「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
前回、私たちはこの神様の言葉の前半、「園の全ての木から取って食べなさい」という言葉に注目しました。食物が神様から与えられている。その事実は一体何を現しているのか。それを食べて生きる命とは何か。またこの節ではありませんが、「耕し」「守る」という労働とは何か。食べ、労働して生きる人生の目的とは何であるか。また、真の食物とは何か。そういう問題に関して御言葉から教えられたのです。
今日は17節、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という御言葉が、今日、私たちに何を語りかけてくださるのか、ご一緒に耳を傾けたいと思います。
「すべての木から取って食べなさい」とあり、すぐそれに続く形でこれだけは「食べてはならない」とある。食べる、食べないとはどういうことであり、また食べることに関して命ぜられるとはどういうことであるか、そして、「善悪の知識の木」とは何なのか。この問題に立ち入っていくと、抜け出ることの出来ない迷路の中に入り込んでいくような気にもなりますが、しかし、いつか出れることを信じて、ここはどうしても入って行かなければなりません。
私たちはよく「これを最初に食べた人は偉いもんだ」と思うことがあります。たとえば、キノコには毒を含む物もいくつもありますが、毒キノコに限って何だか綺麗で美味しそうだったりするものです。そういうことはしかし、何人もの人が試しに食べてみて分かることです。食べた途端に体中がしびれてしまったとか、吐き気がして倒れてしまったとか、酷い場合は死んでしまった。そういう経験の積み重ねの中で、私たちは食べられるものと食べられないものと区別することが出来るようになったのです。最初の人は、そういうことは分からないのですから、とにかく食べたのです。お腹が減って止むに止まれず食べたのか、心うきうきしながら食べたのか、それは分かりませんが、食べた。そこに実は生死の分かれ目があったのです。食べて生きた人もいるし、食べたが故に死んだ人もいる。
これはしかし最初の場合です。今はこれは食べてはいけない、これは食べても良いということは知識として知っているのです。しかし、たまにではあっても、キノコの中毒で死んでしまったとか、河豚の肝などを食べて死んでしまったとか、そういうニュースを聞くこともあります。その場合は、食べてはならないという教えというか一つの経験知を軽視する、あるいは疑っている、さらに敢えて反抗しているという場合もあるでしょう。「食べられないと人は言っているけれど、そんなことはないはず。ちゃんと一晩水につけて、さらに熱湯で煮沸すれば食べられるはず」とか「俺は何を食べても平気。そんなやわな体ではない」とか、「少しくらい食べても問題ない。この毒のあるところこそ、実は一番旨いんだ」とか、そういうことを思って手を出す。そして、やはりその毒にやられる。こうなると、これは最初に食べた人の偉さとは全く正反対に、「これを食べると必ず死んでしまう」という教えを破った人間の愚かさ、あるいは傲慢さが際立ってきます。そして、人間は愚かなことを繰り返す。これまた、私たちの長年の経験で良く知っていることです。
人間は食べなければ生きていくことが出来ない存在ですけれども、食べることで死ぬ存在であるということもまた事実です。人間の争いの多くは結局食べることを巡ってのことですし、戦争も「平和のため」「正義のため」と言ったところで、結局は、利益のため、富のため、より豊なものを食べるためだと言ってしまって構わない面があります。食べなければ死ぬと思うことで、食べるために殺してしまうということが起こり、人を殺すことで、それまでの自分が死んでしまうということが起こる。
食べて生き、食べて死ぬ人間、食べるために生き、食べるために殺し、殺される人間。そういう人間に向かって、神様は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と仰る。
これは、死んではならないから食べるなと命じておられるということでしょう。神様は人間が死ぬことを求めてはおられない。だからこそ、食べるなと命じておられる。そのことは大事なことですから、ちゃんと確認しておかなければならないと思います。神様は、私たちの死を願ってはおられない。私たちが生きることを願っておられる。だから、こういう禁止命令を出しておられる。そのことは、すべての前提です。そこを疑う時に、神様と人間の関係は崩れ、そのことが人間に死をもたらす場合もあるのです。蛇がエバに疑わせたのも、人間に対する神様の善意であり愛です。
禁令を与える神様の意図が善意であり愛である。それはしかし、今の私たちが聖書を読みながら分かること、あるいはそのように推量していることです。しかし、その禁止命令あるいは勧告を与えられた当初からすべてを分かるわけではないことは事実でしょう。与えられた命令あるいは勧告をどう判断するか、どう解釈するか、それはいつも受け取る側の問題なのです。食べるなという禁止命令の意図と目的をどう解釈し、それを守った時と破った時にどういう結果をもたらすかは、最近流行の言葉で言えば一種の「自己責任」です。
最近の例で言えば、日本国政府の人間が「世界中何処に行ってもいいけれど、イラクのバクダッド周辺にだけは行くな、いくと人質に取られて死ぬことになるから」と言ったのに、敢えてそこに行って文字通り人道支援をしたり、アメリカや政府側にとっては余り好ましくない事柄に関しても取材をしようとする人間が拉致されたことは自己責任なのであって、税金を使って助けるというのは迷惑な話だという意見があります。しかし、他方では、「そこに行くと必ず人質に取られるような危険をもたらした原因は、国民の半数近くが『行くな』と言っていたのに、比較にならぬほどの巨額の税金を投じて自衛隊がイラクに派遣されたことにあるのであって、人質事件の責任はむしろ政府の側にあり、民間の人道支援団体にとっては自衛隊の派遣こそ迷惑な話だ」という意見もある。
「イラクへは行くな、行くと死ぬ危険性がある。あるいは人を殺す危険性がある。」そういう命令あるいは勧告は、政府側の人間と、そうでない側の人間とがそれぞれ全く異なる意味と目的をもって出しているのですが、それをどう受け止めるかは、やはりそれぞれの自己責任と言って良いでしょう。ただしその責任の取り方については色々議論があるのは当然ですし、今はこれ以上触れません。
神様はここで、人が人として生きるために「食べなさい」とか「食べてはならない」と命じておられることは確かなことだと思います。人間が人間らしく生きるとはどういうことであるかと言うと、神様の語りかけに応えて生きるということだと思います。もちろん、ご承知のように3章では神様が「蛇」に語りかけて呪うという場面がありますが、この人間に語りかける「蛇」を野生動物と同じものと考えるわけにはいきませんから、人間だけが神様から語りかけられる存在として創造された。これは確かなことでしょう。その語りかけの中に、人間が生きる上で重要な命令、禁止命令がある。これも確かなことだと思います。
たとえば子を愛する親は、自分の子供の安全に最大の気を遣います。子供によって差があると思いますけれど、一般に小さな子は何でも口に入れようとします。床に落ちているものもそうですし、私の子は気がつけばスリッパの先っぽをしゃぶっていました。そんなことをしたらばい菌が体に入ってしまって病気になるから、スリッパは食べちゃ駄目ときつく教えます。しかし、子供はその言葉を聞くことができても、そして、即物的な意味で今目の前にある、親はスリッパと呼んでいるこのものを舐めたりしゃぶったりすることは、どうも親にとっては気に入らないことらしいとは分かるのだろうと思います。しかし、翌日、ふと気がつくとまた玄関に行ってスリッパをしゃぶっている。ということは、スリッパをしゃぶってはいけないという親の言葉の本当の意味や目的は分かっていないということでしょう。それが分かれば、子供だってやはりスリッパはしゃぶらないと思うのです。しかし、ばい菌とは何で、それが体に入るとどうなるかということを目で見たり実際に経験したりしたことがない二歳以下の子供にとって、親の禁止命令の本当の意図が分からないことは致し方ない面があります。そして、「スリッパをしゃぶってはいけない」と言う親の心の中には子を思う愛があることもまだ十分に分からない。しかし、子供は子供なりに、親に言われたことを覚えていますから、禁止された後にしゃぶりに行くときは、親に気づかれないように行きますし、音を立てないようにしゃぶるし、それが見つかったときは、やはりぎょっとしたような顔をします。私の飼い犬もその程度のことはしますが、とにかく、人間というのは、食べるなという禁止命令にしろ、ピーマンや人参を食べなさいという命令にしろ、親の愛から出てくる言葉を聞きながら、人間として成長する、人間として生きていくのではないでしょうか。そして、子を愛する親は子供が生きる上で重要なことは、そのときの子供が分かっても分からなくても、とにかく厳しく命令するのです。特に食べたら危険なものを「食べてはならない」と厳しく命令する。それが親の愛というものです。しかし、その愛による言葉に応答し、従うか従わないかは、子供の自由です。
人間が人間である最大の理由は、神様の愛から出てくる言葉を聞きながら生きるということにあると思います。犬は神の言葉を聞きません。猿も聞かないでしょう。しかし、人間は聞きます。しかし、幸いにも神様の言葉を聞くことが出来たとしても、その後、その言葉にどう応答するのか。それは人それぞれですし、同じ人でもいつでも同じとは限りません。スリッパをしゃぶるなと聞いても、その後、しゃぶるかしゃぶらないかはその子供の自由な判断、自己責任です。変なものを舐めたり食べたりして死んでしまったらどんなに悲しいかと思う親の愛の深さまで、その言葉の奥に聞き取るのか、つまり、「自分は深く愛されている存在なのだ」と聞き取るのか、それとも、「いつもうるさいことを言ってやかましい親だな、あなたは私のことなど愛していないのだろう、だったら好きにさせてくれ」と思うだけなのか?そこで人の生と死は分かれていくでしょう。
「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。神様のこの言葉をどう聴き、どう応答するのか?こういう問の前に立つ、こういう問を抱えつつ生きる。それが人間というものです。この禁止命令に従うのも人間だし、従わないのも人間です。従うことが出来るのも人間だし、敢えて従わないことも出来るのが人間です。そういう自由が与えられていく。そして、自由には必ず責任が伴う。そういう自由と責任、それがここで人間が神様に与えられている事柄だと思います。戒めを与えることで神様は私たちをがんじがらめに拘束しているのではなく、実は、自由と責任を与えてくださっているのです。神様は、人間を愛するが故に、自由と責任をお与えになっているのです。そして、その愛と信頼に応える、応答する人間として生きて欲しいと願っておられる。それは確かなことです。
残る問題は、善悪の知識の木とは何かです。この問題について少しでも本を読めばすぐに分かることですが、この問題を巡って私たち人間はもうずーとずーと考え続け議論をしてきたのです。まさに諸説紛々です。後に出てくる「蛇とは何か」も大問題ですし、創世記2章3章の物語は大問題ばかりで本当に大変ですが、これほど面白いと言うか深い話もないと思います。今ここでそういう研究史をご紹介する暇はないので大部分を割愛しますが、私が今日一つの可能性としてご紹介しておきたいことは、この善悪の知識とは聖書の中では権力者が持とうと欲し、ある意味では持ち得る知識ではないかという解釈です。善悪というと、私たちはすぐに倫理道徳的な意味での善悪を思い浮かべますが、たとえば美味しい食事は善の部類に入り、まずい食事は悪の部類に入るでしょう。受験に成功することは善いことだし、失敗することは悪いこと。そういうふうに全てのものを善と悪の二つに分類することも可能です。そういう思考方法の中では、「善悪の知識」というのは、世界のすべてを把握する知識と言っても良いわけです。
この創世記2章3章が書かれたのは、イスラエルの歴史においては、ダビデ王やソロモン王が支配していた時代、つまり最も繁栄していた時代ではないかと言われることが多いのですが、そのダビデに関してこういう言葉が記されています。
「主君である王様は、神の御使いのように善と悪を聞き分けられます。あなたの神、主がどうかあなたと共におられますように。」(サムエル下14章17節)
またソロモンは、王として神様にこう願っています。
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」
この場合、その「善悪を聞き分ける」とか「判断する」とかは、勿論、良い意味で使われているのです。ダビデもソロモンも、神の民を神の御心に従って治めるために、そういうものが自分には必要だと思っている。しかし、その人間が、つまり王の立場に立つ人間が、次第にその当初の思いを忘れていく。先週、私たちがローマ書12章で聞いた言葉を使うなら、次第に「自分を過大評価する」ようになる、「慎み深さ」を忘れるのです。それが人間の現実です。その時、善悪の知識、つまり、世界を把握する知識というものは最も危険なものとなる。これもまた現実です。権力者が、自分は知者だと思い、世界のことは自分が一番良く知っていると思い、悪い奴は叩き潰すしかないと思う時に、一体どんな悲劇が起こるか、それは私たちが長い長い歴史の中で何度も経験してきたことですし、今も経験していることです。そして、裸の王様の物語は誰でもが知っているものです。そして、善悪の知識の木から実を取って食べた時に、人間は、自分が裸であることを知って恥を知ることも、非常に象徴的なことでしょう。
そして、私たちはそのことを政治的な意味での権力者だけに限定して笑ってはいられないことも経験上知っているはずです。私たち人間は、誰もが自分を中心に考えるのです。自分を中心にして世界を見るのです。世界の中心には自分がいるのです。そして、その世界の中で自分は一番偉いのです。実際上の地位とか身分ではそうでなくても、心の中では一番偉いところに立っているものだし、立ちたいと思っているものなのです。だから、人を裁くのです。人を嘲笑うのです。口に出さない人も、心の中では裁き、笑っているのです。人のことはよく見えるのです。その傲慢と愚かさが。だから裁けると思うし、笑えると思うのです。私たちは誰でもその住んでいる小さな領域で裸の王様なのです。違うでしょうか?自分は高ぶったことなどない、人を見下したことなどないと思っている人もいるのですが、そう思っていることと現実とはしばしば違うことに自分で気づいていないだけの場合もあり、そう思うことで実は十分に人よりも優位に立っている自分が分かっていないという場合もあるでしょう。
いずれにしろ、義人(正しい人)はいない。一人もいない。これは事実だと、私は思います。すべての人間が罪人なのです。そして、その罪の内容は、蛇が言っているように、「神のように善悪を知るものとなりたい」ということなのです。世界の中心に立ち、世界を把握し、全てを支配したい。そういう思いです。ここで言う「世界」は一つの家庭でも構いませんし、夫婦関係でも親子関係でも、一対一の友人関係でも構わない。どんな小さなものでも、それは一つの世界です。自分という一人の人間の中にも、実は広大な世界、見果てぬ世界があるのです。その世界の支配者になる。それが、私たち人間が持っている願望です。尽きることのない願望です。自分で自分を生かしたい、自分で自分をコントロールしたい、自分はそれが出来る。さらに人のことをもコントロールしたい。自分にはそれが出来る。そう思うのです。蛇は、これさえ食べればそのようになれる、「神のように」なれると唆すのです。そして、それを食べて神のようになろうとする人間は、人間の姿を失うのです。その命を失うのです。
私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。その原型の一つである最後の晩餐において、主イエスは、パンを裂き、弟子たちに与えながら、こう仰ったのです。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
これは命令です。
そして、杯を渡しながら、こう仰った。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの契約の血である。」
これも命令です。
弟子たちは、主イエスが何を仰っているのか分かりませんでした。この言葉の意味と目的、また主イエスの心が分かりませんでした。それでも彼らは食べて、飲んだのです。その直後に、主イエスは弟子たち全てがその夜の間に主イエスを捨てて逃げ去ることを預言されました。そして、ペトロが三度も主イエスのことを知らないと言うことを預言されたのです。しかし、ペトロを初め他の弟子たちも全て、「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と口々に言ったのです。彼らは、自分を信じているのです。自分がどういう人間であるかを自分は分かっていると思っています。そして、自分を自分でコントロールで出来ると思っているのです。そして、彼らの願望は、エルサレムで王の位に就かれるであろう主イエスの右と左に座ることなのです。その時期は近い、と確信しているのです。彼らは権力者の位に就き、人々から仕えられることを夢見ていました。主イエスの弟子として主イエスに従い、主イエスを通して神の教えを聞き、神の御業に触れながら、神のような善悪の知識を身につけてきたわけで、いよいよその知識を発揮していく時期が近づいたと胸が高鳴る思いでエルサレムに入っていったのです。多くの人々も「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、歓呼して主イエスとその一行である自分たちを迎えたのです。彼らは、今や自分たちは、世界の造り主である神がお選びになったユダヤの民の王になる方の側近だという高揚感に満たされているのです。
そういう彼らに、主イエスはご自身の体の徴としてパンを分け与えるのです。それは、ご自身の力を彼らに分け与えるということでしょうか。これからユダヤ人を統治し、世界を治めていくために力を分けるということでしょうか。違います。主イエスはこれから十字架に掛けられて、その上で血を流しつつ死ぬのです。弟子たちを初めとしたすべての罪人の罪が赦されるために、死ぬのです。罪の結果である裸の恥をさらしながら、神に見捨てられて死ぬのです。罪人の罪が赦されるために、自分は素っ裸にされて十字架の上で殺される。しかし、それこそが神に選ばれた民ユダヤ人の王、世界の中心であり、「神の平和」を意味するエルサレムで即位する王、キリスト。罪と死の支配を打ち破り、愛と命の支配を打ち立てる王なのです。その王が与えてくださる愛、まさに究極の愛の形、それが私たちがこれから食べるパンです。
「あなたのために、主が命を捨てられたことを憶え、感謝もってこれを受け、信仰をもってキリストを味わうべきであります。」
この言葉を真実に聴きつつパンを食べる者。自分の罪を知り、その深さ強さを知り、その罪が神によって赦されるために、主イエスが十字架の上で死んでくださったことを知り、その主イエスが復活して今も私たちの只中に生きてくださっていることを信じて、このパンを食べる者は、永遠に生きる命を与えられるのです。
主イエスはこう仰っています。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は真の食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつも私の内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
私たちは、このパンを食べ、このぶどう酒を飲みつつ、主イエスと一緒に生きるように招かれているのです。いや、命令されているのです。「食べよ」と言われるものを食べ、「食べるな」と言われるものを食べない。そこに私たちの命があり、生きる道があるのです。
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