「神の被造物・動物と人間」

及川 信

創世記1章20節〜31節

 

 先週の火曜日に、教会学校の子供たちと葛西臨海公園に遠足に行ったのですが、その時に、海辺で潮干狩りの真似事みたいなことをしたり、水族館で大きなマグロを初めとする様々な魚が泳ぐ様を見ました。初めて参加した四年生の男の子は、マグロが泳ぐ様を見て目を丸くして、「俺、感激した」と言ってくれたりして、私も嬉しかったのですが、魚が泳ぐ様はいつ見ても実に美しいものです。一面では、大海原を自由に泳ぎまわっていた魚を捕まえて、狭い水槽に閉じ込めてしまっていることに後ろめたさを感じますが、他面、子供をはじめ私たち人間が水族館ででも魚の泳ぐ姿を見ながら、海を汚さないようにしなければならないと思い、少しでもそのために実践していくことが出来るのであれば、何も知らないよりは良いのだろうとも思いましたが、どうなのか?また、先日、渡り鳥に関するドキュメント映画を観ました。鳥が大空を飛ぶ姿、それもまた実に美しいものです。鳥自身は、必死になって飛んでいるのでしょうが、魚と同じく、これまでの長い長い時間の流れの中で進化し、研ぎ澄まされてきた無駄のない美しさがそこにはあると思います。テレビでも、私は比較的に動物ものが好きで、機会があれば見ますけれど、野生に生きる動物の姿の美しさをいつも思います。もちろん動物に限らず自然界に生きるものの美しさは弱肉強食という厳しい生存競争の中で生き延びるために鍛え上げた美しさであって、観賞用として人工的に造られた美しさとは質が違います。
 そういう過酷さの中で美しさを増し加える自然世界、それを聖書は神の被造世界だと言います。神様がお造りになったものだというのです。自然発生的に生まれたものではない。ちゃんと創造した方がいる。だから、それは「誰のものでもない自然」あるいは「すべての人のものとしての自然」でもなく、「神様のものとしての自然」なのです。自然の中で生きているすべてのものの命は、すべて神様がお造りになったのだから、神様のものである。そういう主張と言うか、認識と言うか、信仰が、聖書にはあります。命は神様のもの。だから、人が勝手に殺してはならない。神様の許可の下でしか、命を殺すことは断じてしてはならない。食べるために殺す場合も、命の象徴である血を飲んではならない。命は神のものだから。神様がお造りになり、祝福され、「良い」と仰った被造物、それは神様が愛して止まない被造物なのであって、それを勝手に殺してはならない。一羽の雀ですら、神様の許しなくして地には落ちないのです。私の子供が小さかった頃、そんな話をしたら「人間の血を吸う蚊も神様が愛する被造物なのか?あのゴキブリもそうなのか?とてもそうは思えない」と言われ、「何でも思いのままにしようとする人間に不快な思いをさせたり、困らせたりする存在も必要なんだ」と言った覚えがありますが、そう言いながら、自分で納得していたわけではありませんし、蚊やゴキブリが美しいわけでもないと思いますが・・
 とにかく、聖書における自然、それはあくまでも神の被造物です。ですから、私たちが自然を大事にするという時も、あくまでも自然世界をお造りになった創造主なる神様を拝み、重んじ、従うという観点から自然を大事にするのです。神様は自然の被造物を一つずつ「良し」とされ、魚や鳥たちを祝福されました。その神様が祝福されたものを、私たちが重んじるのは当然のことです。神様がご自身の像に象ってお造りになった私たちに、「地を従わせよ」「生き物をすべて支配せよ」という命令を与えました。これは、後日もう少し詳しく触れることになると思いますが、神様の被造物を管理するという神様の仕事を委託されたということです。委託されたのですから、委託した神様の御心のままにしなければなりません。自分の思いのままに従わせたり、支配したりしてはならないのです。神様の命令に従って、被造物を管理し、支配する。この点が、人間と自然界との特殊な関係です。
 しかし、その一方で、人間と動物が同じ日に造られていることからも分かりますように、人間は動物の一種であり、動物と人間は非常に近い存在として描かれているのです。それは動物と人間、それぞれが青草を食べて生きる生き物として描かれていることにも現れています。動物の中には、肉食のものもいるのですが、創造当初は草食として描かれている。そして、人間が動物の肉を食物として与えられるのは、創世記ではノアの洪水の後ということになっています。しかし、その際も、先程言いましたように、血だけは食べてはならないことになっています。その意味もまた後日考えたいと思いますが、とにかく、人間の食物はすべて自然界に依存しているということ、そのことが大事なのです。神様がお造りになったものに完全に依存している。地を従わせ、生き物を支配する管理の仕事を託された人間、そういう意味では万物の霊長、被造物の王として立てられた人間が、他の動物同様に、青草によってその命を養うことになっている。青草がなければ生きてはいけないか弱い存在である。神様の憐れみ、お恵みによって生かされている。この両方の事実を忘れてはならない。この両方の事実を覚え、承認することを通して、私たちは人間として生きることが出来るのですし、人間として神様の栄光を称えることが出来るのです。
 けれども、創世記をこれから読み進めていけば直ぐに分かることですが、神様と自然と人間の関係は一気に崩壊します。アダムとエバは、蛇の誘惑を切っ掛けとして、神のような存在になりたいとの思いに従い、禁断の木の実を食べました。神様に反抗し、背いたのです。その結果、彼ら同士の関係がそれまでとは全く違うものとなりました。そして、青草を生え出だす大地が呪われ、野の草を食べようとする人間に対して、茨とあざみを生え出でさせるようになったのです。つまり、敵対関係になった。人間の神への反抗、自分自身が支配者になり、他を服従させようとする時、人間は神の前でも人の前でも裸では立ち得ず、葉っぱで恥部を隠し、その邪な思いを隠さなければならない存在となったのです。そして、その結果が、自然との共存ではなく、自然との戦いをしながら生き延びざるを得ない存在となったのです。それは神様からの恩恵によって生きるのではなく、自分の力で生きるということでもあります。
 現代人の多くは、創世記に記されている物語は、人間の空想によって作り出された神話とか御伽噺とか思うのかもしれませんが、紀元前10世紀とか7世紀に書かれたと言われるこの文書には、現代にそのまま通じる事柄が書かれていると、私は思います。当時は、公害による大地の汚染とか大気の汚染があったわけではないでしょう。山が削られてゴルフ場になったりゲレンデになったりするわけでもなく、コンクリートの道路とビルディングで土が全く見えない都市があったわけでもない。公害物質の垂れ流しで、川や海水が汚染されたわけでもない。それなのに、創世記を初めとする聖書の至る所で人間の罪と自然界の荒廃や不毛が関連させられているのです。
たとえば、エレミヤはこう言っています。
「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。」
「知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり/通り過ぎる人もいない。主は言われる。『それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。』」


 あるいはホセアはこう言っています。
「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも/神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり/流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き/そこに住む者は皆、衰え果て/野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。」

 人間が神様の戒めに背く時、神様を知る知識を失い、神様を畏れ敬うことをしない時、大地は荒廃し、野の獣、空の鳥、海の魚さえもが一掃されてしまう。大地は荒地に変わり動物も人間も生きることが出来なくなる。人間の罪と自然世界の状態は深い関連があるのです。それは現代でははっきりと目に見えるでしょう。
 皆さんもしばしば耳にされることでしょうが、絶滅動物というものが沢山います。毎年毎年地球上から絶滅する動物が増えているのだそうです。地球環境の変化、自然淘汰という理由で絶滅する場合もあるのですが、多くは人間による環境破壊、商売のための乱獲、密漁、そういうことが原因で絶滅していくのです。全く情けない話です。しかし、経済的利益のためなら動物の命をいとも簡単に殺す人間は、動物だけでなく人間も、利益のために殺すのです。
動物の中で、組織的に殺し合う動物というのはいません。餌を求めての縄張り争いをすることは当然ですが、そのために集団で殺し合っていたら、種の保存にはならないので、殺し合いまではしないで、住み分けるのです。弱い方がその場を去る。しかし、人間は個人的にも人殺しをしますし、組織的な人殺し、戦争を繰り返します。そして、戦争によって人間だけでなく自然界の生き物も殺していきます。前にも言いましたように、戦争に鶏だとか鳩だとかイルカだとか犬だとかを利用します。そうやって、神様がお造りになった命を殺し、世界を破壊していくのです。自分のために、平和のために、繁栄のために、殺し、破壊する。しかし、いくつかの国が既に大量に持っている核兵器が何かの拍子に使われ、それに対する報復がまた核兵器で為されるとすれば、まさに地球上に生きるすべての生命は絶滅するのではないでしょうか。現在の唯一の超大国の大統領や政府要人の何人かと、どれくらいの割合でいるのか知りませんが、彼らを支持する国民は、そういう絶滅の危険から世界を救うために、自分たちだけに権力と武力を集中させることが最も有効だと考えているのでしょうが、最も有効な道は、自分たちも含めて武器を捨て、丸腰になる、裸になることです。それが、罪を犯したが故に裸ではいられなくなったアダムとエバ以来の人間の課題なのです。
私たちは、いつも相手に「銃を捨てろ、そうすれば俺も捨てる」と言ってきましたが、そんな身勝手な提案を相手方が受け入れるはずもないわけですから、今はもっと凶暴にして身勝手になり、「銃を捨てろ、さもなくば撃つぞ。銃は俺だけが持っていれば十分だ。自分で捨てないなら、無理やり捨てさせる」という論理とその論理に基づく実行が横行しているように思います。私たちの国の政府は、苦渋の選択ではあるのでしょうが、無条件降伏をした国らしく、そういう横暴に対して無条件の支持を与えてしまったわけで、唯一の超大国ばかりを批判も出来ません。
 先週も言いましたように、基本的に月に3回は礼拝の中でローマの信徒への手紙を読み進めています。今は8章18節以下です。19節から読みます。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

 人間が神に反抗し、その結果、虚無に服している。つまり、罪の縄目に捕らえられて自由を失っている。その人間の状態に、他の被造物も連動させられてしまっているというのです。彼ら自身が罪を犯したわけではないけれど、人間の罪によって彼らも滅びへと隷属させられている、人間と共に滅んでいく状況に押し込められているというのです。まさに、現代の状況がそうです。そういう現状を見つめ、考えれば、やはり息苦しくなり、私などはもう直ぐに嫌になり、逃避したくなりますし、実際逃避しています。自分一人で考えたってどうなるわけでもないことを考え続けることは辛いですし、それじゃ社会全体を動かすためにデモに参加したり組織したりと活動するのかと考えても、それは考えただけで無力感に襲われるだけですから、何も考えないようにしてしまうのです。つまり、絶望しているのです。人間に対して、すぐに絶望してしまうのです。
しかし、パウロは、「わたしは知っている」と言う。被造物が希望を持っていることを知っていると言う。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に与れる」希望を持っていると言うのです。
「神の子」とは何でしょうか。誰が神の子なのでしょうか。どのようにして現れるのでしょうか。どのようにして誕生するのでしょうか。14節以下を読みます。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」

 神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る人間。それが神の子です。「アッバ、父よ。」これは顔と顔を見合わせて呼ぶ呼び方でしょう。どこにいるのか分からない存在に向かって虚ろに呼びかけるのではなく、今ここに居ます神様に向かって、お父さん、と呼びかけることが出来る人間、それが神の子です。「お父さん」と愛と信頼の思いをもって呼びかける。それは罪を抱えたままで出来ることではないでしょう。
 アダムとエバが、神様が食べるなと命じた木の実を食べたあと、どういうことがあったのか思い起こせば、それは分かります。あの時、神様は何をされ、アダムとエバは、何をしたのでしょうか。神様は「風の吹くころ」、つまり夕方涼しくなってきたころ、園の中を歩いてこられたのです。彼らに会いに来たのです。しかし、既にお互いが裸でいることが出来なくなっていたアダムとエバは、「神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」ました。神様が近づいてきて下さるのに、人間の側は隠れる。これが罪人の姿です。
光が差し込めば、闇に生きる人間はその眩しさに耐えられず、光を避けるものです。光は何もかも露わにしてしまいます。顔の染みや皺、体の汚れも皆露わにします。その光を恐れるのは、罪人である私たちです。光なる神様にはすべての汚れが見えるのです。そのことを、私たちは本能的に知っています。神様の像に似せて造られた私たちは、神様の心を、その願いを心の奥底で感知しているのです。だから、その願いに反することをした時は、神様から身を隠し、心を閉ざすのです。犬だって、私が留守中にごみ箱を漁ったりしていた場合、私が部屋に入ったとたん、そわそわと身を隠す場所を探します。動物と人間は同じ日に造られたので、その点は似ているのでしょう。
 神様はアダムを呼ばれました。

「どこにいるのか。」

 「あなたはどこにいるのか。」神様の御前に生きていた人間、そこに自分の居場所があった人間が、今、その居場所を失っているのです。木陰に隠れているのです。そこから出てこない。その事実を見て、神様はどれほど情けない思いをされたでしょうか。その後、神様はエバに向かって、こう仰いました。

「何ということをしたのか。」

 「あなたは何と言うことをしたのか。」ここには、神様の痛切な叫びがあります。
しかし、アダムは、「あなたがわたしと共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました」と、自分の罪を神とエバのせいにしたのです。これが「これこそ我が骨の骨、肉の肉」と言って、エバを迎えた男の言葉です。エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました」と蛇のせいにする、あるいはこのような賢い被造物を造った神のせいにするのです。そうやって、自分を肯定するのです。そのように自己肯定をしなければ、私たちは神様の前に立てない。いや、あくまでも自己肯定をして神様の前に立つほどに傲慢だと言った方が良いかもしれません。
ニューヨーク・ワシントンの連続テロとサダム・フセインとの直接的な因果関係を証明できなくとも、「サダムはテロ支援をしている」と口実をつけて前からやりたかった攻撃を肯定し、そのことを神が肯定し、祝福していると信じてしまう姿は、アダムとエバの遺伝子を見事に受け継いでいるとしか言いようがありません。そして、私自身もアダムとエバの子孫以外の何者でもありません。醜い言い訳と責任転嫁の限りを尽くして自分を肯定しつつ、こうやって毎週、礼拝に集まっているのですし、礼拝をしているつもりになっている。
 礼拝の時間、それは「風の吹くころ」なのかもしれません。神様が私たちに会おうとして、「どこにいるのか」と呼びかけてくださっている時間なのかもしれない。私たちはどこにいるのでしょうか。たしかに、ここに座っているのだけれど、その心は、神様に向かって開いているのでしょうか。罪の汚れを人に隠すために腰に葉っぱを巻き、神様の御前からは全身を隠していないのでしょうか。神様から、「どこにいるのか。取って食べるなと命じておいた木から食べたのか。」「なんということをしたのか」と問われる時、尚も、責任を転嫁してなんとか誤魔化そうとしているのではないでしょうか。もし、そうなら私たちは、ここで礼拝をしているのではありません。ここでも罪を犯しているのです。
 私たちの救いは、神様の御前に立って「アバ、父よ」と言えるかどうかにかかっています。再び神の子とならせて頂けるかどうかにかかっています。そのために、私たちは帰らなければなりません。遺産の半分を貰って家を出、その金をすべて「飲む・打つ・買う」の放蕩で使い果たし、もう絶対に家に帰ることなど出来ない子供が、心からの悔い改めと謝罪の言葉と共に帰ってきて、最も身分の低い使用人の一人として家に入れてくれないかと願う時、父は、走りより、抱きしめ、接吻し、「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、家に招き入れて下さり、祝宴と開いて下さったでしょう。この父の愛の故に、この息子は「父よ」と呼ぶことが許され、新しく子として生まれたのです。再び父と共に食卓を囲む者とされたのです。
主イエスは、弟子達との最後の食事の時に、奴隷となって、弟子たちの足を洗って下さいました。罪の汚れを、主イエスは御自分の手を汚しながら、私たちの罪の汚れを洗って下さるのです。御自分の体を呪いの十字架につけて血に塗れて死んで下さるのです。そのようにして、私たちにこびりつき、染み付いた罪の汚れを洗い清めて下さるのです。そして、復活の命に与らせて下さり、新しく神の子として生きることを許して下さるのです。それはすべて聖霊の御業です。
その主イエスに洗って頂くために、私たちは父なる神の御前で裸になる。それが礼拝の時なのだと思います。罪の汚れのすべてを隠さずに見ていただく。「お父さん、ごめんなさい」と謝りながら、見ていただくのです。父は、「なんということをしたのか」と言いつつ、「私の独り子がお前のために死に、既にお前の罪を償った。そのことを信じるなら、お前はもう罪からは自由だ。私の子だ」と仰って下さるのです。「お父さん、感謝します。」私たちは、ただそう言って、父の愛を、その栄光を、賛美するしかないでしょう。罪の縄目から解き放って下さった神様の愛と全能の力を賛美する以外にないのです。そして、その讃美と服従を日常の生活の中で継続できるように、聖霊の守りを祈るのです。
 神に造られた被造物は、そういう神の子が出現し、神の子の自由に与る日を呻きながら待ち望んでいるのです。被造物はすべて、人間の罪によって虚無の中に服させられているのですから、人間が罪から解放され、呪いから解放され、神様の祝福の中に、神様の命令に従って、地を従わせ、生き物を治めることをしない限り、その虚無からの解放はありません。創造の時に「良し」と言われ、祝福された姿を回復することは出来ないのです。神様のお造りになった世界は、人間と他のすべて被造物を含むのですから、すべてを含んだ世界として完成されるのです。すべてのものが救われるのです。預言者イザヤは、その完成の日のイメージをこのように語っています。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」


   これはキリスト到来を予告するメシア預言の一部ですが、キリストを通してすべての者が、主を知る知識を持ち、主を畏れ敬う時に、自分の罪を知り、悔い改め、隠さずに主の前に立ち、十字架による赦しを信じ、復活による新生を信じる時に、世界には正義と真実が確立し、祝福の中に、獅子も牛も草を食べ、乳飲み子が毒蛇と戯れるのです。人間が罪から解放されて、神の子となり、アッバ、父よと呼び、被造物もその自由に与るのです。
 私たちは、これから聖餐の食卓に与ります。
「ここには贖いあり、ここには慰めあり、わが汚れきよめられ、御力は満ち溢ふる。面影うつししのぶ、今日だにかくもあるを、御国にて祝う日の、その幸やいかにあらん。」
それぞれに犯してきた罪を悔い改め、赦しを信じ、必ず実現する神の国を望みつつ、この恵みの食卓から命の糧を頂きましょう。
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