「神の似姿としての人間」

及川 信

創世記1章26節〜31節

 

 今日から恐らく4回から5回に分けて人間の創造の記事を読んでいくことになります。創世記による説教は基本的に一月に1回ですからクリスマス前まで人間の創造に関する御言葉をご一緒に読み続けることになると思います。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」

 ここで既に、私たちはいくつもの問題というか疑問を感じるのではないでしょうか。神様はお独りのはずなのに、なぜ「我々」という言葉が出てくるのか?その「我々」としての神様に「かたどり」、また「似せて」とはどういうことなのか?「支配させよう」とは、どういうことか?こういう言語の問題がまず最初に気になります。また、それ以外にも文体というか、文章の構造の問題もあります。これまでは、たとえば24節にありますように、「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を生み出せ・・・』」というふうに、神様は創造の御業を為さってこられました。しかし、人間の創造に関しては、神様ご自身の中で対話をしているような文章があり、28節以下では、ご自身が創造されたばかりの人間に対して、神様が直接語りかける文章が出てきます。これも他の被造物の創造においてはなかったことです。さらに予告のように言っておきますが、ご自分にかたどって「人」を創造されたという場合の「人」は、もちろん単数形ですが、その「人」とは、男と女なのです。つまり、複数形です。男は男で神にかたどられ、女は女で神にかたどられているということなら、神様は男神と女神がいるということになる。父なる神と母なる神がいるということなら、聖書の宗教は一神教ではなく多神教ということになってしまいます。こういう問題も、ここにはあります。また、食物が与えられるということ、それが植物であるとはどういうことなのか。ここには、様々に深い問題がありますが、私たちとしては、出来るだけ丁寧に読んで、神様の語りかけを正しく深く聞き取っていきたいと願うのみです。
 今日は、「我々にかたどり云々」という語り方の問題と、「かたどり」「似せて」そして「支配する」の意味とそれぞれの関係を考えてみたいと思います。
 これまで多くの方から「神様はお独りのはずなのに、何故、ここで『我々』とあるんだ?」と尋ねられてきました。その都度、いくつかの可能性を説明させていただきましたが、心から納得して下さった方は一人もいないのです。皆さんなんとなく不審そうな顔をして、黙ってしまう。これ以上質問しても、この牧師からは満足の行く応えを得られそうにないと思われるのでしょう。その点については、申し訳ないのですが、私としては今日も同じことを言うしかありません。ここの文章の解釈は難しく、古来様々なことが言われてきました。
 代表的なものの一つは、神様は三位一体の神様であり、主イエスも聖霊も創造の時には存在していたのだから、三位一体の神の内部で語り合っているのだという解釈です。しかし、これはキリスト教の教義学としては成り立つ議論だとは思いますが、創世記1章そのものとは全く馴染まない解釈だと思います。次は、詩編のいくつかやヨブ記の冒頭にそういう場面が出てきますが、天上の会議において神が天使達に語りかけているのではないかという解釈があります。これなどは、当たっているのかも知れません。次は、がらりと変わって文法的な側面からの解釈で、「尊厳の複数」と呼ばれる用法があります。自分自身の尊厳を現すために自分を「我々」と呼ぶ場合があります。学術論文などでも、しばしば「我々」と筆者自身を呼びますが、それと少し似ているかもしれません。しかし、旧約聖書の中にはそのような用法がないということで、この解釈もとりにくい。最後に、恐らく最も可能性の高いものとして、「熟慮の複数」という解釈があります。旧約聖書の中で、ごくたまにですが、神様ご自身がある重大な決断をされる前に自問するように考えるという場面があります。たとえば、創世記11章7節。ここは、バベルの塔を建てて神様に反抗する人間に対する神様の言葉です。

「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

ここに「我々」が出てきます。また、預言者イザヤの召命の場面にはこうあります。

「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」

このように、神様が重大な決意をされる時に自問する、つまり熟慮をされる。そういう場合に「我々は〜〜しよう」とか「我々は〜〜すべきか」という言い方が出てきます。恐らく、創世記1章の場合も、その線で考えることが一番、妥当なのではないかと私は思います。(御納得いただけたかどうか分かりませんが、先に進みます。)
 次に問題なのは、神にかたどり、似せるとはどういうことか?です。この問題は、どういうアプローチをするかで、一つの事柄ながら多様なイメージが膨らんできて、聖書の御言葉の奥深さを思い知らされていくことになります。たとえば、神様の目に見えない性質という方面で考えると、人間と神様は他の動物にはない霊的な類似性をもって創造されたが故に、神様の御言葉を聞くことが出来、また神様に語りかけることも出来る。そういう対話の関係、人格的関係を生きる存在として創造されたと言うことが出来るでしょう。この点については、また今後も繰り返し触れることになるはずです。
 今日は、もう少し別の観点から考えてみたいと思います。「かたどり」と動詞のように訳されていますが、直訳すれば「我々のイメージ(像)の中で」「我々の姿に」です。つまり、「像」とか「姿」という名詞に「造る」という動詞が繋がっているのです。それが聖書の中でどのように使われているかと言うと、いちいち例を挙げませんが、異教の神々や人間や動物などを象った「像」として出てきます。もちろん神の像とは偶像のことです。「似せて」も、実は名詞で「似姿」のことです。イザヤ書40章18節に、「お前たちは、神を誰に似せ/どのような像に仕立てようというのか」とありますが、この「似せる」とか「像」と訳された言葉が、同じ言葉の動詞と名詞です。イザヤ書にありますように、像を刻んで神とするということは、聖書の中では堅く禁じられているというか、そのような目に見えるものを神とする、あるいは目に見えないものを見えるものにしてしまうことは、聖書の信仰においてはあり得ないことです。しかし、その聖書の中で、人間が神の像として、神に似せて造られるとはどういうことなのか?それが大きな問題です。
 「神の像」に関して、今あげた偶像以外にもう一つ考えておかねばならないことは、古代社会においては(明治以降の日本の天皇制などもその一つに入れて良いかもしれませんが)、王を「神の像」、「神の似姿」とするケースがよくあるということです。エジプトでは、王は太陽神の似姿です。その意味で、王は神なのです。しかし、同じ古代社会でも、メソポタミアでは王が神なのではなく、王はあくまでも神の意志の遂行者であり、最高の神官でもありました。しかし、まさにその意味で、王こそが「神の似姿」なのです。王こそが神の意志と一体となってその意志を実現する人物なのですから、神の唯一の代表者、代弁者として、神の似姿になるのです。王の言動は神の言動です。
 そういう社会環境の中で、聖書は書かれました。特に、創世記の1章は、先ほど引用したイザヤ書40章以降と同じ、バビロン捕囚時代にメソポタミアのバビロンで書かれたと言われています。その時代に、聖書の多くの部分が編纂されたり、書かれたり、語られたりしたのですが、とにかくイザヤ書40章以降の言葉を語った一般に「第二イザヤ」と呼ばれる預言者は、こう言っています。

「お前たちは、神を誰に似せ/どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り/金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を/巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか/初めから告げられてはいなかったのか/理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。主は諸侯を無に等しいものとし/地を治める者をうつろなものとされる。彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく/地に根を張る間もなく/風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。お前たちはわたしを誰に似せ/誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」

 ここでも徹底的にバビロンで行われている偶像崇拝を否定し、同時に、天地の造り主なる神様がその地を治める支配者を無に等しい者、うつろな者とするという言葉が出てきます。イスラエルはこの時、そのバビロンに滅ぼされ、民はバビロンの地で虜囚の辱めを受けているのです。「お前の神は何処にいる!」と嘲られているのです。そういう屈辱的立場に置かれながら、イスラエルの残りの者は、自分達の支配者であるバビロンの宗教を否定し、笑い飛ばし、支配者の存在を無き者にしているのです。それは彼らの負け惜しみとか、空威張りとかいうことではありません。それは、彼らがかくまで厳しい裁きを神様から与えられて初めて知ったというか、与えられた信仰に基づく言葉なのです。
イスラエルの民は、元来、天地の造り主なる神に選ばれ、全世界の祝福の基となるべく選ばれたにもかかわらず、その神を忘れ、カナンの地の偶像崇拝に走り、この世の権力と富を求めて歩んでしまったのです。選ばれた恵みに応答せず、その恵みを台無しにする歩みをしてしまったのです。私たちキリスト者も、しばしば同じです。選ばれただけで、その恵みに応えない。信仰と服従に生きない。神様のとてつもない愛にあふれる感謝と喜びをもって応えない。「献身の徴として献金を献げます」と口では祈りつつ、献身など全くしていない。私自身のことを顧みても、選ばれ、召し出し、派遣して頂いたのに、神の御心に従うというよりも、自分の思いに従って生きるのみであったことを認めざるを得ません。神様は真実な方です。罪に対しては必ず裁きが与えられます。それがこの時のイスラエルにとっては、滅亡でありバビロン捕囚でした。その捕囚が実に数十年続いたのです。その間に、「残りの者」が為したこと、あるいは神様にするように命じられたことは、自分達の歩みを徹底的に検証することなのです。過去から現在に至るまでの歩みを徹底的に振り返るのです。様々な人々が、父祖アブラハム以来の歩みを検討しました。アブラハムの選びと出発、エジプト脱出、荒野放浪、土地取得と王国の建設、王国の腐敗と堕落、滅亡。そういう長い長い歴史を丹念に見続けたのです。それは嘗ての日本でそうであったような、皇国史観に基づく神国の日本の栄光の歴史の作成とは全く逆の作業でした。イスラエルの民は、ある意味ではまさに「自虐的」とも言えるほどに、自分達がいかに罪深い民であったか、いかに多くの罪を繰り返し犯してきたのか、どんな罪を犯してきたのかを真正面から見つめる経験をしたのです。そして、その罪の歴史を正直に書き記したのです。ヨシュア記にしろ士師記にしろサムエル記、列王記などの歴史書は、皆、そういう視点から書かれ、あるいは編纂されたものです。それは数百年に亘る自分達の罪の歴史なのです。その結果として、自分達は神に裁かれ、国は滅亡させられ、バビロン捕囚されたのだという事実を、彼らはしっかりと受け入れたのです。その時に初めて、彼らは心からの悔い改めをして、神様に罪の赦しを乞い求めるようになったのです。
そういうイスラエルに向かって、神様が語りかけた言葉が、先ほどのイザヤ書の言葉であり、また創世記1章の言葉だと、私は思います。そこに記されていることは、天地をお造りになったのは神様であるということです。空間も時間も、そこに生きるすべてのものも、神様がお造りになり、「良し」とされた存在であるということです。また、神様はそこに生きるものを祝福されたということです。
 そして、人間は神の像として、神に似せて造られたということなのです。注意すべきは、「人は」であって「王は」ではないということです。あるいは「ユダヤ人は」ではなく、「人は」であることです。つまり、自分達を滅亡させ、虐殺し、今も嘲るバビロン人を含むすべての人間が、神の像に似せて造られたのです。そこに敵も味方もありません。支配者も奴隷もないのです。すべての人間は神の被造物であり、そうであるが故に、「すべての人間が王なのだ」ということでもあります。(こんなことは人間が書けることではありません。だから、聖書は神様の言葉なのです。)それは、神様が「人」を創造された目的が「すべてを支配させよう」というところにあることからも明らかです。「支配する」とは、基本的に王の業です。旧約聖書では、王の支配、統治の意味でしばしば使われます。しかし、ヘブライ語ではラーダーというこの言葉は、「支配する」と同時に羊飼いが羊を「導く」という意味でもしばしば使われる言葉なのです。そして、面白いことに、聖書において、王は羊飼い、牧者として描かれることがしばしばある。ダビデ王は元々羊飼いでした。つまり、ここで神様が人間に求めておられることは、神の代弁者、その意志の遂行者として、すべての生物、つまり神様がお造りになったすべてのものを治めることでありますが、それは牧者が自分の羊を愛して憩いの水辺や青草の原に導くように導くことなのです。死の陰の谷を歩む時も離れないで守り通すということです。そういう使命を、神様は人間に与えている。ここで求められている王の支配とは、そういう導き、牧会というべきものです。
 最近のキリスト教批判の中に、キリスト教は人間というものを万物の霊長と位置付け、支配者の地位に立たせている。だから、自然破壊を平気でする。しかし、東洋的な多神教においては人間も自然の一部であり自然との共生を教えている。だから自然破壊をしないというものがあります。そのことに対してまともな反論をする気もありませんが、日本人ほど経済的効率のために自国の自然といわゆる発展途上国の自然を破壊している国民も珍しいとも言われる事実に、その批判者はなんと答えるのでしょうか。宗教が何であれ、人間に罪がある限り、そしてそのことに気づかない限り、私たち人間は横暴な王のように振る舞い、自然を含む他者をすべて自分のために利用し、実は自分自身を含めて破滅に向かっていくのです。
 しかし、先ほども言いましたように、聖書において、神が求めておられる「王」は、神の代弁者、地上における神の代表者です。ということは、もっぱら神の御意志に服従するものなのです。権力を集中して自分の欲望のままに生きるいわゆる王的な生き方は、聖書において神様が人間に求めている王としての生き方とは全く逆行するものなのです。
申命記の中に「王に関する規定」と呼ばれるものがあります。そこには、王は軍備を増強したり、富を求めたりしてはならないとあり、最後にこう記されています。

「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。」

 ここにありますように、神様がお立てになる王は、ただただひたすらに神様の御心を尋ね求め、その御心を忠実に行う者です。つまり、僕なのです。良い忠実な僕、その僕こそが、王なのです。「すべての人間は、そういう存在として神様によって創造されたのだ。それが本来の人間なのだ。」創世記一章二六節は、今日、私たちにそう告げているのです。王とは特別な存在ではない。人々の上に、あるいは自然界において君臨する存在ではない。天地をお造りになった神の御前にひれ伏し、その御心を求めて、忠実に従う者、その者が神の像に象られ、神に似せて造られた王なのです。主イエスも、こう仰ったでしょう。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 私たちはイエス・キリストを信じているキリスト者です。イエス・キリスト、この「キリスト」とは、油注がれた者、メシアのギリシャ語訳ですが、メシア、キリストが意味する一つのことは「王」ということです。つまり、「イエス・キリストを信じます」と告白するということは、イエスは王であることを信じますという告白です。この「王」という言葉が持つ深さと広さは、これまた捉えようもないほどに深く、広いことです。ガリラヤ湖の風と波を静めた主イエスを見て、弟子たちは、「風も波も従わせるこの方は一体誰なのか?!」と恐れたとありますが、その場合は、自然すら支配する王ですし、死んでいた会堂司の娘を「タリタ・クム。娘よ、起きなさい」 という言葉だけで甦らせてしまった主イエスは、死をも支配下に置く王でしょう。あるいは悪霊を支配する王。罪と死に対する勝利者としての王。当たり前のことですが、キリストという言葉の持つ意味は本当に深くて広いのです。
 今日は、その中で「神の似姿」としてのキリストに絞って御言葉に聞いていきたいと思います。新約聖書で、「神の似姿」という言葉が出てくるのは二箇所です。いずれも手紙の中ですが、一つは、コリントの信徒への手紙Uです。そこにはこうあります。

「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コリントU 4: 3― 4)

 もう詳しく語る余裕はありませんが、ここでキリストが神の似姿と言われています。そして、それは栄光の姿です。闇の力に支配されていた私たちを、その十字架と復活の福音を通して救い出し、支配下に置いて下さった王なるキリスト。そのキリストに対する信仰、感謝と賛美がここにはあります。
 もう一箇所がコロサイの信徒への手紙ですが、そこにはこうあります。
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ1:14―17)

 この先に、十字架と復活による神様との和解が力強く宣言されています。私たちキリスト者は、神の似姿としての御子イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって罪の赦しを与えられて、神様と和解させて頂いた者なのです。そのこと抜きに、私たちは人として生きることは出来ない罪人なのです。神様が造って下さった人、「良し」と言ってくださった人、「祝福」して下さった人として生きることができない罪人なのです。アダムとエバ以来の罪の中に落ちて、闇の力に支配され、罪の奴隷として、罪の僕として、罪しか行い得ず、人をその交わりの中に巻き込み、互いにくんずほぐれつしながら滅びの中に呑み込まれていく以外になかった者なのです。
 しかし、神様はその惨めな私たちを救うために、創造の時に既におられた御子を、人として、闇の世に送り、すべての人間の罪を御子に負わせられたのです。御子は万物を支配する王であるのに、しかし、王であるからこそ、神の従順な僕として、神様の御心のみを求め、その御心に従って下さったのです。死ぬほどの悲しみの中に、「アッバ、父よ、アッバ父よ」と叫び祈りつつ、御子はユダヤ人の王、すべての人間の王、万物の王であるが故に、「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りきって下さり、その祈りのままに、忠実な僕として父なる神の御心に従って下さったのです。この王なるキリストは、羊のために命を捨てる良い羊飼いとして、迷える羊を救うために、滅びに向かう羊に永遠の命を与えるために、憩いの水辺、緑の青草の原に憩わせるために、恐るべき滅びを経験して下さったのです。そして、ご自身の死を通して死を滅ぼして下さったのです。復活は、その勝利の徴です。
 私たちがこの御子イエス・キリストを信じる時、私たちもまた新しく造られるのです。罪の悔い改めと信仰によって「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらがすべて神から出ることであった、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」とある通りです。
 キリスト者とは、イエス・キリストによって神様と和解させられた者たちのことです。そのキリスト者の務めは、先週、松永先生による使徒言行録の御言葉の説き明かしによっても示されたように、聖霊を受けて、和解の福音の証人として、地の果てまでも遣わされることです。聖霊は、私たちを罪人から和解の福音の証人に造り替え、その私たちを支え、励まし続けて下さるのです。そのことを、私たちはこの数週間の礼拝において、ローマ書の御言葉を通して毎週知らされているのではないでしょうか。来週、これまでの続きとしてローマ書の8章29節以下を読み、そこを私は予告にありますように、「聖霊の導きに対する確信と賛美」と題して説教させていただく予定ですが、そこにはこうあります。

「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」

 「御子の姿に似たもの」とは、「御子の似姿」という言葉です。御子は、神の似姿です。だから、私たちは聖霊によって与えられた信仰を通して御子と結ばれる時に新しく造って頂けるのですが、それは御子の似姿として造っていただけるということなのです。御子の似姿に新たに造って頂くことによって、私たちは神の似姿に、その栄光に与らせていただけるのです。
 創世記で、神様が本当に深い熟慮と愛をもって私たちをご自身の似姿に造っていただいたのに、私たちは罪によってその姿を完全に失ってしまいました。王としての権威を失ったのです。それは天地の造り主なる神の僕としての自分を捨てたからです。自らが神のようになろうとする罪によって王の姿を失うのです。つまり、人間の姿を失う。そして、惨めな奴隷、罪の奴隷になるのです。その惨めな私たちを、神様は救い出すために御子を惨めさの極みである十字架につけ給うたのです。そして、罪に対する断固とした裁きを貫徹されて、罪に対する完膚なきまでの勝利として御子を復活させられたのです。この事実を、私の罪の赦しのためだと信じる者は救われるのです。新しい人間として造り替えて頂けるのです。御子の似姿として造り替えていただき、御子の栄光に与らせていただけるのです。世の終わりに完成する神の国に生きる人間として、新たに創造していただけるのです。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」

 それは、御子を信じる信仰において、今ここにいる私たちに実現する神の言葉なのです。信じる者とされますように。そして、信仰をもって主の食卓に与らせて頂きたいと思います。

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