「神は人を男と女に創造された」

及川 信

創世記1章26節〜31節

 

 一ヶ月に1回創世記から御言葉を聴いていますが、人間の創造に関して今日で4回目となります。次回の29九節以下に記されている食物についてで最後になると思います。これまでは、「神の被造物・動物と人間」「神の似姿としての人間」「神が造った人間」と題して語らせていただきました。最初は、人間と動物あるいは自然との連帯、自然界の一部としての人間の有様に焦点を当てました。2回目は、神の似姿としての人間とは即ち王でありつつ同時に僕であることを知らされました。前回は、神様が「造る」とはどういうことであるかに集中し、神様が造るとは、私たちの生涯にわたって責任を持ってくださり、救いに導いてくださることを知らされたのです。そして、今日、神様は私たち人間を男と女にお造りになった。そのことの意味を知らされたいと思います。この創世記1章を読むということは、私たちが生きているこの世界が何であるか。そして、この歴史とは何であるか、自然とは何であり、人間とは何であり、一人一人の人生とは何であるかを深く考え、御言葉の光の中で知らされることです。

  「神は言われた。
『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(中略)』神は自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」


r  以前も少し触れましたが、26節で、神様は「我々」と自らを複数形で呼ばれます。そして、その複数形である「我々」に似せて「人」を造ろうと仰る。その場合の「人」は単数形です。27節では、神は単数形で、その単数形の神に「かたどって」単数形の「人」(定冠詞が付いていますから「その人」)を創造し、もう一度くどいまでに単数形の「神にかたどって創造された」と記されています。しかし、その単数形の神にかたどられた「人」とは「男の女」、つまり複数なのです。
 こういう書き方は、明らかに意図的に為されているわけで、この中に、神様とはどういう方であり、人間とは、男と女に創造された人間とはどういう存在であるのかを知る手がかりがあるのです。
神様は唯一のお方であり、他に並ぶべき方は存在しない。それは聖書の基本ですから、ここに出てくる複数形は複数の神々を表しているわけではありません。以前も言いましたように、神様ご自身が熟慮される場合に、こういう言い方がなされる例がいくつかあるのです。そして、そのことから推測されるべきことは、神様は対話的な存在であるということです。ご自身の内側で対話をする神様が、ここにはおられるのです。
そうだからこそ、神様は人間をそれぞれ独立した人格をもった存在として創造されたのですが、同時にその独立した人格は対話的存在、つまり交わりの中を生きる存在として創造されたということではないでしょうか。男と女の交わりに関して言えば、結婚ということが当然考えられますし、それは実に大きな問題です。しかし、今後もその問題は何回も出てきますから、今日はあまり深入りはしません。
神様の唯一性と対話性、一人一人の人間の唯一性と対話性、この点において、人間は神様に似せられたのだし、象(かたど)られたのだと言えるだろうと思います。今日は、このことから連想されることをいくつか語らせていただきたいと思います。
私たちが「聖書」と呼ぶこの書物は、歴史の中で書かれたものです。今から3000年位前から1800年位前まで、つまり1000年以上に亘ってイスラエル民族によって書かれたものが集められて、今の形になったのです。そういう歴史的な文書ですから、当然その書かれた時代の事情というか、現実が背景にあります。しかし、その現実に完全に制約された単なる歴史的文書なのかと言えば、決してそうではないのです。たとえば、人間の創造に関する2回目の説教の中で語ったことだと思いますが、当時の社会の中で、神の像と言えば、王を表しました。古代の大帝国の王様は、神を体現する存在だったのです。そういう意味で、彼らは神の像であった。そういう時代の中にあって、それも惨めなバビロンの捕囚民という立場にいたイスラエルの民の一部の人でしょうが、人間はすべて、神の像に象られているのだ、王も庶民も奴隷も皆、神の像に象られて造られた尊厳ある存在なのだと書き記した。これは歴史的な文書でありながら、歴史を超えた言葉、未だに人間社会の中では実現していない言葉です。こういう言葉というか、こういう深い現実は、人間が考え付いたと言うよりも、神様によって啓示されたと言うべきなのではないでしょうか。
神に象って創造された人間が、男と女であるということも、ある面から言うと、今言ったことと同じ主張があると思います。男女同権、平等。これは今ではこの国でも言葉としては定着しています。法的にも一応、そう定められていると言えるのかも知れない。しかし、それは20世紀も半ばになって、それも敗戦という経験を通して初めて実現したのであって、長い長い間、この国では男女は同権ではなく、平等でもありませんでした。男女それぞれの固有性があるのは勿論ですが、その固有性に優劣をつけてきたことは事実でしょう。つまり、男の方が優れており、女は劣っている。そして、いわゆる経済界において働く能力は男のほうが優れており、またそういう世界の労働のほうが家事労働よりも優れている。あるいは論理的思考は男の方が優れており、感情的感覚的思考よりも優れている。そういう思いが男の方にはあって、女を見下す。そういう現実があるだろうと思います。あまり他人事のように話すと、「あなたはどうなんだ」と詰問されてしまうので、これ以上は止めますが、そういう男たちを女たちは傲慢と思い、さらに愚かと思う。それもまた一つの現実でしょう。とにかく、現代は経済優先ですから、経済的な利益をもたらす働きと、直接的にその働きをする人間、それが多くの場合、今は男なのですが、その人間のほうが優等で、その背後にあって家事をしたり、育児をしたり、様々なボランティア的な社会活動をする人間、それが多くの場合、今は女なのですが、その人間のほうが劣等であるかのような錯覚というか、思い違いがあるでしょう。いわゆる社会においても、家庭においても、男女が共に参加して作り上げていくという感覚がないので、自分が食べる食事一つ作ることができない男が沢山いて、経済的利益を上げることが出来ない年齢になると、もう古い言葉ですが、「粗大ごみ」とか「濡れ落ち葉」とか言われて、結局、惨めな老後を送る羽目になる場合が少なくないのではないでしょうか。それは、男女双方にとって実に不幸なことですが、その不幸に気づくのは多くの場合、不幸になってからですから、結局、男も女も愚かであることに変わりはないと思わざるを得ませんが、どうなのでしょうか。
聖書のこの箇所は、紀元前7世紀に書かれたと言われます。古代社会がすべて男尊女卑の社会であったわけではありません。しかし、この文書が書かれた風土においては、やはり基本的に、男が優位の社会であったのではないかと推定されます。王は男、祭司は男、学者も男、官僚も男、家長は男です。そういう社会の中で、しかし、御言葉は、神に象って人は創造され、その人とは男と女であったと言うのです。それは徹底的な人間の平等性を表していると思います。王だけが神のかたちを現しているのではない、人が現しているのだと。身分や階級の差別を撤廃したと同時に、男だけが神のかたちを現しているのではない、男と女、あるいは男と女という平等な人間同士の間の交わりの中にこそ、神のかたちがあるのだ。聖書は、そう宣言しているのではないでしょうか。
人間同士というものは、平等性が保障されていなければ対話というものが出来ないのだと思います。数年前に出版されて、私も珍しく本屋に行って買ってきて少し読んだ本は、『人の話を聞かない男、地図を読めない女』という題でした。経験上、女の中にも人の話を聞かない人はいますし、男でも地図を読めない人もいます。私は自分がどうなのかよく分かりません。自覚としては人の話もそれなりに聞くし、地図も読めると思っているのですが、そう思っていること自体が、既に人の話を聞かない傲慢な男ということなのかもしれません。また、最近評判になっている本の一つに『馬鹿の壁』という本もあって、その表紙についている帯には、「『話せばわかる』なんて大うそ」と身も蓋もないけれど、身につまされることが書いてあります。昨日の夕方からパーと読んだら、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような一元的な考え方は危険であり、多神教に根っこをもった日本的な多元的思考が21世紀には大事だと、最近の日本のいわゆる知識人が喜んで書いている論調がそこかしこにありましたが、それはそれでなかなか面白いし、私たちキリスト者として、それこそちゃんと話を聞かなければならない内容でもあります。とにかく、私たち人間は、民族、人種、性別、身分などなどの間に「馬鹿の壁」を沢山作って、壁のこちら側のことだけを見て、すべてを見たような気になるということは確かでしょう。壁の向こう側のことは、すべて異常なことで片付けてしまう。だから、その壁が取っ払われない限り、私たち人間は平等な対話、公平な対話は出来ない。いくら話し合っても分からない。それは事実です。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

この言葉に込められたメッセージの一つは、今挙げた様々な壁は、本来の人間、神様が熟慮をもってお造り下さった本来の人間同士の間にはなかったのだ、というものではないでしょうか。しかし、現実には、私たちは周囲に高く厚い壁を自ら建てて、その壁の中に閉じこもり、壁の向こう側の人間を悪魔だ、テロリストだ、馬鹿だ、劣っていると思い、自分だけが神の像を持っているかのような錯覚の中で安住し、結局、不幸を招いているのです。その壁の存在と、その壁の中にいる自分というものに気づかない限り、たしかに、何を話しても分かるということにはなり得ないでしょう。そして、私たちが日常的に経験することは、そのことでもあるでしょう。
そのことを踏まえた上で、今までのことに関連した次の問題に入って行きたいと思います。先ほど、神様は対話的な性格を持っておられるということを言いました。対話的な性格というのは、ある言い方をすれば、交わりの性格です。その交わりの中で最も深いものが愛の交わりであることは言うまでもありません。新約聖書には、「神は愛である」(ヨハネT 4.1)という言葉がありますが、それはまさにそのことを表しているのです。愛というものは、一応名詞として言い得る言葉ですが、リンゴがそこにあるというように、愛がそこにあるわけではありません。愛というものは、いつも動詞として、つまり行為として存在するのです。愛する、愛さない、愛せない、愛していた、愛していく・・・。随分前のことですが、宗教改革者ルターの専門家のお話を聴いたことがあります。その中で、その先生はこう仰っていました。ルターという人は、神は愛であるということを真剣に考えて、神という言葉、これはドイツ語でGOTTですが、それを動詞変化させたことがあるというのです。神する、神さない、神せば・・・ということでしょう。つまり、神様は天高くに鎮座まします方ではなく、地上にまで下ってきて、私たち罪人(GOTTLOSEN=神を失った人)一人一人を熱心に捜し求め、追い求めてくださる方だということです。神様はまさに愛において生きて働く方なのです。
神様が、そういう神様であるがゆえに、交わりを持つ相手として、それも人格的な深い交わりを持つ相手として、私たち人間を創造されたのです。そして、その人間をご自身に似せて、ご自身の像に象ってお造りになった。その意味は、人間が深い愛を生きることが出来る存在だということではないでしょうか。私たち人間は元来、神様との深い交わりを持つことが出来る存在であり、人間同士も深い愛の交わりを持つことが出来るのです。神様は霊的な存在ですが、神様から聖霊が注がれ、その聖霊によって信仰を与えられる時に、肉を持って生きている私たち人間が、霊なる神様の御心が分かり、その御心に応えることが出来るのです。そういう霊的な存在としても、私たちは造られたのですが、この先を読めばすぐに分かりますように、私たちの先祖は蛇に唆されて、神の愛を疑い、自ら神のようになろうとして、その願いとは裏腹に、神の姿を失ったのです。それはつまり、神との交わりを失い、人間同士の愛の交わりも失ったということです。その現実を、聖書は罪と言い、その罪の支配の中を生きるものを罪人と言うのです。
罪人とは、ですから、神を失った人間、神様との愛の交わりを失った人間のことです。神様との交わりを失うと、人間は人間同士の愛の交わりをも失います。そのようにして、人間がどんどん非人間化していくのです。それほどに、私たち人間はナイーブな存在であり、愛は傷つきやすいものなのです。愛こそ、オール オア ナッシングなのです。「あるか ないか」なのです。少しはある、たまにはあるというのは、愛ではありません。少しも疑わないで愛する。いつでも愛する。全身全霊を傾けて愛する。そういう愛で生きる。それが神様ですし、神様が私たちに与えたものです。しかし、私たちはその愛を失っているのです。あるいは捨てている。愛に生きることほど素晴らしいことはないのですが、愛に生きることほど傷つきやすいこともないからです。
ヨハネの黙示録にこういう言葉があり、最近よく思い出して説教でも引用しました。

「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」

 愛から離れた人間、それは神から離れてしまった人間ですし、人からも離れてしまった人間です。空間的に近くにいるということと交わりを持っていることとは何の関係もありません。最近、渋谷を舞台にした犯罪が続き、特に青少年の犯罪が続いているのですが、町に集まる若い娘たちへのインタヴューをしているテレビを見ていると、「沢山の人が集まる町に来ると気分が落ち着く」、「一人じゃないんだと感じる」とモザイク画の向こうの少女が答えている場面をよく見ます。家庭とか学校とか、以前はそこで子供が自分の居場所を見つけることが出来た場所が崩壊している。家庭の中で夫婦の交わりが崩壊し、親子の交わりが崩壊している、そして、学校でも学級が崩壊している。そうなると、本来交わりの中でしか生きることが出来ない人間は、交わりを求めて、人が集まるところへやってくるしかないのかもしれません。そして、やはりインタヴューの中で、あのような事件があった後なのに、町で声をかけてくる兄さんが「超やさしそうな人だったら、ついていっちゃう」とかいう娘がおり、あるいは、「友達連れで歩いていて、その友達が付いて行くと言ったら、私もついていく。友達から外されたらやばいもん」という娘もいる。いずれにしろ、どんな希薄な、そして危険な交わりでも、何もない孤独よりははるかに良いと思ってしまう人間の悲劇というものがありますし、少女たちを食い物にする大人の男たちの恐るべき暗黒というか、心の空虚さを思わざるを得ません。どちらも本来与えられていた神の像をすっかり失ってしまい、身も心も愛に飢えつつ、欲望の赴くままに食べても食べても満たされず、むしろますます飢える以外にないものを食べ、飲んでも飲んでも潤わず、むしろ渇いていくだけのものを飲み続けているのです。そして、自分と他人を傷つけ、滅ぼしていくのです。
 神様との交わりを失う。神様の愛の中に自分の全存在が受け入れられている喜びや安心を失う。人に愛され、人を愛する喜びと平安を失う時、私たち人間は誰でも例外なく限りなく堕ちていかざるを得ないのです。
 しかし、よく考えてみればと言うか、聖書を読むと明らかなことは、傷ついているのは神様の方だということです。最初に愛したのは神様です。そして、最初にその愛を疑ったのは人間です。そして、最初に裏切ったのも人間です。そして、そのことを認めないのも人間です。しかし、神様はその私たち人間を愛し続け、私たちが離れてしまった最初の愛に立ち帰るのを待ち続けてくださっているのです。旧約聖書というものは、結局、そういう神様の姿、神様の愛を疑い、神様に逆らい、神様との交わりから自ら遠ざかりつつ不幸のどん底に下っていく愚かな罪人を愛し続け、追い求め、また悔い改める日を待ち続けるなかでボロボロに傷ついていく神様の姿を書き記したものだと言えると思います。しかし、そのようにして神様は神様であり続けてくださっている。私たちを愛する神様であり続けてくださっている。それなのに、人間はどんどん人間であることを止めてしまっている。神のようになろうとして実は悪魔のようになってしまっている。その悲劇。愛を失った人間の悲劇、そういう人間を愛し続ける神様の悲しみ。そういうものが旧約聖書の底流に流れていることだと、私は思います。
 そして、新約聖書はそういう長い長い旧約聖書の歴史を辿るマタイによる福音書で始まり、神の子イエス・キリストの誕生、どんなときも「共にいる神」インマヌエルの誕生をもって始まります。それはまさに神様による新しい天と地の創造の開始であり、新しい歴史の開始であり、新しい人間の創造の開始を高らかに告げるものです。しかし、その御業の舞台は、まさに闇が支配している世界です。主イエスは生まれると同時にこの世の王に命を狙われます。身代わりに何人もの二歳以下の男の子が殺されました。今の私たちの世界でも、一人の独裁者を殺すために、あるいは一人のテロリストを殺すために、数千人、あるいは数万人の人間が殺されるのですから、今も何も変わってはいません。ヘロデ王は、この歴史の中で何人も何人も誕生してきました。そして、私たちも規模は小さくてもいつでも彼のようになります。
 そういう恐るべき私たち、罪の奴隷としての惨めな私たちを、愛に生きる人間に造りかえるために主イエスは人の姿をとって生まれてくださいました。そして、聖霊によるバプテスマを受け、悪魔の試練に打ち勝たれた後に、はっきりとこう仰ったのです。

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

 これは、「あなたがたは、初めの愛に立ち帰れ、神は尚あなたを愛している」という宣言であり、招きです。この神の愛を信じて、罪を悔い改めて立ち帰れ、そうすれば、あなたはもう一度、神に象られた人間、神に愛され、神を愛して生きていく人間になれる。そして互いに愛し合える人間になれるのだ。そういう招きです。
 そして、その招きは口先だけのものではありませんでした。主イエスは、すべての人間の罪を背負って、神の裁きを受けて下さったのです。赦しは、私たちには無償で与えられます。しかし、赦すほうはただで赦しているわけではないのです。神様が私たちを愛することによって受ける傷、神様が神様であり続けることによって受ける傷、それは、ついにご自身の独り子を十字架につけて殺す、裁くという所にまで行き着いたのです。神様の愛は、そのような愛です。神様とはそういう神様です。
 その神様にかたどって私たちは造られた。男も女も、そのようなものとして造られたのです。いや、今は新たに造られると言うべきでしょう。主イエスの呼びかけに応えて、神様のかくまで深い愛を信じ、心砕かれ、自分の罪を悔い改めて罪も咎もあるままに主イエスの許に立ち帰る者は、そのすべての罪を主イエスが負ってくださり、十字架にかかって贖ってくださり、その者を、新しい命、復活の命に与らせてくださるのです。そして、神様から愛される中で、神を愛し、人を愛する交わりの中に永遠に生きる者に造り替えて頂けるのです。それが神様の新しい創造の御業なのです。
 パウロはこう言っています。少し長くなりますが、読ませていただきます。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(コリントU 5章13節〜6章1節)

  創造は神様の御業です。天地創造、人間の創造は神様の専権事項というか、私たち人間は何もしていない。存在もしていなかったのだから何もできません。私たちは神様によって造っていただいた者です。しかし、その大切な神の像を罪によって失ってしまったのです。そういう私たちと、神様は十字架と復活のキリストを通して、一方的に和解し、再び新しく造り直してくださるというのです。キリスト者という存在、キリスト者という人間、それは迫り来るキリストの愛に砕かれて、罪を悔い改め、神の愛を信じ、神の似姿でありキリストに結ばれて、キリストに似たものとして新しく造って頂いた者なのです。その恵みを無駄にしてはなりません。実際は、幾たびも幾たびも無駄にしてきてしまいましたが、今日も神様は変わることなく神様として、私たちを愛して下さり、こうして御前に立たせてくださり、そして聖餐の恵みに与らせてくださるのです。疑い、迷い、背く私たちを神様はなおも愛して、悔い改めの機会を与え、信仰を告白するように求めてくださり、新しく造りかえるために礼拝を与えてくださり、この食卓に招いてくださるのです。まことの悔い改めと信仰をもってその恵みに与ることができますように。そして、今日また新たにキリストと結んでいただき、キリスト者としての歩みを始めることができますように。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、その愛の交わりにおいて神のかたちが現れるように生きることができますよう、祈りましょう。
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