「人が独りでいるのは良くない」

及川 信

創世記 2章15節〜25節

 

創世記2章に記されている『もう一つの創造物語』を月に一回読み始めて、今日で5回目となります。そして、「人間の創造」に関して、既に3回語ってまいりましたが、今日と来月で2章が終わります。
 今日は、18節から23三節までの御言葉に聴いて参りたいと思います。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 ここでの「人」とは、言うまでもなく、主なる神様によって土の塵から形作られ、鼻から「命の息」を吹き入れられて「生きる者」となった者のことです。土は、ヘブライ語で「アダマ」と言い、その土から造られ、土を耕しつつ生きる者として、人間は「アダム」と呼ばれています。そのように造られ生かされている人、それがここでの人、アダムです。ここまでは簡単にお分かり頂けると思います。しかし、これから話が少し面倒なことになるのですが、ちょっと我慢してご一緒に考えていただきたいと思います。
 聖書の中に出てくる「アダム」という言葉が、実に含蓄の深い言葉であることは皆さんもご承知だと思います。アダムと聞けば、恐らく誰もが、「最初の人間」を思い浮かべると思います。しかし、その時、皆さんは、アダムが男だったと思うでしょうか。ここが一つの問題です。今日の箇所を読む限り、そのように読めるような読めないような微妙な感じがします。そのことは後で触れますけれど、とにかく、彼は女が創造されて以後は、明白に男として登場します。女の創造以後のアダムは、たしかに男です。そして、アダムは後にエバと呼ぶことになる女と結婚しますからエバの夫という面も持つことになります。さらに4章に進めば、親という身分を持つ者ともなるのです。
つまり、アダムは、最初は人類一般を代表する存在として登場し、次に最初の男となり、最初の夫、最初の男親ともなるのです。もちろん、結婚後のアダムという名前は、その男であり夫であり親である人間の固有の名前です。何故、今こんなことをごちゃごちゃ言うかと言いますと、今日の箇所はしばしば「男からの女の創造」と言われるのですが、私は、事はそんなに単純なものではないと思うからです。
 たしかに、新約聖書のコリントの信徒への手紙の中で、パウロは「男が女から出て来たのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです」と言っています。現代の私たちにとっては、パウロの旧約理解には、困惑させられることが多いし、特に男女間の秩序や結婚観に関しては、そのまま受け入れることは出来ないと思う箇所があります。しかし、それらの言葉の中には、彼自身が、「これは主が言うのではなく、私が言うのだが・・」と注釈をつける場合もあるわけですけれど、その彼が、先程の言葉を語った直後に、こうも言っていることを、私たちは忘れてはならないと思います。

「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」

 この場合も、女から生まれる「男」は、最初の人間としての「アダム」ではないことは明らかです。アダムは女から生まれたわけではありませんから。しかし、「女が男から出た」という場合の「男」は、最初の人間としての「アダム」を考えているとしか考えられません。しかし、ここでのポイントの一つは、男であれ、女であれ、人間は「神から出ている」ということです。人間の命の源、根拠は神にあるということ。そのことを彼は言いたいのです。そのことは、また後に触れることになります。
ついでに言うと、彼が同じ手紙の中で、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされるようになるのです」と言う時、その「アダム」は男でも何でもありません。男も女もない、罪人の代表、象徴としてのアダムです。アダムの罪は、男の罪ではなく、女の罪でもあります。人間の罪です。
 以上のことを頭に入れて、今日の箇所を読んでいきます。

「人が独りでいるのは良くない。」

 この場合の「人」は、アダムに定冠詞、英語で言えば、THEがついた人です。主なる神が地の塵からお造りになり、命の息を吹き入れることで生きる者となった「あの人」という意味です。その「人」が独りでいるのは「良くない」。「良い」という言葉もまた実に多様な意味を持ちますし、また深い意味を持っています。しかし、この場合は、創世記1章で繰り返し出てきた言葉、「神はこれを見て、良しとされた」という意味の「良い」で間違いないと思います。つまり、「良い」とは、「創造の意図どおりになった」、「完成した」、「良い出来だ」という意味です。ですから、「良くない」とは、「まだ完成していない」、「不完全だ」という意味になります。人が独りでいることはまだ完全な状態ではない、そういうことです。 (ここでまた、言わずもがなの注釈を少し入れておきますが、以後、この物語は、男女の話になり、それは必然的に結婚の話にもなります。しかし、男と女が存在する意味が結婚にだけあるのかと言えば、そんなことではありません。もちろん、結婚の意義の重大性がここで語られていることは確かです。しかし、聖書において、結婚しないということが、人間として不完全であると言われているかというと、決してそんなことはありません。主イエスご自身が、「母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」(マタイ19章12節 口語訳)と仰っています。パウロは、結婚はしませんし、その方がキリスト者としては良いと思うと個人的見解を述べてもいます。これは選びの問題とも関係する大きな問題ですが、キリスト教会の中では、独身のまま主に仕える伝統があることは言うまでもないことです。神父さんや、修道士、修道女が、そのことの故に、人間として不完全であると誰が思うでしょうか?人間の不完全さは、結婚しているいないとは全く関係ありません。創世記2章を通して、私たちに与えられている課題は、結婚も含みつつ、人間が男と女に創造されていること、他者との関りの中に生きるように創造されていることの意味を深く受け止めるということです。)
 神様は、続けてこう言われます。

「彼に合う助ける者を造ろう。」

 この「合う」という言葉、この意味をどう受け止めるのか、これは大事な問題です。口語訳聖書では、「彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」となっています。「ふさわしい」が、「合う」に当たる言葉です。いくつかの英語訳聖書を見てみると、「彼にフィットする」とか、「彼に似合う」とか、「彼に出会う」とか、「彼のパートナーとして」というような訳がありました。いずれも苦心の作です。
「助ける者」に関しては、大体どの訳も「助ける者」、「ヘルパー」となっています。しかし、この「助け」について旧約聖書の用法を見てみると、私たちが普通に考える「助け」とは意味がかなり違うことはすぐに分かります。時間がありませんから、箇所を読むことはしませんが、詩編には、何度も「主(なる神)こそ、我が助け」「主よ、助けてください」という言葉が出てくることはご承知の通りです。その「助け」が、ここでの「助け」です。つまり、「仕事が忙しいので、ちょっと手を貸して助けて欲しい」というような意味ではない。「その助けがなければ死んでしまう」、そういう意味での助けなのです。主なる神様が助けて下さらなければ、すべてが無に帰す。生きていけない。そういう意味での助けのことをここでは言っている。
その「助ける者」は、直訳で言うと、人に対して真向かいの者、真正面から向き合う者です。それを、「合う」とか「相応しい」とか「フィットする」とか色々と訳しているわけですが、意味は対等に向き合う存在のことです。そういう存在がいないと、人は人として生きることが出来ない。創造は片手落ちのままになってしまう。対等に向き合う存在が、人が人として生きるために、絶対に必要であり、その存在がなければ、命が助からない、救われない。そういう存在を、神様は造ろうと仰る。
そう仰った上で神様は何を為さるのか?これが実に面白い。

「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。」

 この箇所についてもお話をしたいことが沢山ありますけれど、ここでの問題は、動物と人間の類似と相違の問題であり、動物と人間の関係性の問題でもあります。そして、ここにはある種のユーモアがあると言って良いだろうと思います。神様は、最初から動物が、人と対等に向き合う助ける者とお考えになっていたわけではないでしょう。しかし、まずそういう物を造り、それを人のところに持って来て、人が何と呼ぶかを見ておられたのです。人を試す神様、多少笑みを浮かべつつ、試す神様。そういう子供の成長を楽しげに見ている神様の姿がここにはあると思います。
ここで野の獣も空の鳥も、「土で形づくられた」ことになっています。その点で、人間と動物は極めて近い存在です。しかし、その関係は対等かと言えば、やはり、それは違うのです。
 「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、自分に合う助ける者は見つけることが出来なかった」とあります。この中の「呼ぶ」は、実は原語では「名づける」と同じ言葉です。そして、その言葉は、23節の「これをこそ女と呼ぼう」の「呼ぶ」と同じです。ここでは「名前をつける」、あるいは「名前を呼ぶ」ということが問題になっていることは明らかなことです。「名前を呼ぶ」とはどういうことなのでしょうか。
中渋谷教会では、随分前のことだと思いますけれど、教会員の方は名札をつけることを決められたようです。私は着任させていただいて、最初に廊下や階段の上り口に名札が沢山掛かっているのを見た時に、「やっぱり都会の大教会は名前を覚えることが大変だから、こういうものが必要なんだなー」と思いましたし、そして、「これをつけてくだされば、私も最初から名前を呼ばせていただけるな」と思って感謝したのですが、蓋をあけて見ると、実際にはほんの数人の方しかお付けになっておらず、(その数人は以前から知っている方でした)多くの方が、お互いに名前を知らないままになっている。何故、名札をおつけにならないのか。その理由のいくつかも今は分かってきましたけれど、昨年の信仰修養会の講演を開いて以来、私もずっと考えてきましたが、今、再び名札をつけることの検討を始めていただいています。金具が錆びてしまったものは取り替え、サイズや色や形態もいくつか用意して、お好みのものを選んでいただくなり、人によっては自分独自のものを自分自身でご用意頂いてもよいかなんて、楽しく相談しています。しかし、そこで間違ってはならないのは、目的は「名札をつける」ことではありません。「名前を覚える」ということであり、「お互いに名前を呼び合う」ことです。名前を呼ぶということは、その相手との交わりを作るということです。これが大事なのです。お互いに名無しの権平では、関係も交わりも造りようがないのですから。
 しかし、これもまた言うまでもないことでしょうが、ここでアダムがそれぞれの生き物の名を呼んだというのは、たとえば犬なら犬と呼んだ、猫と呼んだ、カラスと呼んだ(この三種類の動物が渋谷では最も目に付く動物で、温かくなってからは、ゴキブリという動物もよく目にしますけれど)ということです。その名を呼ぶことで、人とその動物との関係が出来てくるのです。その関係が深まると、さらに、固有名詞をつけて呼ぶ段階が来ます。私たちがたとえば犬を飼うとしたら、真っ先にやることは名前をつけるということです。「犬、犬、こっちにおいで」という訳にはいきません。それでは飼い主と飼い犬の独特な関係を持つことは出来ないのです。ちゃんと名前をつけて、その名で呼び続けると、犬は呼ばれると飼い主の方に来るようになる。信頼関係が生まれるのです。人間だって同じで、「そこの人、ちょっとちょっと・・」ということでは、関係を結ぶことにはならない。そして、私たちは名前を呼べない人には敢えて近づかないでしょう。だから、教会の中でお互いに名前を覚えず、名前を呼び合わないということは、お互いに関係を持ちたくないということの表現になってしまうのではないでしょうか。もちろん、教会の中で匿名性を保ちたいという気持ちを持つこともあり得ることですが、それがいつまでもということであれば、それこそ不完全なままであり、「良くない」状態だということにならないでしょうか。私たちは、人とか男とか女とか、会員とか長老とか牧師とかいう一般名詞で認識することから始まって、次第にお互いの固有の名を呼び合うようになるにつれて、お互いの関係は深いものになりますし、人格的なものになるのでしょう。
 そういう意味では、ここにおける動物の名づけは、まだ一般名詞の段階です。そして、これが大事なことですけれど、アダムが一匹の動物を選んで、固有の名前をつけて呼んだとしても、動物がアダムの名を呼ぶわけではないのです。私も、飼い犬を「ウイリー」と呼んで、毎日、「座れ、伏せ、ころり」とか命令し、腹を見せるポーズをとらせて犬の上に君臨する快感を味わっていますが、犬のほうが、私の名を「信」と呼んで、「もういい加減にしろ。私とあなたのDNAは、そんなに違わないんだ」なんて言おうものなら、それはもう対等な関係ですが、そんなことは決してないのです。神様が、そのようなものとして動物を造っておられないからです。しかし、それは今だから言えることであって、この時のアダムは、何とかして、互いに名を呼び合う関係を生きる者、助け合う者を探し求めていたでしょうから、ついに、それを「見つけることができなかった」時は、心底疲れたでしょうし、悲しかっただろうと思います。
 もちろん、神様はそのことを重々ご承知です。神様は、人間にとって、様々な意味で必要な存在として動物をお造り下さり、名付けさせることで、人間が動物との関係の中を生きるようにして下さいましたが、同時に、人間の対等のパートナーは動物ではないことをも知らせて下さったのです。
 そのことを知らせた上で、主なる神が為さったことはこういうことです。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」

 神様は人、アダムを「深い眠りに」落とされました。この眠りは、聖書の中に数回出てきますが、ある学者の言葉を借りると、「人間の自己意識が消滅し、神の意思が顕される状態」のことであり、一種の「仮死状態」のことであり、「象徴的な死でも」あります。その眠りに落とされている間に、女が造り上げられたということは、人間は自分を助ける対等なパートナーの創造に関して、全く関与していないということです。自分で作ったわけでもないし、自分で探してきたわけでもない。そのことに関して、人間は何もしていない、何も知らないということです。「それはただただ神の意思、その御心において為されたことだ」。聖書はそう言っていると思います。
 それじゃ「あばら骨」、肋骨とは何か?明らかに、それは人間の体の一部です。人間を助け、救う存在、対等なパートナーは、人間以外の存在ではない、土から造られた動物ではない、人間でなければならないということです。しかし、その人間が、「手」でも「足」でもない、「肋骨」から取られなければならない理由は何処にあるのか?
 恋心とか愛する心とか、それは人間の何処に宿るものなのか?胸に宿ると、当時の人も考えたのです。胸はレントゲンで見れば、肺と心臓があり、それは空気を出し入れし、血液を循環する内臓なのであって、そんな内臓に恋だとか愛だとかが宿るはずがないなんてことは言わないで下さい。「胸が痛い」とか、「心が熱くなる」とかいう言葉が日本語にもありますし、アラビア語では、心の友、親友、恋人のことなどを「わが肋骨」と言うそうです。
 そういったことをすべて勘案すると、どういうことになるのでしょうか。まず、人を人として生かす存在は人であるということ。そして、その「人」は、人が造ったものではなく、人が一種の仮死状態の中にいる時に神様によって造られ、人が目覚めたときに、神様が連れて来て出会いを与えて下さるということ。さらに、その「人」は、人の愛が宿る胸の一部から取られたものであり、愛することにおいて助けとなり、救いとなる存在であるということ。そして、その人と出会う時のアダムは、それまでのアダムではないということも大事なことです。この時のアダムは、死んで生き返ったアダムであり、同時に、身体的にもあばら骨が抜かれているわけですから、以前とは違う存在にされているのです。そしてそのことは、人が他の人と真正面から向き合って愛し合う人間になる時、その人はそれまでの人間ではあり得ないということを象徴していると思います。何か根本的なところで変えられているのです。そうでなければならない。そうでないとすれば、それはここで言う意味での男女の出会いにはなりません。
 今、「男女」と言いました。それは22節に、「女を造り上げられた」とあるからです。それじゃやっぱり、男から女が造られたことになるじゃないかと疑問が生じるでしょう。しかし、アダムは、ここで女が造られた時に、男になったと言えるのです。先ほども言いましたように、私たちは「アダムの罪によって死が入り込んできた」とパウロが言うときに、男であるアダムを考えはしません。人間の代表としてのアダム、性別がないというか、性別を超えた人間、人類の代表としてのアダムを考えます。ここでも、そう考えることが妥当だと私は思います。アダムは、神様によって女が造られた瞬間に、アダムでありつつも、それまでのアダムとは違う人間、男としてのアダムになったのです。つまり、男女の誕生はやはり1章と同じように同時であると言うべきなのだと、私は考えます。これ以後の人間は、現象としては、男も女も、女から生まれるのです。しかし、この時の男と女は、いずれも神によって造られるのです。男は、女が造られることによって造られる。
 これがまた後の蛇の誘惑以降で重要な鍵となるので、一言申し上げておきますが、ここで聖書が「女から男を造った」とか、「生まれた」と言わない理由があると思うのです。それはひょっとしたら、文書の書き手が男だし、当時は男系社会、父系社会だから、女から男が出たなんて耐えられないと思ったからだという説明もありますが、私はそうではなくて、ここには女という性、母性を崇める宗教に対する否定があると思います。当時の人だろうが何だろうが、命を生み出すのが女であることは分かっています。この後、アダムは妻である女をエバ(命)と呼ぶようになります。それは3章20節のことですが、そこにはこういう理由が記されています。

「彼女がすべて命あるものの母となったからである。」

 当時も今もそうですが、命を生み出す性である女を神に見立てる信仰はごく自然なものとして存在します。女神、母神を拝み、安産や多産を願う。それは命が性の営みから生まれることを前提としています。ですから、その神を拝む礼拝というか祭りの中には、神殿娼婦とか男娼とか言われる者達との性的な交わりが宗教儀式として為されるケースもままあったのです。しかし、イスラエルの唯一神宗教は、そういう不特定多数の間柄における性的な交わりに対しては断固たる否定の態度を取っています。もちろん、後にありますように、夫婦の間の性は祝福のうちあり、そこから命が生まれることはまさに神様の祝福の結果として考えられています。しかし、元来、命は性的な交わりによって「生まれる」のではない。神が「造る」、神様によって「創造される」ものなのだ。そういう主張がここにはあるのではないでしょうか?命は、神の創造物である。私たちは誰もが、神様によって造られた被造物である。だから、私たちは互いに愛し合う。造られた命を愛することは、その命を造って下さった方を愛することです。その愛に生きる時にのみ、人は人として生きる。
聖書においては、赤の他人同士が命をかけて愛し合うことが求められますが、その根拠は、私たち人間は誰でも、神に愛されて命を与えられた存在であるというところにあります。もし、男女の性的な交わりから命が生まれるということだけであれば、その性的な交わりには愛がない場合は幾らでもあるし、愛がない男女の間にも子供が生まれることは珍しいことではありません。そして、そのような関係の中で生まれた子供が、想像を絶する悲惨な虐待を受けることが現代では激増していますけれども、命の源が人間にあり、その性の営みにあるのであれば、その人間が、生まれてきた命をどう扱おうが勝手ということになります。しかし、命は、人間が作るのではない。命は、神様が愛をもって造り出したものなのだから、神様のものなのだ。だからこそ、命には、それが誰の命であれ、侵すべからざる尊厳があるのだと宣言しているのだと思います。  そして、次にその女を、神様が「人のところへ連れて来られ」ました。この「人」は、また定冠詞つきの「人」です。今度は、仮死状態を経て、前とは違う人間となり、男となった「あの人」という意味での人です。その「人」が、こう言うのです。そして、これが聖書に出てくる人の言葉の最初のものです。

「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 「骨肉」、これは日本語でも肉親のことであり、最も近い血族を表します。ここでは、骨の骨、肉の肉とさらに強調されていますから、もうこれ以上ないほどに強い結びつきをもった存在として女を迎えている言葉です。ある本によると、これは結婚式のときの花婿の言葉であったとあります。つまり、花嫁に対する喜びに満ちた愛の告白です。
 そして、ここでも先程の「呼ぶ」という言葉が出てきます。カッコ内にヘブライ語の発音が記されていますからお分かりのように、ここでも「アダマ(土)」と「アダム(人)」のような一種の語呂合わせがあります。しかしそれは、単なる言葉遊びではなく、互いに依存しあい、助け合う密接な関係を表しますし、この女と男の場合は、さらに対等性を表現しているとも思います。日本語には男性形だとか女性形とか中性形というような区別がありませんが、ヘブライ語やギリシャ語にはそういうものがあります。それで言いますと、イシャーの男性形がイシュとなり、イシュの女性形がイシャーとなるのです。
ですから、ここにおいて、「あの人」、アダムは、神様が創造しようと思っていた通りに女の創造を受け止めたということになります。自分と対等に向き合う存在、(その対等性の中でしか愛は保証されませんが、)その対等の関係の中で愛し合う存在、その愛の関係の中で自分を人として生かしてくれる存在、いや互いに人として生かし合う存在として、神様がお造りになった女を受け止めたのです。
逆から言うと、神様はかつてのアダムを仮死状態の中に置き、愛の宿る胸の骨を抜き取り、新しい存在として造り出したわけですが、その目的の一つがここにあると言うべきでしょう。ここで人は完全、良いものとなるのです。もちろん、そのことは、自分が女として造られた瞬間に男として造られたアダムを、対等な関係の中で愛する時に、女も神様に造られた意図に適う者となるのです。ここに、彼女の言葉ありませんが、彼女はアダムの愛の告白を受け入れることにおいてアダムを愛したことは、24節の「二人は一体となる」という言葉から明らかだと思います。そして、24節は次回、七月の第一週にご一緒に読みたいと思っています。 こういう物語を読んでいる最中に、小学生の女の子が同級生をナイフで殺すという真に痛ましい事件を聞かされました。早速、教育現場での思想統制を強めている文部科学省のお役人などが、例によって命の大切さを教えなければならないなどと通達を出したりしたかと思うと、何とか大臣は、「最近は強い女が出てきたもんだ」という趣旨の発言をして、「これは一般論だ」と言ったりしています。命の大切さ、男と女の関係、それは聖書においては、どういうものなのでしょうか?
文部科学省の方々は、どう考えておられるのか、私は正確には知りませんが、もちろん人間の命は神のものだとは思っていないでしょう。思っていれば、人が殺し合う戦争を準備するために「君が代」を歌うことや伴奏することの強制などはしないでしょう。
聖書は教えてくれます。私たちの命は神様のものだ、と。神様が造ってくださったのだ、と。その命は、対等な関係の中で愛し合う中で生きるものだ、と。男女は対等である、と。女は、男の仕事を背後で助けるために造られたのではない、と。全存在を生かし合うために男と女は同時に創造されたのだ、と。子供の命の根拠も、神様の愛にあるのだ、と。子供を誰よりも愛しているのは、神様なのだということ。子供は親のものではない、と。神を愛し、神の愛を受け入れ、神が与えてくださった対等な男女が伴侶として結ばれる中で子供が与えられ、その親を通して神の愛を知らされる時に、その子供の命は本来の意味で生きるのだということ。男と女は互いに協力して、その神様から預けられた子供を愛し、育てる務めがあること。そして、それはただ単に肉親の子だけでなく、すべての子供が神様の子なのだから、すべての男女が協力して子供を愛し、自分が生きていること、友達が生きていることがどれほど尊いことであるかを教えなければならないこと。国のお偉方が利益を求めて始める大量殺人を肯定する戦争などには絶対に反対し、子供たちが国家の政策によって洗脳させられて軍国少年少女になるようなことのないように、断固とした態度を取ること。さらに、すべての国民が国民である前に、神によって造られ、生かされ、愛されている「人」であること、互いに愛し合い、助け合うべき人であることを、聖書は、私たちに教えているでしょう。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 この言葉のもつ意味は限りなく広く深いのです。そして、私たちがたった独りになるその時、つまり、死ぬ時、私たちを独りにしないために、神様は御子をお送りくださったのです。私たちを助けるためです。救うためです。私たちを愛し、罪から救うために、御子をキリストとして派遣し、十字架につけて殺し、三日目に甦らせてくださったのです。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる」ためにです。その御子主イエス・キリストが、今日も、私たちの只中にいまして命の食卓に招いてくださいます。感謝して、信仰をもって、そのパンとぶどう酒を頂きたいと思います。その食卓において、私たちはまた一つの愛の交わりの中に生かされるのですから。この交わりが、この国の中で広まっていきますように。「あなたは独りじゃない、主が共にいてくださる。私もあなたと共にいる。主と共に一つとなって愛し合って生きていこう。」そうやってお互いに助け合うために、私たちは造られ、生かされ、招かれ、そして派遣されるのです。
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