「人は何によって造られ、生きるのか U」

及川 信

創世記 2章 4節後半〜 9節

 

「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」



  前回に引き続き、同じ題で同じ箇所を読んでいきたいと思います。今日は特に、9節に出てくる食物を巡って御言葉の語りかけを聴いてまいりたいと思っています。
 この創世記2章4節後半から9節までに語られている人間とは、どういう存在であるか。それはまず第一に、神様によって造られ、生かされている存在です。肉体も霊もすべて、神様によって形作られ、生かされている。全身全霊が、神様の被造物である。それが聖書の人間理解の基本です。まずそのことが理解され、承認されないと、その続きを正しく理解していくことは出来ません。そして、それはただ単に聖書の文言の続きを正しく理解できないということに止まらず、私たちの存在の意義、あるいは人生の意味も正しく理解できないということだと思います。つまり、誤解したまま読んでいくことになり、誤解したまま生きていくことになる。私は、そう思います。しかし、考えてみると、私たち人間は、実に多くの誤解をしながら生きている存在だと思います。その誤解は、気がついた時には実に滑稽なもので、自分でも笑うしかないようなものなのですが、気がついていない時には大真面目にやっているので始末が悪い。
私は犬と暮らしていますし、この春に上の子供二人が家から出て行ったので、ますます犬を見ることが多くなっている感じもしますが、犬を見ていて感じることは、彼らは全くもって可愛そうなほどに依存的な存在だということです。一日の大半は、三階のベランダで過ごしています。寝ている時は良いのですが、部屋の中に人の気配がすると飛び起きて、じっと部屋の中を見つめています。飼い主である私が、餌とかおやつをくれないか、それとも散歩に連れて行ってくれないか、散歩とまで行かなくとも部屋に入れてすこし遊んでくれないか、とにかく何らかの意味で私あるいは他の人間との接触を求めて見つめ続けています。全身全霊を傾けて飼い主の愛を求めているというか、接触を求めているのです。そういう姿を見ながら、彼らは、飼い主に完全に依存している存在であることを思います。すべては飼い主次第です。飼い主の機嫌がよければ家に入れてもらったり、散歩に連れて行ってもらったりしますが、機嫌が悪かったり、時間がなかったりすれば、ひたすら放っておかれるのです。日曜日など、全く悲惨なものです。それでも、彼らは全く変わることなく、飼い主の愛を求め続け、部屋の中を見つめ続けている。彼らは、生きるも死ぬも飼い主次第である飼い犬である。そこには、全く誤解の余地がありません。彼らもその点について誤解しているようには見えません。しかし、たまに気を許すと、ソファーに横たわったりして、まるで自分が家の主人であるかのような誤解をしますから、そういう時は、容赦なく、「あなたは飼い犬なのだ」ということを、私は教えます。飼い犬だからこそ、働かないでも食べていけることを教えないと、犬として駄目な犬になると思うからです。
私たち人間が赤ん坊だった頃、あるいは小さかった頃、私たちもある意味では飼い犬と同じ存在でした。親の愛に完全に依存しているのです。まさに生きるも死ぬも親次第です。最近急増している親による幼児虐待を見ても分かりますように、子供は心も体も親に愛されることによって始めて本来的な意味で生きることができるのです。親が子を愛さなければ、子は安心して生きることが出来ませんし、生まれてきたことを喜んで生きることは出来ません。また、親からミルクを初めとする食べ物を与えられなければ、その肉体は痩せ細り、ついには死ぬほかにないのです。親の為すがままです。赤ん坊あるいは幼児は、自分が親の子であることを、その愛を必要としていることを、全く誤解の余地のない仕方で知っていますし、その知っている通りに生きています。彼らは、食べることも、排泄の処理をすることも、自分では出来ません。すべてを親にやって貰うほかに生きる術はないのです。だから、全身全霊を傾けて親の愛を求め、「あなたしか私を生かしてくれる存在はいない」と表現することにおいて、親を愛しつつ生きているのです。その表現を子供の親への愛であると理解できる時、そしてその愛を受け入れることが出来る時、親は親として生きることが出来るでしょうし、赤ん坊は赤ん坊として生きることが出来るでしょう。互いに愛し合う交わりの中で、親子は豊な命を育むことが出来るのです。
 しかし、その赤ん坊や幼児は、次第に少年少女になり、さらに青年男女になって行きます。大人になっていくのです。そして、大人になっていく過程で、次第に誤解をしていくのです。もちろん精神的に親から自立することは必要ですし、経済的にも自立することが必要でしょう。しかし、そういう自立を通して、自分は自分の力で生きている、あるいは生きていけるかのように誤解していくのではないでしょうか。そして、生きるために必要なものは金であるかのように錯覚していく。経済的な豊かさが、命の豊かさであるかのような誤解に陥っていくことが多いのです。
最近のテレビを見ていて、本当に不愉快になるのは、かつては「高利貸し」と呼ばれ、ちょっと前までは「サラ金」と呼ばれていて、そこからお金を借りることに一種の後ろめたさが伴っていた金融ローン会社が、カタカナの名前に隠れて、まさに白昼堂々と「お金を貸しますよ、お金があれば、きっと幸せな生活をおくれますよ」というメッセージをこめたコマーシャルをやたらと流すことです。そして、そのコマーシャルに登場するタレントの多くは若くて可愛い青年男女だったり、つぶらな瞳が痛々しい小さな犬だったりする。つまり、若者たちが遊びやお洒落をするためにお金を借りるように仕向けたり、子供の結婚式に父親がペットの犬とお揃いのモーニングを借りるためにお金を借りたら良いのじゃないかと唆す。そういうコマーシャルが、私たちに訴えてくるメッセージは、人間金さえあれば楽しい人生が送れるということです。困ったことは何でも金で解決できる。だから気軽に借りましょう。明るく楽しい人生は金で買える。そういうメッセージだと思います。テレビを見ている子供たちは、知らず知らずのうちに、そのメッセージを植えつけられて、気軽にカードローンとかキャッシングに手をつけて自己破産をしたりする人が多いし、以前見たある統計では、自己破産者の著しい増加の線に沿って自殺者も増えているそうです。単純に結びつけることは出来ませんが、そこにはある種の因果関係があるでしょう。もしそうであるなら、そこにはコマーシャルのメッセージを真に受けた人々の悲惨な末路があるということになります。ですから、私はそういうコマーシャルが流れる度に、隣で一緒にテレビを見ている子供に、「あれは嘘だから、あの優しい笑顔のお姉さんの後ろには怖い小父さんがいて、お金を返さなかったらぼこぼこに殴られたりするんだから・・」と、これまた本当か嘘か分からぬ怪しげなメッセージを流すことにしています。どちらも怪しいのなら、せめて子を愛する親のメッセージを信じて欲しいと願っています。
とにかく、鬼だらけとも言える世間を渡るために必要なのは、愛とか信頼ではなく、なんやかんや言っても金なのだ。それが現実だ。金があれば、幸せに暮らせる、安心して暮らせる。その金を得るための学校だし、会社だし、仕事だし、結婚だ。こういうメッセージは、ともするとテレビからだけでなく、親を初めとする大人たちからも子供たちに届けられ、もう世間では常識になっているのかもしれません。その常識に基づいて、子供の教育をする。それが多くの現実なのかもしれません。その常識には、ある種の真実があるだろうとは思います。しかし、その常識は、聖書の中では大いなる誤解の産物です。
 聖書において人間とは、神様に完全に依存した存在です。私たち人間は、体も心も、身も魂も、何もかも神様に造っていただき、そして生かしていただいているのです。命を与えてくださったのは神様なのです。だから、その命を生かしてくださるのも神様です。だから、神様にすべてのものを与えて頂き、それを感謝して生きない限り、人は人として生きることが出来ない。人でなしになる。聖書は、そういうメッセージを語っている。そう言って良いだろうと思います。
 9節にはこうあります。

「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 後半部分の「命の木」と「善悪の知識の木」は前回少し触れましたし、今後の大きな問題になりますので、今日は触れません。今日は、前半部分に集中します。ここで神様はエデンの園の中に、「見るからに好ましい木」を生えさせられたというのですが、これは見た目が美しく、喜びを抱かせるという意味のようです。今の日本だと、桜などはまさにそういう木だと思いますけれども、この文書が書かれた地において、つまりパレスチナ地域において、木は命の象徴でもあります。6節には「水が地下から湧き出て、土の面を潤した」とあり、10節以降には「川が、園を潤し」とありますけれど、水なくしては植物も動物も生きることは出来ません。そういう意味で水は命の象徴です。そして、その水は神様が天から降らせることによってこの地に与えられるのですから、神様が命の象徴である水の与え手なのです。その水のあるところにしか木は生えません。
日本のような湿潤な気候の中では、都会を離れればそこには森があります。ほとんどの山は木で覆われています。しかし、パレスチナやその周辺地域では、山は基本的に岩がむき出しの禿山ですし、平野も砂漠、あるいは乾燥した荒地です。以前、エジプトからイスラエルの地を旅行させていただいた時に感じたことなのですが、砂漠の中に忽然と現れるオアシスに生える木を見ると、まさに目に染みるという感じがしました。そこには命があると思ったのです。死んだような世界の中に忽然と生命力に満ちた木々を見る時、私の心と体も生き返るような気がしました。
 そして、その時の旅行ガイドはエジプト人でしたけれど、彼は木を見る度に「あれは何の木だ」と尋ねる日本人に嫌気がさしていて、あるときバスの中で、私にこう言いました。「日本人の旅行者はやたらと木の種類を聞きたがって困る。私たちは、木を見ることには興味はない。その木に食べることが出来る実がなるかならないかが大事で、それ以外のことに興味はない。実をならせる木はよい木であり、ならせない木はただの木というだけだ。私たちは木よりも石や岩の方に興味がある。あなたたち日本人は、木の家に住んでいるから木に興味があるのだろうが、私たちは違う。ピラミッドだって、木では出来ていない」と言っていました。もちろん、すべてのエジプト人がそう思っているわけではないでしょうし、何種類もある木の名前をいちいち日本語で言えないことの苦しい言い訳みたいな感じもしましたが、言われてみると、確かに木には食べる実がなるものがあり、人間は昔からその実を食べながら生きてきたことは事実です。
私たち現代人、特に都会人は木になる実を取って食べるという習慣を忘れてしまいがちですが、昔は、多くの家の庭には柿だとか、栗だとか、イチジクだとか夏みかんだとか、実を結ぶ木を植えたのではないでしょうか?田舎にはまだそういう木があります。秋になれば、山に入って、キノコだけでなく、食べることが出来る木の実を取りに行き、冬を越すための保存食を作ったりしていたのです。現代の都会では、何でも店で買うしかないわけですが、人間の長い歴史の中で、そんなことは最近のことです。聖書が書かれた時代も勿論貨幣経済の時代ですけれども、今の日本とは比較にならぬほどに、多くの人々が直接自然に接しつつ、そこから食物を得ていたのです。
ここに神様が、見て美しい木だけでなく、「食べるに良いものをもたらす木を生えさせてくださった」とあるのは、「人間は神様によって食物を与えられて生きる存在である。つまり、神様の愛の守りによって生きる存在である。神様が愛して下さらず、食物を与えて下さらなければ、私たちは生きていくことが出来ない存在である」ということを示しているのです。つまり、赤ん坊、幼児のような人間がここにはあります。そのことを忘れたら、人間は人間ではなくなるのです。普通一般には「自然の恵み」によって生きていると言われることの背後に、神様の愛のご配慮を見る、神様が自然の恵みを与えて下さったのだということを理解し、承認する。それが聖書の信仰です。そして、その信仰をもって生きる、それが人間の生きる姿、生きる道である。聖書は、そう語っていると思います。そして、人間がその信仰に生きるということは、一方では全くの受動的存在、受身の存在として生きることなのですが、他方では、能動的な存在として生きることでもあります。それはどういうことか?
5節に「土を耕す人もいなかった」とあります。また15節にはこうあります。

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」

エデンの園は、その続きにありますように、善悪の知識の木以外のすべて実のなる木から取って食べても良いのです。つまり、人間の食物は神様によって確保されている。神様がお造りになった天地には、人間が食べることが出来る食物はある。それを食べて生きることが出来るのです。そういう意味では、まさに人間は受動的に生かされる存在です。しかし、その一方で、人間は神様がお造り下さった地を「耕す」べき存在なのです。「耕す」という仕事をする存在として造られ、そして生かされている。つまり、与えられたものを受動的に受け取りつつ、その恵みに積極的に応答し、能動的に働きかけることが求められている。その人間の能動的行為、耕すという仕事がないと、神様がお造り下さった大地は荒廃するのです。神様は、ご自身がお造りになった大地を「守る」ために、人間の働きを求めておられる。その働き、仕事をするために、神様は人間を土から造り、命の息を吹き入れて、「生きる者」として下さり、そして食物を与えて下さっているのです。その意味は深いと思います。
「耕す」という意味の英語はカルティヴエイトと言い、そのカルティヴェイトという言葉が、「文化」や「精神文明」を表すカルチャーや、「礼拝」「祭儀」を現すカルトと関係があることはよく言われることです。以前も言いましたように、ヘブライ語ではアーバドというこの言葉は、「働く」とか「仕える」と訳される言葉です。土のために働くとなれば耕すということになりますし、王のために働くとなれば王の奴隷として王に仕えるということです。そして、対象が神様であるとき、神の僕として神に仕えるということですから、それは礼拝という意味になります。そして、現代の世俗化した世界では違いますけれども、これまでの人間の歴史における文化とか文明というものは何らかの意味で、宗教とその祭儀、つまり礼拝と関係します。美術も音楽も文学もそうです。世界各地に残る古代文明の巨大建築物は、何らかの意味で宗教的な建物であることを、先日、建築の専門家を通して教えていただきました。その方によると、人間は、神との交流を求め、自分が住む住居とは別に、大きな建物を建て、この世とは異質の空間を作り出してきたというのです。実に面白いというか、興味深い話しでした。こういうことは、犬はやりません。これは人間だけがやることですし、神様が人間に求めていること、人間が人間らしく生きるためにやって欲しい仕事と深い関係があると思います。
「人間とは何によって造られ、生きるのか。」この場合の「何によって」は、造った主体のことだけではなく、人間を構成している素材をも意味すると思いますが、その点について言うと、それは「土の塵」と「神の命の息」によって造られたのです。そのように人間をお造り下さり、生かして下さるのは「主なる神」です。天地をお造りになった主なる神が、このように人間をお造りになったのです。それでは、そのように造られた人間は「何によって生きる」のか。これには二つの側面がある。一つは全く受動的側面です。神様が与えて下さるものを頂いて生きるのです。今日の箇所に限定すれば、命の息と木になる実、つまり神の霊と肉体を養う食物を頂いて生きるのです。食物だけで生きる命はただの肉体であって人間ではありません。人間は、神の霊と食物によって生きる。しかし、「何によって生きるのか」という場合、それは単に生きるための素材を意味するだけではなく、生きる理由、あるいは生きる目的をも意味するでしょう。つまり、生きることの能動的側面です。これも今日の箇所に限って言えば、人間は「土を耕して生きる」のです。耕すとは、命を生み出す行為です。命を生み出すために働く。そのことで、人は人として生きるのです。食べるために働くのではなく、生きるために働く。さらに神様がお造りになった地から命を生み出すために働く。それが神に仕えることであり、最近の説教で何回も繰り返して使ってきた言葉で言うなら、「私たちの為すべき礼拝」なのです。
私が今日のこの創世記の言葉を読みながら心に浮かぶ言葉は、マタイによる福音書に記されている主イエスの言葉です。主イエスは、こう仰いました。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


私たちの父なる神様、私たちを生み出し、それ故に私たちのことを愛して止まない父なる神様は、私たちの必要が何であるかをすべてご存知なのです。そして、必要なものは何でも与えてくださいます。もちろん、必要でないものは与えてくださいません。しかし、必要なものは、コマーシャルが言うほど多くはありません。そのことを正しく理解し、神様の愛を信じること。それが人間に求められる第一のことです。このことが出来ないと、私たち人間は人間として生きることが出来ない。大いなる誤解の中に、あくせくと食べるために生きることになってしまうのです。生きることは、神様の愛を信じることに始まるのです。生まれたての赤ん坊のように、親の愛を信じて抱かれてミルクを与えられることに始まるのです。その愛を信じることが出来なくなる時、疑う時、私たちの思い煩いが始まるのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかという思い煩いが始まる。食べなければ生きていけないと思うからです。そこで考えられている人間の命は肉体の命だけですし、その肉体の命すら、私たちはその寿命を一日でも延ばすことは出来ないのです。死ぬときは死にます。そういう存在であることを忘れて、自分というものを誤解していると、私たちは、ただただ生きるためにあくせくと働きますが、結局、人間として生きることは出来ていない。
主イエスはこう仰っているのです。

「神様の愛を信じなさい。あなたがたを鳥よりも花よりも大事にしてくださる神様の愛を信じなさい。そして、その愛に自分自身を委ねなさい。それがまず第一にあなた方の為すべきことだ。自分で自分を生かすという誤解に満ちた生き方を止め、神に生かされるという本来の生き方に帰りなさい。その上で、あなたがたには為すべき仕事がある。それは、神の国と神の義を求めて生きるということだ。それこそが、神に造られ、神に生かされているあなた方の為すべき業なのだ。ただそのことを為していれば、後のものは必要なだけ与えられる。そして、神の国に生きることこそ、あなた方の幸いなのだ。」

   神の国を求める。これはどういうことでしょうか。神の国とは、天国とも言い換えられる言葉ですけれども、私たち日本人が一般に考える天国のことではありません。死んだら行く花園のような場所のことではないのです。神の国とは、神との愛の交わりであり、神の愛で互いに愛し合う人間同士の交わりのことです。その神と人、人と人との愛の交わりは、創世記2章3章の物語の中心的テーマです。人は、神の戒めを破って食べてはならない木から取って食べることによって、神様との愛の交わりを失い、人間同士の愛の交わりをも失ってしまった、いや自ら壊してしまったのです。その結果、エデンの園から追放されることになります。それは象徴的な言い方をすれば、神の国を失ったということです。人間は自立することを目指して、神と人との愛の交わりを自ら壊してしまったのだし、壊してしまうのです。つまり、その愛の交わりの中に生きる命を自ら壊してしまうのです。「神の愛なんて必要がない。お前はお前の力で生きていける。自立して生きろ。」そのように仕向けるのが蛇に象徴される罪なのです。その罪の言いなりになってしまう人間を、聖書は「罪の奴隷」、罪に仕える罪人だと言うのです。罪人の為す業は、すべて自分を生かすためのものなのですが、実は根本的に誤解をしているために、すべて自分自身を滅ぼすことになってしまうのです。その救いがたき罪人の救いは、一体何処にあるのか。聖書がその冒頭に置いている物語の問題提起は、そこにあります。
 主イエスは、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」と仰いました。それはつまり、罪の赦しを求めなさいということです。神様との愛の交わりを失う原因となっている罪の赦しを求める。そのことが第一のことだと仰るのです。私たちが、何よりもまずその罪の赦しを求めるならば、私たちを愛して下さる神様は、必ず罪を赦して下さり、ご自身との愛の交わりの中に生きる命を与えてくださる。その命を生きなさい。その命をこそ求めていきなさい。そう仰っているのです。
 そして、私たちがいつでも覚えておかなければならないのは、主イエスのお言葉は、どんな言葉でも、言葉だけのものはないということ、あるいは口先だけの言葉ではないということです。主イエスは、口からでまかせのメッセージを語る方ではなく、お語りになったことに全責任を負われる方なのです。
 恐らくどんな宗教でも神様から罪の赦し、罪責の免除とか、汚れの清めとかを頂くためには、犠牲の生贄を捧げたり、奉納物を捧げたり、献金を捧げたりします。そういうものを捧げながら祈るのです。何もしないで赦されたり、免除されたり、清められたりするとは誰も考えません。聖書においてもそれは同じです。旧約聖書の時代には動物や農作物など、一番大事なもの、収穫物の初物や自分が持っているものの中で最上のものを捧げて祈ったのです。しかし、主イエスは、私たちが赦されるために、ご自身の命を十字架の上に捧げてくださったのです。私たちのすべての罪を背負って、代わりに裁きを受けてくださった。犠牲の生贄として、ご自身を捧げてくださった。罪の奴隷であった私たちを買い戻すために、ご自身の命を代価として払ってくださった。ご自身を捧げながら、「父よ、彼らをお赦しください、自分で何をしているのか分からないのですから」と祈って下さったのです。
 人間の大いなる誤解、大いなる錯覚を嘆きつつ、自分で何をしているのか分からない人間の罪の赦しを祈り求めて下さったのです。自分の力で生きることが出来る、最早愛など必要ない、愛など求めるのは弱い人間のすることだ、この世は金さえあれば幸せに生きることが出来る。そういう惨めな誤解の中に生きている罪人の罪が赦されることを祈り願って、主イエスは罪人の身代わりになって死んでくださったのです。そのようにまでして、主イエスは私たちを愛してくださっているのです。そして、ご自身の独り子を、そのような死にあわせてまでして、私たちの罪を赦し、私たちとの愛の交わりを開いてくださる父なる神様がおられるのです。その父なる神の愛を、主イエスはその十字架の死を通して、私たちに示してくださったのです。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」

それが、私たちが為すべき第一のことです。これは端的に言って、主イエスの十字架の下に跪いて罪の赦しを乞い求めなさい、ということです。そして、十字架の愛を信じ、神様を愛し、神様に愛されているように互いに愛し合いなさい、ということです。それこそ、地を耕すこと、神のために働くことなのだ。それこそ荒廃した大地に命を生み出すことなのだ。主イエスは、そう仰っているのではないでしょうか。
私たちはこれから聖餐の食卓を囲みます。この食卓を通して、私たちは主イエスの体と血潮の徴としてパンとぶどう酒を頂きます。主イエスは、ある時、こうおっしゃったのです。

「わたしは命のパンである。」
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」


 神様は、今日も私たちが生きるために、それも神様との交わりの中に肉体の死を越えて永遠に生きるために、十字架の木になる主イエスの命を、食物として与えてくださるのです。このパンとぶどう酒を悔い改めと信仰をもって頂く者に、罪の赦しと新しい命を与えて下さるのです。だから、この食物を頂いて生きる者は、ただ神様に仕えて生きるのです。神様を礼拝して生きるのです。この日曜日の礼拝から始まって、この一週間、ただただ神の国と神の義を求めて、神を愛し、人を愛して生きるのです。そのために、今日も私たちは主イエスの命という絶大な愛をその言葉と霊とパンとぶどう酒を通して頂いているのです。
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