「主の正しさと人の正しさ」

及川 信

創世記 4章 1節〜16節

 

 つい先日のことですが、テレビのニュースを見ていたら、アメリカでの出来事が報道されていました。それは体外受精によって双子が生まれたという報道でした。そのこと自体は、精子バンクがあったり、代理母の制度があったり、私などから見れば「何でもありか?!」と言いたくなるような国にあっては珍しいことではないようですが、その双子を産んだ女性が57歳の誕生日を翌日に控えた独身女性であるということでニュースになっていたのです。皆さんの中にもご覧になった方がおられると思いますし、それぞれの感想をお持ちだと思います。その方は、可愛らしい双子を抱きつつ、「これまで生きてきた中で、神様からの最高のプレゼントだわ」と言って喜んでいました。そして、これから子育てをするわけですが、そんな体力があるのかという質問には、「新しい技術を使って若返り、百歳まで生きるから大丈夫。そして、どんな困難なことでも全力でチャレンジすることが大事なのよ」と力強く語っていました。
 出産という出来事は、どう頑張っても男が出来ることではありません。子宮を持っている性である女性だけが出来ることです。しかし、出産という形で生み出される命は、女性が持つ卵子だけで生まれるわけではない。命の誕生のためには男性が持つ精子が必要です。そういう意味からも、命の誕生には男女双方が必要であり、神様が願っている形として、当然の事ながら男女の愛による肉体的な結びつきが必要なのです。地上的な意味での戸籍上はどうであれ、たしかに愛し合っている男女の間に命は誕生し、その愛の交わりの中で育てられ、成長することが、神様の願いだと、私は信じています。しかし、今回の場合は、出産したのは独身の女性であり、精子は見知らぬ男性のものであり、卵子もやはり他の女性のものです。試験管の中で受精させた受精卵をその独身女性の子宮の中に入れて、最後は帝王切開で産んだのです。すべて計画通りで、担当した医者も満足そうでした。そこに「非常に」と言うよりは「異常に」発達した医療技術の成果を見ることは出来るでしょう。しかし、そこに男女の愛の結実を見ることは出来ません。また、神様の祝福を見ることができるのかどうか?疑問にも思います。もちろん、生まれてきた子供たちに何か罪があるわけではないわけですが、この子供たちには、遺伝子的な意味での父親と母親が誰であるかを知る権利はありませんし、知ったところで悲しみが深まるだけかもしれません。彼らの前には、お互いにあったこともない者同士の間で受精した卵を子宮の中で育てて、出産してくれた母親だけはいる。しかし、その母親と愛し合いながら自分たちを育ててくれる父親はいないのです。その母親は、自分が遺伝子的な意味での母親である必要を感じなかったからでしょうし、父親の必要も感じなかったからでしょう。そういう環境の中で子供たちが育てられていくことによって、その子供たちが「自分が何者であるかが分からない」という深刻なアイデンティティークライシスに陥らないのだろうか、と深く憂慮します。もちろん、権利とか自由とかいう観点から言うならば、また国によって違う法律の観点から言うならば、独身の高齢の女性が最新の技術を使って他人の精子と卵子を買い求め、その受精卵を自分の子宮に入れて帝王切開で出産する自由も権利もあり、そこに違法性はないのでしょう。そういう意味で、彼女は「正しい」ことをしている。しかし、その正しさは、いつどのような形で証明されるのか、それは分かりません。
 世の中で起こっている出来事の真相とか真実というものは、時に何十年もしてから分かってくることなのです。罪なき者が間違って裁かれ、犯罪者の罪が発覚することなく、のうのうと生き延びているということも少なくありません。しかし、その不条理もまた、いつの日か神様の裁きの中で糾されていくのです。主イエスが仰る如く、隠れていることで明るみに出ないことはありません。そして、最後には、神様の正しさが貫徹されます。

「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。」

 これがエデンの園の外で人間によって為された最初の行為です。なぜ、彼らはエデンの園の外にいるのか?それは、彼らが神の言葉ではなく、蛇の言葉に従って禁断の木の実を食べたからですし、食べて尚、悔い改めることも赦しを乞うこともなく、男は女のせいにし、女は蛇のせいにして居直っているからです。つまり、彼らは、自分は悪くないと思っている。出来損ないの女を造って連れてきた神が悪い、蛇を造って園の中に生かしている神が悪いと思っている。つまり、自分が正しい。そう思っている人間に対して、神様が為さった処置、それは即座の死刑ではありませんでした。「食べたら、死ぬ」と自ら言われていた木の実を彼らが食べても、主なる神様は彼らを殺したわけではない。神様は、そのような仕方では彼らを裁かなかったのです。前回の説教で語りましたように、神様は悪人の死を喜ばないのです。悪から立ち返るなら、神様はその罪をお赦しになるのです。「悪より、翻って生きよ。」それは、エゼキエルという預言者が神様の言葉として何度も語っていることです。
 しかし、人間が悪から立ち返るためには、自分がやっていることが悪だと認識する必要があります。自分がやっていることは悪であり、その所業の結末は非常に恐ろしいものであることが分からなければ、誰も悪から立ち返りはしません。悪は往々にして、その時その場では、目には美しく、食べるとおいしそうで、賢くなるには好ましいものとして見えるのです。だから、悪を悪と認識することは簡単なことのように見えて、実は最も難しいことであると言うべきだと思います。昨日も、ある悪徳業者の下請けをしていた人物に対するインタヴューの報道を見ましたが、その人物は、「訳の分からないところから来る不正請求書に騙されて、金を払う人の方が悪い」と言うのです。「そういう人間がいるから騙す奴が出てくる」という理屈です。そういう人間にとっては、騙すことは善です。何故なら、そのことによって世間の現実を教えてやっているからです。そういう意味で、彼らのやっていることは自分では正しいのです。正しいことをやっているのだから止めるつもりはない。しかし、そういうあこぎなことをしてぼろ儲けをしている人間の末路はどういうものなのでしょうか?その結果は、いつどのようにして出てくるのかは、本人はもちろん、誰にも分かりません。
 「アダム」とは元々土(アダマ)から造られた「人間」という意味であって、その段階では必ずしも「男」のことではありませんし、その男の固有名詞でもありませんでした。しかし、その人間のあばら骨から女が造られて後、アダムは男となり、またその男の固有名詞になりました。そのアダムが、女を「エバ」と名付けたと3章20節にはあります。「エバ」とは「命」という意味です。「彼女がすべて命あるものの母となったからである」とあります。つまり、女こそが命を生み出す性であるということです。そして、これまでも再三言っていますように、命の創造や操作こそが、人間にとっての最大の願いなのです。自分で命を作り出し、その命を思いのままにしたい。自分の命も他人の命も、自分の思いのままにしたい。生き続けたければ生き続けるし、誰かを殺したければ自分の思いのままに殺す。そういう権限、権能、絶対的な力を持ちたい。つまり、彼らが考える意味での「神のような」力を持ちたい。それが人間の心の中にあることです。その心の奥底を蛇は見通して、「これを食べれば、神のようになれるのだよ」と誘惑をするのです。「神のようになって何が悪い?!」ということです。「自分の思い通りに出来てよいではないか?!」そういう思いにさせるのが蛇の狙いであり、人間はまさにその狙い通りに動いたのです。
 その結果、彼らは園から追放されました。そこに神の憐れみと忍耐があることは既に語ったとおりです。神様は、ある時は、人間の好きにさせるのです。人間の好きにさせる。それがどんなに恐ろしい結果をもたらすか。その現実を人間自身に知らしめる。人間が自分で自分の中にある悪を知らぬまま、それを善だと錯覚したままに悪を解き放つときにどれだけ恐ろしい結果を自らに招くか、そのことを自分で知らない限り、人間は悔い改めることがない。悪い種を蒔けば、悪い実しか刈り取れないことを知るまでは、人間は自分が何をしてきたのかを知ることがありません。そのことを知らせるために、神様は自ら手を下して人を死刑にすることなく、少し危険な言い方をすると、人が人を殺す結果をもたらす可能性の中に人を解き放ったとも言えるだろうと思います。
 その解き放ちの中で人間が最初にやったこと、それが生殖行為であり、出産です。命の創造なのです。

「アダムは妻エバを知った。」

 この場合の「知った」は、性的な交わりを持ったということです。結果、彼女は身ごもってカインを産みます。そして、すぐに弟アベルを産んだと続きます。(カインとアベルの物語は次回に致します。)今日の問題は出産です。
 エバは言います。

「わたしは主によって男子を得た。」

 この言葉は一体何を意味するのでしょうか。この言葉は、通常の解釈では、「私は主なる神様によって男の子を与えられた」という主への感謝の言葉となります。通常の解釈が、そう読めるように翻訳させてしまうのですが、私はここはそう読むのはおかしいと思っています。私はこのエバの言葉の意味は、先入観を持たないで聖書の文脈に沿って考えるべきだし、言語そのものの意味からも考えるべきだと思うのです。
最初に文脈ですが、ここに出てくる男も女も、神に背いて尚、悔い改めるでもなく、赦しを乞うわけでもない人間です。さらに、エバという名は、すべて「命あるものの母」という意味です。「名は体を現す」と言います。ここで彼女は、禁断の木の実を食べる目的であった「神のように」振舞ったのだと、私は思います。前々から言っていますように、女性はしばしば多産をもたらす母なる神として崇められる対象です。そういうことを考えると、エバのこの言葉は、ある面で、自分を名付けるという意味で優位に立っていた男をも凌駕する力を持ったのだという自負と誇りの言葉であるかもしれません。少なくとも、これまでの文脈を見る限り、ここでいきなり神様に感謝する言葉が出てくるほうが不自然だと、私は思うのですが、どうでしょうか?
 また言語の面から言っても、神様への感謝の言葉とは思えない言葉が使われているのです。彼女は、ここで「男子を得た」と言っています。この「得た」と訳されるカーナーというヘブライ語は、「獲得する」という意味が一般的のようですが、しばしば、「創造する」とも訳される言葉なのです。創世記の中で次に出てくるのは、14章です。そこには二度、「天地の造り主」という言葉が出てきます。その「造る」が、カーナーです。「天と地を造ったいと高き神は褒め称えられよ」という形で出てきます。つまり、カーナーとは、神の創造の御業を現す言葉でもあるのです。その業を、今、自分はしたのだ!そういう喜びと自負がここにあったとしても、おかしくはありません。
 また、「男子」とありますが、これは「成人の男」という言葉であって、「男の子」とか「男の赤ん坊」という意味ではありません。
 さらに言うと、「主によって」というのは意訳だと思います。直訳すると、「私は得た、男、主(ヤハウェ)を」となるのです。これでは何を言っているか分からないし、文字通りとるとすれば不遜すぎるということで、古代から「主によって」と訳すようになっているのです。しかし、ひょっとしたら、ここはそのまま「男を造り、また主を捉えた」と言っているかもしれないのです。
 罪を犯した男女の関係、それはそれ以前とは違います。神様の女への裁きの言葉の中に、こういう言葉がありました。

「お前は苦しんで子を産む。
お前は男を求め、
彼はお前を支配する。」


   これは罪に対する裁きの形態です。本来の夫婦の形態ではありません。ここには支配被支配の関係があります。そして、男であるアダムが女を「エバ」と名付けました。名付ける行為は、人格的な関係を持とうとする現われです。名前で呼べない関係はまだ人格関係ではないのです。しかし、名付ける行為は上に立つ者がすることです。この段階では名付ける男の方が女よりも上の立場に立っていると言って良いでしょう。しかし、その名前そのものは、エバ(命)なのですから、アダムはエバのことを、男も女も含めてすべて命あるものの母となる存在として認めているのです。ですから、彼らの間には、そういう微妙な関係がここにはあります。また、男というのは、どこかで母親には頭が上がらないものです。「甘えている」と言えばそうだとも言えますが、自分を産んでくれた存在に対する無条件の畏怖があるからだとか、存在を丸ごと包まれていた時期の無意識の記憶があるからだとか、色々言われます。とにかく、産んでくれたわけではない父親に対する思いとは全く違うものがある。(少し違った形で、娘は父とは母を見るのでしょう。)それは、人格性の問題ではなく、性的な問題です。そういうものが複雑に絡み合った男女の支配被支配、上下の関係の中で、ここで女は、「今こそ私がすべてのものの上になった、命を生み出すことにおいて、男の力をも凌ぎ、神の力を捉えた。」そう宣言している。自分自身を褒め称えているとも言えるのではないでしょうか。こういう解釈はほとんど聞きませんが、文脈と言語の両方から考えて、私はこう考えた方が自然だと思っています。
 女は、まさにここで「神のように」なった自分を誇っているのです。禁断の木の実を食べる時の目的が実現して喜んでいるのです。女性は子供を産んだ時に非常に誇らしい気持ちになる場合があるのではないでしょうか。それは出産が、命がけの大仕事であると同時に、それは女性にしか出来ないことだからでもあると思います。しかし、出産そのものが目的になったり、さらにそのことで自分の力を発揮し、その力を誇りとすることを目的とする時に、人間は大きな過ちに陥っていくのです。
 昨日は、幼児祝福式を行いました。五人の幼子のために、この礼拝堂で神様の祝福を祈りました。命は何のために生まれてくるのか、さらに誰が命の創造者なのか。その創造の目的は何なのか?そういったことを、幼子に説教したわけではありません。彼らには、「イエス様は子供が大好きなんだ」と話したのです。「ちっちゃい子供はお父さんやお母さんが大好きで、その腕の中を目指して走っていく、しっかり抱きしめられると本当に嬉しいし、お父さんやお母さんだって、そうやって子供を抱きしめているときが一番嬉しいんだ。イエス様だって同じだ」と話したのです。「イエス様は、自分のところに寄って来る子供を抱き上げて、頭に手を置いて神様の祝福を祈ってくださる。いつまでもそのイエス様の愛を信じて、その愛の中で育っていくように。いつまでもイエス様を愛し、その腕の中に飛び込んでくる人として大きくなれますように」と話し、そのことを祈りました。
 先日は、若い友人の結婚式に出席しました。その友人は神学生で、お相手は伝道師です。その結婚式の祝会の中で、神学生仲間が歌を歌いました。私は、「時代はここまで変わっているのか」と少しびっくりしたのですが、最近の東京神学大学には「ゴスペル同好会」というものがあり、近い将来牧師になる学生たちが、世界各地で新たに作られているワーシップソングを韓国語と日本語で歌いました。その歌の内容は、「人は愛されるために生まれてきたし、愛するために生まれてきたのだ」というものです。もちろん、結婚された二人に相応しい歌です。しかし、同時に、結婚後に与えられるであろう新しい命を迎えるためにも相応しい歌でしょう。
 人間にとっては、出産そのものが目的ではないのです。人間は自分の願いを実現するために、あらゆる技術を使い、大金を使います。しかし、命は本来、男女の愛の交わりの中で母胎に宿り、生み出されるべきものです。そこに神様の祝福があるのです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福があるのです。その祝福の中で、親たちは子を神の子として受け止め、神の子として心から愛していくのです。自分たちの愛を通して、神の愛を示していくのです。その愛の中で、神と人への愛に生きる人間が育っていくのではないでしょうか。神様の祝福とは、その愛の交わりの中で生まれ、生きる命に対するものなのです。
 神様の祝福など必要としない形でエバが誇らしげに産んだカインという名の子は、その後、どう育ったのでしょうか。彼は、自分の兄弟を殺しました。そして、そのことを悔いることもなく、罪の赦しを神様に乞うこともありません。親であるアダムとエバにそっくりです。彼らは、そういう子を育てた、いや、こういうふうにしか育て得なかったと言うべきでしょう。そのようにして、彼らは彼らの「正しさ」が何であり、どういうものであったかを知っていくのです。出産の日から何年も何年も先に知らされることになったのです。
 私たちもまた、今、正しいと思ってやっていることが、実際どうなのかを知らされるときが来ます。実際に正しいのかもしれないし、そうでないのかもしれません。しかし、私たちキリスト者は、最早善悪を知らない者のように生きてはならないはずです。パウロが言う如く、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを」いつも新たに弁えつつ生きなければなりません。そのためには、先週与えられた御言葉の中にあったように、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝し」つつ生きる必要があります。そして、私たちのすべての言動の基準であるイエス様は、「自分の願いではなく、父の御心だけが実現する」ことを願って、あの十字架に掛かって死んでくださったのです。「自分で何をしているか知らない」罪人の罪を一身に背負って、その罪の赦しを祈りつつ身代わりになって死んでくださったのです。これ以上の愛はありません。人は、この愛を知り、この愛で愛されるために生まれてくるのです。そして、この愛で互いに愛し合うために生きているのです。その愛を知るために、人はどれほどの罪を犯さなければならないのか分かりません。もちろん、それは人によって違うでしょう。しかし、どんな人間でも罪を犯すことなく、主イエスの十字架の死において現れる神の愛、罪を赦してくださる愛を信じることは出来ません。そして、実は、自分が罪を犯していること、悪に染まっていることもまた、この主イエスの十字架の愛を知ることによってしか知り得ないのです。
人間は、自分の罪や悪をこの世の中では知りようがありません。先ほど言った悪徳業者の下請けをやっている人間は、この世を渡り歩いている間は、自分がやっていることが悪であることを知りようがないでしょう。世は悪なのですから、悪の中にいて悪を知ることは出来ません。だから、世の救いのために来られた主イエスの十字架の前に立たないと、私たちはどうにもなりません。
主の十字架の前に立つ。それは2000年前のゴルゴダの丘の上に立つことではありません。その丘の上で悔い改めたのはローマ兵の百人隊長だけです。あとの者は自分は正しいと信じて、主イエスを悪人呼ばわりしていただけです。主イエスの十字架の前に立つとは物理的に立つということではありません。たとえば、この礼拝堂の正面に十字架が立っていたとしても、その前に立てば、自分の罪が分かり、世の悪が分かるわけではありません。聖霊の導きの中で十字架の愛が示されない限り、私たちは、自分の罪も世の悪も何も分からないのです。礼拝の中で語られる説教が、聖霊の導きの中で語られ、聞かれる。また礼拝の中で捧げられる祈り、読まれる御言葉、歌われる讃美、告げられる祝福。すべてを通して十字架の愛が描き出される時に、私たちは初めて自分の罪を知り、世の悪を知るのです。そして、その罪と悪に染まっている自分の汚れが耐えられなくなり、一刻も早くその汚れから清めて頂きたいと願うようになるのです。汚れたままで、この礼拝堂をあとにしたくないという思いを与えられるのです。そして、その時初めて、主に赦しを乞い求めることが出来るのです。礼拝とは、そういうものであり、そのためにあるのです。
パウロはこう言っていたでしょう。

「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(Tコリント14:24〜25)

  言うまでもなく、これは未信者とか求道者にだけ起こることではなく、信仰を何年も生きていることになっている者にも当然起こることですし、起こらねばならないことです。礼拝の中で、様々な形で神の言葉が語られる。その言葉は、ひたすらに十字架において現された人間の罪の結末にある悲惨さと、その悲惨から救う神の愛の偉大さを語り、褒め称えるものです。その十字架の言葉の前に、私たちは初めて自分が何をしてきてしまったかを知らされるのです。そして、そういう自分に主イエスが何をして下さったか、そして今、何をしてくださっているかを知る。その主イエスを信じることによって、私たちは毎週新しく造り替えていただけるのです。罪を清めていただき、新しい命に生かして頂けるのです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Uコリント5:17)

   このことが礼拝の中で起こる。そこにおいて、主の正しさが明らかにされるのです。私たちは、この正しさの前に打ち砕かれて、この正しさの中に造り替えられるのです。そして、自分を誇るのではなく、主を誇るのです。自分を讃美するのではなく、主を讃美するのです。そういう者として、今日よりの歩みを始めることが出来ますように、祈りましょう。 
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