「安息の日曜日」
創世記1章の天地創造物語、これは聖書が書かれた年代という意味では、後期に属するバビロン捕囚時代に書かれたと言われています。それは紀元前の6世紀のことです。聖書そのものは、伝承としては古いものが沢山ありますが、実際に文書として書かれ始めたのは紀元前10世紀辺りではないかと言われますから、その頃からバビロン捕囚までは400百年以上あるのです。その時代に、現在、聖書に収録されている多くの文書が書かれたり、編集されたりし、さらにその後数百年に亘って、いくつかの預言書や詩編や、その他の文書が書かれたり、纏められていきましたが、バビロン捕囚時代こそ、現在の旧約聖書に取って決定的な時代でした。それは、イスラエルの歴史においても決定的な時代だったということです。 バビロン捕囚とは、イスラエルがバビロンとの戦争に敗れただけではなく、国としては完全に滅亡し、さらに様々な分野で国の指導的立場にあった人々や手に職を持つ技術者などがバビロンに連れ去られてしまったということです。そして、何時になったら帰ることが出来るのかも分からない。そういう経験の中で、自分たちは一体何者なのか、自分たちが生きているこの世界とは何なのか、またこの歴史は一体何であり、何処に向かっているのか?自分たちの人生の意味は何なのか?自分たちは何処から生まれ何処に向っていくのか?そういう問いが出てくるのは当然です。その問いを、何処に向けて発し、何処からその問いに対する答えを得るかで、私たちの人生は全く違うものになるでしょう。 創世記1章1節から2章4節前半までの文書は、一般に天地創造物語と呼ばれますし、そうであるに違いないのですが、しかし、天地創造の為され方に関心を持っているものではありません。この私たちの目に見える世界はどのように造られて来たのか、そういうことに関心があるのではないのです。つまり、自然科学的な意味での天地の成り立ちに関心があるわけではない。そうではなくて、世界とは何なのか、歴史とは何なのかを問うているのです。そして、その問題を、自分を抜きにして問うているわけではないのです。その点を見誤ると、聖書は聖書でなくなり、古代人が書き残した一つの歴史的な文書ということになってしまうのです。 今、「自分」と言いました。しかし、それは何でしょうか。「自分」と言っても色々です。私は、昔も今も自己紹介というものが一番苦手なのですけれど、自分が何であるかを短い言葉で言い表すことは、非常に難しいと思います。普通は、仕事は何をしており、趣味は何で、家族構成はこうなっていますとか、そういうことで良いのでしょうが、私はいつも戸惑ってしまうのです。私は色々なことが好きではありますが、趣味と言える程のものはありません。特技もないし、自分に関して、人に言えるようなものも言いたいこともない。「仕事は牧師です」なんてことも止むを得ない場合以外は基本的には言いたくないのです。何を言ったとしても、それだけではないしとか、そうでもないな・・と思ってしまう。しかし、たとえば教会について自分が考えていることとか願っていることは、「黙っていろ」と言われてもつい口から溢れ出てしまって長くなるので、長老会でも、なんとか牧師を喋らせまいとする勢力があるのですが、その誰とは言えない三〜四人の長老たちもまた、私とよく似て、よく喋る方たちで、その方たちが黙っていれば、その方たちが望むように、長老会は三時くらいには終わるはずだと思うのです。それについての議論はまた今日の午後するのでまた長くなりそうですけれど、とにかく「自分」に関して本当に深く考えた時には、自分の紹介というものは、そう簡単にペラペラと喋ることは出来ないと思うのです。 昔、学生運動が盛んだった頃、学生たちは、それこそ集団の中に自分を隠して、団交(集団交渉)と称して一人一人の教授を吊るし上げたようですが、ある時、一人の教授に、「お前の罪をここで懺悔をしろ」と迫ったそうです。そうしたら、その教授は、「自分の罪の懺悔は、神の前でしか出来ない」と言ったというのです。その方は、私も晩年親しく接して頂いた方ですが、もう亡くなりました。「自分の罪の懺悔は、神の前でしか出来ない。」これは本当に深い言葉だと思います。 私たちにとって、「自分」の最も深い問題は罪の問題でしょう。そして、「私は罪人です」というのが一番短い、そして正しい自己紹介だと思います。しかし、罪の問題は、私たちにとって底知れない問題です。その問題こそ、私たちの生と死に関わる問題であり、また罪において個々の個性や人格も明らかになると思います。この問題と取り組むことなくして、私たちは自分の人生の問題に取り組みことは出来ないのです。生きるということ、死ぬということと向き合うことが出来ない。そして、天地創造物語も、実はその問題との関わりの中で生まれてきたものなのです。この文書を書き残した人々は、罪の問題と取り組む中で、神と出会い、そこで神の言を聴き、それを書き記したのですから。私たちが、この物語から神の言を聴くことが出来るとすれば、それは私たちが自分の最も深い問題、罪と向き合うこと以外にはあり得ないと、私は思います。 罪においてこそ神に出会う、と言いました。しかし、これはパラドクスです。本来はそうではないはずです。罪とは、神に逆らうことであり、神から離れることだからです。しかし、現実には、私たちは、罪において神と出会うのです。 創世記1章が書かれた時代、それはバビロン捕囚の時代であったことは今も申しました。神の民イスラエルは、400年余りの王国時代を経て、ついにバビロンに敗れ、国家は滅亡し、指導層の大半がバビロンに捕囚されたのです。この問題をどう考えるか。そのことで、この民の将来が決まってくるのです。 日本の敗戦当時、「一億総懺悔」と言った人がいるはずです。しかし、天皇を頂点とする時の戦争責任者と徴兵によって無理矢理戦場に連れて行かれ、殺したり殺されたりさせられた人間が等しく罪を懺悔すべきかという当然の議論があり、結局、立ち消えになっていったようです。私は、その辺りの事情を良く知りませんが、日本人は総じて敗戦をどう捉え、何を学んだのでしょうか。私の小学生時代、それは昭和で言えば、昭和30年代の終わりから40年代にかけてのことです。3年生の頃の担任の先生は、かなり辛らつに日の丸掲揚や、君が代の歌詞に対して批判的でした。しかし、社会全体として、大人たちが痛烈に戦争批判をやっている風には感じませんでした。その頃から私の家にも入ってきたテレビの番組では、戦争ものが多かったですけれど、反戦的というよりも、むしろ戦うことは格好が良いという感じでしたし、特にアメリカの兵隊がドイツ軍をやっつけるものが多くて、私も、しょっちゅう戦争ごっこというものを原っぱでやっていました。そういう意味では、アメリカの占領政策は見事に成功していたと言う他にないでしょう。世の中は、「戦争のことは忘れて、とにかく豊かな社会を目指そうよ、そこにはきっと素晴らしい世界があるはずだよ」みたいな空気があったと思います。 しかし、戦争を引き起こした原因を追究することなく、そこにある罪を懺悔もせず、もちろん反省もしないで、経済発展に邁進した結果、今の首相は、「国際的に名誉ある地位」を求めて自衛隊派遣を決定し、「これは日本人の習慣の初詣だ」という言い訳をしながら靖国神社に参拝するわけです。そして、「今の日本の平和と繁栄は、戦争の犠牲者のおかげだ」という。その戦争の犠牲者に、日本軍によって殺されたアジアの人々は入っていないし、その他の国々の人も入ってはいません。あくまでも、日本人だけ。それも、無謀な作戦によって、多くの国民と近隣諸国の人々を死なせる結果をもたらした人々をも「神」と祀る神社にわざわざ初詣でをする。その首相を支持し、参拝を求める軍人遺族会を初めとする勢力は、日本のクリスチャンが束になっても比較にならないほど多い。これも事実です。そして、政府は今、学校教育を通して今後ますます「愛国心」を子供たちに受け付けようとしている。これも既に始まっている事実です。 バビロン捕囚当時のイスラエルにおいても、何故、自分たちは敗戦し、滅亡してしまったのかに関して、いくつもの見解があったのです。その中には、戦後の日本のように、全く浅はかなものも沢山あったのです。しかし、聖書の中に残り、二五〇〇年以上経った今も伝えられている見解は、自分たちは神に対してずっと罪を犯してきたという見解です。ずっと罪を犯してきた結果、自分たちは神に裁かれ、滅亡したのだ。そして、捕囚までされたのだ。すべては神の愛を裏切ってきた自分たちの罪の故なのだ。そのことを認める。その見解、自分の罪を認めて神に悔い改める文書、それが残ったのです。そして、バビロン捕囚の六〇年という決して短くない期間を経て、元は神殿に仕えていた祭司たちだと考えられていますが、その人々が、深い悔い改めに導かれる中で、この創世記の天地創造物語は生み出されていった。神様から与えられていったのだと、私は思います。 自分の罪を認め、悔い改める。これこそ、当時のイスラエルの人々にとって実に血みどろの戦いだったのです。そして、私たちも人間にとって最も厳しい戦いは、目に見える敵との戦いではありません。敵は何時も我が内にあるのです。目に見えない自分のうちにある罪、その存在を認め、自分は実に惨めな罪の奴隷であることを認める。そのことのために人間は何年もかかるのです。これは苦しい戦いです。しかし、その戦いに勝利するかしないか、そこに、私たち人間が真実に生きることが出来るか出来ないかの分かれ道がありますし、究極的な救いも、ただそこに懸かっていると言うべきだろうと思います。罪は、私たちに自分は罪人だと思わせないのです。しかし、その状態こそが、罪が人間に勝利している証拠なのです。罪人だと思っていない幸いな人間だから、罪からの解放を求めず、幸せな気分のまま、闇の中に落ち込んでいくのです。麻酔をかけられて気持ちよく寝かされてしまうのと同じです。 この創世記1章から2章4節までを書き残した人々は、人間は、どうすることも出来ない罪の闇の中で、混沌に支配され、右往左往し、最後は滅びの象徴である海の水に飲み込まれて死ぬだけの存在であることを知らされた人々です。それは、神様によって示された人間理解、また世界認識だと思います。そして、そのことが、1章1節2節に記されているのだと、私は思います。 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」 翻訳の仕方は幾通りかあるのですが、この新共同訳聖書においても、闇と混沌の支配というものは一応表現されていると思います。この支配に対して人間は何の抵抗も出来ない。ただ飲み込まれるだけだということです。 しかし、そういう闇と混沌の中に、神は光を創造して下さり、昼と夜という時間的秩序を造り出し、天と地、海と陸という空間的秩序を造り出し、その中に生きる命を造り出し、天体を造り出し、祝福をもって動物を造り出し、そして、私たち人間をやはり祝福をもって、しかし、私たちだけは特別にご自身の像に似せて造ってくださったのです。男と女に創造し、地を従わせ、生き物を支配するという本来神様ご自身が為しておられる王の業を共に為す者としてお造り下さった。その一つ一つの御業の詳細を今振り返ることは出来ませんが、全体として何を言っているかと言えば、神様こそが、この世界の創造者であり、私たち一人一人の創造者であるということです。しかしそれは、罪の支配に服し、闇に飲み込まれ、滅んでしまった人間が聞かされる時、俄かには信じ難い神の愛と赦しのメッセージ以外の何物でもないのです。 何故なら、ここに記されている一つのことは、罪の奴隷に過ぎなかった人間が、そして、その故についに神様に裁かれ、捨てられ、滅ぼされた人間が、もう一度、神の像に象られた人間として、王として再創造され、新たに王としての仕事を託されたということだからです。死の滅びの中に命が、闇の中に光が与えられたということだからです。 この創世記1章の言葉は、バビロン捕囚を経験したイスラエルの民の中で、自分の罪を深く知らされ、認め、それ故に神の前に懺悔をした人間に与えられたメッセージなのであって、一般的な世界観や歴史観の陳述ではないのです。そのことは、今日の私たちにもそのまま当て嵌まります。 私たちが、自分が罪の奴隷に過ぎないという事実に気づくことなく、その惨めさからの解放を目指すことなく、国際社会の中で名誉ある地位を確保するなんてことを相変わらず目指している限り、私たちは同じことを繰り返すのです。戦争はいつも、罪の奴隷に過ぎない人間にとっては、自由と繁栄のための正義の戦争なのですから、罪の支配から解放されない限り、私たちは今後も繰り返すのです。国と国の間では、自分の地位を高め、自分の繁栄と求めることが戦争になりますが、個人と個人の間では、戦争にまでならずとも、結局、弱肉強食の生存競争にはなりますし、実際、私たちはそういう競争をしながら生きているのです。そうでなければ生きていけないと思っているからです。 神様は、「第七の日に自分の仕事を離れ、安息なさった」、そして、この日を神様は「祝福し、聖別された」とあります。 仕事を離れ、安息する日。そういう日として、この日は神様によって祝福されているのですし、そういう日として特別に聖別されている。そういう日が与えられている、あるいは、そういう日を持つ。それが一体どういうことなのか。その意味を問い始めると、もうそれだけであと何回の説教をしなければならないか、分からないほどです。この問題は、「礼拝の心と形」を問い続ける中で、繰り返し立ち戻りますし、聖書の中の様々なところに出てくる問題ですから、今日は創世記の文脈に即した取り上げ方にしたいと思います。 この箇所に記されている事柄を理解するために、必ず参考にしなければならない箇所の一つは、やはり出エジプト記に記されている「十戒」の言葉だと思います。 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」 この戒め、これが何を言わんとしているのか。これがまた深く広いのですが、一つ言えることは、神に造られた者は、神の前に皆平等だということでしょう。ここで「あなた」と呼びかけられているのは、イスラエルの成人男女だと思いますが、そういう成人だけでなく、子供も、奴隷も、家畜、つまり動物も、寄留人つまり外国人も皆、この日は休むのです。神様が休んだからです。その神様の休息に、神に造られた被造物は皆与らねばならない、与る権利がある。それが、神様がお造りになり、非常に「良い」と言われる状態なのだ。そう言っているのです。 これは一つの戒めですから、こういう戒めが出てくる理由があるのです。その理由の一つは、私たちは必ず上下関係を作り出し、下のものを抑圧し、差別する社会を作りだすということです。当時の社会において、本来は皆で分け合っていた様々な財産を、様々な不正な手段を使って独占する人が出てきて、多くの財産を持っている者は、自分は休む日も奴隷は働かせる、家畜は働かせるのです。そうやって、富める者はもっと富を蓄積しようとするのです。しかし、神様は、「この日は、すべての者が休まねばならない」と仰る。すべてのものが、自分たちは神に造られ、生かされている被造物として、互いに愛し合う兄弟姉妹であることを深く覚え、神の創造の御業を感謝し、褒め称える。そういう日を持たねばならない。そういう日を持つことによって、神に造られた世界とは本来何であるかが分かり、6日間の労働の意味も初めて分かるのではないでしょうか。上に立って偉ぶっていた者は、神の御前に、一人の人間として、自分の罪を悔い改め、神の恵みを共に分かち合う。そうなることで、罪から解放され、この世の立場身分からも解放され、神の家族の一員としての自分を再発見する。そういう日が、私たち人間には必要なのです。その日に、神様から頂いたすべてのものを共に分かち合うのです。その時と場がなければ、私たちはこの社会の中でただ食べるための生存競争をして、人生を終える以外にありません。働いて食べて寝て、また働いて食べて寝て、最後は死ぬだけの存在になってしまうのです。それもまた惨めな罪の奴隷状態ですが、その罪の奴隷状態から解放されるために、この日は、与えられているのですから、この恵みを断固死守しなくては、人間は人間でなくなってしまう。創造して頂いた時の、神の像を失ってしまい、動物と同じく食物連鎖の中で弱肉強食を生きるだけの存在になってしまうのです。 出エジプト記には、荒野を旅しながら飢え渇くイスラエルに対して、神様がマナと呼ばれる食物を与えるという話があります。そこでも、「安息日には取りに行くな。その日の分は前の日にちゃんと与えるから」と神様は仰るのですが、イスラエルの民の中には、その日にもあくせくと取りにいく者がいたり、「明日の分は明日ちゃんと与えるから、一日分だけ取りなさい」と神様が仰るのに、明日の分まで取っておこうとする者がいたりして、繰り返し神様の御心を踏み躙る人間の罪の姿が書かれています。そういう罪との戦い、神様に造られて生かされているのに、自分で自分を養おうとする、それも人よりも少しでも多く取っておこうとする貪欲、毎日何を食べようか、何を飲もうかと思い煩う惨めさが描かれているのです。それはそのまま今に生きる私たちの現実です。 そういう惨めな奴隷状態から解放するために、神様は、安息日を備えて下さったのです。この日は、私たち一人一人の人間は、神様によって造っていただいた人間であること、だから、自分の命のことで思い煩う必要などはいことを思い出す日です。子供を愛する親は、子供が生きるために食事を用意し、着る物を用意し、寝るところを用意します。子供が安心して生きることが出来るように、贅沢をさせる必要は全くないのですが、食べ物、着る物のことで心配させないようにするでしょう。それなのに、まだ幼稚園程度の子供が、親の愛と力量を疑って、今日は食べることが出来ても、明日は出来ないかもしれないから、遊んでなんかいられない。僕も働きにでなけりゃ、親なんてあてにならないからな・・・なんて言って、空き缶拾いを始めたら、それこそ親不孝者でしょう。それと同じことを、私たちは延々とやっている場合が多いのです。これは惨めな子供です。親の愛を信じることが出来ない子供ほど惨めな者はありません。 安息日、それは、私たちの造り主なる神様を礼拝し、その愛と赦しの御言葉を聴き、信じ、賛美する日です。神の子として、神様との交わりの中に憩う、深い安息を味わう日です。しかし、それはどのようにして可能なのでしょうか。 私は先程、自分が神に反逆を続けた惨めな罪人に過ぎないことを認めることこそ最も厳しい戦いで、この戦いに勝利しない限り、私たちは真実に生き得ないし、究極的な救いに与ることも出来ないと言いました。そして、今、安息日は、神の子として、神様との交わりの中に憩う、深い安息を味わう日だと言いました。 しかし、私たち罪人が、神の子として、神様との交わりの中に、安息を味わう礼拝というのは、どのようにして与えられるのか。それが問題なのです。 私たちが、罪に勝利したわけではありません。私たちは罪には勝てません。だから惨めなのです。しかし、その惨めさの中で、初めて神と出会うのです。 ヨハネの手紙一には、こういう言葉があります。これは口語訳聖書の方が良いと思うので、そちらで読ませていただきます。 「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」3章1節 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」3章16節〜19節 私たちが神の子と呼ばれるために、どんなに大きな愛を父から賜ったことか。その愛とは、クリスマス礼拝で示されたように、「独り子をさえ惜しまずに与えてくださる」愛です。そして、独り子である主イエス・キリストもまた、「わたしたちのために命を捨ててくださった」のです。そのことによって愛というものを、私たちは知ったのです。神の御心に背き、神の像を失い、神様との交わりから離れ、自分で自分を養うことに躍起になり、自分が生き残るためなら人の物を奪うことも当然であるかのように生きている私たち、いつでも平和と繁栄の為に戦争を繰り返し、生き延びるために平気で嘘をつき、裏切り、あるいは他人の窮状を見て見ぬ振りをしながら、何を食べようか何を飲もうかと思い煩いつつ生きている私たち、父の愛を信じることが出来ないこれ以上ない程に惨めな私たちを、新しく子として迎え入れるために、神様が為さってくださったこと、それは、独り子を賜うことでした。そう、あの十字架に付けることです。独り子を見捨てることです。その様にして、私たちの罪を赦すことです。独り子はそのためにこの世に肉を持って生まれてくださり、その父の御心を完全に実行してくださったのです。ただそのことにおいて、独り子主イエス・キリストが、罪に勝利してくださったのです。罪の力に愛をもって勝利してくださったのです。その結果が、復活です。死からの復活です。罪に勝利した者は、死にも勝利するのです。死に対する支配者、主、王となるのです。主イエスは、罪と死に対する唯一の主です。 しかし、父なる神様が、そして子なる神主イエス・キリストが、ここまで私たちを愛し、私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださったことを悔い改めをもって信じる者は、聖霊によって、主イエスに結びつく者とされるのです。十字架の主イエスに結びつき、復活の主イエスに結びつくのです。 先週与えられたヨハネの黙示録には、こうあったでしょう。 「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」 主イエスは、ご自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方です。そして、死者の中から最初に復活された方です。そのキリストに信仰によって繋がる者は、罪と死に対して王となるのです。そのような勝利を与えていただけるのです。主の勝利に信仰によって与らせていただけるのです。だから、その者は同時に、父なる神と主イエス・キリストを、聖霊の導きの中で賛美し、礼拝する祭司となるのです。 安息日、それは私たちキリスト者にとっては、ユダヤ教の7日目ではなく8日目、あるいは週の初めの日、日曜日です。何故、この日にキリスト者は礼拝を始めたか。それは、この日に主が復活されたからです。この日こそ、主の勝利の日だからです。罪と死に対する勝利の日だからです。世界がどれほど闇に包まれ、歴史がどれ程滅びに向って突き進んでいるように見えたとしても、神様は、主イエス・キリストを通して、天地を新しく創造しなおして下さっており、最後には万物が完成し、すべての被造物が、主イエスの前に跪き、「イエスは、主である」と言って、神に栄光を帰し、アーメン、ハレルヤと賛美する日が来るのです。 主イエスの十字架の死による罪の贖いを信じ、復活を信じる者は、天地創造の最後の日は、完成の日、安息の日、命の日、光の日であることを、今既に信じることが出来るのです。そして、希望を持って新たに歩み出すことが出来、その歩みは、主に愛されたように互いに愛し合う喜びを分かち合う歩みです。主の命を捧げた愛を分かち合う歩みなのです。 私たちは、これから主の十字架の死を記念し、復活を感謝し祝う食卓を囲みます。ここで頂く主イエスの体と血潮、ここで頂くものこそ、私たちを生かす命のパンであり命の水です。私たちが求めるべきはこれです。あとのものはすべて添えて与えられるのです。そのことを信じぬく。それが私たちに与えられ、私たちに求められている信仰です。この信仰を持って、この一年を歩むことが出来ますように。祈ります。 |