「神の裁き、呪い、赦し、忍耐」

及川 信

創世記 3章14節〜24節

 

「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』」



 蛇には、「あなたは、どこにいるのか」という問いかけも、「なんということをしたのか」という嘆きに満ちた問いかけもありません。いきなりの断罪が与えられ、それは「呪い」の形となって現れています。
 蛇は人間ではないからです。蛇は「あらゆる野の獣の中で最も賢い者」でしたが、今、「あらゆる野の獣の中で呪われる者」となりました。祝福が命と関係するとすれば、呪いは死と関係します。賢さは、時に大きな落とし穴に嵌る原因となります。蛇の賢さ、それは自らを呪いに落としてしまうものでした。そして、人間をもその呪いに引き込むためのものでした。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ。」

 何故、最初に女に接近したかというと、女は命を生み出す性だからです。女こそ、ある意味では命の創造者であり、そういう意味で崇められる存在なのです。力の象徴としては男が崇められますが、女は命を生み出す母なる神として崇められるのです。そして、古代世界において永遠の命の象徴でもあった蛇は、その女に命の創造者、そして、支配者になれるぞと唆しました。蛇は女を見事に誘惑しました。女の中に神への疑いを起こすことに成功したのです。
神に似た像を持っている人間の中には、基本的に神のようになりたいという欲求があります。そして、神のようになりたいという欲求は、その最も深い意味では健全なものであり、神様ご自身が求めていることなのです。神様は、神様が人間を愛しているように、人間も神様を愛し、人間同士愛し合い、また神様がお造りになった自然を愛し、保全と管理をすることを、求めておられます。神を愛し、人を愛し、自然を愛し、それぞれ大切にする。それは神の像をもち、神に似せて造られた人間の業です。人間は、神の御業の代行者なのです。そのように生きるところに、他の動物にはない人間の人間である理由があるのです。
しかし、蛇が女に「神のようになれる」と言った場合の「神のように」は、愛とは無関係に、全能の力を持って命を創造し、支配する存在のことです。それは全く似て非なるもの、似非の神です。しかし、そのすり替えに女は乗ったのです。つまり、母なる神になろうとした。
しかし、女が命を生み出すためには、また生存していくためには男の力が必要ですから、その木の実をとって男に差し出すと、(17節には「お前は女の声に従い」とありますから、そこで、「あなたも食べて、一緒に神のようになりましょうよ」とでも言ったのでしょうが)男もすぐに食べました。彼は彼で、自分だけがただの人間では困るからでしょう。
そういう関係性を、女と男が持つ。それぞれがお互いを利用しながら、自分の欲望を実現したということなのでしょう。
その結果は何なのか。それは責任のなすり付け合いでした。男は、女が悪い、そんな女を造って俺のところに連れてきたあなたが悪い、と言い。女は蛇が悪い、そんな蛇を造って野放図にしておくあなたが悪いと言ったのです。責任を目の前にいる女と蛇と、そして、神様自身になすり付けたのです。
そして、今、神様は蛇に対していきなり問答無用の断罪しているのです。ここで、女と蛇、女の子孫、つまり人間との間に敵意を置くとあるのは一体どういう意味でしょうか。これも古代から様々な解釈がありますが、一般的には、女の子孫はキリストのことで、キリストによって蛇のかかとは砕かれる、つまり、罪は打ち砕かれるという解釈がなされてきました。あの映画『パッション』の冒頭シーンでも、そういう場面があります。
しかし、私は、女また人間は、今後もずっと神の如くになろうとする誘惑にさらされ続ける現実を現していると思います。呪われた蛇は、女とその子孫を同じように呪いの中に引き込もうとする。しかし、人間は人間で、今度は何とか、その誘いには乗らないでいこうと戦う。しかし、その決着はそう簡単にはつかない。そういう罪との絶え間ない格闘の現実が、両者が互いに相手の頭やかかとを「砕く」という言葉に現されているのではないかと思います。とどめをさすことがお互いに出来ない。
そういう決着のつかなさが、今日の箇所にはあると思うのです。そして、そのことが、今日の説教題にもそのまま反映しているのです。裁かれているのか赦されているのか、何だか分からない。それは続く女と男への言葉の中で、より鮮明になっていきます。

「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。』」

 16節の前半は、女が妻ではなく、「母」となることに関連しています。命を生み出す性としての女が、その命を生み出すことにおいて苦しみを味わうのは、罪を犯したことに対する神様の裁きだと一般的には解釈されます。それもあるに違いないと、私も思います。しかし、一方で、ある人はこう言います。この「苦しみ」という言葉は、17節の男に対する言葉と同じです。聖書ではあと一回、やはり創世記の5章29節にしか出てきません。そこには、こうあります。「主の呪いを受けた大地で働く我々の苦労を、この子は慰めてくれるであろう。」3章17節の「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」という文章も、「お前は、生涯、苦しみの中で食べ物を得る」と訳することが出来ます。つまり、食べ物を得るための苦しみだけではなく、生きることの苦しみがあって、その中の代表的なものに食べ物を得るための苦しみがあるということでしょう。大地は人間のせいで呪われたのです。死の呪いの中に置かれた大地から命の糧である食べ物を得ることは、大変な苦労です。今までは、園の中のどの木からも取って食べて良かったのですが、今は、顔に汗してパンを得る。直訳は「顔の汗によってお前はパンを食べる」です。しかし、それだけが苦労ではなく、たとえば夫婦関係、さらに4章の問題ですが親子関係、子育ての問題、その他様々な苦しみや苦労が人間の人生の中にはあります。その苦労の中で、女は子をはらみ、子を産むという意味にも取れるのです。
 つまり、苦しみが与えられることが裁きの結果なのですが、その苦しみの内容が、女の場合、妊娠と出産にだけ限定されないということです。そして、妊娠と出産は、女であっても男が必要です。異教の神々は、だから男の神と女の神がいるのです。その性的結合によって命が生まれる、作物がなるのです。それと同じように、女は男を必要とします。だから求めるほかにありません。この場合は、いわゆる男ではなく夫です。妻、女には、そういうある種の惨めさがここにはあります。それは、「彼はお前を支配する」でさらに増すとも言えます。しかし、この「支配する」は、この場合、生殺与奪の権を持った主人が奴隷を支配するという意味ではなく、保つ、守るという意味での支配だと考えられます。妻を守る夫ということです。しかし、ここには微妙に惨めな女の姿が垣間見えるように思います。少なくとも、最初にあった対等に向き合う男女の関係とは違うし、目標とされた「一体となる」ということとも程遠いのではないでしょうか。
 男は男で、自分の罪の故に呪われた大地から食物を得るために苦しまなければなりません。ここには食べるという言葉が何度も出てくるのですが、食べることで犯した罪は食べることに関して償わなければならないということでしょう。そして、自分が食べるだけでなく、妊娠とか出産の苦しみの中にいる時の妻が食べるためにも、彼は顔に汗して食物を得なければならなくなったのです。
 こういう現実は、人間社会の中で、実際によく目にする現実であり、長い歴史を貫いてきた現実であるとも言えます。男は外で働き、家族を養い、女は内で働き、子を産む。そこに男女の役割があります。しかし、これは神様が定めわけではありません。神様が、創造の時に定めたことではないのです。罪を犯した男女に与えられた罰の形態、あるいは彼らが犯した罪の必然的結果なのです。罰としての苦しみ、その苦しみの中の妊娠、出産であり、食べるための労働です。そして、罪の結果としての男女の関係なのです。そのことをよく弁えなければいけません。そうでないと、男は外で働き女は内で働くというのが神様の定めた形であるかのように錯覚し、男女は人間として平等であり、男女共生の社会を作ろうとすることは神様の御心に反するなどという人が出てくるからです。そして、実際、いわゆる保守派あるいはファンダメンタルなキリスト教徒の中には、完全にそう思っている人びとが沢山いるのです。私は、聖書は、そんなことを言っているとは到底思えません。
 そして、最後に、出てくる言葉はこういうものです。

「土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵に過ぎないお前は塵に返る。」


 この言葉から、「罪に対する裁きとしての死がここにある」と長く解釈されてきました。そして、それは神学的には尤もなことです。パウロもローマ書において、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と言っています。しかし、私はここを書いた人は、必ずしもそういう意味だけで書いているとは思えないのです。
 人間の罪の根幹は結局、神のようになるということです。すべてを自分の支配化におき、命すらも意のままにしようとすることにあるのです。それが神であるかどうかは別として、蛇に唆された人間にとっての神とはそういうものです。そして、善悪の知識を身につけるとは、そういう絶対的な力を身につけるということです。その力でもって永遠に生きる。蛇は、そのような存在になれと唆したのです。そして、女は女としてそうなりたいと思った。命を創造し、永遠に生きたいと願ったのです。そして、あの木の実を食べた。
 しかし、その結果、どうだったのか?母なる神になれたのか?違います。彼女は、夫抜きでは妊娠も出産もできないが故に、夫を求め、そして、挙句の果てに夫の保護下に入るのです。つまり、「お前は神でもなんでもない。つまらぬ人間に過ぎないのだ。そのことをよくかみ締めろ」と、神様は仰っていると思います。
 それと同じように、男に対しても、「お前は必死になって働かなければ生きていけない。そして、最後は元々造られた塵に返る存在なのだ。その意味では、野の動物と同じ。そのことを忘れるな」と、仰っているのではないか。そう思います。
もともと、人間は永遠に生きる、肉体的な意味で永遠に生きる存在であるとは考えられていないと思います。それは22節にある神様の言葉からも分かるのではないでしょうか。

「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。」

 神様はこう仰っている。つまり、命の木の実を食べなければ、人は永遠に生きる者ではないということです。そして、それはまだ食べていないのです。
 しかし、ここで覚えておかないといけないことは、先ほどから「人間」「人間」と言っていますが、禁断の木の実を食べる前と食べた後で、人間は本質的に変わった。それも事実です。人間は、神の声に従わず、女の声に従う、野の獣の声に従う存在となったのです。つまり、神に背く存在となった。そしてさらに、その罪を認めず、他人や動物になすり付けるだけなのです。それがこの時の人間の状況です。今まで読んできた神様の言葉は、「その時の人間」に対する言葉です。つまり、罪人に対する言葉です。
 そして、漸く根本的な問題に入ります。今日の問題は、罪人に対して、神様はどういう対処を為さるのかです。
そもそもこの物語、一般に「堕罪物語」と呼ばれる物語の冒頭にあった言葉は何でしょうか。
  「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 こういう言葉です。この言葉が、人間に語りかけられた最初の言葉なのです。聖書の中で、人間に語りかけられた最初の言葉。それが、この戒めです。そして、「戒め」は、人間が生きる上で必要なものです。神様は人間が人間として生きるためにこそ、戒めを与えてくださっているのです。動物に戒めはありません。神様の望みは私たちの生であり、死ではありません。人間が人間として生きるために、戒めはあるし、その戒めを守るか守らないかは人間の自由と責任に委ねられている。そして、この戒めを与えて下さった神様の意図や目的が、自分のため、自分が正しく生きるため、人間として生きるためであると信じるのか、それともあの蛇が言う如く、ここには神の恐れや妬みがあると疑うのかも、人間の自由と責任に任されていることです。
 その自由と責任をもって、男も女も、背きました。犯罪を犯したときにその責任を負える精神状態であったか否か、心神耗弱状態であったか否かが裁判では問われますが、この場合は、明確な意志を持って背いたことは明白です。 だとするなら、その罪に対する裁きは、何でしょうか。それは「必ず死んでしまう」ということであるはずです。つまり、死刑です。
「必ず死んでしまう」と訳された言葉(へブル語ではモース タームース)は、旧約聖書の中で13回使われています。そしてそれは、即座の死を意味しないまでも、ある種の行為に対する報いとしての死に対する警告として使われることが多い言葉です。今は例を挙げる時間はありませんから省きますが、基本的には人間同士の間で使われています。しかし、この場合のように、神様が直接人間に対して使う例がここ以外に三箇所あって、そのすべてがエゼキエル書の言葉です。そこには、こうあります。

「また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。」(エゼキエル書33章14節)

 神様が戒めを与える時、それを破れば「死ぬ」と言われた場合、それは裏を返すと、これを守れば「生きる」ということです。戯れで言っている言葉ではないのです。神様は常に真剣です。生死に関る言葉をいつも真剣に語りかけて下さっているのです。その言葉をそういうものとして聞き、神様を信じて、その戒めを守るか守らないかに、私たち人間の生死がかかっているのです。
 しかし、その場合の「生死」とは何であるかということを考えなければいけません。先ほど、禁断の木の実を食べる前と後では、人間が違うと言いました。神様に創造された当初の人間と、この時の人間では、本質が違うのです。かつては罪がなかったけれど、今はあるのです。肉体的な意味では、かつても死すべきものであることに変わりはないけれども、木の実を食べて以降、神様に背いて以降、生の意味も死の意味もすっかり変わってしまったのです。かつては、園のどの木から食べても良く、祝福された大地を耕すことは、喜びに満ちた労働だったのです。働くことは人間の本質に属します。しかし、今では彼らの罪のせいで大地は呪われ、人間と大地の関係は敵対的になりました。大地から食物を得ることは苦労であり、苦痛なのです。かつては、これこそ私の骨の骨、肉の肉という愛の交わりが夫婦の中にありました。しかし、今、彼らは互いに利用し、互いに支配しようとする間柄になっています。かつては、神様の前に裸で立てましたし、逃げる必要も、隠れる必要もありませんでした。しかし、今は、葉っぱを腰に巻き、さらに葉っぱの陰に隠れたいということになっています。生きる意味も変わったし、死の意味も変わってしまったのです。ここには、かつての人間はいません。神と人と自然との愛の交わりの中に生きていた伸びやかな人間はいない。死んだのです。
 そういう意味では、神様の警告はそのまま実現しました。神様は嘘をついたわけでも何でもありません。ヤクザが脅すように「死ぬぞ」と脅したわけでもありません。本当に起こることを告げておられたのです。彼らは死にました。 しかし、その一方で、肉体の死はまだ来ていない。何故でしょうか?
 先日、数年前大阪の小学校で起きた児童殺傷事件の犯人が処刑されたとの報道がありました。たしか裁判が結審してから一年以内という異例の速さでの刑の執行です。最後まで反省の言葉も、謝罪の言葉もなく、償う気もなく、早く刑を執行しろと法務大臣宛に手紙を書いていたとも言われます。自分がやったことの意味を知ろうとせず、謝罪もしない人間を処罰として殺して、それが償いでしょうか。遺族の方にしてみれば、もちろん、謝ってくれたところで子供が返ってくるわけではないのですから、憎しみや悲しみは消えないでしょう。傷は一生涯本当には癒えないでしょう。しかし、自分の子供を殺した人間が、その行為の恐ろしさに身悶えもせず、痛みを伴う悔悟に身を震わせることもなく、裁判の度に遺族のいる席を睨み付けたり、罵声を浴びせたりする姿を見た上に、ただ処刑されたことを知った時、あれは一体なんだったのか?という、どうしようもない不可解さを抱えて生きざるを得ないのではないかと思います。せめて、後悔して欲しい、自分を責めて責めて苦しんで欲しい、自分が一体どんなに酷いことをしてしまったのか、どれほど深い悲しみを人に与えたのか、取り返しのつかないことをしてしまったこと、償いようもないことをしてしまったことを知って、苦しんで欲しい。自分たちも一生苦しむのだから、あの人間にも苦しんで欲しいと願うのではないでしょうか。その苦しみの中に、罪を犯した人間の償いの道があるのですから。今回の死刑は、一面から言えば、その償いをさせない結果をもたらしたと言えるかもしれません。何も分からず、罪を何も認めていない人間を、ただ殺しただけのように、私には思えるからです。
 アダムは、エバは、自分のやったことを分かっているのでしょうか。自分が神の戒めに背いてやったことは、自分が神様を無きものにしようとしたことだと分かっているのでしょうか。自分を愛し、信じてくれている神様を自分の中で、殺したのだと分かっているのでしょうか。神様の愛と信頼を裏切ったこと、それが神様にとってどれ程悲しく嘆かわしいことかを分かっているのでしょうか。
「あなたは、なんということをしたのか」という神様の問いは、裁判における尋問です。そして、それは自らやったことを自分の口で弁明する機会ですし、赦しを乞う機会でもあります。蛇には与えられていない、人間にだけ与えられている機会です。その機会、チャンスを、彼らはどのように用いたのでしょうか。「女が悪い、あなたが粗悪品を作った。私は悪くない」と言ったのです。女は「悪いのは蛇です。蛇を造ったあなたです。私は悪くありません」と言ったのです。
 木の実を食べたことよりも、この言い訳、開き直りの方が、むしろ罪深いと言うべきかも知れません。神様の怒りは深いのです。嘆きや悲しみも深いのです。
 しかし神様は、私たちに、自分が何をしたのかを知って欲しいと願っておられると思います。何も分からぬままに罪を犯して、すでに本質的には死んでいる人間を、肉体的にも殺して、一体何になるというのでしょうか。神様は裁きつつ、赦し、忍耐して下さいます。「必ず死ぬ」という戒めは、罪人が悪から立ち返ってくるならば、「彼は必ず生きる、死ぬことはない」と仰る神様が与えた戒めです。
 神様は、彼らをエデンの園から追放します。しかし、それは「神のようになりたくて、命を造り、地を支配することをしたいのなら、やってみたらよい」ということだと思います。そのために、神様が皮の服を造ってくださるのです。茨とあざみが生えている地を耕さないといけないのですから。葉っぱだけでは血だらけになってしまいます。しかし、命の木には触れることが出来ないようにして、神様はアダムとエバを追放しました。好きにしてみたらよいということです。
もう時間がありませんし、次回以降の問題ですが、アダムとエバは喜んで出て行きました。この追放はある面から言えば、解放です。好きにやってよいということなのですから。彼らが生きるのは、戒めのない世界です。生きる上で苦労はあるでしょうが、神の戒めはありません。すべて自由です。
しかし、その自由の世界で、人間は何をするのか。それが4章の問題です。すぐに子供を二人作りました。神様に倣って命を創造したつもりなのです。しかし、その子は何をしたのでしょうか。兄のカインは、神様のことが気に入らず、その怒りを弟アベルに向けました。殺したのです。
 神をなき者とする人間は、次に何をするのか。人をなき者とするのです。神などなくても生きていけると思うことは、愛と信頼などなくても生きていけると思うことです。そう思うことによって、人間は既に本質的に死にます。しかし、まだ肉体は生きている。その生きている肉体は何をするのか。人を殺すのです。気に食わない人間、こいつがいると自分は不利益を被ると思う人間を殺すのです。しかし、カインもまた親の子です。全く悔い改めません。そして、親と同じように、生まれ育った地から追放されます。そして、その子孫としてのカインの末裔は、さらに悪くなっていきました。
 アダムとエバは、自由な世界の中、自分たちの力で子供をもうけました。そして、二人の子供を失ったのです。一人は、自分の産んだ子が殺すという形で失い、もう一人は、神様によって「呪われる者」(ここで初めて人間が呪いの対象になります)と呼ばれました。しかし、神の恵みによって死刑にされることはなく生き延びましたが、もう二度と会うことはありません。
皆さん考えてみても下さい。自分の子供が、自分の子を殺す。殺した兄は、どこか遠くの刑務所で終身刑になっているとすれば、誰を恨んだらよいのですか?誰を憎めばよいのですか。他人に殺されたのではありません。自分の子が自分の子に殺されたのです。そして、殺した子は、そのことを反省もしないし、後悔もしないし、「弟がどこにいるのかなんて知りません。わたしが弟の番人でしょうか。冗談じゃない」と居直ったのです。その姿は誰に似ているのでしょうか。自分たちです。自分たちにそっくりなのです。自分たちが、そういう子に育てたのです。「神のようになろう」などと傲慢になった自分たちが、こういう傲慢な子を造ったのです。罪を犯しても認めず、謝罪もせず、赦しも乞わなかった自分たちが、同じような子供を育てたのです。
彼らは、あの禁断の木の実を食べてから何十年もしてから、自分たちがやってしまったことが何であったかを知りました。一人の子の死を通して、もう一人の子も彼らにとっては、死んだも同然です。肉体が生きているだけで交わりはないのですから。そういう経験を経て、彼らは再び子を産みました。その子を「神様に授かった」子として受け止めました。神様が与えてくださったのです。何十年も経って、自分たちの罪がどういうものであったのかを知らされ、悔いた彼らの罪を、神様は赦し、新しい命を授けてくださったし、彼らも命は神が創造し、授けてくださるものなのだと感謝をもって認めたのです。そして、その子にさらに子が生まれ、それはエノシュという名前です。エノシュとは「人」とか「人類」という意味です。そのエノシュが生まれた頃に、人は「主の名を呼ぶようになった」とあります。主なる神を礼拝する人間がここに誕生したのです。ここで人は人となったと言えるでしょう。大きな罪を犯し、何十年もかかって自分のしたことを苦しみの中で知らされ、悔い改めることによってです。
主イエスは、父の全財産の半分をもらって、さっさと家を出た弟息子の話をなさいました。父の戒めがある家など、とっとと出て行きたい。金さえあれば何でも手に入る、自分の才覚があれば面白楽しく生きていける。そう思って財産を要求する息子に対して、父は、考えられないことですが、本当に全財産の半分をやってしまったのです。そして、好きなようにさせました。息子は家を出ました。町で遊びました。酒宴と酩酊と淫乱と好色と争いと妬みが渦巻く世の闇の中で、自分がどこにいるのかも分からぬままに落ちて行きました。そんなことは父には分かっていました。でも、父はすべてをやらせた。
そして、「好きにしろ、俺はもう知らない」と、勘当したのではないのです。待っていたのです。息子が帰ってくるのを毎日毎日待っていたのです。
息子は帰ってきました。もちろん、息子としてではありません。もう「息子と呼ばれる資格はない」とはっきり自覚したのです。あまりの空腹の中で、豚の餌を食べたいと願う。もう動物と同じ所にまで落ちた息子は、ただただ惨めに帰って行ったのです。
父は待っていました。ずっと待っていました。そして、息子を抱きしめて、こう言ったのです。

「食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

 肉体は生きていても死んでいることはあるのです。罪人は、皆そうなのです。しかし、その死んだ人間が生き返ることがあるのです。神の愛の許に帰っていくときに、その復活の奇跡が起こるのです。神の御子、主イエス・キリストの十字架の許に帰ってくるとき時、私たちは神様に抱きしめられ、その腕の中で甦るのです。礼拝は、死人が甦るお祝いの場です。
 その祝いの日まで、神様は忍耐して待っていてくださる。裁きも呪いも、この赦しのためにあることです。
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