「神が造った人間」

及川 信

創世記1章26節〜31節

 

 前回の説教において、神の似姿に造られた人間についての御言葉に聴きました。それは王にして僕の姿であり、それは御子イエス・キリストの姿であり、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の贖いを信じ、罪を悔い改めるときに、新しい創造に与り、御子の似姿に造り替えていただけることを教えられたのです。 今日は、その続きというか、同じ箇所についてですが、少し違った側面から御言葉の語りかけを聴いてまいりたいと思います。
 私は神様による天地創造、また特に人間の創造について思い巡らす時に、いつも思い出す言葉があります。それはある旧約聖書の学者が残した詩のような言葉ですが、こういうものです。

粘土細工

粘土を捏ねて
小さな壷を造った。
歪んだ不細工なものではあるが
創作の喜びはある。
私は混沌から
宇宙を創造(つくりいだし)しものの
限りなき歓喜を思った


 子供の頃には誰でもこういう経験をしたことがあると思います。今はどうだか知りませんが、私の頃は小学校の図工の時間に、ビニールで包装されたレンガのような粘土が配られて、それを少し水でぬらした手で捏ね回し、やわらかくしてから、思い思いの形を作ることをしました。最初はただの四角だったものが、自分の手の中で、次第次第に形を持ち始める喜びというものは、よく分かります。何故、それが嬉しいのか。その理由を考えると、様々なことが心に思い浮かびます。
 私たちは何かを創造する時に、まず頭の中で様々なイメージを抱きます。そのこと自体が楽しいことです。そして、そのイメージを具体的な形にしていく過程で、さらに良いアイデアが生まれたりして、さまざまな角度から見直しながら、修正を加えていく。そのようにしつつ、自分の中である種の対話をしているようなことがあります。何であれ、創造というもの、あるいは創作というものの中には、そういう対話があるのだろうと思います。だからこそ、出来上がったものは、ただの物ではなく、自分にとって掛け替えのないものになるのです。そこには、様々な思い出があり、時には、造ったものが対話(独り言?)の相手になっている場合もあるのです。
 神様が私たち人間を創造された。その時に既に、神様の心の中で対話がある、熟慮する対話があることは前回語ったことです。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」

 こういう文法的には「熟慮の複数形」と言われる対話は、人間の創造以外には見られないことです。そして、神様は、人をご自身との対話の相手、人格的な交わりを持つ相手として創造されたのです。もっと端的に言えば、愛し合う相手として創造されたのです。愛し合うことのできる人格を持ったものという意味で、人間は神に似せられていると言っても良いだろうと思います。そういう人間を神様が創造(つくりいだ)した時、そこには限りない歓喜があったのです。それは、ご自身と愛し合う存在が誕生した喜びです。
しかし、愛というものは、形が決まっているわけではありませんし、固定したものでもありません。様々に形を変えながら成長し、深まっていくものです。しかし、それはまた、様々に形を変えながら傷つけあい、ついには壊れて行く可能性もあるということです。夫婦の愛にしろ、親子の愛にしろ、友人関係の友愛にしろ、すべてが当然のごとくに深まっていくわけではありません。時が経つにつれて薄まったり、間違った方向にそれたり、お互いが逆方向に進んでしまったりするのです。少なくとも、人間の愛は罪と同じく、それ自体が生き物であって、常に強くなったり弱くなったり、なくなったり、また新たに生じたりするものでしょう。
 先週の説教の中で、ローマ書の8章には「神を信じる信仰」という言葉はなく、その代わりに「神を愛する」という言葉があると言いました。それは神の愛、神様の私たちに対する愛への私たちの応答の仕方なのです。愛するということ、愛されるということ、愛し合うということは、信じ合うということと同じで、人間にとって最大の喜びでありつつ、最大の困難です。愛ほど繊細にして傷つきやすく壊れやすいものはないからです。しかし、それは神様の私たちへの愛においても言えることだと思うのです。
聖書を読んでいて、私たちが思うこと、知らされることは、私たち人間の性懲りもない罪です。いったい何度、主なる神様の愛を裏切れば気が済むのか。旧約聖書を読んでいても、新約聖書を読んでいても、神様から与えられた愛のみ言葉を、イスラエルの民は、弟子たちは、どうしてちゃんと理解せず、ちゃんと従わないのか。なぜ、神様からのあれほどの愛と信頼を忘れたり、無視したり、あえて背いたりするのか。そういうことを思わざるを得ません。しかし、そう思いながら、そのイスラエルの姿や弟子たちの姿は、そっくりそのまま自分自身の姿であると言わざるを得ないことも、また事実です。しかし、そういう罪に対して、神様がどれほど深く傷つき、怒り、嘆き、悲しまれるか。そのことを私たちはほとんど考えることをしません。 聖書にご自身を啓示された神様は、私たちをご自身に似せてお造りになった神様ですから、当たり前といえば当たり前ですが、感情も何もない、鉄面皮のような神様ではありません。喜ばれることもあれば、悲しまれることもある。そういう神様です。
そのことをよく表す言葉として、「熱情の神」という言葉があります。出エジプト記や申命記に何回か出てくる言葉ですが、そのほとんどが、イスラエルの民が他の神々を拝んだり、ひれ伏したりしてはならない、という文章と共に出てきます。一番最初は、あのモーセの十戒の中に出てくるのですが、今日は、申命記の6章14節以下の言葉を引用します。

「他の神々、周辺諸国の神々の後に従ってはならない。あなたの只中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。」

 この「熱情の神」という言葉は、口語訳聖書では「妬む神」と訳されていました。英語の翻訳の多くもジェラウスという言葉を使っています。つまり、ご自分と並ぶ形で他の神を愛するようなことをすれば、愛は一瞬にして怒りに変わり、それも激しく燃え盛る炎のような怒りに変わり、イスラエルの民を地の面から滅ぼし尽くすような裁きとなって現れるのだということを、旧約聖書では繰り返し繰り返し語られているのです。これが愛です。神様はイスラエルの民を愛する。その神様はイスラエルからの愛を求める。ただひたすらな愛をお求めになるのです。他の神々に心を奪われるなんてことがあったら、嫉妬に狂って怒りのなかで滅ぼしてしまうほどにイスラエルを愛しているということです。このような深く強い神様の愛で愛されることは、こちら側もそれくらい深い愛で神様を愛する覚悟がなければならないことは当然です。しかし、神様のここまで深い愛を、私たち人間は理解できないというか、受け止められないというか、少なくとも、私たちの中にはこれほどの真実にして強い愛がないのです。そういう私たちを愛する神様の苦しみ、悲しみ、怒り、それが一体どれほどに深いものであるか、聖書を引用していけば切りがありませんが、今日はホセア書の言葉を引用したいと思います。このホセアという預言者は、自分の愛を裏切って姦淫の罪を犯した妻を再び愛することを神様に命ぜられた預言者です。そして、その耐え難い苦痛を通して、愛を裏切るイスラエルを尚も愛する神様の苦悩を知らされていった預言者ですが、その預言者を通して、神様はこのような言葉を語っておられます。11章です。ここでは、神様とイスラエルの関係が、夫婦関係ではなく親子関係に例えられていま。

「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。 エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。」

 神様は幼子を愛し、慈しみ育てる親のようにイスラエルを愛し、その名を呼び、まさに存在へと呼び出した(創造した)のです。奴隷として滅びるほかになかったエジプトの地から、新たに神の民として生きるようにと呼び出したのです。それなのに、イスラエルの民は、約束の地カナンに入ってしばらくすると、その地の神であるバアルに心惹かれ、バアルを礼拝するようになったのです。神様は傷つきます。そして、こう叫んでおられるのです。「誰が彼らイスラエルを生み、育てたのだ?」と。「歩き方を教えたのは誰だ?怪我をしたとき、病気をしたときに、看病して直してあげたのは誰だ?私ではないか?私こそが産みの親であり、育ての親ではないか?!」愛を裏切られ、愚かな子供に使い捨てのタオルのように見捨てられた悲しみと怒りに、胸が張り裂けんばかりの思いをもって叫ぶ神様がここにはおられます。
 さらに言葉が続きます。

「 彼らはエジプトの地に帰ることもできず/アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち/たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。」

 己の罪を悔い改めて、神様に立ち帰ることを拒んだイスラエルに対して、神様は敢然と滅びの裁きを与えると宣言されるのです。アッシリア帝国が攻めてきて、剣で町々を荒らし、虐殺と略奪の限りを尽くす。愛するイスラエルに対して、しかし、まさに愛しているが故に、そういう恐るべき裁きを下す「熱情の神」がここにおられる。
しかし、この後に続く言葉は、私たちの予想や思いを超えた、全く、予想だにしない言葉です。

「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。(アドマ、ゼボイムとは、ソドムとゴモラのように、神様の怒りによって滅ぼされた町の名です)わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

 ここには、わが子イスラエルを愛するがゆえに、その裏切りに傷つき、怒り、嘆き、復讐を誓いながらも、子を愛するがゆえに滅ぼすことをしないと宣言される聖なる神、人間ではない神様がおられます。人間にはない愛をもってイスラエルに臨む神様、人間には不可能な愛でイスラエルを愛する神様がここにはおられる。
 しかし、現実には、イスラエルはついにこの愛を信じ、神の御前に悔い改めをもって立ち帰ることをしませんでした。そして、彼らはアッシリアに攻め滅ぼされることになったのです。それは、先週の説教で語りましたように、神様の愛が勝利をして下さっていても、私たち自身が自分の罪を悔い改め、主に赦しを求め、その愛による赦しを信じることが出来なければ、その勝利に与ることが出来ないということと同じです。
 聖書は、イスラエルとイスラエルを生んだ神様との契約の書物です。しかし、それは悲しいかな、一方では、イスラエルの側の契約違反の数々が記されている書物でもあるのです。ここには、神の真実と人間の不真実がこれでもかこれでもかと記されているのです。
 いつも言いますように、創世記の1章は、現在の書物の形の上では一番最初に置かれていますし、天地創造のことが記されているのですから、一番最初に置かれるに相応しい章なのですが、実際に書かれた年代は、かなり後期だと言われています。具体的にはバビロン捕囚時代なのですが、それは先ほどのホセアの預言よりも150年から200年も後のことなのです。北王国イスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、それから約150年を経て南王国ユダが、アッシリアを滅ぼしたバビロン帝国によって完膚なきまでに滅ぼされてしまった後のことです。何故、滅ぼされたかと言えば、それは北イスラエル同様に、南ユダ王国の人々も、土地の神々バアルを礼拝したからです。それは、何を意味するかといえば、主なる神様よりも現世利益を約束する神を愛し慕い求めたということなのです。彼らは、全世界に聖なる神様の御心を伝え、世界に祝福をもたらすべき神の民となるべく、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして、主なる神を愛することを約束して、その歩みを始めたのです。しかし、今やすっかり世に堕ちてしまったのです。塩の味もなにもなくなってしまったのです。埋没してしまったのです。約束を捨てたのです。
神様は、約束を捨てられ、その愛を裏切られた悲しみと怒りの中で、南王国ではイザヤとかエレミヤという預言者を立てて、悔い改めよ、立ち帰れ。帰ってくるならば、私はあなたの背信を赦すと呼びかけ続けられたのですが、ついにその叫びは聴かれず、呼びかけは応えられることがなかったのです。
 つまり、神様は北イスラエルに裏切られた後に、南王国ユダにまで裏切られたのです。その飽くことなき裏切りに対する裁きがユダ王国の滅亡であり、バビロン捕囚です。神様はご自身の愛に対する徹底的な裏切りに対して、ついに徹底的な滅びという裁きで立ち向かい、ご自身が生きておられる神であること、そして、聖にして義なる神であることをお示しになったのです。しかし、その裁きの中で苦しむイスラエルの民に対して、「神はご自分にかたどって人を創造された」という言葉を語りかけたのです。そのことを思う時に、私たちはやはり形容し難い思いに捕らわれるのではないでしょうか。
この時の「人」、つまり、この創世記1章の言葉を最初に読む「人」というのは、神様の愛を裏切り続けた「人」です。その真実の愛を裏切り、汚し、踏みにじり、神様の心を傷つけ続けてきた「人」です。そういう人に向かって、神様は、「あなたがたは、私が、私自身にかたどって造った人間なのだ」と語りかけているのです。それはもう、神様は絶望的に深く傷つきながら、尚も私たちどうしようもない罪人の存在を丸ごと受け入れ、愛して下さっている言葉だとしか言い様がないのではないでしょうか。私たち人間の親などは、勝手なもので、子供に気に入らないことがあれば、「あれは私には似ていない」と思い、とんでもない裏切りの数々を起こせば、「あれは私の子ではない」と思い、そう口にするでしょう。しかし、神様は、ご自分で徹底的に背信の子を裁きつつ、その裁きの只中にまで降りてきて、「お前は、私の子だ。私に似せて造った子だ。その事実に変わりはない」と仰ってくださるのです。
 この創世記から始まる聖書は、ヨハネの黙示録で終わります。そのヨハネの黙示録の中にこういう言葉があります。これはエフェソの教会に向けての手紙の一節ですが。

「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」

 「初めの頃の愛」。誰でもあったのです。初めがなければ今がありません。結婚した当初の愛。子供が生まれたときの愛。洗礼を受けた当初の愛。神を愛する喜び、人を愛する喜び、その初々しい喜びの時があったのです。その点では、誰もが同じです。しかし、その後、道は二つに分かれていきます。愛が深まっていく道と、冷えていく道。成長していく道と消えていく道があるし、私たちは必ずそのどちらかを生きているのです。よく忍耐して、今でもかろうじて教会の交わりの中に入ってはいる。しかし、あなたは今や、初めの頃の愛、燃えあがるような愛、歓喜と言ってもよい喜びを失っているのではないか。再び罪の世に落ちてしまったのではないか。そのことを心の中で知りながら、延々と言い訳を続けて生きてきているのではないか。あなたの信仰は、熱くもなく冷たくもない。生ぬるい。むしろ、熱いか冷たいかであって欲しい。
 神様は今日も私たちにこう語りかけておられる。神様は、今日も熱いからです。熱く熱く私たちを愛して下さっているからです。神様は熱情の神、妬みの神。そのことは旧約聖書の初めから、新約聖書の終わりまで、些かも変わりありません。それに対して、私たちは、変節者だし、裏切り者だし、屑のような人間です。それなのに、神様は、今日も私たちを熱く愛し、私たちの熱い愛を求めておられるのです。罪の悔い改めと信仰を求めておられる。求めてくださるのです。こんな価値なき者と尚も人格的な関係、愛の関係を持とうとして下さるのです。
 何故だろうか、と思います。神様は何故、こんなにまでも私たちを求めてくださるのか。まるで慕い求めるように求めてくださる。それは何故なのか。神様は初めの頃の愛を、お忘れにならないからです。6月の伝道礼拝の時に語ったことですが、ヤクザにまで身を落した一人の人間が、洗礼を受けた時に、天使が天にまで上っていき、天上におられる神様や天使、先に召された者たちに向かって、「今生まれたよ」と叫ぶと、天上では歓喜の声が湧き起こったのです。神様が御子の命をさえ惜しまないで造り出した新しい人間が誕生した時の喜びを、神様は忘れない。神様が私たちを人として造る、キリスト者として造るとはそういうことなのです。
「造る」という言葉。この言葉で思い起こすのはイザヤ書46章の言葉です。私は、高齢の方の病床で、あるいは前夜式や葬儀のときに何度読んで祈ったか分かりません。これからも読み続けるでしょう。これも捕囚の末期に一人の預言者を通して語られた言葉です。つまり、もう希望も夢もなくなり、生きていることに価値も見出せなくなった時に、神様が語りかけた言葉です。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」神様が造るということ、それはこのように、いつまでもどこまでも「担い、背負い」そして、最後には「救い出す」ということです。
神様は、私たちの忘恩、裏切り、背きの数々に対して、激しく怒り、嘆き、悲しみ、裁きつつも、御子イエス・キリストにすべての罪を背負わせ、御子を裁き、殺し、陰府にまで降し、そして復活させ、今御子イエス・キリストは、神の右に座して、今尚罪との戦いに敗れる私たちのために執り成してくださっているのです。そのようにして、はじめの愛を貫いてくださっているのです。創造の時の歓喜を貫き、救いの完成の時の大いなる歓喜にまで導いて下さっているのです。
 今日も、私たちはこの聖餐の食卓に招かれようとしています。この食卓こそ、私たちを新しく造り出すために、神様が備えて下さったものでしょう。私たちの罪のために、神の独り子がご自身の体を裂き、血を流してくださるのです。滅びとしての裁き、神に見捨てられて呪われるという裁きを受けて、私たちを赦してくださるのです。そのような愛で愛されている。愛される資格もない者が、今日もかくまで熱き神の愛で愛されているのです。私たちは悔い改めと信仰によって応答する以外にありません。そのようにして神様を愛しつつ、パンとぶどう酒を頂きましょう。その時、私たちはこれまでの罪に死に、新しい人間として造り直して頂けるのです。神様の姿(御子の姿)にかたどって造り直して頂けるのです。

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