「いかにもおいしそうな木」
前回私たちは2章の最後を読みました。そこにはこうあります。 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」 ここで言われている一つのことは、この時の人間は、汚れなき純真無垢なる人間であるということです。そういう意味では、ここに人間としてのある種の理想形があると言えるかもしれません。しかし、この純真無垢はまだ未熟であること、あるいは幼稚であることの現れでもあります。そして、男と女の一体性はこの時に実現したものではなく、今後、その実現に向かっていくべきものとして描かれていると思います。一般的には、ここに神様の創造の完成があり、3章以降は、その完成を壊す人間の罪の物語であると言われます。もちろん、そう読む可能性は否定できません。しかし私は、ここは山頂に至る途中の峠のような所で、人間はここから山頂に向けてまだまだ続く困難な登山を続けなければならないことを示していると思うのです。そう思う理由の一つは、2章4節に始まる物語は3章の楽園追放で終わるのではなく、カインとアベル物語を経た4章の終わりまで続いているということにあります。4章の終わり、そこには「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。これは人間が主を礼拝し始めたことを表しますが、そのことがこの物語の頂点だと思うのです。その礼拝に至るまでに、人は一体何をし、神様は何をしたのか。そこで神と人の間に何があったのか。そのことが、この物語のテーマだと思っています。そして、今日の説教もそこに向います。 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』」 もう冒頭から難しくてどうしようもないところです。蛇は喋るのか?という疑問から始まって、何故蛇なのか?何故、最初に騙されるのは女なのか?何故、神は蛇のような被造物を造ったのか?なぜ、蛇が女に近寄り騙すのを黙って見ていたのか?と皆さんも次から次へと疑問は湧いてくるのではないでしょうか。その疑問に対して学者たちは様々な答えを出しています。しかし、それらは見事なまでに千差万別です。そして、そのどれをとっても、それで万事解決というわけにはいきません。皆さんも色々とお考えや見解がおありだと思います。 とにかく、「蛇が喋る」程度のことで躓いていたらきりがありません。ここは「蛇が喋るなんて楽しいな」と思って読んだほうが良いし、8節にも、「風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」なんて、これは楽しいを越えて恐ろしいわけですが、神様は二本の足で地上を歩くのか?なんて思わず、いかにも趣のあるこの表現を楽しんだ方がよい。そういう独特の文学的表現を楽しみ、味わいつつ、そこに込められている信仰的、あるいは神学的メッセージをきちんと聞き取っていくことが出来れば、それは何よりも神様の喜びですし、願いです。神様に喜んで頂くためにも、ちゃんと語りかけを聞き取ることが出来ますように。 蛇、それが何であるか?そのことを問題とすること自体が可笑しなことで、蛇が語ったことの内容こそが問題だと言う人もいます。しかし、私は蛇が何を象徴しているのかを考えることは意味があるだろうと思います。学者たちは、蛇は悪魔やサタンの象徴だとか、堕落した天使のことだとか、神話に出てくる異教の神の象徴だとか、永遠の命の象徴だとか、あるいは人間の内面の声だとか、色々言います。そのいずれにも何らかの根拠があるのです。 たとえば、蛇はサタンであるという解釈について少し触れておくと、蛇はこの後、神様に呪われてこう言われます。 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」 この言葉を受けて、パウロはローマの信徒への手紙の16章20節において、こう言っているのです。 「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」 つい先日まで公開されていた『パッション』という映画の冒頭のシーンは、ゲツセマネの祈りでした。そこには、神の御心が十字架の死であることは分かっていても、その無残な死に向うことに耐え難い苦しみを抱えて、懸命に神様に祈る主イエスがいます。その主イエスに向かってするすると音も無く近づくのが蛇です。しかし、祈り終わったときに、その蛇の頭を思い切りかかとで踏みつけて、グシャっと砕くところから、主イエスの受難が始まっていくのです。そのように、蛇をサタンの化身とする考え方は、新約聖書にも根拠を持っており、後にも言いますように、広い意味でまさにその通りだと、私も思います。 しかし、創世記のこの物語が書かれた当時に、「サタン」というものが、悪魔的存在として人々の中に定着していたのか?と考えると、どうもそうは言えないようです。そして、ここには「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と明確に書かれています。その言葉を重んじると、サタンは野の獣となってしまうのですが、聖書の中ではサタンが動物の姿になって出て来るということはちょっと考えられません。また、サタンは神の被造物かという問いも起こります、それはちょっと言い過ぎじゃないかと思うのです。それじゃ、何か。 「蛇」と聞くと、主イエスの言葉をも思い出す方もおられると思いますが、弟子たちを伝道に派遣するに当たり主イエスはこう仰いました。 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」 しかし、頑なな律法主義者に向けては、こう仰った。 「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」 こういうところからも分かりますように、聖書全体をざっと見ても、蛇はいくつもの面を持っていて複雑な存在なのです。 私自身はどう考えているかと言うと、蛇は永遠の命を象徴し、同時に知恵の象徴でもあると思います。ご存知の通り、蛇は、脱皮を繰り返して生き続けるものです。そして、脱皮した蛇の肌はつやつやです。年齢によってお肌の曲がり角があり、皺やたるみが出てくるのが、人間の、特に女性の悩みの一つであることは昔も今も変わりないのですが、その点蛇は、ある程度の年齢になると、古い皮を捨て去って新たに生まれ変わるのです。そういう意味では、人間にとって真に羨ましくもあり不思議な動物なのです。ですから、皆さんもご承知のようにエジプトの王の冠には蛇がついています。あるいはエジプトに限らず王様が持つ杖の先端が蛇の頭であったりします。それは不老不死を願う人間の願いの現われなのです。そして、古代の王は一般に神であったり神の化身であったりしますが、蛇はそのことの象徴です。 同時に、蛇はその長寿の故に、またあの独特の鋭い目を見ても、賢い動物、深い知恵を持った動物と思われてもいました。実際はどうか知りませんが、少なくとも私のうちの犬より蛇の方が賢そうに私にも思えます。そういう知恵の象徴としても、蛇は存在している。そして、知恵というのは得てして力をも意味しますが、王が持っている特権の一つです。 神様が園の中央に生え出でさせた木が「命の木」と「善悪の知識の木」であることから考えても、蛇は永遠の命と知恵の象徴として、ここに登場していると私は思います。そして、特に「命」との関連で、蛇が誘惑する相手が男ではなく、女であるのだと思うのです。 先程の蛇の言葉の前提になっているのは、アダムに与えられた神の戒めです。その戒めはこういうものでした。 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 この戒めの背後にあるのは、神様の愛です。人間として生きて欲しいと願ってくださる愛です。そして、人間はこの戒めを守ってくれるはずだという信頼です。戒めは人を束縛し、不自由にすると思われる場合が多いのですが、実はその逆であり、戒めを通してこそ、人間には自由と責任が与えられるのです。何故なら、この戒めは、鉄条網で囲まれ、絶えず銃を持った看守が見張っている牢獄の中で守るべき規則とか命令ではないからです。ここで神様が与えてくださっている戒めは、守るほかにない命令ではなく、ある意味では守るも守らないも自由であるという戒めです。神様は勿論、守って欲しいのです。その戒めを守ることにおいて、神様への愛と信頼を示して欲しいのですし、ご自身との愛と信頼の交わりの中に生きて欲しいのです。しかし、それは人間の自由に委ねられている。その自由をどう用いるか、そこに私たちの人間性が問われるのです。 また、この場合の戒めは、それを守らなかった場合の結果も予め明示されています。つまり、守らねば「死」という結果をもたらすことが告知されているのです。ですから、戒めを守らなければ死ぬという結果を引き受ける責任が与えられているのです。ここにある「自由」と「責任」、それは動物にはありません。人間にだけ与えられたものです。人間だけが、このような自由と責任を伴う戒めを与えられているのです。そして、人間はこの戒めを深い意味で守ることを通して人間として生きるのです。 蛇は、その人間としての生き方を狂わせるために、女に問いかけるのです。戒めを与えた神様の愛と信頼を疑わせるのです。 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 「などと神は言われたのか」は「本当にそんなことを神は言ったのか」と訳せます。それはつまり、「意味不明にして理不尽な戒めを与えて人間の自由を束縛する神を、あなたは何故信じているのか?そんなものが神なのか?そんなものに従う理由がいったい何処にあるのか?」という問いです。こういう問いは、私たちもしばしば受けるものです。「クリスチャンって何て不自由なんだろう?あれもしちゃいけない、これもしちゃいけないなんて、生きている甲斐がないじゃないか?!」みたいに言われることもあります。多くは私たちの信仰理解とは少し違う傾向のクリスチャン像に基づいた批判、あるいは冷やかしです。私たちは他の宗教にあるような食物規定だとか、様々な縁起というものからは全く解放されています。しかし、肉の思いを自由に発散することはたしかに禁じられています。何は汚れているから食べてはならないとか、この日は縁起が悪いから外に出てはならないとか、家が建っている方角が良いとか悪いとか、名前の字画がどうだなんてことは私たちの救いにとっては全く何の関係もないことですが、肉の思いのままに生きることは滅びに繋がりますから、神様は断固として禁じて下さっているのです。しかし、人間にとっては、その肉の思いこそが実現したいものなのです。金銭欲、名誉欲、情欲を初めとして、嫉妬、憎しみ、高ぶり。そういう欲望や思いは誰もが持つものです。そして、その欲望や思いをそのまま行動に現すことが自由だと思うのです。そして、自由でなければ人間ではないと思う。しかし、その自由を生きる時、そこには責任が伴います。様々な欲望や肉の思いを発散すれば、その結果は惨めな空しさです。そして、最後は罪に呑み込まれて死ぬだけです。その空しさと死を引き受ける責任があります。 私たち一人一人を創造し、愛して下さっている神様は、私たちをそのような惨めな死、罪の結果としての死、裁きとしての死に至らせようとはされません。殺すことではなく、生かすこと。それが神様の戒めの目的です。その戒めを神様への愛と神様から与えられた自由と責任を持って守るとき、そこに豊な命の世界が開けてくるのです。しかし、蛇は神様の愛を疑わせ、私たちの生き方を曲げ、死の方向に向わせようとしているのです。そして、少しためらいつつ小さな声で言いますが、その蛇の背後にも神様がおられる、少なくとも神様の黙認があると私は思っています。蛇は神の被造物であり、このエデンの園もまた神の被造世界です。その世界で起こるすべてのこと、それは神の御心に反することであっても、神の知らぬことではないはずです。そういう意味で、蛇の背後にも神様の存在、あるいは神様の黙認があったと思いますし、もっと言うと、神様は予めこういう誘惑が蛇からなされることをご存知であり、その誘惑に人間がどのように答えるのかをご覧になりたいと思っておられたのではないか。あまり声を大にして言えないことですが、私はそう思う。そういう愛があると思うのです。子供にとって危険なこと、ひょっとしたら挫折するかもしれないことはすべて避けさせるのが愛なのか?子供の時は、それで良いかもしれない。しかし、いつまでもそんなことが出来るのか、またすべきなのか?ある種の冒険をさせる。ある程度の危険を承知でこの道を行かせる。可愛い子には旅をさせる。そういう愛と信頼があると思います。 神様はこういう誘惑、あるいは試練に直面させることを通して人間を成長させていこうとされる。純真だけれどもまだ未熟な人間を成長させていこうとされるのではないか。しかし、人間はその期待にいつも正しく応えることが出来る訳ではありません。 女は蛇に答えました。 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 何故、蛇は女に語りかけたのか?これまた色々な解釈があります。もちろん、女の方が騙されやすいからだと考える人(これは必ず男ですが)がいます。しかし、そうなのだろうか?逆に、女さえ騙せば男なんて簡単だということで、蛇はまず女を騙すことに全力を挙げたと考えることも出来ます。実際、男は女から手渡されるままに食べているのです。もし、そうだとすれば、男とは何と惨めなことでしょうか。 女は、神様から直接戒めを聞いてはいない、だからあやふやだ。蛇はそこを突いたと考える人もいます。しかし、そうなのだろうか?とも思うのです。もし、直接戒めを聞いたか否かが問題ならば、神様から直接聞いているはずの男、(この時は、「男」と言うよりは、まだ性別のない「人」と言うべきだと思いますが)が、こうもあっさり女から手渡されるままに食べた理由を説明できません。ですから、直接聞いたか否かが決定的な影響を持っているわけではない。 少し横道に逸れますが、そういうことは、信仰においても同じです。主イエスの言葉を直接聞いたペトロを初めとする弟子たちの信仰が強く、直接見聞きして信じたのではなく、伝え聞いて信じたパウロを初めとする初代教会の人々の信仰が弱いとは考えられないことです。 「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。この「一緒にいた」を文字通りにとれば、男は蛇と女の議論をすぐそばで聞いていたことになります。そうであるとすれば、彼自身も蛇の言葉に説得されていたからこそ、かくもあっさりと食べることになったのではないかと思えます。その方が、ただただ単純に、蛇に騙された女に渡されたから食べたというよりは、男の一人としてまだ救われる感じもします。 しかしそれはとにかくとして、ここで女の返答はどういうものだったのでしょうか。「触れてもいけない」などと神様は仰ったでしょうか。また「死んではいけないから」と仰ったでしょうか。神様は「食べてはいけない」とは仰いましたが、「触れてはもいけない」などとは仰いませんでした。そして、「必ず死ぬ」と仰ったのです。それを彼女は「死んではいけないから」と言い換えました。つまり、ある面は強調し、ある面は弱めている。神様の理不尽さを強調し、戒めを破った後の結果は弱めているのです。「『食べるな』だけでも充分理不尽なのに、『触ってもいけない』なんて、神様はあんまりだ」と言っておきながら、「実を食べたくらいで必ず死ぬなんてあり得ない」と言っているのです。いや、言いたいのです。 もうこれで蛇の思う壺です。蛇は女の心に神への疑いと命を自分のものとしたいという願望が芽生えていることを見逃しません。蛇は即座に急所を突きます。 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 ここはちゃんと主語として「あなたは」を入れたほうが良いと思います。蛇は女の心の中にある疑い、「必ず死ぬなんてあり得ないんじゃないか」という疑いを全面的に肯定し、さらに「あなたは決して死なないのだ」と確言します。そして、神の愛と信頼を俄かに疑い始めた女に向かって、神が戒めを与える動機は愛でも信頼でもなく、「妬み」なんだと吹き込むのです。 「人間が、神と同じように善悪を知る知識を身につけてしまえば、自分の存在価値が無くなる。それが嫌なものだから、善悪の知識を食べることが出来ないようにあなたを縛っているのだ。そんな束縛は無意味だ、捨ててしまえ。捨てたって平気だよ、そんなことで死ぬわけ無いじゃないか?もっと自由になれるんだ。もっと強く、もっと伸びやかに、そして美しく、永遠に生きることが出来るかもしれない。さらに神のように自分で命を創造することが出来る力を持てるんだよ。」 私たちは、こういう提案や説得を真剣に聞いてしまうものです。そして、それには理由があると思います。私たち人間は、創世記1章によれば、神に似せて造られた存在です。2章でも、神自らの手作業で造られ、神の命の息を吹き入れられて生きたものとされた存在です。ですから、私たちの中には神様と似たものがあるのです。ある意味で人間は、神の栄光、神の力を体現する者として創造され、そういう者として生きているのですし、そうでなければならない。そして、そういう人間だけが、神のようになりたい、そして世界を支配したいという願望を持つのです。どんな小さな世界でもよいのです。その世界の中で何でも自分の意のままにしたいのです。そして、その最大のものは命です。自分で命を作り出し、その命を自分の思いのままに生きたり、生かしたりしたい。そして、いつまでも永らえさせる。そのことが出来ればどんなに良いだろうと思う。そのことをする力が欲しい、知恵が欲しい。そう願っているのです。現代の遺伝子操作とか治療による男女産み分けだとか、不妊治療だとか、障害の危険性がある場合は堕胎するとか、そういう知識や技術は、一歩間違えばとんでもないことをもたらすでしょう。しかし、命を自分の思いのままにしたい、自分の人生は勿論のこと、他人の人生も思いのままにしたい、そういう願望が、私たち自身にどれほど大きな危険をもたらすか、しばしば気がつかないのです。 女は(これは男も同じですが)、神様の愛と信頼を疑った上で、神のような善悪を知る知識を身につけたいと願いました。善悪の知識は、旧約聖書においては王が持っている知識であり力であることは既に言いました。そして、女がその知識、また力を発揮する場面はまず第一に出産です。古代社会においては、出産はまさに神秘的な出来事でした。そして、命を生み出す女こそ「女神」として崇められる傾向が強いのです。女が神のようになるのは命の創造においてです。男の問題は4章に出てきますので、その時にします。 女は、蛇の言葉を聞いて改めて禁断の木の実を見ました。すると、 「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」 その木が、他の木と見た目に変わっていたということではないと思います。蛇の誘惑を受けた後で見てみると、そのように見えたのです。私たちも、それまではさして気にならなかったものが、誰かに唆された途端にやたらと気になり始めたりするものです。突然、金がすべてのように思えたり、地位がすべてのように思えたり、あるいは疑いや嫉妬に苦しみ始めたりする場合もある。園の中央の木も、それまでは周りの木と変わることのないただの木でした。しかし、今、それは神の妬みの象徴であり、これさえ食べれば神のようになれる魔法の木になってしまったのです。 そうなれば、女はもう迷いません。即座に手を出して食べました。そして、男にも渡したので男も即座に食べました。もうこの時には、男も神様の戒めの背後にあるのは愛でも信頼でもなく、妬みなんだと思っていますし、相方だけが知識を身につけてしまうのも困ります。女は女で、ここは神様とどうしても違うところなのですが、人間が命の創造をするに当たっては、どうしても異性の助けが必要ですから、男を共同者として求めるのです。4章を読むと分かるのですが、彼女は主なる神と張り合うような意識で子供を生むことになります。そのことのために、男を必要とする。そして、永遠の命の象徴でもある蛇は、命を生む性である女にこそ、神のように命を生み出すことが出来るという誘惑を仕掛ける。そういう企みが入り乱れているのがこの箇所だと思います。そして、蛇に唆された女と男は、互いの打算と言うか、悪知恵による共同謀議によって一体となって行ったのです。しかし、その一体性の内実はどんなものだったのでしょうか。 「二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」 彼らはこの時、裸であることを恥とし始めました。そういう意味で大人になった。つまり、悪知恵を身につけたことによって、葉っぱで腰を覆わないと互いに一緒にいることが出来ない。そういう存在となったのです。互いに愛し合うのではなく、お互いに支配し、利用しようとする間柄の中で知恵を身につけた時、人間は互いに恐ろしい存在となります。そして、そういう人間の姿は、神様の創造の目的とは大いに異なるものです。彼らは、互いに恐れて葉っぱで恥部を隠し、神を恐れて葉っぱの陰に身を隠すものとなりました。これが私たちの姿である。聖書は、そう告げます。 大人にはなった。しかし、純真さを失った。悪知恵は身につけた。しかし、真の意味の知恵、善悪の知識を身につけたわけではない。共に背きの罪に陥った点では男女は一体となった。しかし、彼らは最早裸でいることは出来ない。そして、彼らは共に、神の前に立つことが出来ない者となったのです。 この人間がその後どうなるのか?それが2章以下の創造物語の大きなテーマです。もう時間がありませんから、そのテーマに沿ってお話をすることは出来ません。しかし、ここまで読んできて知らされるいくつかのことの一つを語らせていただきます。 それは、神の言葉は足しても引いても駄目であって、そのまま丸ごと受け入れなければならないということです。女は自分の都合の良いように神の言葉を変更しました。しかし、主イエスは荒野において四十日四十夜悪魔の誘惑を受けたとき、ただただ旧約聖書に記されている神の言葉を盾として戦われました。 神の子なら、石をパンに変えてみろ、という誘惑に対しては、 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」とお答えになりました。 神の子なら神殿から飛び降りてもよ、天使が助けてくれるだろう、という誘惑には、 「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、お答えになりました。 そして、最後に、悪魔は全世界の繁栄を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。すると、主イエスはこう仰ったのです。 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 ただ神の御言葉のみが、サタンの誘惑に勝つことが出来るのです。その言葉に付け足したり、削ったりしてはならないのです。妙なことを強調したり、肝心なことを弱めたりしてもならない。しかしそれは、御言葉を暗記し、呪文のように唱えれば良いということではありません。日々御言葉に親しみ、その導きに従う。それ以外にないのです。つまり、主を礼拝しつつ生きる以外にない。主にのみひれ伏し、従う以外にないのです。 私たちはここ数ヶ月、ローマ書12章をずっと読んできました。そこには、こうありました。 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 これは一言で言うなら、キリスト者にとっては、毎日が礼拝だということです。私たちには、肉を世に捧げて世を拝むか、肉を主に捧げて主を拝むか、その二つに一つしか生きる道がないのです。悪魔の前にひれ伏して、いかにもおいしそうな繁栄を手にいれて、その引き換えに空しい人生を歩み、死ぬか。あくまでも、主イエスの前にひれ伏し、神の口から出てくる一つ一つの言葉を食べて永遠の命に至るか。その二つに一つしかありません。 私たちは誰もが蛇に唆されて、戒めに背き、罪の支配に陥った経験を持っています。しかし、そういう私たちを、罪の支配、サタンの支配から解き放つために、主イエスは肉をもって世に生まれて下さいました。そして、あらゆる誘惑と試練を受けつつ、そのすべてに打ち勝って十字架の死を味わい、そして、復活を通して罪とサタンの力を打ち破って下さったのです。この主イエスを信じ、信仰において主イエスと一体となりつつ、ただ主に仕えて生きる。礼拝を献げて生きる。そのことに集中する。ただその時にのみ、私たちは蛇の唆し、誘惑に勝利することができ、望みをもって生きることが出来るのです。この世を肉体を持って生きている限り、ありとあらゆる誘惑があります。試練があります。それは避けられません。いかにもおいしそうな木は、特別な場所に生えている特別な木ではありません。世の巷のいたるところに生えているのです。そして、蛇は何処にでもいます。しかし、主イエスはさらにそうです。この礼拝堂の中にだけおられるのではないし、ここでだけ語られるのではありません。世の巷でも、家の中でも、どこでも耳を澄ませば、主イエスの御言葉が聞こえるはずです。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」 「あなたの神である主を試してはならない。」 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」 これらの言葉を、これからの一週間、耳で聞き、心で聞き、体で従うことができますように、祈りましょう。 |