「人は何によって造られ、生きるのか」
「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」先週の礼拝において、私たちはこういう御言葉を与えられました。 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる、生ける、いけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 私たちの為すべき礼拝、それはなによりもこの日曜礼拝、主日礼拝を守ることなのですが、それはまた同時に、この礼拝から世に派遣され、その世において神を愛し、隣人に仕え、神に仕え、隣人を愛して生きることです。そして、そのことは御子をさえ惜しまずに私たちの罪の償いのために十字架につけられた神の憐れみと、私たちの弱さを知り、励まし、慰めてくださる神様の慈愛としての憐れみの中で初めて可能なことです。神様の憐れみと、私たちの信仰による応答、それがこの主日礼拝の中にあり、この礼拝に押し出されて、私たちは一週の歩みをやはり礼拝として歩み始めるのです。神と人に仕える者として歩み始めるのです。その歩みこそが、神の国とその義を第一に求めるキリスト者の歩みなのです。 礼拝のことを、ドイツ語ではゴッテスディーンストと言います。この言葉には、神様への奉仕という意味と同時に、何よりも神様の奉仕、神様が私たちに奉仕してくださっている、仕えて下さっているという意味が込められているとよく言われます。それは本当のことだと思います。私たちのために十字架に掛かって死んで下さった主イエスが、今日もこの礼拝の中で私たちの罪の汚れを洗い清めて下さっているのだし、今日は特に聖餐の恵みに与らせていただけるのです。主イエスが、ご自身の体と血とを、私たちに差し出して下さるのです。そういう、ご自身の命そのものを捧げ尽くして、私たちの罪を赦して新しい命を与えてくださる御奉仕にお応えして、神様を愛し、神様に仕え、隣人を愛し、隣人に仕えるのが、私たちの為すべき礼拝であり信仰の生活です。その礼拝において、私たちは、全人的に神様との交わりを生きることが出来るのだし、それが人間として生きるということだと、私は思います。 今日は、創世記2章4節後半から始まる「もう一つの創造物語」の2回目になります。この物語の関心がもっぱら人間にあるということは、前回語ったとおりです。海、天体、魚などに関する叙述はここにはありません。植物や動物の創造に関する記述も、人間との関係の中で記されるのであって、それ以外の意味づけはほとんど無いと思います。人間とは何であるか。その問題が、この「もう一つの創造物語」の中心的なテーマだと、私は思っています。ですから、今回に限らず、私たちはこれから数ヶ月に亘って、この物語を読み進めながら、その問題を様々な角度から教えられていくことになるはずです。 「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」 この「野の木も草も生えていない」という描写は、荒廃した世界を現していると思います。命がまだ生まれていない状況、茫漠とした地上の世界がここにはあります。そして、その原因は、「主なる神が、地上に雨をお送りにならなかった」ということと、もう一つ「土を耕す人もいなかった」ということにあります。 1章の天地創造物語もそうなのですが、この2章以下の物語もそれが書かれた時代のイスラエルと無関係に書かれているわけではありません。むしろ深い関わりの中で、信仰による戦いとして書かれたという側面があると思います。あくまでも一つの仮定ですが、この文書がイスラエルの王国時代初期、つまりダビデ・ソロモンの時代に書かれたとします。その王国の中には、イスラエルの民だけが住んでいるわけではありません。数多くの先住民族が住んでいるのです。その人々は、半遊牧民として移動生活をしたり、荒野を40年も放浪したイスラエルの先祖とは違い、昔からカナンの地に定着し、土地を耕し、農耕民として生きていた人々です。農耕民には農耕民特有の宗教があります。それは男神と女神とからなる多神教です。簡単に言えば、空にはバアルという名の男あるいは夫である神がおり、地にはアシタロテという名の女あるいは母なる神がいる。そして、夫は空から精子としての雨を降らせ、妻が大地でその精子を受精して、大地から植物を生えさせる、つまり、命を生み出す。カナンの先住民はそういう神話によって自然世界の構造を把握していたのです。神々の結合、性的な交わりによって命が生み出される。この神話は、実に分かりやすい話ですし、実体験に基づいた説得力のある世界観があると思います。そして、荒野放浪を終えてカナンの地に定着したイスラエルの人々は、先住民から農業技術を学びつつ生きるしか、その術はなかったのです。和魂洋才のように学べば、それは良かったでしょうが、イスラエルの場合は遠い外国から技術だけを輸入するというわけにはいきません。目の前で繰り広げられる種まき、耕作、水撒き、収穫の一連の過程を、それと密接に結びついた宗教行事と共に取り入れることは、必然と言えば必然の成り行きです。彼らは、いつしかシナイ山で契約を結び、荒野の旅を導いて下さった神様よりも、肥沃の地カナンの豊穣の神様、多産の神様であるバアルやアシタロテという神々に心惹かれていったのです。これもまた無理からぬことだと思います。郷に入れば郷にならえ、ですから。 しかし、そういう時代が、この文書の背景にあると想定すると、「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから」という言葉は、単なる原因説明ではなく、雨という命を生み出す水も、実はカナンの地の神バアルではなく、砂漠の神、荒野でイスラエルと出会った神、主なる神が降らせて下さるのだという宣言、信仰の宣言があると言わざるを得ないと思います。主(ヤハウェ)なる神は、イスラエルという小さな一民族の歩みを導く民族神に止まらず、また砂漠の神だけではなく、大地を肥沃にするのもこの主なる神であることを、この言葉は宣言しているのではないでしょうか。所変われば神も変わるわけではない。このカナンの地においても、私たちの神、主は神である。この方こそ、地と天をお造りになった方なのだから。この主こそ唯一の神と信じて、この主を礼拝しつつ生きるところにイスラエルのイスラエルたる所以、いや人間の人間たる所以があるのだ。そういう主張、あるいは信仰的宣言がここにはあるように思います。 また、ダビデ・ソロモン時代のダビデやソロモン王、またその側近たちは驕り高ぶり、尊大に振舞っていたと考えられます。列王記に記されるソロモンの栄華と贅沢は目を見張るを通り越して、目を覆いたくなるようなものです。彼は自ら働くことなく、貿易で、それも武器の輸出などで巨万の富を築くという資本主義の申し子みたいな王でした。彼は知略を尽くしてひたすらに富を蓄積し、多くの妻を娶り、その妻たちが多くの神々の祭壇を築くままにさせました。そういう現実の中で、この文書が書かれたとすれば、大地の荒廃の理由に「主が雨を降らせなかったから」という言葉は、異教の神々に靡いているソロモン王に対する痛烈な批判にもなります。また、「耕す人もいなかったからである」という言葉もまた、金を転がしながら増やしていくことが美徳であるかのような時代の風潮や、その頂点に立っている当時のソロモン王を初めとした王侯貴族階級の人々に対する痛烈な批判であるとも言えるのではないでしょうか。「土を耕し」て生きることこそが、人間なのだ。主なる神が雨を降らしてくださった大地に種を撒き、土を耕し、収穫を得る。その収穫を神様からの賜物として受け取り、その初穂を献げる。そこに人間のあるべき姿がある。そういうことを、この五節は訴えていると言えるのではないでしょうか。 この時代のソロモン王を初めとする上流階級の人々は、富を民衆から収奪し、それを転がして増やしていくことに躍起になり、自ら働くことなく、主なる神に献げ物をして礼拝することもなくなって行ったのです。エデンの園におけるように、何でも好きなものを食べ、まるで世界は自分のためにあるかのような錯覚に陥っていったのです。そういう繁栄の絶頂の中で、人間は元来何であるか、何によって造られ、そして、何によって生き、何をすべき存在なのか。そのことを真剣に神様に問いかけた人々がいただろうと思います。そして、その人々に対して神様が示してくださった答え、それがこの物語の内容なのだと思います。 「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」 ここでは一転して、大地が潤う情景が描かれています。文献的には5節とは異なる資料が使われている可能性がありますけれど、文脈上では人間の創造への移行があります。また、神様の恵みとしての水が出てきたことを現しているのではないかと思います。人間の創造に関しては、その素材が「土の塵」となっています。この「塵」とは、乾いているときはまさに吹けば飛ぶような土埃となり、水にぬれれば粘土状になるこまかい土を表すそうです。そして、主なる神が土の塵で「人を形づくり」と訳されている言葉は、陶器師が粘土を捏ねて器を作る時の言葉が使われています。人間はあくまでも土に密着した存在であり、さらに土の中でもその塵、吹けば飛ぶような小さな塵のような存在であるということ、そのことがここではっきりと記されています。1章に出てくる「神に象られ、神に似せて造られた」人間、栄光の姿をもった人間とは全く違う人間の姿がここにあります。尊大にして傲慢になっている人間に対して、そして土を耕し働くことを厭い、知略を使っての富の蓄積によって大いなる者となろうとする人間に対して、聖書は、塵のごとき卑小な人間存在を描くのです。そして、自分が一体何者であるかを知らせる。 しかし、ここでさらに注目すべきは、その人間に「命の息が吹き入れられ」、そのことによって人は「生きる者」となったということです。この命の息が吹き込まれない限り人は生きる者ではない。つまり、神から与えられる息(それは後に神の霊と同一視されることになりますが)、その霊としての息が吹き入れられている時、人は生きているけれども、その息が絶える時、あるいはない時、人は生きる者ではないのです。ここでは生物的な意味での「生きる」と、もっと深い意味での「生きる」が二重にかぶさるような形で「生きる」という言葉が記されていると思います。この点については、次回も触れることになると思います。 今日の問題は「人は何によって造られ、生きるのか」で、今日与えられている言葉に限定すると、人は土の塵と神様の命の息によって造られているのです。もちろん、お造りになるのは主なる神様であって、人間は偶然の産物でも、自然界の突然変異によって何故か誕生した生物の進化形でもなく、地と天をお造りになった神様の明確な意思によって造られた存在だということです。 それじゃ、その神様によって何のために人は造られ、生きる者とされたのか?それが問題になります。その点についても、今日与えられている箇所に限定すると、人は土を耕すために造られ、生かされているということになります。その土とはしかし、神様が雨を降らし、また地下からの湧き水がなければ、野の木も野の草も生えない不毛な土地です。しかし、神様が天から、また地下から水を与えて下さっても、それを耕し、また15節にありますように「守る」人間がいなければ、大地は本来持っている生命力をみなぎらせることは出来ない。そういうことだと思うのです。ですから、ここで人は、全く塵のように小さな存在であると同時に、神様がお造りになった大地に対して重大な責任を担う存在として描かれているということになります。「土を耕し」て生命を生み出すという重要な仕事は、他の動物には与えられません。それは人間だけに、つまり神自ら形づくり、「命の息を吹き入れ」て「生きる者」とされた人間だけに託されたものなのです。こういう卑小さと偉大さの両方を併せ持つ存在としての人間がここにはいます。 その点をさらに掘り下げていきたいと思います。ここで「耕す」と訳された言葉は一般には「働く」とか「仕える」と訳される言葉です。誰かのために働くということは、誰かに仕えるということですから、その二つの意味は良くわかります。今日の箇所の場合は、神がお造りになった土に仕える、土のために働く、そこから命を生み出すための業を為すということになります。目に見える意味では農耕作業を意味するでしょうが、この2章以下の物語は何処をとっても二重の意味合いがあったり、様々な象徴が隠されていたりしますから、ここで人間は農作業をするために創造されたと短絡するわけにはいきません。 人間は、神がお造りになった土を耕し、土に仕える存在である。また、人間とは神様から命の息を吹き入れられた時に生きる存在である。その両方のことが、ここでは不可欠不可分のことです。神様からの命の息を頂いて生きる人間が初めて、大地に命をもたらすために働くことが出来る。命の源なる神様との霊的な交わりの中に生きる者が初めて、命を生み出すために働くことが出来る。その働きをする時に、人間は人間となる。そういうことなのではないか、と思います。 この物語は、ご承知のように、この後劇的な展開をしていきます。その一つ一つを今ご紹介するわけにはいきませんし、私自身がまだこの後に記されている事柄について、すべてを確信をもって言えるわけではありませんが、普通一般には、この後、人間は罪を犯したと言われています。人間は、これはソロモンなどの王に限ることのない話ですが、自ら神様のようになりたいという欲望を持っており、その欲望に負けて、神様の戒めを破るのです。神様の戒めを破れば「死」という裁きを受ける。これは聖書の前提です。神様は、アダムにこう仰いました。 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 「食べると必ず死ぬ」。これは有罪宣告、死刑宣告のときに使われる言葉だそうです。でも、アダムとエバが神様の戒めを破って、善悪の知識の木の実を食べても、実際には死ななかったじゃないか、という問題があります。しかし、ここでもまた「死」をどう受け止めるかという問題があります。「死」とは何か? 私たち日本人は死ぬことを「息を引き取る」あるいは「息が絶える」と表現します。他の国々でも恐らく似た表現があるでしょう。これは人間の実際の経験に基づいた事実です。人間は、最後にフッと息を吐いて、死にます。その人間の体内に息がなくなるのです。そういう人間の死に何度も立ち会いながら、人は死ぬときに、「息を引き取る」「息が絶える」と表現するようになったのです。逆に言えば、「息がある」時は、「生きている」時です。息がなくなれば、人間はただの肉体になります。 この息は、聖書の中ではすぐに「霊」、それも神の霊と同一視されていきます。たとえば、6章から始まる洪水物語の冒頭に主の言葉がありますが、それはこういうものです。 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」 ここでは「霊」が「命の息」と全く同じ意味で使われています。霊がとどまっていない人間は、ただの肉に過ぎないのです。神の霊が与えられ、その霊が人間の中にとどまっていないならば、人は「こうして生きる者となった」という意味での命を生きることができないし、まして不毛な大地に命を生み出すという神の御業に与ることなどあり得ない。そういうことなのではないでしょうか。人はパンだけで生きる者はではないのです。パンだけで生きるのは肉であり、それは「生ける屍」なのです。肉としては生きているけれど、人の本質は死んでいるのです。 私はこの箇所を読むといつも思い出すのは、ヨハネによる福音書に記されている主イエスの復活の場面です。主イエスを裏切ってしまった弟子たちが、ユダヤ人を恐れて隠れ家に隠れているあの場面です。あの時の弟子たち、それはまさに生ける屍です。「あなたのためなら命を捨てます」と告白したペトロを初めとした弟子たちは、誰も主イエスのためには命を捨てませんでした。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と、主イエスに言われた弟子たちは、誰一人主イエスの十字架に繋がりませんでした。皆、離れていったのです。自分で自分の命を守り、生かすためにです。でも、その結果は何だったのでしょうか。彼らは、外にも出ることができない状態になってしまったのです。生きるために主イエスを裏切り、見捨てて逃げたのに、その結果は、生ける屍状態なのです。彼らはたしかに肉体の命を自ら救いました。しかし、それが一体何だったのでしょうか。 主イエスは、そういう弟子たちが集まっている部屋に突然現れました。それは週の初めの日、つまり日曜日のことです。主イエスは彼ら弟子たちの真ん中にお立ちになったのです。そして、「あなたがたに平和があるように」と仰った。そして、釘跡の生々しい手と槍で刺された脇腹をお見せになりました。それを見て、弟子たちは喜んだとあります。主イエスはその傷を、弟子たちの背信と裏切りの証拠として、恨み骨髄の思いで見せられたわけではなく、赦しの徴として見せられたからです。そして、もう一度、「平和があるように」と仰ってから、こう言われた。 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 主イエスはある時に、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われましたが、主イエスは父と共に、また父のために働くために遣わされたのです。それと同じように、今、主イエスは弟子たちを遣わすとおっしゃるのです。主イエスを裏切り、逃げた弟子たちです。しかし、この時、主イエスは、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけた」とあります。生ける屍にようになってしまった弟子たち、自ら生きようと思ってむしろ死んでいる弟子たち、ただの肉になってしまった弟子たちに、彼らの罪の赦しのために十字架に掛かって死んで下さり、復活された主イエスが息を吹きかけられたのです。この息は、復活の命の息と言う他にないと思います。 そして、こう語りかけられました。 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 息は聖霊です。復活の主イエスの命の息吹です。この息を受け入れる時、罪が赦され、新しい命が与えられるのです。肉に過ぎない者が、新たに生きる者とされるのです。そして、初めて、神の御業、この不毛な大地に命を生み出す御業に与ることできる。土を耕し、そこから命を生み出す御業、土に仕える働きをすることが出来るのです。それでは、その働きとは何でしょうか。それは罪を赦して生きるということです。主イエスに赦して頂いたように、人の罪を赦す。これは死ねと言われるに等しいことです。自分に死ななければ出来ない、肉においては死ななければ出来ないことです。当然です。主イエスはあの十字架の上で死んで私たちの罪を赦してくださったのですから。愛し、赦すということは、肉の思いを持ったまま出来ることではないのです。しかし、主イエスは死んだからこそ、復活されたのです。そして、その復活の命を与えるために、今、弟子たちの真ん中に立って命の息、聖霊を吹きかけておられるのです。この聖霊を、受ける者、それは自分の罪のために主イエスが死んで下さったことを信じる者です。そして、自分を新しく生かすために主イエスが甦ってくださったことを信じる者です。その信仰をもって生きるキリスト者、それは信仰においてキリストと共に十字架に死に、復活のキリストと共に生きる者です。そのキリスト者が為すべき業、それは罪の赦しに生きる、つまり、主イエスの愛に生きる、主イエスに愛されたように、兄弟を愛して生きる、隣人を愛して生きる、そして敵を愛して兄弟とする愛に生きる。それが主イエスを通して新しい地と天をお造りになった神様の御業なのです。 私たちの目の前に広がっている大地、この東京、この日本、この世界、それは広漠たる大地です。争いと不和、敵意が我が物顔に猛威をふるい、人間が殺しあっている。私たち人間は、自分が生きるために他人を殺します。裏切ります。見捨てます。そうしながら、実は自分自身をただの肉にしているのです。殺しているのです。 そういう私たちの只中に、今日も主イエスは立ってくださり、これはわたしの体である、これはわたしの血であると、ご自身の体と血を差し出してくださるのです。罪を赦してくださるのです。罪人になってしまう私たちを、神に敵対してしまう私たちを、今日も愛し、神の子として新たに造り替えてくださるのです。聖霊と共に命の糧を差し出してくださるのです。感謝して受けましょう。聖霊を受け入れ、この主イエスの体と血を、悔い改めをもって受け入れ、新しく生きる者とされましょう。そして、この大地を耕し、ここから神の子としての命が誕生するように、一人でも二人でも、主イエスの愛に出会い、罪の赦しを信じ、洗礼を受けて、新しい命が与えられるように、神の御業に与りたいと願います。それこそ、神の霊によって生かされ、土を耕す人間の務めであり、私たちの為すべき礼拝なのです。 |