「どうして怒るのか、と言われても」

及川 信

創世記 4章 1節〜16節

 

前回に続いて、カインとアベルの物語に聴いてまいります。前回は、エバがカインを産んだ時の言葉、「わたしは主によって男子を得た」という言葉は、「わたしは男をつくり、主を捉えた」とも訳し得る〈直訳すればこっち〉、実は、主への感謝の言葉ではなくて、むしろ自分自身の出産の力を誇る言葉である可能性を示唆しました。今日は、その続きです。
エバの産んだ子は「カイン」と名付けられました。その意味についての解釈は色々あるようですが、22節に出てくる金属を扱う鍛冶工という意味に近いようです。そして、弟が生まれ、アベルと名づけられます。これは人間が吐く「息」の意味で、儚いもの、すぐに消えてなくなるものという意味であり、「空しい」と訳される言葉でもあります。彼のその後の人生を象徴しているとも言えるでしょう。
 彼らはそれぞれ羊を飼う者と土を耕す者となったと言われます。この二つは、人類にとって古典的な生業です。その二つの生業を営む人々は、互いに依存しつつ、時には利害が対立もする。そういう微妙な関係を生きていたようです。去年は熊の被害が沢山報道されましたが、山に餌があれば、熊だって人里には出てきません。鹿だって、猿だって、そうです。しかし、餌がない年には、止むを得ず出てくる。そして、害獣駆除の対象になってしまう。羊や山羊だって同じことで、普段は、羊飼いは農民から穀物を買い、農民は牧羊者から毛織物や乳を買ったりして平和共存の関係を生きていても、草原に雨が降らないと、羊たちが農地に入ってきたり、限りある水を求めて井戸の取り合いになったりもしたようです。そして、やはり土地に定着している農民の方が組織立った共同体を形成したりしていますし、そういう共同体の中で文化は発達し、文明が生まれるのです。それ故に、昔から定着の民は放浪の民を軽蔑しがちです。ですから、この二人の物語は、当時の牧羊民と農耕民、あるいは流浪の民と定着民の対立関係を表すものとして読まれがちですし、この物語の背景にそういう状況があったことは否定できないとは思います。しかし、私はそういう社会学的な見地を考慮しつつも、もう少し個人的な人間の問題、言ってみれば実存的な側面から読んでいくことも大事なことではないかと思っています。
 「時を経て」、彼らはそれぞれ「主のもとに献げ物を持って」来ました。神に献げ物をする、それは礼拝の基本的な姿です。農民であるカインは「土の実り」である農作物を献げ、アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子」を持ってきたのです。しかし、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」のです。ここで物語は一気に緊張の度合いを深めていきます。何もないときには平和共存している兄弟も、何かが起こった途端にその平和な関係が音を立てて崩れていく。そういうことは、現実に沢山あるものです。ここでも、今、そのことが起ころうとしているのです。
主が弟の献げ物を顧み、兄のものは一顧だにしない。その理由は何か?そのことについて、聖書は沈黙しています。
私たちは、ここでの神様の為さりように納得がいきませんから、その理由を色々と考えます。アベルの献げ物の方が、質が良かったのではないかとか、人柄がアベルの方が良かった、捧げる態度が良かった、アベルには信仰があったのだとか考える。あるいは、神様は五穀豊穣を願って神々を拝む農民よりも、天の下で放浪する遊牧民の方が好きなのだとか、奢り高ぶる農民よりも弱者の牧羊民を顧みてくださるのだとか、本当に様々な理由を考えます。しかし、それらは皆、ある種の説得力を持っていますが、私にとっては、いずれもそういう説明ですべて分かったような気になってしまってよいのか?と思わざるを得ないのです。
何故、私がそう思うかと言うと、世の中には不条理なことが沢山あるからです。個人の人生の中にも沢山あります。説明がつかないこと、納得がいかないことが沢山あるのです。明日は、あの阪神・淡路大震災から十年目ですが、あの震災で犠牲になった方たちと、犠牲になっていない私たちとの違いはどこにあるのか?そんなことは誰にも分かりません。昨年は台風、大雨、地震と災害が各地を襲いましたが、そこで犠牲になった人には、そうなる理由があったのか?生きる態度が悪かったとか、人柄が悪いから犠牲になったとか、そういうちゃんとした理由があるのでしょうか?あのスマトラ沖地震だってそうです。地元の方たちだって、生きている方もいれば、死んでしまった方もいる。たまたま旅行で訪れていた方と、一日前にその地を離れていた方もいる。その違いは何なのか?私たちには分かりません。私たちには分からないことは沢山ありますし、私たちにはどうにもならないことも沢山あります。
私たちは、そもそも生まれようと思って生まれてきたのではありませんし、どの時代、どの国、どの人種や民族に生まれるか分かりませんし、男に生まれるのか女に生まれるのか私たちに選択権はありません。また容姿容貌も才能も私たちには選択権はない。親を選んで生まれるわけでもない。私たちはたまたまああいう親の許に、ああいう環境の中で、こういう顔かたちで、こういう能力をもって生まれてきてしまったのです。大金持ちの家に生まれるか、貧乏な家に生まれるか、平和な時代に生まれるか、戦争の時代に生まれるか、そこには大きな差があります。つまり、すべてが不公平なのです。世界は不平等だし、不条理に満ち満ちているのです。
私たちは、基本的に神様は公平な方だと考えています。つまり、人間とは違って、人を偏り見ない、外見や力の有無によって左右されない、そういうお方だと思っている。それはたしかにそうでしょう。聖書にも神様は公平な方だとあります。しかし、考えてみれば、先ほどから私が挙げている様々な現実の違いを造り出しているのは神様なのです。もちろん、貧富の差を造り出しているのは神様ではなく人間であるかもしれません。しかし、金持ちの家に生まれるか貧乏人の家に生まれるかの違いを造り出しているのは、私たちではない。神様だ、と私は思うのです。少なくとも、そのことに神様は無関係だとは思っていません。天と地ほども違う環境の差も能力の差も、人間の心がけや態度に原因があるわけではありません。健康に生まれるか障害を持って生まれるかも、その本人の責任ではありません。神様が、その違いを与えているのです。何故なのか。そのような違いを作り出す目的な何なのか?全く分かりません。それが分からないから、人は苦しむのです。その苦しみから脱却するために、因果応報のような思想が生まれるのでしょう。何か悪いことをしたに違いない。悪い思いをもったからだ。前世に悪いことをした。さらに先祖に悪いことをした人間がいるに違いない・・・・しかし、そうなのか?そういうふうに、一般的な法則を見つけるようにして、その答えを見つけ出して、納得するということでよいのか?と思わざるを得ません。
私は、この物語は、私たちの誰もが経験し、また直面する不条理、不合理な現実を描いていると思います。どう考えても納得がいかない。そういう現実に直面した時、人間は何をするのか。何をすべきなのか。そういう問題を、私たちに突きつけているように思います。
神様が献げ物に目を留めたとか留めなかったとかは、どのようにして分かったのかということについても具体的には何も書かれていないのですが、恐らく、その後の仕事の具合が上手くいったかいかないかということだと考えられています。アベルの仕事は上手くいき、羊の群れはどんどん大きくなり、カインの仕事は何をしても不作が続く。目の前で、そういう違いを見させられる。それは屈辱的なことです。
同じように勉強しても成績が違う、同じように必死に仕事をしても収入が全く違う。同じように真面目に生きているのに、ある人は不治の病に掛かってしまった。その一方で、悪行の限りを尽くしている人間が安穏と長生きしている。不公平だ!納得できない!と叫びたくなることがあります。傍目で見てもそう思うのですから、その当事者となった時は尚更です。自分の側に落ち度もない場合、私たちはどこにその怒りを向けたら良いか分からない苦しみを味わいます。
私たちが怒る時、それも深く激しく怒る時、私たちは顔を伏せがちになります。目が怒りに燃えているのを見られたくない、感ずかれたくないからです。

「カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 よく分かります。誰だって分かるでしょう。彼の反応は当然です。神様が、何故か分からないけれど、アベルを顧み、自分を顧みない。その事実にすべての原因があるのです。だから、彼の怒りは、本来、神様に対するものなのです。「何故ですか、何故あなたは、私の献げ物、そして、私自身を顧みてくださらないのですか?!何故、私を見捨てるのですか。」彼は、このように疑問や怒りを神様にぶちまけてもよいのです。そして、恐らく、神様はそのことを期待している、と私は思います。
 その期待の中で(しかし、それは人間にとってはあまりに酷な期待だと思いますが)、神様はカインにこう問いかけます。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 この言葉の解釈を巡っても、実に色々なものが提出されていますけれど、神様がここでカインに問いかけていることは確かです。そして、警告もしている。それは、呼びかけでもある。それは確かでしょう。
しかし、「どうして怒るのか」とは何事か?!と思います。「そんなの当たり前だろう!」と怒鳴りたくなります。「怒らせるようなことをしておいて、散々挑発しておいて、『どうして怒るのか?』などとすっとぼけたことを訊くんじゃない!」と言いたくなります。
カインは、言えばよいのです。言えば、そこから何かが始まります。答えが来るか来ないか、その答えが納得のいくものかそうではないか、それは分かりません。しかし、神様に向かって胸の内を曝け出す。そのことをすればよいのです。
新年礼拝の説教で、私は詩編を取り上げました。あそこには、感謝と賛美の言葉だけがあるわけではありません。怒りの言葉、激しい疑問の言葉、神様を追及する言葉、人を呪う言葉、ありとあらゆる言葉があります。つまり、人間が味わうあらゆる経験と感情がある。そのすべてを神様に訴える。そういう言葉があるのです。そこには、抜き差しならない神様との深い関係があるのです。神様に向かって開かれた人間の心があるのです。神様は、その心をカインに求めておられる。
 しかし、カインは心を閉ざします。彼は顔を上げることも、声を上げることもせず、神様の語りかけを無視します。そうすることによって、彼の心の中に芽生えている怒りは、神様に向かって発せられることのないまま、どんどん大きくなっていくのです。そして、ついに爆発する。それも、神様以外の者に向かって。それは彼にとっても、怒りの対象にとっても非常に危険なことです。神様は、彼が顔を伏せたまま沈黙していれば、とんでもないことになることをよくご存知です。だから、「罪が待ち伏せしているぞ、気をつけろ」と警告してくださっているのです。しかし、カインは、自分を顧みなかった神様の質問も警告も無視する、聞く耳を持ちません。そして、弟の殺害へと向かっていくのです。それが一体どういう事かも分からずに、その罪に対する罰が何であるかも分からずにです。
 去年のことですが、韓国でたしか半年あまりの間に資産家の老人や風俗関係で働く女性たちを30人近くも殺し続けた男が逮捕されるという衝撃的な事件がありました。その男は、幼い頃から父親の暴力にさらされ、極めて不遇な境遇を生きたようです。そして、その段階で心に大きな傷を受けてしまったのです。少年の頃から盗みや婦女暴行などの犯罪を繰り返し、刑務所に入り、そこでさらに悪事を覚えて出所後も繰り返す。しかし、そんな中で幸運にも彼を愛してくれる女性と出会い、結婚もし、子供も生まれ、家庭的な幸福を掴みます。その頃に彼は妻に導かれてクリスチャンになったようです。しかし、そんな中でも、幼少期に与えられた傷が痛むのでしょう。婦女暴行の罪を犯し、またもや刑務所に入れられる。そこでついに、妻に見捨てられ、離婚ということにもなったようです。一度は掴んだかもしれない幸福を、また逃してしまうのです。その頃、彼は信仰を捨てたそうです。捨てただけならまだ良いのです。彼は、神に見捨てられたと思ったのです。そして、神様の不平等、不公平、つまり、世の中の不平等や不公平に怒りを覚えた。だから、彼は神に復讐する思いで、敢えて教会の近くにある資産家の家に押し入り、そこの住人を惨殺しました。教会の近くに住んでいても、守られないのだということを教えるためだったと言います。また、風俗嬢を呼び出しては殺していったのです。こんな仕事をして男を誘惑することは悪いことであると教えるためだと言う。しかし、それは自分を捨てた女への復讐です.悲しみと怒りから出た復讐なのです。
 同じ人間として生まれてきたのに、その環境は、天と地ほども違い、その人生には雲泥の差があります。そういう不平等、不公平の中に、神様は私たち一人一人を生まれさせ、生かしておられる。それは事実だと思います。その理由や目的が分からない。その時、私たちは不当だ、と思う。神様の為さり方はおかしいと思う。しかし、そのことを神様に直接訴えることをしない。そして、自分より弱い者や恵まれている者に、その屈折した怒りをぶちまける。そういうことをしてしまう。
 しかし、思えば神様はその最初から人間に対して変なことをされます。あの禁断の木の実だって、「食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」と仰るだけで、何故、食べてはいけないのかは仰らないし、そんなに食べてはならないものなら、食べることが出来ないような断崖絶壁の所に木を生やしたらいいのにとか、最初からそんな木を生やさなければいいのに、と思います。しかし、神様はいつでも手にとって食べることが出来るようなところに木を生やしておいて、「食べるなよ」とだけ言うのです。そして、あの賢い蛇を差し向けたかどうか分かりませんが、とにかく、園の中に生かしておく。いつか、蛇と女が、そして男が出会うことは充分予想できただろうに、そして、蛇が女を唆すことも予想できたのに、むしろ敢えてその場面を作り出すようなことをするのです。エバが、蛇の言葉を信じて、神様の正当性を疑ったって仕方ないのです。神様からは、何の説明もなく、蛇は説得力のある説明をしてくれたのですから。
 今回のことだってそうです。敢えて、本来は重んじられてしかるべき兄の方の献げ物を無視する。その理由も告げられない。献げ物が悪いとか、捧げ方、その態度が悪いのだとか言われない。だとするならば、カインが怒るのも当然。それなのに、「どうして怒るのか」なんてとぼけたことを訊いてくる。それは、本当は深い問いかけ、対話への呼びかけに違いないけれど、それは岡目八目のように離れたところから客観的に、そして冷静に、その後の展開も考慮しながら考えるから多少分かることであって、その時の当事者であるカインにしてみれば、挑発以外の何物にも聞こえないのではないでしょうか。私たちだって同じです。不遇の真只中にあって、不幸の真只中にあって、その怒りや悲しみの矛先を何処に向けたらよいか分からない中で、その苦しみを与えたと思われる神、あるいは少なくとも容認していると思われる神様から、「どうして怒っているのか」と言われれば、さらに腹が立つのではないでしょうか。
 カインは、その怒りをアベルに向けました。しかし、これも神への復讐なのです。「そうか、あなたは私よりも弟を愛するのだな。弟を殺せば、あなたに復讐できる。」彼の自覚を超えて、彼に取りついた罪は、そういう思いを彼の心の奥底に植え付けているのです。しかし、アベルにしてみれば、何故、自分にその怒りが自分に向けられなければならないのか、分かりません。少なくとも納得がいかないでしょう。やっかまれる事には理由があるでしょう。しかし、そのやっかみが殺意にまで成長し、そのことが実行されるとするならば、アベルは、今度は神様に向かって、「何故、私が殺されなければならないのですか、私が何をしたっていうのですか、すべてはあなたが原因ではないですか、あなたが不公平なことをしたから、こんなことになってしまったんじゃないですか」と叫びたくなるようなことではないでしょうか。
 10節に、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」とあります。その叫び、それはどういう叫びだったのでしょうか。復讐を求める叫びだったのでしょうか。それとも兄の罪の赦しを乞う叫びだったのでしょうか。聖書はまたもや沈黙します。
 この箇所は、本当は今日で16節まで行く予定でしたが、とてもとてもいけないので、次回、ひょっとしたらさらにもう一回、ご一緒に御言葉に聴いていくしかないと思います。今日は今日として、ここまでで知らされることを、残りの時間で語らせていただきます。
 「知らされること」と言っても、それは、何よりもまず、私たちには知り得ないことがあるということを知るということです。私たちには分からないこと、理解できないこと、受け入れることが出来ないことが、事実として沢山あるということを知る。そして、その事実を、「どう受け止めていくのか」が、むしろ私たちに問われているのです。私たちはむしろ神様に問われているのです。カインのように、その問いに答えない。神様に問いかけもせず、神様からの問いかけにも答えない時、私たち人間は、自分だけで出した答えに従って行動します。その結末はいつだって悲惨なものです。
 しかし、私たちにとってそれが何故なのか分からないこと、それは沢山あるのですが、私はこの問題をずっと考えていて、次第次第に心の奥底に響いてきた言葉は、こういう言葉です。

「わが神、わが神、何故、わたしを見捨てたのですか。」

 旧約聖書、詩編22編の言葉です。そして、神の子主イエス・キリストが、あの十字架の上で叫ばれた言葉です。そして、父なる神様が、天で黙って聞かれた言葉です。ご自分のたった独りの子供が、十字架の上で、「何故、何故、何故、あなたは私を見捨てるのですか。何故ですか」と叫んでいる。その叫びを黙って聞く父なる神様がいる。そして、何もなさらない父なる神様がいる。また、そう叫びつつ、何もしないで死んで行く御子なる神様がいる。死人さえ甦らせることが出来た方なのに、この時は何もしないで、無力な人間として死んでいくのです。そして、その十字架の下には、「なんだ、お前は。他人を救ったかもしれないが、自分を救えないじゃないか。神の子だったら、十字架から降ろしてもらえ。神に愛されているのだったら、それくらいのことはしてくれるだろう。そうしたら、信じてやろう」と嘯く人間がいるのです。
 主イエスは、その人間の愚かにして傲慢な罪が赦されるために、身代わりになって死んでいるのに、その人間たちは、そんなこととも知らずに罵っている。嘲っている。神様は、そんな人間を赦し、救うために、ご自身の子が叫んでいるのに、十字架から降ろさない。見殺しにするのです。
 何故でしょうか?何故、罪を犯していない方が、ここでこんな死に方をしなければいけないのですか。私たちに説明が出来るのですか。出来ません。神様が何故、こんなことを為さるのか。神様が、何故こんなにまで私たちを愛してくださるのか。私たちには分かりません。こんな不条理なこと、こんな不合理なこと、こんな理不尽なことはないのです。でも、神様は、そういう方なのです。そして、独り子イエス・キリストは、その神様の不条理、不合理、理不尽をその身に一身に受けて死んでくださったのです。
 この十字架の中に、すべての不条理があるし、不合理があるし、理不尽があるのですが、この十字架の中にすべてに対する答えがあり、また問いかけがあるのではないでしょうか。
 一昨日の夕刻、Mさんからお電話を頂き、母上のSさんが、滞在先のホテルの浴槽で急死されたことを知らされました。それは、私にとっては全く青天の霹靂のような出来事でした。翌日の検死の結果、心筋梗塞が原因であったことが分かりましたが、Mさんを初め、ご兄弟やご親族の皆様にとっては、その衝撃はどれだけ大きかったか分かりません。それ以来、葬儀の準備と礼拝の準備を平行してやってきました。Sさんからは、まだ信仰歴や愛唱聖句とか賛美歌を書く書類を頂けていなかったので、驚きと悲しみの中で大変な三角さんに、申し訳ないのだけれど、分かる範囲で教えていただきたいとお願いをしました。翌日、つまり、昨日の昼前に、検死を終えてご自宅に帰っていたご遺体をお迎えに参りました時に、Mさんは母上の思い出や愛唱聖句また賛美歌を書いたものを下さいました。土曜日の午後、ご家族ご近親の方が礼拝堂に揃ったところで、前夜式に代わる式を執り行いました。その時に、そこに記されている聖書の御言葉を読み、愛唱の賛美歌を歌いました。明日も葬儀において同じ言葉を読み、同じ讃美歌を歌います。その言葉は、詩編41編1節から5節までなのですが、その5節にはこうあります。

「わたしは申します。
『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを赦してください。』」

これが、私たち人間の究極の祈りです。私たち罪人は、結局、罪を赦していただきたいのです。この世を生きる上での苦しみは山ほどあります。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、経済的な苦しみ、数え上げたら切りがありません。しかし、最大の苦しみ、そして、決定的な苦しみは罪の苦しみです。それは、この世を生きる時の苦しみに止まらず、滅びに向う苦しみだからです。この世で苦しんだ挙句に、死して後も滅びの中に落とされることだからです。その苦しみと比較すれば、他の苦しみなど、所詮、この世を生きているときだけの苦しみに過ぎません。それだけが苦しみなら、死は苦しみからの解放です。しかし、生も死も、そんな浅いものでもなければ甘いものでもないでしょう。人間にとって最大の問題は罪なのです。
罪とは何か。それは創世記の物語の中で言えば、神が造られた園の中で生きることが出来ないこと、神様と人の前で最早裸では立てないこと、そして、神様の前で顔を上げ得ないことです。人間は、そんな者として造られたのではありません。神様を純心無垢な愛で愛し、神様との愛の交わりの中に生きるために造られたのです。夫と妻が、兄と弟が、身も心も捧げ合って愛し合うために造られ、生かされたのです。神様は、そのように人間を生かすために愛し、その愛ゆえに、様々なことを為されます。すべては人を愛するが故なのです。禁断の木の実を生やすことも、食べるなとだけ命じることも、兄弟の中で、片方だけを顧みることも、実はすべて人間を愛するが故なのです。人間が人間であるとはどういうことか、人間が人間として生きるとはどういうことかを教えるために、神様は戒めを与え、試練を与え、苦しみを与えてくださるのです。その時その場で、私たちはその戒めの意味、試練の意味を分かるわけではありません。しかし、そもそも愛は理解するものではないのです。愛は信じるものです。そこを勘違いしていけない。愛は信じるもの。理解なんて出来ません。特に神様の愛は、ご自分の独り子を十字架につけてまでして、私たちの罪を赦し、私たち罪人を天の御国に招き入れて下さるというものなのです。この愛をだれが理解出来るというのですか。あるいは、自分はそれだけ愛されるに足る人間だなどと威張れる人間がどこにいるのですか。いないのです。私たちは皆、神に背いた罪人です。でも、神様が愛して愛して愛して止まない罪人です。主イエスが、その救いのために、何故何故私を見捨てるのですかと叫びつつ死んでくださった罪人です。主イエスは、その命を、あの恐ろしい十字架の上に捨てて、私たちを愛して下さったし、復活して、今も愛し続けてださっているのです。その愛を、その理由を説明できる人はいない。でも、私たちはその愛で愛されていることは事実です。どんな不幸の中にあっても、どんな悲しみの中にあっても、どんな怒りの中にあっても、この愛を信じる者でありたいのです。主イエスが味わった以上の悲しみも苦しみも不幸もないのですから.どんな時も、主イエスは共にいてくださるのです。上を見て、「神様、何故私を見捨てたのですか」と叫びたいとき、もっとずっと下で、御子なる神が叫んでいるのです。「私がいる、ここにいる」と。その理不尽な事実、不合理な事実、不条理な事実は、信仰によってしか知り得ません。

詩編42編の最後の言葉は、こういうものです。

「どうか、無垢なわたしを支え
とこしえに、御前に立たせてください。
主をたたえよ、イスラエルの神を
世々とこしえに。
アーメン、アーメン。」

 キリスト者の願い、究極の願いはここにあります。罪を赦して頂いて、この世においてもかの世においても、主の前に顔をあげて立つ。そして、主をほめたたえる。之が罪を赦された者の姿なのです。天国における私たちの姿なのです。Sさんが、信仰によってこの詩編を愛しておられ、その言葉が一人娘の律子さんにしっかりと伝わっている。私は、あまりに突然の急死を知らされて愕然とした、その翌日には、主の確かな愛を示されて、深く慰められました。そして、今日、皆様と共に、Sさんのご遺体を囲むようにして、主を礼拝できますことを感謝し、その御名をほめたたえます。喜びも悲しみも主のものであり、主のためです。生も死も主のためです。私たちは皆、主のために生き、主のために死ぬのです。主が、私たちのために死に、私たちのために復活して下さったからです。
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