「もう一つの創造物語」

及川 信

創世記 2章 4節後半〜 9節

 

「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」



 聖書という書物が実に「面白い」書物であることは今更言うまでもないことです。どう「面白い」のかと問われると困りますが、何度読んでも決して飽きることがない書物であることは確かなことです。するめを例に挙げても最近の若い方や子供は何のことやら分からかもしれませんが、私を含めここにおられる多くの方は知っていることです。するめは口に入れて噛んだ時にすでに味はします。しかし、噛み続けていくと味わいが深まります。しかし、いつまでも噛み続けていれば、最後は味がなくなります。しかし、聖書は、最初読んだときは味も素っ気も無いのですが、噛んでいくと段々味がしてきて、噛めば噛むほど、味がなくなるどころか、むしろ味が深まってくるものです。年齢を重ね、様々な経験を積み、挫折や失敗をし、人生の辛酸を舐めながら聖書を神様からの語りかけの言葉として、先週の塩谷先生の説教の中の言葉で言えば、「神様からのラブレター」として読み続けていると、その味わいはますます深いものになっていくのです。私などはまだ40代の人間ですから、もしこれからも生かしていただけるとするならば、これからどんな味を教えていただけるのか、それは大きな楽しみでもあります。
 年齢を重ね、様々な経験を積むと言いました。そして、人生の辛酸を舐めると言いました。もちろん、年齢を重ねれば、誰もが同じような経験を積むわけではありませんし、その経験が即辛酸であるわけではなく、いわゆる恵まれた人は、辛酸らしい辛酸を味わうこともなく年老いることが出来るかもしれません。しかし、私にとって、年齢を重ね、経験を積むということは、自分の罪の深さを知り、また同時に今もまた自分が繰り返し罪を犯すという惨めな現実を知ることでもあります。それがすべてだ、と言うつもりはありませんが、私にとってはそのことが最も大きな問題です。そして、それは同時に、私個人の罪の深まり、罪の繰り返しを知るだけではなく、日本人の罪を知ることであり、また人間の罪を知るということでもあります。
昨日の新聞に、ある服飾デザイナーの言葉が記されていました。彼はこう言っています。

「僕の父親は終戦直前に招集されて、船上で何の痕跡もなく死んだ。日本はそんな戦争をした国で、今また、という気がしている。・・・そんな違和感を大切にして、多くの人と共有していきたい。」

終戦直前と言えば、軍部には負けは見えていたでしょう。にも拘らず、庶民を徴兵し、無理やり兵隊にして、海の藻屑とするようなことをする。そういう恐ろしい戦争を、私たちの国は既に経験しているのです。
広島の平和公園には原爆の碑があって、「誤りは繰り返しません」と記されています。この碑の前で毎年毎年、平和を願い、非戦・非核を誓う集会が催され、時の総理大臣が出席し、平和の大切さを説きます。しかし、同じ総理大臣が毎年靖国神社にも行きます。そして、文部科学省は、随分前から中学高校の広島への修学旅行を止めさせるように、様々な働きかけをしています。つまり、若い世代に、国家の誤りを思い出させないような教育をする。それは、教科書からして、既にそうです。そのことで、何をしようとしているかと言えば、国の誤りを誤りではないように思わせようとしているのです。彼らにしてみれば、子供たち、あるいは国民が妙な平和意識を持つことのほうが困るのです。彼らにとっての「平和」は、国民のすべてが、彼らが思うような意味での「愛国心」、つまり国の政策には何であれ黙って服従する愛国心をもつことなのでしょう。所詮は、利益を求めての争いに過ぎない戦争を、正義のため、平和のための戦争として教え、人道支援、平和貢献のために派兵すると教え、それを正しいと思う人々が、彼らにとっての良識ある国民であり愛国的な国民なのだと思います。そうやって、日本という国も、そして世界の国々も、誤りを繰り返し続けている。罪を繰り返しつつ、深めている。そういう現実を、私は一人の個人としても経験し、日本人として、また人類として経験します。今でもたまに、適わぬことと知りながら、私の家族が、また教会の方々が、有無を言わずに私の言うことに黙って従えば、どんなに気持ちよく、それこそが平和なんだという思いが一瞬心によぎりますから、口では民主主義を標榜しながら、実際は独裁政治に憧れる人々の心持ちはよく分かります。しかし、自分の思うとおりになることがどれほど恐ろしいことかを、私も知らないわけではありませんから、本当は思い通りになっていないことこそ、感謝すべきことなのですが、そのことを感謝することはいつものことではありません。
そういう内に外に存在する矛盾を見つめつつ聖書を読むと、そこには人間に関するすべてのことが書かれていることがよく分かってくる。生きれば生きるほど分かってくるのだと思います。そして、自分の罪、人間の罪に対する深い絶望を味わい、しかし、その罪の問題をどこまでも深く掘り下げていく中で、見えてくる希望を知らされる。それが、相応しくない表現だとは思いますが、聖書の面白さ、何度でも読み返しつつ知らされる面白さ、味わいだと思います。
私たちは一年半前の礼拝から月に一回創世記を読み始め、15回をかけて、最初の創造物語を読み終えました。「読み終えた」と言っても、すべて理解したとか、味わい尽くしたとは思えませんから、私としてはもう一度最初から新たに読み、説教として語るとしても、二番煎じにはならないと思いますし、そうしたいくらいです。しかし、その先を読みたいという思いも強くありますから、今日からまた恐らく十数回かけて、4章の終わりまで続くもう一つの創造物語をご一緒に読み進めていきたいと思います。
「もう一つの創造物語」と言いました。つまり、聖書には二つの創造物語あるということです。そのことが既に、聖書の面白さ、味わいの深さを表していると言って良いでしょう。聖書は、世界や人間を一つの側面からだけ見ているわけではありません。そのことを言い出せば、多くの時間を取ってしまいますから、ほんの僅かなことだけを言いますけれども、たとえば、1章の1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。その物語が2章4節前半まで続いていると考えられています。そして、2章4節後半には、こうあります。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。」
ここで初めて「主」という言葉が出て来ます。そして、「天(と)地」ではなく「地と天」とある。関心は天よりも地にあるのです。実際、これ以後の記事には天体に創造は全くありませんし、海の魚も鳥も登場しない。出てくるのは、もっぱら地上に生きる人間であり動物であり地から生える植物や木です。天や海には基本的に関心がないのです。地の上のこと、地上で人が生きること、それが問題になっている。
どうしてそういう違いが生じるのか?それには、いくつも理由があるでしょう。書かれた時代が違うということが一つの理由です。しかし、同じ時代に生きていたとしても、その時代の問題をどう捉えるかは人によって違います。その人の性格や能力の違いによって同じ問題に関する見方が違います。また立場、身分によっても違う。戦争だって、ある種の人々から見れば名誉なことであり、また格好の金儲けです。しかし、徴兵されて無理やり戦争に連れて行かれる立場の人々から見れば、なんの痕跡もなく地上から抹殺される理不尽な出来事です。権力を持つ側、財力を持つ側にとっての戦争と、社会的な弱者、つまり徴兵される側にとっての戦争では、それこそ天と地ほど違うのです。しかし、その両方ともが、戦争というものの現実を現しているのでしょう。その両方を見なければ、現実を正しく見つめることは出来ないと思います。
1章1節から2章4節前半までの天地創造物語と、2章4節後半から始まる物語は、恐らく書かれた時代が違うだろうと言われています。書いた人ももちろん違う、その人の立場が違うし、身分も違うし、性格も全然違うと思います。同じように、世界の現実を見、人間の現実を見、人間の歴史を見ているのだけれど、その見方が全然違う。たとえ同じ時代を見ていても、違う見方をしただろうと思います。しかし、そうであっても、この二つの物語を書き残した人々にとっての共通のことがあるのです。それは、いずれも唯一の神、主なる神から示された言葉を書き記したということです。そういう意味で、この二つの創造物語は、切っても切れない関係の中に置かれているのです。そして、そのことはよく言いますように、旧約聖書と新約聖書の関係にも当てはまるでしょうし、旧新約聖書66巻全体に当てはまるでしょう。そのどれを取っても同じものはないけれども、そのどれも主なる神様の見方、あるいは御心が示された神の言葉である。そのことを踏まえた上で、今日は一つの仮説を基にして、「もう一つの創造物語」の概要に入って行きたいと思います。細かい字句については次回以後に致します。
1章の天地創造物語はバビロン捕囚の時代に書かれたであろうことは再三言ってきたことです。つまり、イスラエルにとっては王国が滅亡し、さらに異国へ連れ去られるというどん底のときに書かれたのです。それは、光からの創造であり、生命力を意味する祝福に満ちた創造であり、空間的にも時間的にも秩序を造り出す創造でした。そして、人間は尊厳に満ちたものとして創造されています。それは、闇のどん底に生きている人間、混沌とした現実の中で、生きる希望も失っている人間に対する大いなる励ましとして響いたはずです。
しかし、これから私たちが読もうとしている創造物語は1章とは全く別の様相を持っています。この創造物語はそのまま人間の堕罪物語となり、いわゆる失楽園、楽園追放物語となり、さらに兄弟殺しの話に繋がり、さらにその後のノアの洪水物語という滅亡に繋がっていくのです。ですから、このもう一つの創造物語は、7日目の祝福、7日目の完成、完全な安息に向かって書かれていた天地創造物語とは全く別の結末に向かっていく話であり、同じ創造物語でも全然違う話だと言わざるを得ません。ここには光よりも闇があり、祝福よりも呪いがあり、秩序よりも混沌があり、世界の完成ではなく未完成の世界の継続が前提とされています。そして、創造された人間も尊厳に満ちていると言うよりも、むしろ恥辱にまみれていく存在として描かれていると言うべきでしょう。
こういう物語を、何時誰が何処でどういう目的を持って書いたのか?この点については、学者の間で今もって喧々諤々の議論が続いています。「書いた」と今は言いましたが、元来は口伝で伝えられていたでしょうし、それが文書化される時代があり、その文書化されたものがさらに他の文章と合わされる編集の時代もある。そうなると、そもそも物語が語られた時と、それが文書にされた時と、さらにその文書が、1章の文書などと結合された時とでは、意味の変質があります。ですから、元来の意味から今の形になるまでの意味の変質の過程の中で、これまた汲めども尽きない含蓄が加えられていきます。そうやって、聖書はどんどんどんどん深みを増し、その視野を空間的にも時間的にも広げていき、私たち一人ひとりの人間の内面と人類全体の歴史の深層と結末にまで及ぶ神様の言葉になっていくのだと思います。
ですから、何時誰が何処でどういう目的をもって書いたのかという問の立て方自体が成り立たない面がありますが、私としては、少なくともこの文書は、バビロン捕囚時代ではなくて、それ以前に書かれたという説に基づいて考えています。つまり、王国時代。それも実はその初期、ダビデやソロモンという偉大な王が王国の基礎を作り、勢力を拡大していった時代だと考えます。日本の近代史に重ねてみれば、西欧諸国の植民地にもなるかもしれなかった幕末から明治初期を乗り切り、日清、日露の二度の戦争を経て妙な自信をつけ、次第に天皇を神格化し、ついに大東亜共栄圏とかいう理想あるいは妄想を持って、東アジア諸国に侵略を開始した頃、つまり得意の絶頂の頃と言っても良いかもしれません。あるいは、より身近な現代史に重ねてみれば、敗戦後の復興を終えて、高度経済成長をひた走った頃と言っても良いかもしれません。いずれにしろ日本人がコンプレックスを克服し、得意の絶頂にいた頃です。拡大路線に走り、経済的成功だけを目標として、その目標を達成しつつある時、実はその時にこそ次の失敗の芽が既に芽吹き始めているということ、誤りを繰り返し始めているということ、そのことを容赦なく告げる。そして、悔い改めを求める。それが、この「もう一つの創造物語」の意図、あるいは目的ではなかったと思うのです。
ダビデ、ソロモン。彼らがイスラエルにとって如何に偉大な王であったかは、今更言うまでもないことです。彼らは親子ですけれども、それぞれに非常に有能な軍人であり、また政治家でした。そして、何よりも神に選び立てられた王です。その彼らが王国を建設し、支配する次第は「サムエル記下」や「列王記上」に詳しく記されています。まだお読みになったことのない方は、是非一読されることをお勧めしますが、そこには純粋な信仰によって出発した若き王が、どのように堕落するかが記されていると言って良いと思います。
ダビデの場合は、元々、ただの羊飼いの少年でした。その彼が、不思議な導きでサウル王の家来になり、全く悲劇的な仕方で王になり、周辺諸民族との戦いにも勝利していくのです。そして、彼が最早自ら戦闘に出かけずとも良くなった頃、彼は堕落をしていきます。彼は、部下たちが戦争をしている最中に一人エルサレムに残り、ウリヤという名の部下の妻バテシバと知りつつ、その美しさに惹かれて姦淫の罪を犯しました。そして、彼の場合は、その罪を隠蔽するために、ウリヤを戦闘の最前線に送って殺すという罪をも犯しました。モーセの十戒によれば、姦淫の罪に対する罰は死刑であり、殺人という罪に対する罰も死刑です。
その罪を、彼は王の権力を使って、人には知られない形で犯したのです。しかし、すべてをご覧になっている主は、そして、ダビデを選び、ダビデを愛しておられる主は、その愛ゆえにこそ、彼の罪を見過ごしにはされませんでした。そして、預言者ナタンを通して、彼の罪を厳しく糾弾されました。

「『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」

ダビデは、その糾弾を受けて、心から悔い改め、その悔い改めの故に死を免れました。しかし、この時にバテシバに身ごもった子は死にました。そのことがあった後に、バテシバを妻に迎えて最初に生まれた子がソロモンでした。しかし、ダビデには他にも既に何人も子供がおり、彼の晩年はその子供の一人に反乱を起こされ、まさにここに預言されていることが実現することにもなりました。姦淫と殺人の罪に対する罰としての死を免れても、罪に対する裁きは何年も後に、必ず与えられるのです。そうすることによって、神様は犯した罪が一体何であるかをその人間に教える、そこで初めて人は、神様の前に心底悔い、くずおれ、神を恐れることを知る。そういう恐ろしい現実が、そこには記されています。そして、このこともまた、私たちが現実の生活の中で見聞きしたり、自分自身で経験したりすることではないでしょうか。これは、恐ろしいことでありつつ、何と感謝してよいかわからないことでもあります。
ソロモン。彼は英知に長けた人物でした。知恵や知識、これはいつの時代でも権力を持つ上で不可欠のものです。今でも科学技術の分野における知識や情報、特に軍事的目的に転用できるものは国家が管理します。それが外部に漏れれば、重大な損失を蒙り、危険をもたらす場合も多いからです。軍事的面でも、経済的面でも様々な知識や情報を多く持っていることは重要なことですし、それらを正確に分析し活用する知恵はさらに必要なことです。
ソロモンは、王になるときに、主なる神様からこう問われました。

「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」

 その時、彼はこう答えたのです。

「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

 今日はその問題に触れませんが、ここで「善と悪」という言葉が出てきます。これはエデンの園の中央に生えている「善悪の知識の木」と関連するだろうと思います。彼は、王になるに当たって善悪を判断する力を神様に求めたのです。その目的は、「あなたの民を裁く」こと、つまり、彼自身の民ではなく、主なる神様の選ばれた民を、主なる神様の御心に従って裁く、つまり治めることです。神の御心を行うための判断力を求めたのです。
 その求めは、まさに神様の御心に適いました。神様は、喜んでこう仰いました。

「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。(中略)もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」

 このように言われたソロモンは、与えられた知恵を使って王国を堅固なものとし、空前絶後の繁栄をもたらしていきます。しかし、それは同時に、彼の没落の始まりだったのです。彼は、諸外国との交易を通して莫大な利益をあげるために外国の王室から多くの妃を娶りました。そして、神殿建築を7年もかけて成し遂げましたが、同時に自分の宮殿には13年もの月日を費やして贅の限りを尽くしました。そして、次第に外国人を強制労働させるようになり、強大な軍事力を備えるようになったのです。そして、王妃700人と側室300人を抱えるようになりました。その結果、それぞれの王妃が主の都であるエルサレムに自分が信じる神々の祭壇を築き、唯一の主なる神を礼拝する神殿を建てたソロモンが、主なる神以外の神々を礼拝するようにもなったのです。こうやって、空前絶後の繁栄の只中で、彼は堕落し、背信の罪を犯しました。
 そのソロモンに向かって、主はこう仰いました。

「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。」

   こうして、ソロモンの晩年は家臣からの敵対に悩まされ続け、あれほどの成功を収めたこの王も失意の中に死ぬことになります。そして、彼の死後、王国はあっけなく南北に分裂するのです。  これがダビデ・ソロモンの時代です。もちろん、聖書にはダビデやソロモンが、どういう功績を残したかということも書かれてはいます。しかし、結局、彼らは罪を犯し、神に裁かれたということ、その罪は彼らの人生の絶頂の時に二人を捕らえ、転落させたということ、そのことが大事なことです。こうやって、誤りが繰り返された、その誤り、罪に対して、神様は敢然と裁きをもって望みつつ、同時に、そこにはいつも逃れの道、悔い改めて帰ってくる道も備えて下さっていた。そのことを知ることが大事なのです。
 創世記2章4節以下に始まる創造物語とその後の物語の、少なくともその元になったものが、この時代に書かれたと言われる含蓄は、やはり深いと思います。
 ここで人間は、土の塵で造られたものとされています。自分たちが栄光に包まれていると思っている人間に対して、お前たちは塵に過ぎないのだ。そして、動物にだまされてしまうほどの惨めな人間なのだ。そう教えるのです。ここでの人間は、あっと言う間に神の戒めに背きます。しかし、背いた後には、その罪の責任を他に転嫁するのです。自分が犯した罪を自分が犯した罪として受け止めることをしない惨めな人間の姿がここにはあります。そういう人間に対して、神様は何を為さるのか?「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と仰ったのに、神様は肉体的な意味では、彼らを死刑にはせず、皮の衣を与えつつ園から追放されました。つまり、裁きつつ赦す、裁きの中に赦しを含ませて、彼らが自分自身の罪に気づき、立ち帰って来るのを待つ。ここには、そういう神様のお姿が描かれていると、私は思います。
 ダビデやソロモンの姿、それは同時に、彼らと同時代のイスラエルの人々の姿でもあったはずです。かつては不安定なさすらいの放浪者でしかなかった自分たちイスラエル、吹けば飛ぶようなまさに地の塵でしかなかった自分たちが、今や王国を持てるまでになった。人口も増えた、富も持つことが出来た。周辺諸国の土地も自分のものとすることが出来た。やはり、自分たちは神に選ばれた民なのだ。今後もその栄光は変わらない。そう思って浮かれあがっている。世界の中で名のある国として、これからも立ち続けていける。そう思っている。しかし、そこにおいて既に、誤りの芽は芽生え始めているのです。そして、親の誤りは子に受け継がれていくのです。前の世代の罪を後の世代もまた必ず繰り返すのです。人間は、誤りを繰り返す。そういう意味で、歴史は繰り返されます。
しかし、その罪の歴史の中に、神様は裁きと赦しをもって介入してこられるのです。この物語の中では、神様が園の中を歩いてくるという表現がみられます。また同じ人々が書き残したのではないかと思われる文書に、ソドムとゴモラの物語がありますが、その時も神様は二人の御使いの姿でアブラハムの前に現れ、さらにあの恐るべきソドムの町に入っていかれます。そうやって、地上の罪の現実の只中に入ってこられる神様、そして、そこで厳しい裁きを与えつつも赦し、裁きから逃れる道をも備えてくださる主なる神様が描かれるのです。聖書は、繰り返し繰り返し罪を犯す人間の姿を描きつつ、同時に、その罪を間近で見つめ、裁きつつ赦し続ける神様の姿、その愛と赦しの姿を描き続けているのです。
 主イエスは、こう仰いました。

「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
(ルカによる福音書17章3節〜4節)

  これは、主イエスご自身の姿です。そして、これが主イエスをこの世に送り給うた神様の為さり様なのです。私たちのあり様ではありません。奇跡が起こらない限り、私たちには不可能なことです。
 主イエスは、繰り返し罪を犯し続ける私たちに悔い改めを求めておられます。そして、悔い改めるなら赦すと言って下さる。仏の顔は三度までと言われますが、主イエスの顔は一日のうちに7回も、これは完全数ですから、「何度でも」ということです。主イエスが、私たちと同じ人間としてこの地上に来てくださり、神様の愛の戒めに背き、神様を蔑ろ(ないがしろ)にし、侮る罪を、また隣人を利用し、疎んじ、憎み、さらには殺す罪を、幾度も幾度も赦し続けてくださっている。神様に向かって執り成し続けてくださっている。それは、人となってこの地上に来てくださった主イエス・キリストが、すべての罪をその身に受けて、十字架に架かって死んで下さったからです。神様の裁きをすべてその身に受けて下さったからです。そして、その死をもって罪を滅ぼし、復活された後に、私たちに新しい命を与えるべく招いて下さっている。その恵みの事実があるから、私たちは今も生きているのだし、何よりもその恵みよって、この礼拝に招いて頂いているのです。
主イエスが、あの十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ死んでくださったから、私たちの罪は今も赦されているのです。その事実を知って、自分の罪を悔い改め、主イエスに赦しを乞う者は、あの十字架にかけられた犯罪人のように、すべての罪が赦されて「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言って頂けるのです。自分の犯した罪を悔い改め、主イエスに赦しを乞い求める者は、私たちがその罪によって追放された楽園、今は天上に用意されている楽園に、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった主イエスによって迎え入れられるのです。
聖書は、天地創造を書き記し、すぐに人間の罪を見つめ、楽園から追放される人間を描きます。そこに既に、裁きと赦しがあります。その後の記述は、ひたすらに人間が繰り返す罪の現実とその罪を赦して再び命と祝福に満ちた楽園に導き返そうとして下さる神様の愛と赦しの御業であると言って良いと思います。そして、ついに神様はその独り子を遣わし、罪の中に迷い続ける私たちを捜し求め、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いに与らせ、天国へと招いてくださっているのです。
 私たちがこれから与る主の食卓は、神が備え給う楽園、天の御国の原型です。罪を悔い改め、罪の赦しを与えてくださる主イエスへの信仰をもって、感謝して与りたいと思います。その時、罪を繰り返す自分とすべての人間に対する絶望を超えて、「今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の、その幸やいかにあらん」という望みが与えられるのです。
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