「天地万物 完成の日」

及川 信

創世記 2章 1節〜 4節前半

 

 去年の9月第一主日から月1回のペースで始めた創世記の説教も、今日で13回目になり、聖書に記される一つ目の天地創造物語も、いよいよ今日と次回(それは2004年の第一主日の予定ですが)で終わります。
 詳しい復習をするわけにはいきませんが、今日の箇所に必要と思われる範囲内で、これまでの創造の経緯を確認しておきたいと思います。
 私たちは天地創造物語と聞けば、神様がすべてをお造りになった物語だと思うわけですし、それはそれで間違っているわけではありませんが、創造物語では「分離」という業も大きな役割を占めていることがわかります。神様は「光あれ」とのお言葉をもって、光を創造されました。しかし、すぐ続けて記されていることは、神様が「光と闇を分けた」という言葉です。光と闇の分離、それは一面から言うと空間的な分離ですけれども、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とありますから、光と闇の区分は昼と夜の区分であり、そのことによって時間が造られたということでもあります。空間と時間、これがなければ私たちの生きる場はありません。私たちは誰でも時間と空間の中に生きています。その生きる舞台を造って下さった。それから、水の中に大空を造って天上の水と天下の水を分けられました。ここには、原始の世界はすべて海で覆われていたという理解があります。そして、それは地球は海で覆われていたというよりは、むしろ死の力に覆われていた、混沌の力に覆われていたということの象徴です。古代人にとって、海はすべてを飲み尽くす混沌の力です。ですから、ヨハネの黙示録に記される世の終わりに到来する新天新地には「もう海はない、死もない、涙も悲しみもない。神が共におられるから」と、記されるのです。その水を、神は一つ所に集め、渇いた陸地を現されました。このようにして、私たちが生きる時と場が造り出され、続いて人間や動物の食物となる植物、それらを生かす天体、さらに魚や鳥の創造があり、最後に動物と人間が同じ日に創造されたという記述が続きます。人間の創造については、五回かけて詳しく読んで来ましたので、今日は触れません。
 今日は、1章31節から読ませて頂きます。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」

 ここで神様が「お造りになったすべてのものを御覧になる」という言葉があります。そして、続いてこうある。

「天地万物は完成された。」

 普通に読めばと言うか、素直に読めば、6日目ですべてが、つまり天地万物が、完成されたということになります。
 しかし、それに続いてこういう言葉があります。

「第7の日に、神は御自分の仕事を完成され、第7の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された。」

 こうなると、「すべてのもの」、「天地万物」はいつ完成したのかが分からなくなります。六日目までに完成したのか、それとも七日目に完成したのか?この点については古来様々な解釈が為されてきました。そのご紹介や説明は省きます。私としては、天地万物、つまり目に見えるものはすべて6日目までに造られた。しかし、7日目は7日目として造られたという解釈でいきたいと思います。どういうことかと言うと、1日目から6日目までの間に、様々なものが造られてきたのですが、7日目は、再び夕となり朝となることのない日として、神様によって造られたということです。神様は、それまでの仕事を離れ、あるいは止め、7日目に休むという業を為さった。休む日、安息の日として、7日目を作り、7日目を祝福し、聖別されたのです。そういう意味では、7日目もまた神様の創造の御業の一部というか、ここですべてが、つまり空間とそこにあるものだけでなく、時間も完成する日なのです。世界の完成、そして歴史の完成する日、それが7日目です。そのことをここで先取りして書いているのだと思います。創造物語の文脈で言うと、神様は7日目を他の日から分けられた、1日目から6日目までとは違うものとして分離されたということです。そのことによって、6日間は6日間の意味を獲得し、7日目は7日目の意味、その固有性を得ることになるのです。
 神様は、7日目に仕事を完成された、安息という形で完成された。その安息の日を、神様は祝福し、聖別されたのです。イスラエルの民は、その日を、聖別して、聖なる日として守ることを自らのアイデンティティとしました。つまり、その日には仕事を休んだのです。そして、神の御業を覚え、その安息に与り、祝福を受ける日としたのです。
 日本人が何時の頃から日曜日を休みの日とし始めたのか、その正確な日付は知りませんが、ほぼ確実に言えることは、それは明治以降、いわゆる近代化、つまり、西洋文化の導入以降のことだということです。例によって、和魂洋才方式で採り入れていますから、その日の宗教的な位置づけは全く無視されているわけですが、日曜日が休みの日であることの根拠は、キリスト教信仰にあります。キリスト教会は、これもまた正確に何時からだと言えるのかどうか、私は知りませんが、相当早い時期に、主イエスが十字架の死から復活させられた日、ユダヤ教の数え方で言えば、安息日の次の日、週の始めの日に主の復活を記念して礼拝を始めたのです。つまり、それまでのユダヤ人にとっては、長年の伝統、それも自らの命をかけて守って来た伝統である安息日の礼拝(金曜の日没から土曜日の日没まで)を、日曜日に変更するというものすごく大きな変化が、そこに生じたのです。それ以来、2000年間、私たちキリスト者は、この日に礼拝を捧げ続けてきました。それもまた、私たちキリスト者にとってのアイデンティティであり、これを守らなくなれば、私たちはキリスト者としての命を失っていくことになります。
 日曜日に仕事を休むということ、礼拝を捧げて安息するということ、神様に祝福されるということ、その日を聖別、また神様に聖別されるということ、それは一体どういうことなのか。これはとてつもなく大きな問題ですが、今日と来年の初めの日曜日にご一緒に御言葉に耳を傾けたいと思います。
前回私たちは、食物を与えられる、私たちが食物を食べて生きるとは、一体どういうことなのかを、御言葉によって示されました。それは、一言で言えば、私たちの命は、神様に全面的に依存していることを認めるということでした。神様に生かされていることを信じる。神様は、私たちの肉体の命だけでなく、霊の命をも生かすために、御子イエス・キリストをさえも惜しまず、すべてを与えてくださっていることを信じることによって、私たち人間は、人間として、つまり、動物と同じ肉体を持ちながら、神の像に象られ、神に似せて造られた人間として生きることが出来るのだということでした。
その食物に関する言葉が6日目の最後に記されていること自体が、実に意味深なことだと思いますけれど、7日目の創造において、私たちが問われていることは、私たちすべての人間をお造りになり、すべてを与えつつ生かそうとして下さる神様に対する愛と信頼、信仰なのだと思います。その信仰に生きることが出来るか否か、そのことがここで問われている。何故なら、そのことが、神の像に象られ、神に似せて造られた人間として生きることが出来るか否かという問題と重なり、さらに生きるという現実が、この地上の肉体の命を越えるか否かを分けることになるからです。
週報にご報告をしてありますように、一昨日金曜日の午前二時過ぎに、長く牧師として、またミッション・スクールの聖書科の教師として奉仕され、晩年、この中渋谷教会で礼拝を守りつつ、月に一回、埼玉中国語礼拝の説教奉仕を続けてこられたA先生が召されました。86歳を目前にしてのことです。私はそのことを、朝8時に、最後の日々を看取り続けて下さったKさんからのお電話で知りました。その日、私はEさんとYさんのお宅に訪問する予定でした。ご親戚に当たるAさんと相談し、とにかく何かが決まれば携帯電話に電話していただくことにして、予定通りに出かけました。
Eさんのお宅は、今年の2月から家庭集会を続けております。その切っ掛けは、悦子さんのご夫君である慎治さんが、「自分の葬儀は教会で挙げて欲しい」というご希望をお持ちであることを知らされたことにあります。教会できちんとした葬儀を挙げるためには信仰が必要です。しかし、様々な病気をされ、84歳になられる慎治さんが、毎週の礼拝に来ることは無理ですから、月に一回、『ハイデルベルグ信仰問答』を学ぶ集会を2月から始めたのです。毎月、数名の方が、ご一緒してくださいますが、その学びも回数を重ねてき、今は、使徒信条の主イエス・キリストに対する信仰箇条を学んでいます。回を重ねるごとに、慎治さんのご質問やご感想も的確なものとなってこられましたし、かねてから希望しておられたことですが、今度のクリスマスに洗礼を受ける意思が今もおありになるかどうか、牧師として再度確認させていただかねばならないと思って、お訪ねしました。
私はEさんに、「主イエス・キリストによってEさんの罪が赦されて、新しい命を与えられることをEさんは信じますか?そして、洗礼を受けることを望まれますか?」とお尋ねしました。その問いに対して、Eさんははっきりと「望みます。お願いします」と仰いました。そして、Eさんは、前々から何度も仰っていたことですが、大体、こういうことを仰いました。「人間は80歳を越えれば、死に直面する。そして、宗教心が芽生える。どうやって、死を迎えたらよいか考える。何とか心の平安を得ながら、その死を迎えたいと願う。そう願うようになって、何年も前から妻が行っている教会に年に1回クリスマスだけ行くようになった。そして、墓石には『愛』という字を刻印した。愛しかないと思う。」
Eさんは、現在84歳ですが、度重なる病気で全身が弱っておられますし、脳梗塞その他の病気の影響で、舌もうまく回らないし、足腰も本当におぼつかないのです。しかし、人前で上手く話せるかどうか分からないけれど、試問会には出席して、長老方の前で信仰を告白したいと、その希望を述べられました。そして、洗礼も礼拝の中で受けたいとの希望をもっておられます。とても歩道橋を渡ったり、坂を登ったりが出来ないので、駅からタクシーを使って来たいと仰っています。その希望がかなうように、私たちも祈りたいと思います。
私は、キリストの愛を信じる信仰が84歳になった方に与えられることを改めて知らされて、本当に、神様にとっては「もう遅い」なんてことはない、神様はお造りになった人間を何処までも追い求めて、探し出し、信仰を与えてくださることを知らされて、本当に嬉しく、感謝の思いで満たされました。Eさんにとって、これからの日々は、ただ死に向う日ではなく、新しい命に向う日々になることを思うと、本当に神様の愛、キリストの恵みを称えざるを得ませんでした。
その後、やはり84歳になられる教会員のYさんをお訪ねしました。いつもお話しする部屋に入って、その日初めて気がついたのですが、私が座らせていただく椅子の後ろに、色紙が飾ってありました。その色紙は、もう16年も前の1987年に、若くして洗礼を受けられた芳子さんが『信仰五十年』を祝われた時に、佐古純一郎牧師に書いていただいたものでした。芳子さんは、「それは私の宝です」と仰っていましたが、こういう御言葉が書いてありました。コリントの信徒への手紙二の言葉です。

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」

 老人になるということ、それは死を間近に控えるということです。肉体は弱り衰えていくということです。残酷な言い方をすれば、その肉体はみすぼらしくなっていく、と言っても良いことでしょう。しかし、私はその色紙を見た時に、そして芳子さんが「それは私の宝です」と仰った時に、信仰に生きる人間にとって、主イエス・キリストに繋がって生きる人間にとって、老いとは、また死とは、ただ単に衰えていくことではなく、滅びることでもない。むしろ、栄光から栄光へと造り変えられていく、つまり、十字架の死と復活の主に近づいていく、いや復活された栄光の主のほうが近づいてきて下さることなのかもしれないと思いました。少なくとも、そのことを信じ、感謝している一人のご老人が、私の目の前にいることは確かなことでした。
 コリントの信徒への手紙二を読み進めていくと、こういう言葉もあります。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 年齢を積み重ねれば、誰もが目に見えないものに目を注ぐわけではありません。しかし、私が昨日お訪ねしたお二人の方は、明らかに目に見えないもの、永遠に目を注ぎ、滅び行く肉体を越えたもの、栄光の主に目を注いでおられることは確かでした。お一人は84歳になられて初めて、もう一人は10代の頃から84歳の今に至るまで。その違いはあります。しかし、見つめているものは同じであり、その行き着く先も同じなのです。それは、この二人のご老人を見つめ、招いておられる主が同じだからです。
 そのお二人の方の訪問の合間に、A先生の葬儀が翌日、土曜日の午後一時からカルデヤの家の関係教会で執り行われることを知らされ、教会に帰ってから何人かの方たちに連絡を致しました。それから、目黒のカトリック教会で催される教会音楽の合唱コンサートに出かけました。週末だし、次の日は横浜で葬儀だし、説教の準備をしなければならない日ですから、普通だったら行けないのですが、その日は、行きたいと強く思って、突然行くことにしたのです。教会員の方がメンバーの一人であることもありますし、カトリック教会の礼拝堂に入らせて頂ける機会は滅多にないし、教会音楽、それもミサ曲を聴きたいと思ったのです。
 行くと、そこはやはりカトリック教会独特の祈りの空気が流れている礼拝堂で、伝統と近代的な感覚が調和している上に、声が非常によく響く礼拝堂でした。最初のミサ曲の合唱が始まった瞬間から、私はその声に聞き惚れました。ミサ曲ですから、当然「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみたまえ」という歌から始まります。声は勿論、耳から入って来ます。しかし、音や言葉は、体と心の中に入ってくる感じがしました。「主よ、憐れみたまえ」。本当に、それに尽きる。そう思いました。私たちの信仰は、また礼拝は、「この罪人を憐れんでください。」そう祈ることに始まり、そう祈ることに終わるのだ、と。このミサ曲は、次の「グロリア」、神の栄光を称える歌の中にも、「世の罪を取り除いて下さる方よ、私を憐れんでください」と歌いますし、最後は、「神の子羊」という歌でしたが、そこにおいても当然、「世の罪を取り除いてくださる子羊よ、私たちを憐れんでください」という言葉が繰り返されています。私たちのどんな罪をも赦してくださり、その血で贖ってくださる主イエス・キリストの憐れみを信じ、その信仰によって生きることが出来るならば、どんなに深い喜び、深い慰め、そして深い安らぎを感じ、賛美が湧き起こってくるだろうかと思いました。私はまだまだそんな信仰に至っていませんが、その信仰を与えて欲しいと強く願いましたし、その信仰の世界にある喜び、慰め、安らぎ、賛美を、仄かにではあっても、やはり心の深いところで感じました。
そして、讃美歌を聴きながら、私はしばしば、A先生の召天のことを思い浮かべましたし、今日の召天者記念礼拝でご一緒に聴くことになっている創世記の御言葉を思い浮かべ、天地の完成、歴史の終わり、そして、私たち人間の死とその後について思いを馳せていました。天国の情景、天国における礼拝の様を思っていました。
 昨日の朝、葬儀に出かける前に、創世記の御言葉を読んだ時に、ある御言葉が心に思い浮かんできました。それは、私が司式させて頂く葬儀の初めに、必ずと言って良いほどに読むヨハネの黙示録の言葉です。

「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」

 「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 主に結ばれるとは、主イエスの十字架の愛を信じ、その復活を信じるということです。主が、自分の罪のために死んでくださり、天国における復活の命を与えて下さるために復活されたことを信じて、その信仰において既に新しい命を、主と共に生きるということです。それは、この世において最大の喜びであると同時に、最大の労苦を身に帯びるということでもあると思います。肉を持った身で、この世の中を、信仰をもって生きるということは、容易いことではありません。それはただ、主の憐れみと、赦し、そして励ましと導きなくして出来ることではありません。その主イエス・キリストに縋る。縋りついて離れない。それが私たちの信仰です。その信仰に生きて死んだ者は、「安らぎを得る」と御言葉は言うのです。
 私は、この「安らぎを得る」という言葉と、創世記二章で繰り返される「安息する」という言葉は関係があると思って調べたら、やはり基本的には同じ言葉が使われていました。カタパウオーとアナパウオーという違いがあるのですが、いずれも徹底的な休み、完全な休息という意味です。
 神様は、創造を完全な休息で終わらせたのです。7日目の次の日はない。7日目は8日目を迎える日ではない。この日は特別なのです。これまでの神様によるすべての業はこの日に向っていたのです。そして、神様は、この日を祝福し、聖別されました。
旧約聖書で「祝福」という言葉は、何よりも命と関係する言葉です。長寿とか多産、長生きとか子供が沢山生まれるとか、あるいは財産が豊かにされるとか、そういう所で、祝福という言葉は使われます。天地創造物語の中では創造された生き物、動物、そして人間に対して、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という形で祝福されました。そして、最後に神様は7日目そのものを祝福されたのです。この7日目の祝福、それは特別なものです。何故なら、それは永遠の祝福だからです。永遠の命を宿すための祝福だからです。
 創世記を読み進めていけばすぐに分かることですが、神に祝福されてその歩みを始めた人間は、象徴的なことに、命を養う食べ物を巡って罪を犯します。神様から与えられたもので生きるのではなく、自らの命を自分で養い、世界をすべて自分の所有としようとすることで、人は神様に背きます。その結果は何であったか。それは「呪い」です。祝福の反対は呪いです。祝福が命と関係しているのですから、罪によって入り込んできた呪いが死と関係することは言うまでもないことです。創世記3章以降には死と呪いという言葉が繰り返されます。聖書は、その冒頭の3章で、祝福から始まった人間の命は、罪と呪いによって、死で終わることになってしまったと告げているのです。しかし、神様の御心は、神様との交わりの中に、愛と信頼の交わりの中に、私たちを永遠に生かすことなのです。その御心に与るために必要なこと。それはただ信仰です。その信仰を、神様はイスラエルの父祖、アブラハムに与えたのです。アブラハムは、その信仰によって義とされ、その信仰によって、呪いに覆われた世界を祝福へと変えるべく立てられた人物です。しかし、そのアブラハムから始まった信仰の歩みも、いつしかまた罪の歩みになってしまったというのが、旧約聖書という巨大な書物の筋なのです。
 しかし、そういう世の罪を取り除くために、そして、呪われて死で覆われた世界を全く新しく祝福と命で満たすために、神はご自身の独り子を、犠牲の子羊として送り給うたのです。その方が、私たちの罪の赦しのために十字架に架かって死んで下さったのです。そして、罪人なる私たちを義とし、祝福し、永遠の命に生かすために、復活させて下さったのです。その主イエス・キリストを心に信じ、口で告白する者は幸いです。その者は、その信仰において主に繋がるからです。主に繋がって生き、そして死ぬことが出来るからです。その人生は、「外なる人は日々衰えて」いっても、「内なる人は日々新たにされていく」歩みになるのです。「栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていく」のです。罪と呪いに覆われた死ではなく、神様の憐れみと祝福に覆われた命へと向って歩むことが出来るのです。そして、完全な休息、安息の中に迎え入れられるからです。
 昨日の朝、気がついたのですが、A先生の召天を知らされることから始まった金曜日は、私たちプロテスタント教会にとっては記念すべき宗教改革記念日です。ルターが、当時のカトリック教会に対して、95箇条の質問を貼り付けた日です。その宗教改革の原理は、「信仰のみ」であり、「恵みのみ」です。ただキリストの罪の赦しを信じる。その恵みを信じる。そのことだけで救われる。その信仰によって救われるということです。主よ、憐れみたまえ。(これは勿論カトリックのミサ曲ですが)こう祈る。罪人の私を憐れみたまえ。この祈りを、真実な信仰をもって捧げることが出来るとき、救いは私たちに約束されます。そして、私たちは、現在の労苦がどれ程のものであっても、将来与えられる救い、完全な安息、安らぎを信じて、今の労苦を耐えることが出来、はるかに望みを持って生きることが出来るのです。何事があったとしても、この世界は神による完成に向っていることを確信し、私たち一人一人も、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていくことを確信できるのです。その、今は目に見えない永遠の栄光を、天地創造の7七日目は示しているのです。祝福に満ちた日、命に満ちた日、深い安らぎに満ちた日、その日に、神様は私たちを招いてくださっているのです。そして、2004年の最初の礼拝で改めて示されることになると思いますが、この主の日の礼拝、主の復活を覚え、称える礼拝において、(今日は特に信仰をもって生き、天に召された聖徒を覚える日ですが)私たちは世の終わりの天地万物の完成、完全な安らぎ、安息を先取りさせて頂いていているのです。神の安息に与り、神と共に憩う時、安らぎの時を与えられているのです。
これから信仰をもって共々に与る主の食卓は、そのまま天上の食卓に繋がるものなのです。私たちは、この食卓を通して、祝福を頂く、主の命を頂き、主と同じ姿に造りかえられていくのです。何という幸い、何という慰めでしょうか。
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