「すべてあなたたちに与えよう」

及川 信

創世記1章26節〜31節

 

 創世記1章から2章4節前半までのいわゆる天地創造物語の説教は、今日で12回目ですが、多分あと2回で終わると思います。
 今日は29節以下の御言葉、神様が人間と動物に食物を与えるという御言葉の語りかけに、ご一緒に耳を傾けていきたいと思います。

「神は言われた。
『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』」


 ここで神様は、人間と動物(鳥や爬虫類などすべての生物を含む)に、食物をお与えになります。人間には、穀物と果実を、動物には青草です。この言葉から考えさせられることは沢山あります。一つは、人間も動物も、少なくともその生物的な命に関しては、神様に絶対的に依存しているということです。主イエスも、雀一羽でさえ、神の許しなくば、地に落ちることはないとおっしゃいました。神様はご自身がお造りになったどんな小さなものをも覚えておられるし、愛し、慈しみ、育てておられるのです。その事実を、私たちが承認するかしないか、信じて、自分自身の全存在を神様に委ねることが出来るか出来ないか。そのことに、私たちが、神様に造られた者として、つまり、極めて良いものとして、祝福の内に生きることが出来るか否かの分かれ道があるのです。
 次の問題は、創世記1章では、人間も動物も草食として描かれているということです。肉を食べない。生きるために、人間は動物を殺さないし、肉食動物も他の動物を殺さない。血を流さない。もちろん、この箇所が書かれたとされる、紀元前6世紀のユダヤ人は、肉を食べていましたし、肉食動物がいることも当然知っていたわけですから、ここで敢えて、人間も動物も草食であった、つまり、生きるために他の生物の血を流す必要がなかったと記したことには、意図があったと考えるべきだと思います。  その意図として、私たちが思い浮かべることは、預言者イザヤに与えられたメシア預言の中にある終末(世の終わり)に関する言葉ではないかと思います。イザヤは、メシア(キリスト)の到来によって完成される世界は、このようなものであると神様に示されました。11章です。前半は、メシアによって人間の世界の中に正義と公平がもたらされるという内容が記されていますが、後半には、こういう比喩をもって世の終わりの光景が記されています。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」

この中で、「牛も熊も共に草をはみ、獅子も牛もひとしく干草を食らう」という言葉が出てくる。最早生きるために他の動物を殺さない、血を流さない。敵対する者同士が、和解し、正義と平和の中に、つまりシャロームの中に生きる。それが、メシアによってもたらされる世の終わりに完成する世界なのです。その世界の姿が、実は世の初めの世界の姿でもある。聖書は私たちにそう語りかけているのではないでしょうか。
 しかし、そう語りかけられる人間の現実、それは旧約の時代から現代に至るまで、いやアダムとエバの時から今に至るまで、その平和と正義を破壊し、殺し合いの歴史を生きているのです。その原因は、アダムとエバの例を見ても分かりますように、食物を巡っての罪にあります。その木の実だけは食べてはいけないと神様から言われたのに食べる。そこに罪があるのです。
 食物は言うまでもなく命と関係します。食物を食べなければ、私たちは死んでしまうのです。しかし、人はただ目に見える肉体を生きるために神様によって造られ、食物を与えられているのでしょうか。もしそうなら、人間と動物は全く同じです。しかし、聖書には人間と動物は同じ日に造られ、同じように神様によって食物を与えられなければ生きていけないと記されていますが、造られたものの中で、人間だけが神様に語りかけられる存在なのであり、人間だけが神様に応答できる存在なのです。自覚的に従うことも出来るし、背くことも出来る存在なのです。それが神の像に似せて、男と女に造られたことの内容なのです。人間だけが、神様との愛と信頼の交わりの中で、そして、人間同士の愛と信頼の交わりの中で、その本来の命を生きることが出来る存在なのです。その交わりの中にこそ存在する命、生きる命があるのです。そのことに気づくか気づかないか、そして、その交わりの中に生きるか生きないか、そこに生と死の分かれ道があるのです。
 聖書に記されている神様の心からの願いは、私たちがその本来の人としての命、つまり、動物とは違う、神に象られた人間だけがもっている愛と信頼の交わりの中を生きて欲しいということです。しかし、私たちはあまりにしばしばその願いを裏切り、そのことによって実は、自分自身を貶め、まさに動物以下のような者になってしまうのです。
 イスラエルの歴史の中で最も重要な出来事はエジプト脱出だと言ってよいでしょうが、その救済の出来事はまた、一つの大きな試みでもありました。脱出した直後から、荒野での飢えと渇きに苦しむことになったからです。その苦しみの中で、神様はイスラエルを試すのです。ある時、神様はイスラエルの民から激しく不平不満をぶつけられるモーセに向って、こうおっしゃいました。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」

 毎日必要な分だけ集めて、明日の分まで集めない。また7日目は安息日ですから、6日目に取ったものを天幕に持ち帰って整えれば二倍になっているので、取りに行く必要はないのです。しかし、イスラエルの民の中には、この神様の言葉を疑い、明日まで残しておいたり、七日目にも取りに行ったりする人々が後を絶たない。マナを与えられるということ、食物を与えられるということ、それは神様の言葉に従って為されることです。それ故に、私たちも神様の御言葉を信じて受け取ること、つまり、神様を信頼し、一切を委ねて感謝して頂くことが求められているのです。しかし、その食物を巡って、不信仰と貪欲の罪が入り込むのです。食物と信仰とは極めて密接な関係があります。(言うまでもなく「食物」は象徴であり、富でも地位でも良いのですが)だから、主イエスも「私たちの日毎の糧を、今日も与えたまえ」と祈るように教えられたのです。明日も明後日の分も取っておき、今日祈る必要がないような生活、今日神様に命の糧を求めず、今日神様に感謝の祈りを捧げない生活は、物質的には恵まれた生活なのでしょうが、信仰的には極めて貧しい、瀕死の生活なのです。
 私たち人間が生きるとはどういうことなのか。モーセは、申命記の中で、神の言葉としてこう語っています。

「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

 荒野の試みの中で、人の心の中に何があるか、信仰があるのかどうかを試される主なる神様がここにおられます。そして、この試みを通して、私たちに、人は何によって生きるのかを知らせようとされる神様が、ここにはおられる。試練を通して、神様は自身の像に似せてお造りになった人間として生きるように、私たちを促してくださっているのです。しかし、私たちは多くの場合、そうは受け取らないのです。むしろ、逆に受け取る。そして、神は私たちを見捨てた。ならば、自分の命は自分で守らねばならぬ。自分の命を守るためならば、何でもするということになっていくのです。そのようにして、実はまさに自分の命を失っていくのです。御心を逆に受け取る人間のすることは、皮肉なことに、その人間の願いとも逆のことになっていくのです。
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、言うまでもなく、主イエスの荒野の誘惑の場面で出てきます。主イエスは、神の国到来の福音を宣べ伝える前に、悪魔からの誘惑を受けるために、荒野に行かれました。そこで主イエスは40日間の断食をし、空腹になられた。その時に、悪魔が、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑するのです。それに対して、主イエスは断固として「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る、一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とおっしゃったのです。この言葉の背後にある一つの思いは、人は神様に対する絶対的な信頼をもって生きる時、人なのであるということだと思います。神様が、私たちをお造り下さった。そして、食物を与えると仰ってくださった。神様は私たちを愛して下さっているのだから、必ず仰った通りにして下さるはず。だから、その言葉を信じる。その信仰によって生きる。それが人だ、ということでしょう。しかし、悪魔は、「そんなことは奇麗事だ」という疑いを私たちに起こさせるのです。そして、私たちは神の口から出る一つ一つの言葉よりも、悪魔の口から出る一つ一つの言葉の方を信じてしまう、少なくとも心惹かれてしまうのです。悪魔は私たちの心の中の奥底にある思いをよく知っていて、そこをくすぐるからです。エバも、神の言葉よりも蛇の言葉の方が本当らしく思ったのでしょう?!私たちも、そうです。「神様はああ言っているけれど、現実はそんなに甘いものじゃない。神様の言うことなんて聞いていたら、死んでしまう。止めた方がいい」と悪魔は言います。しかし、実際多くの場合は、死ぬなんてとんでもない、ちょっと損をするだけのことなのです。でも、その損が死に繋がるかのような錯覚を覚えさせられて、浅ましく二日分のパンを集めることに必死になるのです。そのようにして、本来は神の言葉を食べながら生きるはずの人間の命は飢え乾いていくのです。
 主イエスは、こうおっしゃったでしょう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 主イエスはここで、私たちに最も必要なこと、つまり最も切実に私たち自身が求めるべきものは、食べ物や飲み物や衣服ではない。つまり、肉体のことではない。命こそが大事なのだとおっしゃったのです。そして、その私たちの命が神の国に生きることが出来ること、そのために神の義が与えられること。そのことこそが最も大事なことだとおっしゃったのです。
 何故なら、私たちが罪に落ちているからです。罪に落ちている人間が、まず何よりもしなければならないことは、罪の赦しを与えて頂くことなのではないでしょうか。これを食べたら死ぬとの神様の戒めを破って、木の実を食べて以来、人間は罪人となったのです。私たちは誰でも、神様の戒めを破ったことがある。その時、罪に落ちたのです。その罪に対する罰は、死刑です。罪は犯罪とは違いますから、罪の量など関係ありません。他人との比較など出来ないのです。神様に対して犯すものですから、罪は罪であり、それ以外のものではありません。そして、神様は罪を犯せば死ぬと、最初から仰っているのです。私たちが今、この地上を生きているということは、死刑判決を受けた者が、まだ刑の執行はされずに、執行猶予のまま社会という刑務所あるいは拘置所の中を生きているということです。しかし、何時か必ず死刑は執行される。自分がそういう状態に置かれているということが、はっきり分かるなら、社会で生き延びるために必死になることよりも先にやることがあるでしょう。最初にやらなければならないことがある。それが神の義を求めること、つまり、罪の赦しを求め、神様との正しい関係を回復することです。私たちの裁き主であり、刑の執行官でもあられるお方の願いは、執行前に、罪人が罪を知り、認め、悔い改めて、赦しを乞うことなのです。そうすれば、その罪を赦す。それが私たちの神様の御心なのです。その赦しを乞い求めることをせずに、何を食べたところで、所詮死が待っているのですから、空しいことです。そして、その死は単に肉体の死ではなく、永遠の死、神の国に入ることが出来ない滅びなのですから、絶望的です。
主イエスは、ある所で、こうもおっしゃっています。

「体は殺しても魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」


 主なる神は、ご自身の愛を信じることなく、背く罪人をこのように裁くことが出来る唯一のお方なのです。
 しかし、憐れみ深い神様の願いは、創造の時から今に至るまで、私たちが神の像に象られた人間として生きること、真の命を生きることなのです。罪を知り、悔い改め、赦しを乞う者を赦し、新しい命を与え、救うことなのです。神様がその願いを実現するために何をしてくださったのか。もはや、自分では神の像を回復できない私たちに何をしてくださったのか。
 私は今日の説教題を「すべてあなたたちに与えよう」とさせて頂きました。いつも乍、看板を書いていただくタイムリミットによる苦し紛れの題なのです。でも、この題にすると決めてメモ用紙に書いたその時に、これは御子イエス・キリストまでも私たちに与えてくださるということなのだ!と、心に響くものがあり、心が熱くなりました。
 ヨハネ福音書の中に、こう記されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」


 神様は私たちに永遠の命を与えるために、御子をお与えくださったのです。これが「すべて」なのです。神様には、もうこれ以上何も残っていないのです。もう空っぽなのです。神様の愛というのは、そういうものです。愛の究極は、自分自身を与えるということです。自分が持っている最も大切なものを与えることだって、相当な愛です。たとえば、お金こそ全てだと思っている者が、掛け値なく全財産を愛する者のために与えるとすれば、その愛は人間のレベルでは本物だと言ってよいでしょう。しかし、神様の私たちへの愛は、そういうものとも違います。御子を与える。それは自分自身を捧げることです。そして、その捧げる相手は、自分を愛する相手ではないのです。自分を理解せず、受け入れず、ついには殺す相手なのです。ですから、裁いて滅ぼすべき相手なのです。そういう相手を愛し、ついに自分自身を捧げつくす。御子は、神の御心を完全に生きられた方ですから、御自身を十字架に捧げられました。御子にとって、それはたった一つの命を与えたということです。ただそこにのみ愛と呼べるものがあるのです。自分の全て、自分自身を与えることに勝る愛はないからです。御言葉が私たちに告げることは、こういうことです。
 主イエスはこうおっしゃっています。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」「わたしは命のパンである。」

 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。この食卓に与る者は、信仰を告白して、洗礼を受けた者だけです。ここで配られる、パンとぶどう酒を、主イエスの肉と血、つまり私たちの罪が赦される為に、私たちが義とされるために主イエスが与えつくしてくださった命の徴として受け取るためには信仰が必要だからです。その信仰をもって、この食卓に与った後、私たちはこう祈るのです。

「慈愛の神、あなたは限りなき憐れみをもって、私たちを招き、主の晩餐に与らせてくださいました。深く感謝いたします。あなたは、これによって、御子イエス・キリストのあがないの恵を、私たちのうちに確かめ、私たちの罪を赦し、汚れを清め、とこしえの命を与え、御国の世継ぎとしての望みを堅くしてくださいました。いま、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前に捧げます。」

 主イエス・キリストがご自身の命そのものを捧げつくして、私たちを愛して下さっているのです。その愛によって、私たちの罪は赦されたのです。新しい命を与えられたのです。神の像を回復していただいたのです。そして、今日も、限りなき慈愛の故に、礼拝に招かれ、御言葉の糧を与えられ、聖餐の食卓に招かれて、罪を赦していただき、新しい命を与えて頂くのです。悔い改めをもってこの食卓に与り、御霊の助けを求めつつ、自分自身を、主イエス・キリストと父なる神に捧げる歩みを始めたいのです。自分自身を捧げあう交わりの中にこそ、「極めて良い」「祝福」に満ちた世界があり、神の国があり、そこに生きる命があるのです。今日も、私たちがその命に生きるために、神様はすべてを与えてくださっているのです。感謝しましょう。
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