「一つの体として生きる」

及川 信

創世記 2章24節〜25節

 

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」



 今日は、この御言葉に集中します。ここで言う男と女とは、神様によって造られた男と女です。神様は土(アダマ)の塵から人(アダム)を造り、命の息を吹き入れて人を生きる者とされました。しかし、その時の「人」は厳密に言うと男でも女でもない人・アダムです。神様は、その「人」に、園を耕し、守る務めを与えられました。そして、すべての木から取って食べても良いが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という戒めを与えられました。これらすべてが、人間にとっては無くてはならぬ不可欠のものです。しかし、これでもまだ人間の創造の目的には適ってはいなかったのです。神様はこう仰いました。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 “人が独りでいることは創造の目的には適わない。人が独りでいれば死んでしまう。救われない。人は助け合う中で生きるものだ。”そういう神様の思いがここにはあります。そして、間に動物の創造という面白い話が入りますが、動物の中には助け手がいなかったので、神様は人を「深い眠り」に落とし、その間に、人のあばら骨から、つまり愛の宿る所からもう一人の人間、女を創造されました。そして、その時、人は男と女に創造されたのです。男から女が創造されたのではなく、人は男と女に創造されたのです。そして、男と女が愛し合うときに、互いに助け合い、救い合うことが出来る時に、神様が人を創造した目的が達成される。そういう流れだと思います。
そして、今日の箇所になるわけですが、ここは一見してお分かりのように、これまでの物語と同じ文体ではありません。24節25節は、明らかにこれまでの物語を纏め、さらに次の物語に繋げる部分です。この部分をどう解釈するかは、2章と3章のエデンの園の物語全体をどう解釈するかに大きな影響がありますから極めて大事な箇所です。

  「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

 ここでは、もちろん、男女の結婚のことが念頭に置かれています。しかし、前回も語ったことですが、いわゆる結婚だけが男女の関係ではありませんし、この箇所が持っている深さや広がりも、結婚だけに限定されるものではありません。しかし、取りあえずは、結婚の問題から入っていきたいと思います。
 聖書が書かれた時代のイスラエルの社会、それは一言で言えば紀元前ということですが、その社会はもちろん長い年月の中で随分変化したはずですが、基本的には男系社会、あるいは父系社会だったと言って良いだろうと言われます。系図に記される名前が男の名だけであることからもそれは分かります。そして、その社会における結婚は、女が男の家に入るという、まあ私たち日本人にとってはつい最近までは常識であった形態でした。
 善し悪しは別として、結婚が家制度を守るために為される社会においては、個人の人格と人権よりも家そのものが大事であり、家の伝統や家督を受け継ぐ者として男児の出産が求められることは当然のことです。そしてそのことが、今の日本の皇室における一つの問題になっていることはご承知のとおりです。個人よりも家の方が大事、さらに国の方が大事という発想、それは時に、人間の尊厳や人格、思想信条の自由を否定しますし、国自体がそういう発想を持つときは、国民の命は国のために捨てても当然ということにもなってしまいます。  そして、もし今日の箇所が、そういう発想が支配的であった時代に書かれていたとするならば、この言葉は実に過激なメッセージを発していると言わざるを得ないのではないでしょうか。
「男はその父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。ここで「離れる」と訳された言葉は、他の所ではしばしば「捨てる」とも訳される言葉です。家制度が堅持される社会に生きる人間にとっては最も緊密であった親子関係を断ち切り、あるいは捨て去り、男は女と、女は男と向き合う。愛し合うことにおいて向き合う。それぞれの背後に親だとか兄弟だとか、何だかんだと色々なものがくっ付いているものですが、それらすべてを振り払って、まさに裸一貫、何も持っていない、身につけてもいない人間同士が結び合う。それが結婚だ、というのです。
この「結ぶ」という言葉は、ぴったりと粘着するという意味だそうです。しかしそれは、定年後の男が、家事も何も出来ないが故に妻の外出を禁止して、まるで「濡れ落ち葉」のようにまとわりつくという意味ではありません。男女が、最も緊密な関係をもって生きるという意味です。そこにはどちらか一方の依存関係があるのではなく、互いに相手を不可欠の存在として受け入れあう。それが人間のあるべき姿、独りでいることは良くないと言われる人間のあるべき姿だ、と聖書は言っているのではないでしょうか。
 これは、本当に凄い言葉です。現代に生きる私たちは「人格」だとか「尊厳」だとか、「愛」だとか、言葉としては何でも知っています。しかし、その知っている言葉を、その本来の意味で生きることが出来ているわけではありません。男女の関係を、一人の人間と一人の人間の関係として、最も緊密なものとして捉え、その人格的愛の交わりを最も大切なものとして生きているかと言えば、そんなことは到底言えないのではないでしょうか。まだまだ男尊女卑の感覚がありますし、家制度の中でがんじがらめになっている場合もあります。現憲法の下では、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴とされる天皇家でも、人格が否定をされているということですし、そういうことを皇太子が言えるというか、言ってしまったというか、言わざるを得なかったところに、(勿論そこには外部にはうかがい知ることが出来ない事情があるわけでしょうが)時代の変化を感じます。しかし、人間の本質はそんなに簡単には変わりません。まだまだ、紀元前1000年頃に書かれたとも言われる聖書の言葉が、一人一人の人間において、一組の夫婦において、一つの国の社会において、実現はしていないのです。
この問題は、また後で帰ってきますが、とりあえず、25節に行きます。

「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

 ここで裸の問題が出てきます。裸とは言うまでも無く性の問題でもあります。私たちは誰でも、基本的に男性として、また女性として人間を生きています。そういう性を持った人間として生きている。私たちは、自分の希望で男性として生まれたわけではなく、女性として生まれたわけでもありません。神様のご計画の中で、それぞれに性を与えられているのです。しかし、幼い頃は、男女の性差はそれほど大きくはありません。幼児は、異性の前で裸でいても少しも恥ずかしいとは思わないものです。そのことは、ある意味で、純真であるとか無垢であると評価されることです。しかし、それは他面からいえば、まだ人間として未熟ということでもあります。まだ自分が何者であるかが分かっていない。そういう状態でもあります。
 ですから、この25節の記述をどう理解するかは大きな、そして難しい問題です。私の知る限り、この箇所を人間の完成形として理解する方向が一つあります。人間とは本来こういう存在なのだと理解するのです。人間は元来、裸であっても恥ずかしがることなどない、そういう存在として創造されたのだ。それなのに、人間は神に背く罪を犯したが故に、欲情を持つようになり、裸でいることが出来なくなったのだ。葉っぱで恥部を隠す人間、性器を「恥部」(恥の部分)と考えざるを得ないということこそ罪の本質であり、神様に創造された人間は元来そうではなかった。罪がなかったのだ。そう考える解釈があります。ひょっとしたら、その考えに基づいて、皆が裸で暮らすヌーディスト村とかいうものがあるのかもしれません。
 しかし、そうなのだろうか、とも思うのです。裸であっても恥とは感じないということは、たしかに純真無垢な人間の姿を現してはいるでしょうが、ヌーディスト村に行く人には罪がないとは誰も思わないでしょう。聖書のこの箇所で書かれている「裸であったが、恥ずかしがらなかった」とは、どういうことか?何を言わんとしているのか?
たしかに、ここにはこの時の人間には罪がないということが暗黙の了解としてあると思います。しかし、これはやはり幼児の姿なのであって、まだ成熟した人間の姿ではないということも了解事項なのではないでしょうか。人間とは、いつまでも裸のままでいることは出来ない。それは、誰もが知っていることです。いつまでも子供でいたいと思っても、そうはいかない。誰でも、好むと好まざるとに拘らず、大人になってしまうし、罪を犯してしまう。そして、大人は子供にはもう戻れないのです。そのすべての人間が共通して経験している現実を前にして、人間の救いは一体どのようにして与えられるのか?そのことを問いかける。それが、聖書の問題だと思うのです。つまり、単純に裸であることが理想として描かれているのではなく、たしかに人間には罪なき状態があったけれど、今は、誰もが罪を犯して裸にはなれない。子供の状態に単純に帰れるわけではない。しかし、そういう人間が、どうすれば一つの体となるほどに互いに愛し合うことが出来るのか?その問題がここで問われているのだと思います。たった二節なのですが、改めて考えてみると、とても一回で出来るところではなく、裸の問題は次回にも引き続き考えていきたいと思います。
 再び24節に戻りますが、25節が「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と過去形で書かれているのに対して、24節は、「結ばれ」「一体となる」と未完了形、つまり、この時に完全にそうなっていたわけではない。これからなっていくはず、なっていかねばらないという形で書かれていることには重要な意味があると思います。「一体となる」とは、この時のアダムとエバにおいて実現したのではなく、今後実現していかねばならないことであり、そのことが実現しなければ、人は所詮「独り」であり、救われない。人間を創造した神様の目的は達成されない。そういう含みがあるのではないか。そう思います。

  「二人は一体となる」とあります。直訳すると、「二人は(彼ら)は一つの肉になる」です。厳密に言うと、「肉」と「体」は違います。へブル語でもギリシャ語でも使い分けられているのです。しかし、新約聖書の中のコリントの信徒への手紙の中で、パウロはこう言っているのです。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」  (Tコリント六:一五〜一七)

 ここで「娼婦と交わる者は、その女と一つの体となる」は、「一つの体」であり、創世記の引用箇所としての「二人は一体となる」の方は、厳密には「一つの肉になる」と書かれてはいます。しかし、意味は、人が娼婦と結びつけば、その相手と一つになるのであり、主と結びつけば、主と一つになるということです。霊なる主と結びつく体になるということです。(新約聖書の用例を見てみると、「一つの肉」という字を書いて、「一つの体」「一体」を意味する箇所はすべて、創世記2章24節の引用箇所でした。他の「一体」はすべてギリシャ語でも「体」を現すソーマという字が使われています。)
 「一つの体となる」という場合、それは複数の体があることが前提とされています。つまり、私たち人間がばらばらに存在しているということが前提とされているのです。そして、私たちがバラバラになっていることの原因は、私たちの罪にあります。アダムは、禁断の木の実を食べたことを神様に責められた時、かつてこれこそ私の骨の骨、肉の肉と言ったエバのせいにしました。「この女が木から取って、与えたので食べました」と。エバも蛇のせいにしました。「蛇が騙したので、食べた」と。悪いのはいつも自分以外の人間なのです。アメリカはかつてイスラム革命をしたイランと戦うイラクの大統領に最大限の援助をしました。しかし、情勢が変われば同じ人物を悪魔呼ばわりします。日本だってそうだし、何処の国だってそうです。人間はそういうものなのです。悪いのは他国であり、他人です。自分ではないのです。そうやって、皆がバラバラになるのです。味方であった者が敵になるのだし、夫婦であった者が憎み争い、分かれていくのです。一体ではなくなるのです。皆、自分が中心だからです。
 罪人がそのように分裂し、敵対する社会、その社会が、聖書が書かれた当時の人間社会であり、現代の社会でもあるのです。そういう社会になった、そういう人間関係、あるいは民族関係、国際関係になった原因を、聖書は神様の戒めに背く罪、神様の愛と信頼に背く罪に見ます。そうであるが故に、問題は罪なのです。人間の罪がどうにかならない限り、何をしたところで、人間同士は一つの体にはなれないのです。
 新約聖書の中で「一つの体」という言葉が何処に出てくるのか、どの様に出てくるのかを調べてみて分かることは、すべてがキリスト、主との結びつきの中に出てくるということです。たとえば、私たちは今ローマ書の12章を延々と読んでいるのですが、その4節5節にはこうありました。

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 私たち一人一人が、キリストに結ばれることによって一つの体を形作っているのです。これは、逆に言うと、キリストに結ばれなければ、一つの体を形作ることは出来ないということです。もちろん、私たちは「娼婦」という言葉に代表されるこの世のものと交わって「一つの体になる」ことは出来るのですし、実際なっているのです。しかし、その一体性は程なく崩壊するものです。
最近は言われなくなりましたが、たとえば「企業戦士」という言葉がありました。それは利益追求を目的とする企業の中で一体となって働く人のことを言うのでしょう。それは資本主義経済の中では必然的に出てくる人間の姿の一つだと思いますが、そこでの一体は、すべての人を包含するものではなく、ある者を排除し、ある者を蹴落とすための一体でもあります。そして、言うまでもないことですが、それは企業の中に生きているだけのことであり、永遠のものではありません。しかし、キリストに結ばれた一体性は、いつでも何処でも存在し、生死を貫いた永遠のものです。
戦争中は、日本を中心として全世界を一つの家族にするという意味で「八紘一宇」という言葉が使われました。すべての国が神国日本を中心として一体となるという理念です。しかし、それもまた単なる国家エゴイズムであって、すべての人を一つにするどころか、すべての人と敵対するようなことでした。
私たち人間は、あのバベルの塔以来、実はいつも一つになることを志向しています。今も唯一の超大国のアメリカ政府の人たちは、「自分たちの国が持っている価値観の下で、また軍事的な管理下に世界中の人々が入れば、世界平和を達成することができるのに、何故そのことを分かってくれないんだ」と思っているようにも見えます。しかし、そういう人間の企て、権力、武力、富によって一つになろうとする企て、あるいは利益追求という目的によって一つになろうとする企ては、いつも惨めに瓦解するのです。必ず分裂と敵対に終わるのです。それらはすべて人間がこの世において神の如くになろうとして為す罪だからです。罪の結果は、惨めな滅び以外ではあり得ません。しかし、私たちは飽くことなく、この世の中で、滅び行くに過ぎないものと交わり、一つ体になって、結局、分裂と敵対を繰り返してしまう。
 そういう私たちの世界に、神様がお送りくださったのが独り子、主イエス・キリストです。この方は何をして下さったか?エフェソの信徒への手紙の中に、こういう言葉があります。

「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 キリストは敵対する罪人同士の敵意を、ご自身の十字架を通して滅ぼし、双方を和解させ、一人の新しい人、一つの体にし、神様との和解を与えて下さったのです。
 「罪」とは、端的に言って神様と敵対することであり、その結果、神様と敵対する人間同士が互いに敵対するということです。どんな時代のどんな戦争も神の名の下に行われ、神は私の味方だと言いながらやるのですが、そのほとんどが、実は神に敵対している者同士が、神の名を利用しながら、自分のためにやっている。戦争だろうが夫婦喧嘩だろうが、その内実は大抵の場合は同じです。そういう愚かにして惨めな罪人が、互いに和解するためにはまず何よりも神様との和解が必要なのです。神様との平和が必要なのです。その平和を作り出すために、キリストが十字架に掛かってくださった。そこで神に見捨てられるという恐るべき裁きを受けて死んで下さった。その十字架の死が私の罪のためであったと信じ、罪を悔い改めて十字架の前にひれ伏し、礼拝する者は、その罪を赦していただける。それが福音です。そして、その福音に与った者は、互いに十字架の前で、互いの罪を赦し合って和解をすることが出来る、平和を作り出すことが出来る。聖書が告げていることは、そういうことです。
 だから、コリントの信徒の手紙にはこうあるのです。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

 信仰は霊の導きの中で与えられるものです。霊抜きに知識の蓄積で得ることは出来ません。教会は知識も与えますが、学校ではありません。霊の導きの中で、その支配の中で、キリストによってご自身を啓示された神を礼拝するところです。その一つの霊によって、互いに激しく憎み合い、軽蔑し合っていたユダヤ人とギリシャ人が、また、決して同じ食卓で食事をすることのない奴隷と自由な身分の者たちが、共々に一つの体にされている。それが教会です。ここには人種、民族、階級の違いが主の霊において、そして霊に導かれた洗礼によって乗り越えられているのです。
 さらにこういう言葉があります。

「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

 一つの霊の導きによって洗礼を受けた者は、皆、キリストに結ばれて一つの体になるのです。その体を生かすものは何でしょうか。体である限り、飲み食いをしなければ生きてはいけません。呼吸をしなければ生きていけません。神様から与えられる命の息によって、人は生きる者となったのです。教会を生かす霊は主の霊です。十字架と復活を通して罪赦され、神と和解し、互いに和解して一つの体とされた私たちを生かすのは、復活の主イエスの霊です。私たちはその霊を与えられつつ一つの体として生きる生命共同体です。そして、この共同体の食物と飲み物、それは一つの杯、一つのパンです。私たちがこれから与るパンと杯、それは予め小さなカップと小さなかけらに分けられていますが、主イエスは弟子たちの目の前で一つのパンを裂き、一つの杯を回したのです。初代教会の聖餐、洗礼を受けた者たちが主の食卓を囲む時も、一つのパンと一つの杯が裂かれ、また回されたのです。ですから、今もそういう形の聖餐を守る教会もあります。私たちは今、形としてはそういう形を取っていませんが、その心は同じです。主イエス・キリストの一つの体とそこから流された血を頂くのです。そこに託された愛を、命を頂くのです。そのことにおいて、私たちは一つなのです。それぞれ異なる賜物を持ち、男もおり女もおり、社会的な生活のあり様も、経済的事情も、何もかも違う私たちが、そして罪に塗れた私たちが、この礼拝において、そして聖餐に与ることにおいて、一つになる。神様との和解を与えられ、互いに愛し合い、罪を赦し合い一つの体になる。
私たちは、一人一人ばらばらに罪を悔い改め、罪の赦しに与って家に帰るのではありません。一人一人が悔い改め、その許しに与ることを通して、私たちは一つの体になるのです。そして、これからの一週間、それぞれの所で生き、働くのですが、ばらばらに生きているのではないのです。目は口のことを心配し、祈り、足は手のことを心配し祈りつつ一つの体として生きるのです。そして、来週またこの礼拝に集められて、主にあって一つとされている喜びを分かち合うのです。
創世記2章24節の言葉は、主イエス・キリストを頭とする教会において実現する言葉なのです。神様は、この教会に、一人一人の人間を招き入れることを通して、その創造の御業を完成へと導き続けておられるのです。
 最後にコロサイの信徒への手紙の言葉を読んで終わります。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」
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