「あなたはどこにいるのか」

及川 信

創世記 3章 8節〜19節

 

 何度読んでも、恐ろしい場面です。
 テレビのニュースを見ていると、毎日のように犯罪のニュースがあります。そして、時折容疑者を逮捕したというニュースがある時は、「今後警察は動機などを詳しく調べるとしています」とか、「動機を厳しく追及することにしています」とか、アナウンサーが言います。私は、そういう言葉を聞きながら、そんなことを刑事が追求したところで、何が分かるだろう?本人だって、動機が何か、何故こんなことをしてしまったのか、分からないだろうに・・・と思うことがよくあります。金欲しさに盗みに入るということなら、簡単だと思えます。金が必要だという切迫した状況があり、金が欲しいという思いがあったから盗んだ。そういうことです。しかし、そんな単純なことだって、実際には、同じ状況と思いを持っている人がすべて盗みという行為をするわけではありません。つまり、動機はあっても、盗みを働かない人は沢山いる。むしろ自殺を選ぶ人もいる。動機が同じでも行動が違う場合もある。いわゆる動機だけが行動の理由とはならない。盗み一つとっても、すぐには分からないいくつもの理由があって、盗むという行動を起こすのです。しかし、その一つ一つを自分で分かっているかと言えば、分かっていないものです。しかし、自分が何故、盗むということをしてしまったのか、その本当の理由あるいはすべての理由が分かり、その理由を解決しなければ、訳も分からず同じ行為を繰り返すことになります。色々な言い訳で塗り固めつつ、ある意味で悪いと思いながら、本当のところは悪いとは思わずに、同じことを繰り返す。これはいわゆる犯罪でなくても、私たちすべての人間の現実というか習性ではないでしょうか。私たちは、自分で何をしているか分からないままに、悪を繰り返す。
-  人間が「悪いことをした」と心に感じる時、あるいは「悪いことをしている」と心に感じる時、それはどういう時なのでしょうか。いや、そもそも悪を感じることが出来るとは、どういう能力なのかと思います。人間の中には、悪を悪として認識できない人もいます。私の親しい友人のお子さんは、ある種の人格障害を持っていて、善悪の認識を持つことが出来ません。ですから、本人としてはただ周囲の人間の人気取りのつもりなのですが、得意になって犯罪的なことをしてしまう場合があるのです。そういう現実を聞いていると、善と悪を認識できるということ自体、当たり前のことではないのだと思いますが、通常、私たち人間は、善と悪を知っています。それは小さな時から、ある面では本能的に知っていると言っても良いと思います。しかし、その善悪が鮮明になるのは、私たちが学んでいる創世記の文脈で言えば、戒めが与えられることによってです。神様の戒め、神様の命令が与えられることによって、善と悪が鮮明になるのです。神様の戒めがなければ、善も悪もないのです。法律がない、あるいは適用されない無法地帯には犯罪がない、何をしようとも犯罪にはならないのと同じです。神様の戒めが与えられる時、人間は善悪の基準を持つのです。しかし、その戒めは強制ではありません。戒めを守る自由と守らない自由が与えられているのです。そして、その自由には、責任が伴います。自由に基づいて為した行為に対する結果を引き受けるという責任が伴うのです。その自由は行動の自由だけでなく、思考の自由でもあります。戒めをどう考えることも自由なのです。その自由は、時に大きな危険をもたらすものです。
アダムとエバ、彼らはその自由を用いて神の戒めを破りました。しかし、その時、悪を為したという明確な認識があるのか、それは実はよく分かりません。本人たちもよく分からないのではないでしょうか。蛇の言葉を聞けば、禁断の木の実を食べることは、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」ことですし、その言葉を聞いた上で改めて木を見れば、それは「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆して」いるのです。つまり、食べるに越したことはない。食べることは自分にとってはむしろ善であり、神にとっては面白くないことであると思ったのではないでしょうか。「神様は、人間が神様と同じような存在になることが妬ましいのだ。」それが、蛇の唆しの内容ですから、だとするなら、そんな神様の戒めを守ることが善であるとは思えない。この際、自分にとっての善を追求することが善なのではないか。そう思ったとしても不思議ではないし、そう思うことも彼らの自由です。
私たちの場合も同じですが、私たちが命令や指示を与える人間に対する信頼を持てないのなら、その命令を守る意味は半減します。心から信頼できる目上の人であるなら、その人から多少理不尽なこと、あるいはいまひとつ意味が分からないことを言われたとしても、「きっと何か深い意味があるに違いない、今はとにかく従おう」と思うものです。しかし、相手に対する信頼が揺らげば、従う理由はなくなります。命令に背くことが悪いことであると分かっていても、命令を出す人への信頼がなければ命令そのものが悪に思え、悪に背くことが善になります。そういう構造、心理構造も含めて、そういう二律背反構造がここにはあるように思います。一方では悪だと思っているけれども、他方では善だと思っている。そういう錯覚というか、錯綜状態があると思います。
アダムもエバも、実に複雑な、自分たちでもどう説明したら良いか分からぬ思いを持っていたのではないでしょうか。「あの木の実を食べて一体何が悪いんだ」という思いと、やはり戒めを破ったことは事実ですから、その違反行為を犯したことに対する負い目、恐れ、を持っている。これはまさに善悪の知識の木を食べたが故に持った思いかも知れません。しかし、一体何が本当に悪いことなのか、そのことを知るまでには至っていない。何が本当の悪なのかという認識、そしてその悪を為したという自覚は、自分が犯した罪の発覚、逮捕と尋問、そして弁明と判決、そして刑の執行という時間の経過のなかで、徐々に与えられていくのではないでしょうか。私は、彼らが一体何をしてしまったかを知るのは、この時よりもずっと後、4章の最後のことだと思っています。つまり、数十年も先のことです。悪の認識、罪の自覚、それはそう簡単に持ち得るものではありません。表面的な意味で実に浅はかな理解として悪いことをしたと思うことはあっても、本当の意味で知ることは滅多にありません。悪とは何であり、自分が悪を為したことを本当に知るためには、必ず他人の犠牲あるいは自分自身の損害(痛み)が必要なのです。そういう犠牲とか損害があって初めて、私たち愚かな人間は、自分たちが何をしてきたのかを知るのです。そのことを、人間が知るまで、神様はとことん丁寧に、私たち人間に向き合ってくださるのです。悪を為した人間、罪を犯した人間にその悪と罪を知らせるために、そして立ち返らせるために、忍耐と寛容と憐れみをもって向き合ってくださるのです。その忍耐と寛容、憐れみ抜きに、私たちは実は一時も生きることは出来ません。
神様は木の葉の陰に隠れているアダムに問いかけます。

「どこにいるのか。」

 私は、ここは以前の口語訳のようにちゃんと「あなたは、どこにいるのか」と訳した方がはるかに良いと思います。神様は、もちろん、アダムがどこにいるのかなど、先刻ご承知です。わざと問いかけている。「あなたは、どこにいるのか。」この問いかけを通して、アダムに弁明の機会を与えているのです。自分がどうして木の葉の陰に隠れているのか、自ら告白する機会を与えているのです。
 「園の中央の木を食べれば必ず死ぬ。」それが神様の警告です。彼らは食べたのです。だから即座に死刑が適用されても良いのです。しかし、自分のしたことが何であるか分からない人間にいきなり処罰を与えたところで、それは全く意味を為しません。子供であろうが、大人であろうが、「あなたは悪いことをしたんだから、ちゃんと謝りなさい。そして、謝ってすむものじゃないよ。ちゃんと罰は罰としてありますからね」と頭ごなしに言われて、ぶたれたり、食事を抜かれたりしても、不当な仕打ちを受けていると恨みに思うだけです。何が悪かったのかが、本当に分からなければ、本当に謝ることは出来ないし、償うことも出来ないのです。
 アダムとエバは、それまではごく普通に神様との交わりの時を持っていたのでしょう。神様が園の中を歩いてこられたら、「神様は、こんにちは」と言って挨拶したのでしょう。そして、彼ら同士はお互いにまさに裸の付き合いをしていたのです。しかし、善悪の知識を食べた今、彼らはそれが出来ない。いちじくの葉っぱを綴り合せて腰に巻き、恥部を隠しました。蛇が言ったとおり、目が開け、善悪を知り、自分がやったことが悪であることをある程度は知り、恥を知る者となったのです。前々から言っていますように、私は、ある意味では、これは一つの成長でしょう。しかし、その成長は、完成ではありません。成長の過程にはいつも危険があるものです。
彼らが腰に巻いたものは、よく目にする西洋の絵画では葉っぱ一枚が恥部を隠しているようなものが多いのですが、ヘブライ語では、祭司が祭儀を司る時に着る衣装の一部、下半身を覆う腰帯のことだったり、軍人が上半身を覆う鎧と共に腰に巻く腰帯のことです。ですから、恥部を隠すことだけが目的のものではなく、ある種の虚栄というか、自分を美しく、あるいは強く見せるためのものですし、軍人の出陣の衣装であれば、やはり自分の体を防護するためのものでもあります。彼らの目が開けて見えたもの、それは自分たちが裸であるということですが、その裸であることが危険であるということです。これまでは互いに危険を感じなかったのに、今は危険を感じるということです。男は女に危険を感じ、女は男に危険を感じたのです。互いに心の何処かで恐ろしいと感じる存在になったのです。それは、この後すぐに現実になります。犯罪の共犯者は、一方では最も緊密な関係を持っていますが、実は互いに最も危険な存在なのです。裏切りがあるからです。そのことを、彼らは既に心の奥底で感得し始めているでしょう。
「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と言って喜び、感謝し、神様を賛美して歩み始めたアダムとエバの間に、隙間風が吹き始めます。あの時のアダムは今、「どこにいる」のでしょうか?そして、今、彼は一体「どこにいる」のでしょうか。
私たちも、「思えばずいぶん遠くに来たものだ」という感慨を持つことがあります。あるいは「ずいぶん落ちたものだ」と思わざるを得ないことがある。あのころの純心、あの頃の愛、あの頃の希望、それは一体何処で失ってしまったのか?何故失ってしまったのか、何故汚してしまったのか?そう思って愕然とすることがあります。大人になるとは、悲しいかな、一面ではそういうことでしょう。
昨日の夜、佐世保や新潟で起きた小学生による殺人事件や傷害事件に触発され、子供たちの心の中に一体何があるのかを探る「子供たちが見えない」という題のテレビ番組がありました。残念ながら、私はまだ今日の準備が出来ていなかったので最初の10分くらいしか見ることができませんでしたから、何も言う資格もないのですが、敢えて言うと、子供たちもまた大人の心が見えないで困っているし、苛立っているのではないかと思いました。また、大人の姿、つまり、純心さも愛も望みも失っている大人の姿を見ながら嫌気が差しているのに、そういう大人になる外にない自分にも希望が持てない。少なくとも、そういう感じが子供たちの心の中にはあるように思いました。私たちは大人も子供も、大人同士も子供同士も、大人と子供も、互いに遠く立っていたり、すぐ近くにいるのだけれど、互いに腰帯をして恥を隠していたり、威嚇していたり虚栄を張っていたり、葉っぱの陰に全身隠れて見えなくしたりする。お互いに、本当の姿が見えない。どこにいるのか、分からない。
そういう私たち一人一人に、神様は、「あなたは、どこにいるのか」と問いかけて下さる。そして、答える機会を与えてくださるのではないでしょうか。そして、この「あなたは、どこにいるのか」は、招きの言葉であることも事実でしょう。「私の前に立ちなさい。」「あなたの立つべきところに立ちなさい。」そういう招きがここにはある。礼拝もまた、この神様の招きによって始まるのです。その招きをどう聞き、どのように答えるか?そこに、例外なく戒めに背き、罪を犯してしまう私たち一人一人の人間の在り様が決まるのです。
アダムは、神様の戒めを破ったかもしれないけれど、それは戒めそのもののほうがむしろ悪いのであって、私は悪くないと心のどこかで思っている。また、私が最初に手を出したわけではない。私は渡されたから食べただけだ。渡した妻の方が悪い。そう思っている。つまり、自分は悪くないと思っている。しかし、完全にそうとだけ思っているのなら、ここで隠れる必要なんてどこにもないのです。しかし、彼の心の中は、そんな単純なものではありませんでした。

「あなたの足音が園の中で聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

 人の前では腰帯を巻くことで裸の恥を覆うことが出来たとしても、また虚勢を張ることが出来たとしても、神様の前では、そんなものが何の意味も為さないことは、誰だって分かります。人の目を誤魔化すことは、様々手段や道具を使えば出来ます。しかし、神様の前では、そんなことをやっても無駄ですし、やればやるほど惨めなことです。彼は葉っぱの腰帯が何の意味もないことは即座に分かりました。そして、恐ろしさの原因が、神様の戒めを破ったことにあることも分かったのです。神様の戒めを破った者が、つまり、罪を犯した罪人が、神様の前に立つことは、恐ろしいことであり、本来出来ないことなのです。しかし、その神様が、「あなたは、どこにいるのか」と問いかけて下さっている。場所として、何処に隠れているのかということだけが、問われているのではありません。神様との関係において、今、どこにいるのか?と問われているのです。近くにいるのか?それとも遠く離れてしまったのか?帰ってこられるのか、それとも帰ってこられないほど遠いのか、落ちたのか?あなたは、どうしようと思っているのか?帰りたいと思っているのか?この問いかけに、忍耐と寛容と憐れみに満ちた問いかけに対する真実な応答、彼の為すべき応答は一つのはずです。それは自分の違反を認め、謝罪することです。

「神様、ごめんなさい。あなたが食べるなと命じられたあの木の実を食べてしまいました。赦して下さい。」

 そう告白して、赦しを乞うことでしょう。
しかし、私たち人間にとっては、為すべきことが一つであっても、為せることは一つではありません。いくつかの可能性、いくつもの道があります。選択の余地があり、選択する自由があるのです。その自由が保証されない所には罪もなければ、愛も信仰もありません。
 神様は、アダムの答えを聞いて、さらにこう尋ねられました。いや、尋ねて下さいました。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

この問いに対する彼のすべき答えは「はい、食べました。そして、裸であることを知ったのです」以外のものではないはずです。
 しかし、彼はこう答えました。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

 彼は女のせいにします。つまり、「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と愛を告白した妻のせいにする。しかし、それだけではないのです。その「女を造り、共にいるように押し付けたのは、あなたですよね?」と言っているのです。居直っているというか、最近の言葉で言えば「逆切れ」しているのです。「悪いのは私ではない、女が悪い。いや女を造って私のところに連れてきたあなた、神様が悪い」と言っているのです。食べたことは認めるけれど、食べるように仕向けた方が悪い。そう言っているのです。悪いのは自分じゃない。
 一昨日にロシア南部の小学校で起きた悲惨な事件も、武装グループは武装グループとして、言い訳とか言い分があります。私たちの国では全くといってよいほど報道されませんが、チェチェン共和国に存在する独立運動に対して、ロシア軍は徹底的な弾圧をしてきたようです。町は破壊され、多くの人々が殺された。そういう圧倒的な武力による弾圧に対する抵抗は、テロ以外にはない。こちらとしても、やりたくてやっているのではない。こういう卑劣な手段に訴えるしかないように追い詰めている相手が悪い。そういう言い訳と言い分があります。それは3年前の9月11日にアメリカで起こった事件の中でも聞かれる言い訳です。そして、そのテロが、「卑劣なテロを撲滅するため」という美名の下での醜悪な戦争を引き起こす言い訳や言い分を生み出し、それがまたさらなるテロを引き起こすのです。お互いに、「悪いのは自分ではない、あいつだ」と言い合って同じことをする。それが、私たちの現実です。
 「殺すな」という戒めは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教に共通の大切な戒め、神様の命令です。しかし、その命令に背くことを正しい、善いことだと思わせる蛇はあちこちに沢山いるのです。蛇は、神を疑わせる。いや自ら神のようになりなさい、と唆す。そして、その唆しにのった人間にとっては、人を殺すという悪いことをやっても、悪いのはいつも自分以外の人間であり、いつしか、自分は何をやっても正しくなるのです。
 主なる神様は、アダムの言葉を聞いて、女に問いかけます。

「何ということをしたのか。」

 ここも「あなたは、何ということをしたのか」と訳した方が良いと思います。ちゃんと「あなた」と問われなければならないと思うのです。「何ということをしたのか。」「あなたのしたこのことは何か。」
 あり得べき答えは「背きです」しかないでしょう。「神様、私はあなたの戒めに背きました」です。その答えに対して、神様が、「どうして、背いたのだ?」と尋ねてくだされば、「蛇の言うことに騙されました」と言っても当然です。しかし、彼女もまたいきなり責任を転嫁します。

「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 悪いのは蛇なのです。そして、婉曲には蛇を造った神です。「蛇が悪いし、蛇なんか造ったあなたが悪いから食べてしまった。いや食べて当然じゃないですか?!」みたいな感じがここにはあるのではないでしょうか。犯罪者が居直っているのです。自分が悪いと思っていないのですから、当然です。
 自分がやったことが何であるか、そのことを私たちは犠牲が払われるまで分からない、自分自身が損害を被るまで分からないと言いました。アダムとエバの物語はまだまだ続きます。そのことを今日、これ以上辿る時間はなくなりました。しかし、少しだけ言うと、彼女たちの居直りの結果、彼らの子供たちの間で殺人が起こるのです。カインという兄が、親に似て、神をうらみ、神を抹殺したいという罪の思いを隠し、しかし、ついにその思いを弟を殺すという形で実行し、さらにその犯行を隠し、そのことを神様に暴かれても、悔い改めない。そして、エデンの東からさらに遠く離れて行き、さらに悪くなっていく。そういう、親としては耐え難い経験を経て、アダムとエバは、漸くにして深い悔い改めへと導かれていくのです。主を礼拝するものとなっていくのです。その悔い改めに至るまでに一人の子供の命が他の子供によって殺され、その子供は罪を悔い改めることなく遠くに追放されてしまって、二度と会えないという憂き目に遭うのです。そこまで行かないと、人間は自分の罪に気づかず、悔い改めない。そこに絶望を感じます。今の人類の現状を見ても、一体何人死ねば気がつくのかと思って絶望的になります。
 しかし、その一方で、神様の憐れみと忍耐の深さをも思います。神様は、どこまでも忍耐強く、私たちに問いかけ、私たち自身が気づくことを願ってくださるのです。自分が何をしてしまったのか、何をしているのか。そのことを自分で本当に気づくまで、忍耐しつつ問いかけ、そして、忍耐するだけではありません。ご自身が犠牲を払ってくださるのです。
 主イエスは、神様の御子です。御独り子です。神様は、そのたった独りの子を、掛け替えのない子を、私たちの世に送ってくださいました。それは「御子を信じる者が独りも滅びないで、救われるため」です。御子は、ただただそのことのために生きてくださり、そして、ついに十字架に掛かって死んで下さったのでしょう?
 主イエスは、嘲りの中、茨の冠をかぶせられ、ぶっとい釘を手と足に打たれて、血だらけの体を十字架に磔にされたのです。その主イエスに向かって、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲る人々がいます。そういう人々のために、主イエスは、こう祈ってくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 「彼らは自分が神から遠く離れてしまっていることを知りません。自分がどこにいるのか知らないのです。彼らは、自分が今何をしているか知らないのです。どこにいるのか、何ということをしたのかと、問われても、何を問われているかさえ分からないのです。だから、父よ、彼らをお赦しください。私が彼らの身代わりに死んで、罪に対する裁きを受けていることを、いつか知る日が来るでしょう。その日まで、彼らをあなたの忍耐と寛容の中に置いて下さい。あなたの計画の中で、私が復活し、天に昇り、あなたの右に座し、弟子たちに聖霊を注ぎ、彼らが私の十字架の意味を知り、復活を信じることが出来たとき、彼らを通して、私がもたらしている罪の赦しの福音を信じる者が生まれるでしょう。悔い改める者が出てくるでしょう。父よ、どうぞ彼らを赦し下さい。」
 主イエスは、そう祈ってくださったのです。
 主イエスの左右には、主イエス以外に二人の犯罪者が十字架に掛けられていました。その一人は、こう言って主イエスを罵ったのです。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 すると、もう一人の犯罪人はこう言いました。

「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 彼は、自分が何をしてきたか、何ということをしてしまったのかを知っているのです。そして、自分がどこにいるのか知っている。十字架の上にいることを知っているし、その刑罰を受けるのが当然であることを知っている。死に値する罪を犯してきたことを知っているのです。だからこそ、神を恐れるのです。そして、同じ十字架に掛けられている主イエスに、神様の子の姿を見たのです。救い主の姿を見たのです。そして、彼はこう言いました。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 「私は罪を犯しました。だから、こうやって裁かれて当然です。私はその裁きを受けます。しかし、主よ、どうぞあなたは私の罪を赦してください。そして、あなたの御国において新たに生きる者として下さい。お願いします。」彼は、そう懇願したのです。自分の罪を知った者だけが、罪を悔い改めることが出来、罪の赦しを乞うことが出来るのです。主イエスに縋ることを通して神の御前に立つことが出来るのです。
 主イエスは、彼の悔い改めと信仰を見てこう言ってくださいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 楽園、パラダイス。創世記ではエデンの園がギリシャ語でパラダイスという言葉です。罪を犯し、その悔い改めを拒むことによってパラダイスを追放された人間は、十字架主イエスに向かって真実な悔い改めをし、赦しを懇願し信仰を告白する時、たとえどんな罪を犯したとしても、主イエスの十字架の血に清められて、パラダイスに迎え入れられるのです。何と幸いなことでしょうか。
 私たちは、今日も、そのパラダイスへと招かれています。聖餐の食卓に与るとは、そういうことです。真実な悔い改めと信仰をもって与りましょう。そして、「あなたは、どこにいるのか」という問いと招きに答えて、「主よ、私はここにいます。どうぞ、私の罪を赦し、清めて、御用のためにお用い下さい」と告白する者でありたいと願います。
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