです。最近の日本の祭りは、夜店が並ぶイヴェントのようになってしまいましたが、元々は「祭り」ですから、礼拝です。その土地の神様に、犠牲や収穫物を捧げて豊作を願ったり、感謝したりするのです。それはつまり、太陽がちょうどよく照ってくれて、雨もちょうどよく降ってくれるようにと願っているのですし、それがちょうど良かった時は豊作を祝っているのです。そういう意味で、天体は私たちにとって決定的な影響を与えているのです。
また何時出来たのか知りませんが、カレンダーの中には、日の下に、大安だとか凶だとか仏滅だとか書いてあるものがあります。それを見ると、色々な日があって、その日にはこういうことをしていけないとか決まり事がある。それもまた、天体崇拝の名残というか、その結果です。 ことほど左様に、人類に対する天体の影響は大きく、私たちは太陽や月の動きに支配されてきたとも言えるわけですが、そういう人類の中にあって、聖書は、全く違うことを言っている。聖書の中では、太陽も月も星も、何ら恐れ敬うものではありません。それはただ「光る物」なのです。神様が造った被造物、物体なのです。この個所は紀元前六世紀、今から2500年以上も前に書かれたと言われていますが、その時代に既に太陽も月も星も物体であると言い切るということは、本当に凄いことだと思います。どうして、そんなことが言い切れたのか?イスラエル人だけ、現代人のような科学的な知識を持っていたのか?そんなことではありません。また、科学的知識が、人々を迷信から解放するものではないということを、現代社会はそれこそ実証しているでしょう。ローマ書の説教の中で繰り返し言っていますように、私たちは唯一の真の神の奴隷になることによって、神以外のものの奴隷、あるいはこの世の奴隷状態から解放されるのです。神の奴隷でない時は、神以外のもの、神ではないものの奴隷、罪の奴隷として生きる以外にないのです。
旧約聖書も新約聖書も、一貫していることは、ただ神のみを礼拝せよということです。神のみを礼拝し、神にのみ従い、神にのみ仕えよ。そうすれば、誤ることなく、神様から与えられた人生を生きることが出来る。そこに私たちの命があると語りつづけているのです。そのことをしないならば、結局、人間は奴隷になる。霊的な命は死ぬ。その点に於いて、旧新約聖書は一貫していると言ってよいでしょう。申命記4章15節以下には、モーセの言葉としてこうあります。少し長くなりますが、読ませていただきます。

「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。(中略)あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。」

 この言葉がモーセによって語られてから約七百年後、預言者エレミヤは、こう語っています。10章1節から抜粋しつつ読ませて頂きます。

「イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。
主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない。このように彼らに言え。
天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る、と。
御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を固く据え、英知をもって天を広げられた方。主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、
風を倉から送り出される。人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず、
霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られるもの、裁きの時が来れば滅びてしまう。ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。」


 このように、聖書は至る所で目に見える偶像を作り出してしまう危険性、人間にとってはそれがいかに永遠の象徴に見えたとしても、被造物に過ぎない天体を拝んでしまう危険性を警告しています。人間は、その拝んだ対象に似てしまうからです。金を拝めば金の亡者になる、金の奴隷になる。権力を拝めば、権力の奴隷になる。いずれも、実体のないものですし、所詮、一時的なもの、まさにバブルです。主人と僕は似た者になるのです。バブルに仕える人間は、その人間自身がバブルになる。泡と消えるのです。
しかし、私たちは元来、生ける主なる神に似せて造られた人間です。神様を神様として拝む、礼拝する、神様にお仕えすることによって、初めて私たちはその人間として生きることが出来るのです。神様の栄光を反射しつつ、生きることが出来るのです。その栄光に与ることが出来るのです。その幸いを生きるようにと、神様はいつも呼びかけてくださっています。しかし、それに応えるか否かは、私たちの問題であり、私たちへの呼びかけの声も神様だけのものではなく、他に色々あるのです。
 イスラエルの歴史の事実として言えることは、彼らは度重なる神様からの警告にもかかわらず、偶像崇拝に走り、さらには天体崇拝にも走ったのです。そのようにして、神の民イスラエルは、モーセの言葉にある如くに、まさに「焼き尽くす火」「熱情の神」によって「滅ぼされた」のです。神様が、その道具として用いられたのが、バビロンという国でした。その敗戦は徹底的なもので、イスラエルの身分の高い者や技術者の多くが、土地も財産もすべて奪われて、バビロンに連れ去られるということまで起こりました。聖書は、その原因は、彼らの背信にあったとはっきりと告げます。彼らが神以外のものを拝んだ、偶像を作っては拝み、天体を恐れて拝む。そのようにして、結局、自己の欲望の奴隷になっていった。その背信に対する神様の激しい怒りの結果が、滅亡であり、バビロン捕囚だと言うのです。そのバビロンで盛んだったのが天体崇拝です。
 私はその経験はありませんが、ここにおられる多くの方は、何らかの意味で敗戦というものを経験されたはずです。そして、その後の、日本におけるキリスト教ブームというものもご経験になったはずです。全国的な統計を調べて言う訳ではありませんが、その時代は、それまで閑散としていた礼拝堂に人が溢れ、毎週のように受洗志願者が出るという状態だったそうです。中渋谷教会でも、統計を見ると、1946年(昭和21年)からの僅か五年間で74人の受洗者が誕生しています。その人たちが、生涯その信仰を貫き、礼拝を守りつづけていれば、中渋谷教会の歴史は相当に変わったものになったはずですし、日本全国でその時代に洗礼を受けた方も同様であるならば、日本のクリスチャン人口が未だに1パーセント未満などということはあり得ないことです。しかし、それはとにかくとして、敗戦直後のキリスト教ブームの原因はいくつかあるに違いありません。敗戦のショック、価値観の崩壊、そして戦勝国アメリカから一気に入ってきたキリスト教文化と民主主義への憧れなどなど、様々に説明されます。しかし、確実に一つ言えることは、敗戦国の国民としての劣等感があるということです。
 昔から戦争というものは、一種の宗教戦争なのです。人間の欲望に従って、領地や資源を求めて戦争をするのですが、その時には、必ずそれぞれの神に戦勝祈願をするのです。ですから、その面で言えば、勝った国の神の方が強かった、あるいはご利益があったということになる。ですから、古代社会では、負けた国や民族の人々は、勝った方の宗教に鞍替えするということが起こりました。劣等感を持った者として、それを無くしたいわけですから、当然の成り行きでしょう。イスラエルの人々においても、同様のことが起こったとも考えられます。絢爛豪華なバビロンの文化と宗教に心惹かれていった人々も多かったに違いありません。
 しかし、この辺りが、やはり神様に選ばれた民だと思うのですが、このバビロン捕囚時代に、徹底的に自分達の歴史を検証する人々がいました。そういう人々のことを、聖書は「残りの民」と言うのだと思いますが、その人々によって、私たちが今「旧約聖書」と呼ぶ書物の相当部分が書かれたり、纏められたりしたのです。先程の申命記も、ある部分は明らかにこの時代に書かれたものですし、それ以後の、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記という一連の歴史物語は、このバビロン捕囚時代に書かれたと言われています。それらの書物は、自分達の罪を徹底的に見つめ、自分達に向かって語りかけられていた神様の言葉、為されていた神様の働きかけ、その一つ一つを見つめた壮大な歴史書です。そして、それは人間の側から言えば、神様の言葉と働きかけに対する徹底的な背信の歴史なのです。その背信の罪に対する裁きとして、敗北が与えられ、捕囚という境遇を与えられたことを認める。それが、これらの歴史書の内容と言って良いだろうと思います。これを書き記した人々は、神の裁きとしての捕囚の中で、神様に悔い改めの祈りを捧げつつ、自分達の罪の歴史を真正面から見つめ、書き記していったのです。
エレミヤの言葉も、語られた当時に既に今のような書物になっていたわけではなく、書記が残したエレミヤの言葉が捕囚時代に編集されたと考えられます。その作業もまた、自分達が犯してきた背信の罪を新たに生々しく抉られるような苦しい作業であったはずです。自分達が何故、今、バビロンなどに捕らえられているのか、あの約束の地を奪われてしまったのか、その原因を、預言者の厳しい言葉と向き合いつつ、自分達の罪に見出し、罪に対する神の怒りに向き合う作業。この作業は、実に辛く、厳しいものです。しかし、そのこと抜きに、次の段階はないのです。新しい出発もない。
何時も繰り返し言うことですが、日本という国はあれだけの敗戦を経験して、今以って新しくなれないのは、自分の罪を認めず、見つめず、神と人の前に謝罪しないが故なのだと思います。天皇制も靖国神社も温存させて、自己肯定をしているからだと思います。
しかし、それはもちろん、戦勝国側の問題でもあります。自分達には罪がないから戦争に勝った、自分達は正義だから戦争に勝ったとアメリカが思うことで、そして、核兵器の使用も正義と平和のためであったと信じることによって、彼らの独善と自己絶対化はどんどん強化されていくだけなのでしょう。
人間の歴史は、日本やアメリカにおいて起こっていることで続いているわけでしょう。つまり、勝った負けたは色々あり、そのことで、宗教や文化は栄枯盛衰を繰り返しているけれど、人間そのものが、その経験の中で、自分の罪を深く見つめ、その支配から脱して新しくなるということは滅多にない。
その滅多にないことが、このバビロン捕囚時代のイスラエル、ひょっとしたらその中のごく少数の人々だったかもしれませんが、その人々において起こったのです。彼らは、神の裁きを身に受けつつ、自分達の背信の歴史、罪の歴史を見詰めていきました。そして、その眼差しは、これはまさに「神様によって」と言う他にないわけですが、ついに天地創造の時までさかのぼって行ったのです。天地の始まりは何なのか。そのことを神様に問う中で、知らされていったことが、この創世記1章に記されていることだと思います。
彼らは、天地万物も時間も神様がお造りになったことを知らされたのです。自分達に圧倒的な勝利を治めたバビロン人は、太陽や月を畏れ敬っているが、それは単に光る物体でしかない。その物体は神ではなく、神が造った被造物であるということをはっきりと知らされ、そのことを宣言しているのです。そこには敗戦国家の国民として、さらに虜囚の辱めを受けている民としての惨めな劣等感のかけらもありません。彼らは、所詮は滅び行くバビロンの圧倒的な栄華などに目もくれない。ただ一筋に天地の造り主にして、歴史を導かれる主なる神様に目を向けて、そこで知らされる神様の偉大さと、人間の小ささ、しかし、その小さなものに注がれる愛の大きさ、使命の偉大さを知らされていったのです。
神様は天地万物を、その目的に従って創造されたのです。その目的にかなって被造物が生きる時、つまり、与えられた使命を生きる時、それは「良しとされる」ものなのです。太陽や月に与えられた創造の目的は、その使命は、「昼と夜とを分け、季節のしるし、日や年のしるしと」となることですし、「地を照らさせる」ことでした。その目的に適っている時、それらのものは神様によって「良し」とされるのです。それでは、人間の創造の目的は何か、使命は何か?それが問題となります。
この物語を書いた人、あるいは人々は、元は神殿に仕える祭司であったと言われます。様々な理由でそう言われるのですが、そのうちの一つは、この1章の物語自体が礼拝的というか、神賛美に満ちているからなのです。ここにある一つ一つの宣言、それは「神様がすべてをお造りになった、それ故に、神様が支配しておられる」という宣言です。自分達は、その神様に背いたが故に、裁かれているのです。滅茶苦茶に負けて、負けただけではなく、捕らえ移されてもいる。そして、バビロン人から「お前の神はどこにいる。無力ではないか?!」と嘲られているのです。しかし、その嘲り受けつつ、彼らは、自分達の神様が神様であられるからこそ、自分達背信の民、罪に落ちた民が戦争に負け、このような虜囚の辱めを受けているのだと知らされたのです。自分たちの神様こそが、唯一の神様、全能の神様、正義の神様であるからこそ、他の神々に心惹かれた自分達を、不信と背信に陥った自分達を、このように厳しく裁かれたのだと知らされたのです。普通は、敗戦を神のせいにして、神を鞍替えするのです。しかし、この聖書を書き残した人々は、逆だった。自分達の神様こそ正義の神、全能の神、万軍の主であるからこそ、背信の民になってしまった自分達を裁いたのだ。自分達のこの惨めな敗戦と捕囚の中にこそ、神の正義は現れていると知らされたのです。
これは真実な信仰による歴史認識であり、神認識、神信仰だと思いますが、神様は本当に恵み深い方で、このような罪の自覚を持ち、悔い改める者に対して、新しい出発を与えて下さるのです。闇の中に輝く光の創造から始まる天地創造は、そのことの象徴です。そして、この神こそが、イスラエルの神に止まらず、天地のつくり主なる神として、すべての罪人に対する裁きと救済の神様なのだと、この創世記1章は語っているのだと思います。
神様の愛と赦しの中に、私たち一人一人の人間は生かされている。そのことにおいて、バビロン人もイスラエル人も変わりはない。この神の御前にひれ伏し、神を称える時、私たちはその本来の命を生きることが出来る。そういうメッセージ、神様への賛美のメッセージがここにはあるのです。
罪を犯し、裁きを受けて闇の中に落ち込むイスラエルに向かっては、その裁きの後に与えられる光をもって始まる新しい歩みがあることを語りかけ、圧倒的な武力と富の上に奢り高ぶるバビロン人に対しては、彼らが拝んでいる太陽や月など、神の被造物に過ぎないことを教え、その眼差しを天の万象や自然界にではなく、それらすべてをお造りになった神に向けさせ、その神の前にひれ伏すようにと語りかけているのです。 私たちが、この礼拝の最初に歌った讃美歌はこういうものでした。

「もろびと声合わせて主をほめん
たたえの歌 み空にみち
救いの歌 これにこたえん
世をあげて 御名をほめたたえよ」

 イスラエル人もバビロン人も、日本人もアメリカ人も、イラク人も朝鮮人も、中国人も皆、神をほめたたえよ、そこに救いがあると歌ったのです。
 この後歌う讃美歌はこういうものです。

「たたかいやみ、矢さけびたえ
いのりと歌との こえはひびく
いざ御民よ 平和の主に
さかえの冠りを ささげまつらん

空の極み 地の果てまで
みいつの光は 照りわたりぬ
父とともに しらす君に
さかえの冠りを ささげまつらん」


 ここで歌われるのは、父なる御神の天地創造の御業であると同時に、むしろ、主イエス・キリストによる新しい天地創造の御業です。闇の世に、真の光として来られた主イエス・キリストの栄光を称えているのです。この方によって、初めて罪に汚れてしまった世界、滅びに向かわざるを得ない歴史は、清められ、新しく歩むことが許されているからです。罪に汚れてしまった私、滅ぶしかない私が、今、こうして生きているのは、主イエス・キリストが、その私の罪を背負い、滅びを引き受けてくださり、その滅びの中から新しい命に復活させられ、今も私と共に生きておられるからです。かくまで深く、強く、永久に私たちを愛して下さる、赦して下さる父なる神と主イエス・キリストを賛美する。ひれ伏し敬う。従う。そこに私たちの命があるのです。お天道様が、いつも私たちを見守っているのではなく、主イエス・キリストの光が空の極み、地の果てまで支配しておられるのです。その方に、一切の栄光をお返しする、賛美を捧げつつ生きる。それが、私たちに今日与えられているメッセージだと思います。
 しかし、最後に確認の意味で聞いておかねばならない御言葉があると思うのです。今も言いましたように、讃美歌には「たたかいやみ 矢叫びたえ いのりとうたとの こえは響く」という言葉があります。それが、世の終わりに実現することだとしても、私たちはその日の実現のために、「御国が来ますように」と祈っているのですし、「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈っている。この祈りを教えて下さったのは、また祈るように命じてくださったのは主イエスですが、主イエスは、その祈りを教えて下さる直前にこうおっしゃっているのです。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 私たちが天を見上げて太陽を見るとき、悪い者をも愛して下さる神様の愛、その愛の故に、罪を犯してきたの自分なのに今も生かされている恵みを思うべきなのでしょう。そして、主イエス・キリストを通して愛された愛で、敵をも愛せるように、祈るべきなのでしょう。その祈りの中で初めて「戦いやみ、矢、叫び絶え、祈りと歌との声は響く」という御国が近づいてくるのだと思います。そして、その御国の基礎は、教会の礼拝の中に、これから与る聖餐の食卓にあるのです。神様に敵対する罪人としての私たち、裏切る罪人としての私たちに向かって、「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」と、愛と赦しをもって、ご自身の命を差し出して下さる主イエスの体と血を真実の悔い改めと感謝をもって頂く。そして、全身全霊を傾けて賛美する。その礼拝の中に、御国はあるのです。礼拝とは、御言葉を聞き、罪を悔い改め、愛と恵みを与えて下さる神様を賛美し、その神様の御心がなるように、神様の御心が行えるように祈ることです。そういう礼拝を捧げる者に、神様は祝福と派遣をもって応えて下さるのです。そして、人には出来ないことを、神様は成し遂げて下さるのです。
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