「祝福・歓喜・呻き」

及川 信

創世記1章20節〜25節

 

 創世記の1章を月に1回読み進めてまいりまして、今日で7回目となります。いよいよ植物以外の生物の創造です。人間の創造はもう間近です。5日目に、神様はその多くは魚ですけれど、水の中の生物と空の鳥をお造りになり、6日目に動物と人間をお造りになりました。何故、魚や鳥と動物が同じ日ではなく、動物と人間が同じ日なのかとか、「おおきな怪物」とは何であり、何故、神様はそういうものをお造りになるのかも興味深いことですし、人間と他の動物達との関係を、聖書はどう考えているのかも、きちんと考えなければならない問題です。しかし、今日は、もう一つの観点から、この御言葉の語りかけに耳を傾けていきたいと思います。
 これまで創世記1章を読んできて、皆さんがお感じなっていることの一つは、この文章には繰り返しが多いということだと思います。あるいは基本的な構造が同じであるということだと思います。神様が何かを造るあるいは分離する、さらに名前を呼んで存在として呼び出し、その使命を与える。そういう構造は同じですし、繰り返し繰り返し「〜を見て、良しとされた」と言われる。それがこれまでの文章の特徴です。しかし、今日の個所では、同じ繰り返しがあり、構造的には同じでありつつ、これまではなかった新しい言葉が使われており、それに伴って新鮮な言葉遣いが登場します。それは、「祝福」という言葉であり、祝福に伴う「産めよ、増えよ、満ちよ」という言葉です。これは1章22節で初めて出てきた言葉です。ということは、全聖書においてもここで初めて出てきた言葉だということですが、「祝福」、この言葉は旧約聖書だけで355回、新約聖書を合わせれば400回以上使われる言葉です。もちろん、創世記からヨハネの黙示禄まで、この言葉は使われています。つまり、聖書という書物の一つの特色を表す言葉だと言ってよいだろうと思うのです。
 ヘブライ語では、バーラクと言い、ギリシャ語ではユーロゲオーというこの言葉は、旧約聖書に限って言うと、創世記と詩編で70回以上使われているのです。そして、詩編においては、祝福という意味でよりも、讃美という意味が多いと思います。つまり、神様が人間に対して為す行為の一つとして祝福があり、逆に、人間が神様に為す行為として讃美があるのですが、それが同じ言葉なのです。主語と目的語によってその意味が変わるのです。また、人間同士の挨拶として使われる場合もあります。そういう意味で、色々と興味深い、含蓄のある言葉です。その祝福がここに出て来る。そして、この個所で祝福に結びついているのは、生命力でしょう。「産めよ、増えよ、満ちよ」。これは28節を見れば分かりますように、人間に対しても祝福と併せて語りかけられる言葉ですが、繁殖し、増殖し、栄えることが、ここでの祝福の一つの内容であることは間違いないでしょう。神様は、生き物に対して、そして、人間に対して、産みなさい、増えなさい、生きなさい、とおっしゃっている。そういう祝福の言葉を語りかけている。そのことは、この文章が書かれた当時のイスラエルの民、この文章を読んでいる現代の私たち、つまり新しいイスラエルたるべきキリスト者にとって、どういうことなのか。それが問題です。
 一昨日の新聞だったと思いますが、失業率が何パーセントかいう記事の見出しに、「失望者」という言葉がありました。仕事を失っている失業だけではなく、もう就職の望みも失ってしまった人が、着実に増えているというのです。それはつまり、生きていく希望も失ってしまったということでしょう。仕事が無ければ、家族を持つことは出来ません。持っていた家族もしばしばそのことで崩壊し、失ってしまう。家も失う。となれば、産むことも増えることもあり得ない。全くその逆の道を歩み続ける以外になくなるのです。つまり、そこに祝福はない。祝福を感じることは出来ないということでしょう。
 そういう現実が、世界中の至る所にある。貧しい国々の中にあり、豊かな国々の中にある。経済的な豊かさが、人間の望みを支え、生命力を支えるわけではありません。
以前もお話したかもしれませんが、私は何年も前に見た一枚の写真を忘れることが出来ません。それは、旱魃に襲われたアフリカ砂漠の大地で、何キロも離れた国連の食糧配給所に手と手を取り合って向かう家族の写真です。父親は内戦か何かで死亡し、母親は痩せこけ、その枝のように細い腕に抱かれている赤ん坊と、もう一つの手をしっかりと握っている少女も、本当に惨めなほどやせ細っているのです。そういう家族が、見渡す限りの砂漠に向かって歩いている、その写真は、今も忘れることが出来ません。何故忘れることが出来ないかと言うと、その写真をとったカメラマンが、その惨めな家族のことを、「彼らはまだ幸せだ」と言っていたからです。そのカメラマンは、世界中を回りながら、家族の写真、子供たちの写真を撮っているようなのですが、豊かな西欧の町の中を、何の望みも無い目をして歩いている家族や子供たちが沢山いる。豊かさの中で社会が団結を忘れ、家族の絆も失われ、互いに愛し合い、支え合うこともなくなっている。そういう家族に比べて、この見渡す限りの砂漠に向かって歩いていく家族には明日への希望があり、団結がある、というのです。飢餓という極限状況を生きたことがない人間が、安易にそのようなことを言うべきではないと思いますが、私は私なりに、深く頷く面があるのです。人間が人間として生きるために必要なもの、それは希望だ、と思うのです。希望を失えば、生きていく意欲も失うほかにないと思うのです。
 家族の団結、愛、支え合い、そこに明日への希望があるとするなら、それは「自分だけが生きているのではない、自分と共に生きている人がいる、そして、自分が生きていることを、生きていくことを心から望んでくれる人が一緒にいる。そして、自分もその人と一緒にこれからも生きていきたい」と心から望む。そういう交わりの中で、人間は生きようとする、と言えるかも知れません。愛される、そして、愛する。その交わりの中で、人は生きていこうとする、未来に望みを持つことが出来るのだと思うのです。
 逆に言えば、食べ物は沢山ある、仕事もある、金も持っている。しかし、誰も一緒に生きてくれるわけではない、自分の代わりに仕事をする人間はいくらでもいるし、自分一人いなくなったって、社会に何の変化も無いし、悲しんでくれる人もいるわけではない。そういう状況の中で、人間は希望をもって生きていくことが出来るのか。人間が人間として、生きていくことが出来るのか。求められるのは役割だけであって、自分が生きていることではない。そういう関係しか持っていない人間と、お互いに掛け替えの無い存在として支え合い、見果てぬ砂漠の先に食料と水が待っていると信じて、互いに手を取り合って歩み出す人間、一体どちらが幸いなのか。
 創世記の1章、それがイスラエルの歴史においてはバビロン捕囚時代に書かれたであろうということは再三言ってきたことです。そのバビロンによる破壊とユダ王国の滅亡が一体どういうものであったのか。先週、たまたまローマ書の説教において、私は詩編137編を引用しましたが、今日も引用させていただきます。
「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。(中略)娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者 お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」

 自分の目の前で、自分の幼い子が捕らえられ岩にたたきつけられて殺される。ユダ王国の首都、神の都エルサレムは、そういう残虐な行為をされつつ、バビロン人によって、徹底的に破壊をされたのです。その上で、人々はバビロンの地に捕らえ移され、その地の民に嘲られた。「歌ってみろ、シオン・エルサレムの歌を。そこを治めていた『主』という名の神の歌を歌ってみろ。主を讃美してみろ。お前達の神は、弱い神じゃないか。お前達を見捨てた神じゃないか。その神への讃美を歌ってみろ。」そういう嘲りを受けている。この詩編137編の作者は、神殿の礼拝で奉仕する聖歌隊と楽団員であったと思われますが、彼らはその嘲りを受けながら、バビロンの川のほとりで、泣きに泣いたのです。何故泣いたのか。何を泣いたのか。強大な敵に徹底的に負けてしまった悲しさ、辱めを受ける悔しさ、そういうものが当然にあったでしょう。家族を殺された嘆き、怒りもある。そういう思いの中で、さらに「神を讃美しろ」と嘲られる。そうなれば、もう泣くしかない。しかし、それと同時に、自分たちが犯してきた罪の現実を思い起こして泣く。そういうことがあったに違いないと私は思います。イスラエルの民は、王国時代、カナンの地の豊かさに心を奪われ、その地の神々を礼拝し、主なる神に対する姦淫を働き、富や武力などを頼りとする不信仰にも陥ったのです。エルサレム神殿で礼拝しつつ、その生活においては、主なる神様との愛と信頼の交わりを捨てたのです。その罪に対して、主の裁きが下り、このような敗戦、滅亡、捕囚という悲惨な経験を味わうことになってしまった。そのことを思うが故の嘆き。その罪に敗れた己の惨めさ。そういった悲しみが、ここにはあるでしょう。  その悲しみの中で、この詩の歌い手は、こう叫ぶのです。

「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。」

 これは直接的にはエルサレムへの愛を歌っているのですが、その奥にあることは、エルサレムを都とする主なる神様への愛であり讃美です。エルサレムを忘れるなら、エルサレムを思わぬ時があるなら、エルサレムを最大の喜びとしないなら、右手は萎えても構わない、舌が上顎に張り付いても構わない。つまり、エルサレムの主である神を思わず、忘れるようなことがあるなら、讃美歌の演奏者であり、歌い手である自分たちの手と口が使えなくなっても構わないと言っているのです。それは音楽家にとっては死を意味するでしょう。そして、主を讃美できないとすれば、それは信仰者にとっての死を意味するのです。悲しみのあまり、主を讃美することも出来ない、そういう死の現実の中で、必死になって悔い改めている。エルサレムを思い、主なる神を思い、エルサレムに帰りたい、主なる神様の御許に立ち返り、全身全霊をもって、主を讃美したい。この詩編には、そういう痛切な思いが表れているのだと思うのです。罪を赦して頂き、再び主に祝福して頂いて、神殿において主を讃美する日を待ちわびる。主なる神様の新しい救いの御業に対する望みが、この歌の底流には流れていると思います。それがあるから、彼らはバビロン捕囚という民族の絶滅の危機を乗り越えて生き抜くことが出来たのです。

  「神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、満ちよ。』」

   この祝福の言葉、それはそういう時代状況の中で聞くと、まさに罪の赦しの言葉であり、新しい歩みの開始宣言、前途に対する祝福の言葉と言って良いのではないでしょうか。目の前の現実は、仕事がないどころではない。屈辱にまみれた捕囚生活なのです。バビロン人から嘲られ、罵られ、馬鹿にされる生活。ある人々は、バビロンの政府や宮廷に召抱えられているけれど、そうではない多くの無職の人間がいるのです。夢も希望もなく、讃美も出来ない異教の地での幽閉生活の中で、子供を産む気もない。子供が生まれても惨めな奴隷生活が待っており、馬鹿にされる人生を送るだけ。そんな人生を送らせたくはない。こんな惨めな思いは、自分たちだけで十分だ。まさに失望者が、そこには沢山いたはずです。しかし、そんな中で、かつての神殿の聖歌隊あるいは楽団員が137編のような歌を残し、その一方で神殿の祭司達だった者は、神に祈りつづける中で、神様の壮大な御業を知らされていったのです。そして、その御業を書き記していったのです。
 創世記1章、それはもちろん一つの完結した創造物語です。7日目の安息日の創造に頂点がある、一つの大きな大きな物語です。そこで描かれている世界と歴史は、私には捉えようもないほど大きなものです。しかし、創世記1章は、世界の完成、歴史の終わりまで見通す壮大なものでありつつ、それで終わったわけではなく、祭司達は、この創造物語から一連の壮大な歴史を書き始めたのです。そのすべてを辿るわけにはいきませんが、彼らは、このあとに5章の系図を書き、そして、ノアの洪水物語を書きました。それはこういう物語でしょう。アダムから始まった人間の歴史、それが何世代にもわたって続いた挙句、どうなったのかと言えば、「地上には人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」ようになったのです。そういう人間の状態を、神様は見た。そして、「良し」と言われたのではないのです。神様は見て、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のです。地上に人を造ったことを後悔する。たとえば、親が子を産んだことを後悔する。そんな痛切なことはありません。しかし、自分の子供が他人を平気で殺すような人間になってしまった、姦淫を犯す、暴虐の限りを繰り返して何とも思わないような人間になってしまったら、何でこんな子を産んでしまったのかと思わざるを得ないでしょう。そして、他人の手にかかって殺されるくらいなら、いっそ自分で殺して、自分も死のう、そのようにしてこれ以上子供に罪を犯させないようにし、子が犯した罪を償おうと思うかもしれません。子を愛し、子を思う親なら、そう思うかもしれません。
それと同じとは言いませんが、とにかく、神様はご自分が愛と祝福をもってお造りになった私たち人間のあまりの変わりように、その心を痛め、根源的な後悔、造ったこと自体を後悔されたというのです。そして、何をされたか。神に従う無垢な人間であったノアとその家族、そしてすべての鳥や動物たちを二つずつ乗せる箱舟を作らせて、それに乗せ、あとはすべて滅ぼすという恐るべき裁きを与えられたのです。その際は、それまで天の上に閉じ込められていた水が天から降るだけでなく、地の下に閉じ込められていた水も地から溢れ出てくるという凄まじいことが起こったのです。それはまさに天地創造以前の混沌状況の再来です。暗黒が支配し、荒れ狂う水にすべてが呑み尽くされる。そういう罪に対する裁きと滅亡を神様がもたらす。それがノアの洪水物語の趣旨です。他の誰でもない、神様が裁く。神様が用いる手段は、神様が選ぶ。ある時、それは雨と地下水による爆発的な洪水として現れるし、ある時は、外国の残虐な軍隊として現れる。しかし、水が人間を裁くのでも、外国人が裁くのでもない。神様が、裁くのです。その裁きの目的は、ノアに対する命令にあるように、「すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつを箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい」ということなのです。滅亡という裁きを通して、尚、残りの者を残し、その者に全く新しい歩みを始めさせる。世界を新しくする。残りの者が、神様から与えられた命令を忠実に果たすならば、神様は必ず救いを与えて下さる。そういうメッセージが、この物語の最初に暗示されています。
 そして、全世界が滅んだ後、神様は見渡す限り荒廃した大地に一年ぶりに降り立ったノアに対して、こう仰ったのです。

「神はノアと彼の息子達を祝福して言われた。 『産めよ、増えよ、地に満ちよ。』」

 「裁きの時は終わった、私は再びあなたたちを祝福する。」神様は、そう語りかけて下さったのです。「生きよ!」と語りかけて下さった。そして、一方的に「二度と滅ぼさない」という契約を立てて下さり、その徴に空に虹を出して下さったのです。ノアは、すべてが滅んでしまった荒涼たる大地に立ち、空の虹を見上げつつ、裁きの時を経て、新しい歩みを始めさせて下さる神様の祝福を思い、讃美せざるを得なかったのではないでしょうか。
 そういうメッセージをバビロン捕囚の中で、祭司達は聞き取り、そして失望の中にいる、嘆きの中にいる、泣いている同胞達に向かって、神様のメッセージとして語りかけたのです。自分たちの犯した罪を嘆き、死の奴隷となって、生きる希望を失っている同胞に向けて、「希望はある。私たちの中にはないが、神様にはある。神様が、この裁きの後に新しい業をはじめてくださる。神様の契約を信じて、その掟に従って歩むならば、神様は必ず救い出して下さる。産めよ、増えよ、地に満ちよ、と新たに祝福して下さるのだ」と語りかけているのです。いや、神様が祭司達を通して、まさにご自身で語りかけていると言うべきでしょう。
 私たちは今、月に一回の創世記と平行してローマの信徒への手紙の御言葉を読んでいます。先週は、7章の最後をご一緒に読みました。そこにはこうありました。

「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストによって神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

 ここでパウロが、神様に感謝をしているのは、どうしてか?それは、神様の律法と罪の法則の間で引き裂かれてしまうこの自分の罪に対する神の恐るべき裁きを、神の子である主イエス・キリストがその肉をもってすべて引き受けて下さり、その身に負って死んで下さったからです。そして、主イエス・キリストは新しい体をもって復活され、パウロに新しい霊、新しい命の息吹を与えて下さったからです。肉を持って生きている以上、罪の法則はその肉に襲い掛かり、自分のものとしようとする。しかし、パウロはもう主イエス・キリストの十字架と復活の贖いを通して、神様に新しく造り替えていただいた。神様の者としていただいた。もう既に、その深い所で、罪と死の支配から脱出させて頂いている。その喜びを、彼はここで声高らかに語っている、いや讃美しているのです。神様の祝福に感謝して讃美しているのです。
 私たちは来週からローマの信徒への手紙の8章に入って行きます。7章が最も低いという意味での頂点であるとすれば、8章は高いという意味での頂点のように私には思えます。その8章の中で、パウロは、自分一人の救いではなく、人間だけでもなく、被造物全体の救いをも視野に入れつつ、将来への希望を、こう語っています。

「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望んでいるのです。」

 創世記1章を最初に読んだ読者たち、それはまだバビロンの地に幽閉されていた人々だと思います。目に見える現実としては、その捕囚が何年続くか分からないのです。その恥辱にまみれた現実の中で、彼らは呻き、苦しみ、そして嘆き、泣いていたでしょう。しかし、目に見える現実がそうであっても、彼らが神様の言葉を聴くことができた時、神様は私たちを祝福し、産めよ、増えよ、地に満ちよと語りかけて下さっているのだと聴くことができた時、神様は罪に対して恐るべき裁きを与える方ではあるけれど、その裁きを通して悔い改める者に、新しい祝福を与えて下さり、もう一度、産めよ、増えよ、地に満ちよと語りかけて下さるのだと聴き取ることができた時、目に見える現実はどうであれ、彼らはその深い所で既に救いに入れられたのです。何時の日か、必ず神様はエルサレムに帰して下さる。そこで神様を讃美する日を与えて下さる。そう信じることが出来た。その望みによって、彼らは救われたのです。そして、その望みが、神様の言葉に基づく望みであったが故に、それは事実となったのです。神様の言葉は必ず実現するからです。彼らは、70年の捕囚の後に解放されました。
 私たちは、これから主の晩餐に招かれようとしています。先週の礼拝で、神様の祝福を受けて、派遣されて始めた一週間でしたが、またもや肉において罪の法則に仕えてしまった一週間でした。しかし、そういう私たちの罪を、神様は今日も、御子イエス・キリストの十字架の死を通して赦し、主イエスの復活に与らせ、私たちを新しく生まれさせ、生かそうとし、そしてキリストを信じる者を地に満たすために、聖餐の食卓に招いて下さるのです。主イエス・キリストが、「これをとって食べよ、そして生きよ」「これをとって飲め、そして生きよ」と語りかけつつ、その命を与えて下さるのです。私たちは、その食卓に信仰をもって与り、主の御体と御血潮に与る時に、いつの日か、体が贖われて、真実に神の子とさせていただける日、天国の祝福の中で全身全霊を傾けて神様を讃美させていただける日、救いの完成を仰ぎ見ることが許されるのです。

「わが主よ今ここにて したしくまみえまつり
かぎりなきさいわいを うくるこそうれしけれ

恵みの足れるときよ いのちのみてるおりよ
今しばしとどまれや 主と共にわれすごさん

ここにはあがないあり ここにはなぐさめあり
わがけがれきよめられ みちからはみちあふる

おもかげうつししのぶ 今日だにかくもあるを
みくににて祝う日の その幸やいかにあらん」


 私たちはまだこの世の中を肉をもって生きているものです。ですから、まだ完全に救われているわけではありません。そういう意味では、呻きは死ぬまで続きます。しかし、御子イエス・キリストにおいて、救いは約束されているのです。そのことを信じるのです。そして、日々、罪を悔い改めつつ、主に連なるのです。主の御招きに感謝し、罪を赦して頂き、天の御国に入れて頂けることを最大の喜びとし望み続けるのです。その望みにおいて、私たちは今既に幸いを与えられます。その幸い、その喜び、それは救いが完成し、人間だけではないすべての被造物が、その救いに与って、栄光を与えられ、声の限りに神様の祝福に感謝し、歓喜の讃美を捧げる日にその頂点を迎えるのです。私たちは、今既にそのことをはるかに望み見て、神様に感謝と喜びの讃美を捧げたいと思います。

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