「ああ、なんということを・・」

及川 信

創世記 4章 1節〜16節

 

4章に入って三回目の説教となります。出産、人生の苦しみに続き、今日は、殺人という問題です。ほんの数行の中に、これだけの大問題をポンポンと立て続けに出されて、とても受け止めきれないのですが、今日は今日としてみ言葉の語りかけに耳を傾けてまいりたいと思います。
人は生まれ、そして、必ず何らかの意味で不幸な経験をします。不条理な現実に直面するのです。そして、実はその時、人に与えられた自由が拡大する。あるいは、選択肢が与えられるのです。その現実に直面した時にそれまで考えたこともないことを考え、それまで決してやらなかったようなことをやったりするのです。不幸の経験を通して、実は、人間の自由は拡大していく。その自由において、人は善をなすこともありますし、悪をなし、罪を犯していくのでもあります。
アダムとエバは、神の戒めを自分たちの自由を制限するものだと思ったのです。だから、反発して禁断の木の実を食べた。しかし、彼らは蛇に語りかけられた時、自分たちに与えられている自由を再確認したのです。制限が与えられていると知ることによって、自由は際立ちます。神様は、戒めによって制限を与え、その戒めを守る自由と破る自由を与え、守ることを期待されました。しかし、アダムとエバは、破る自由を選択しました。その結果、彼らは最早互いに裸で立つことができず、神の顔を避けて木の間にその身を隠さざるを得なくなりました。それは、彼らの予想を越えたことでした。最初から、そんなことになる、あるいは、そんな恐れや恥を抱くようなことになるとは思っていなかったはずです。
数日前に埼玉県のどこかの用水路で大金が見つかったという事件がありました。その大金は、ある若い女性が以前付き合っていた男性を困らせようと、男友達二人を誘ってその男性の自宅から盗んだ後、怖くなって捨てたというのです。盗む時は、ちょっとした悪戯、懲らしめを与えようとしてやったことなのに、その行為の後に、自分のやったことが怖くなる。前のようにはいられない。そういうことが、私たち人間にはしばしばあります。
アダムとエバも、自分たちの予想に反して、互いを恐れるようになり、互いに裸で立つことも出来ない関係になり、神を恐れてその御前にも立てない人間となったのです。しかし、そうなっても、自分のやったことを神のせいにし、また女のせいにし、蛇のせいにして、結局、本当の意味での悔い改めをしないのです。自分が何をやったか、その真相、深みが分からない。これが、聖書が見つめている人間、神様が見つめている人間なのです。
人は自分のやっていることが何であるのか、なかなか分らないのです。しかし、それが分らなければ、それが罪だと分らなければ、悔い改めようもないのですから、救われようもありません。蛇にだまされた人間は、蛇の支配下にいるのです。蛇の奴隷です。しかし、その時は、自分が蛇の奴隷であるとは分かっていないのです。カインは、罪が戸口で待ち伏せしてお前を求めているぞ。お前は罪を支配せねばならない、と言われましたが、結局、罪の奴隷になり、その言いなりに動いたのです。だから、それは彼の行為であると同時に、罪が彼になさせた行為でもあります。その罪の姿、罪の実態がなかなか分からないので、人間は悔い改めない。
アダムとエバは、悔い改めることなく、エデンの園から追放されました。その時、神様は彼ら二人に「皮の衣」をつくって着せるということをされました。追放しながら、これから彼らが生きていく上に必要なものをお与えになるのです。彼らが、自分がやったことが何であるかを知るためには、生きていなければならないからだと、私は思います。神様は、彼らを悔い改めに導くために、追放という裁きを与えつつ保護もする。それは、彼らを罪の支配から救い出すためです。
しかし、彼らは「親の心、子知らず」で、与えられた自由を間違った仕方で謳歌していきます。彼らは、追放後、直ちに自らの力で命を創造します。いや、「創造し得た」と主観的に思うのです。エバは、そういう誇りに満ちた言葉を発しているのです。カインとアベルは、そういう親たちから生まれ、そういう親たちに育てられた子供たちです。
自分の力で命を造ることが出来ると思う人間は、自分の力で命を殺すことが出来るとも思うでしょう。カトリック教会が、避妊も中絶も禁止していることは、命は創造主である神のものであって人間のものではないという旧約聖書以来の信仰に堅く立つからです。命は、人間が造るものではない。それゆえに、人間が勝手に傷つけたり、殺したりしてはならない。それは、命の創造者であり保護者である神様に対する最悪の罪である。聖書は、そのことを強く主張しています。
しかし、カインはアダムとエバの子供です。人間の自由をどこまでも拡大していきたいと願う人間です。そして、悔い改めることなき人間の子です。彼は納得できないことを神様にされた時に、神に問い掛けることさえしません。訴えることもしません。彼はただ、下を向き、ふてくされ、暗く冷たい復讐の炎を燃え立たせます。そして、神が愛するアベルを殺すのです。それは、ある意味から言えば、神の寵愛を独占したいという悲しい願望でありつつ、神そのものを抹殺して、すべてを自分の思いのままにするという悲しい欲望の発露なのかもしれません。しかし、何故ここまでのことをやってしまったのか、それは、彼にも分からないのだと思います。そして、その結果がどういうものなのかも分からない。人間は、悲しいかな、自分でも何故か分からないことをやってしまうのです。
そういう人間に対して、神様は即座に問答無用の怒りを下されることなく、問い掛けられるのです。アダムには、「お前は、どこにいるのか」と問い掛けました。そして、カインにはこう問い掛けます。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

「お前の弟」。「お前の弟。愛し合い、共に生きるべき家族である弟。その弟は、どこにいる?」神様は、そう問い掛けておられます。そのようにして、カインに対して、自分が何をしたのかを分らせようとします。「目を覚ませ、カイン。自分が何をしてしまったのか、何故こんなことをしてしまったのか、考えてみろ。こんなことをしたら、どうなると思うのか。言ってみろ。」そう仰っているように、私には思えます。
しかし、カインは答えます。

「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

羊飼いの仕事は羊の番をすることです。「羊飼いだったアベルの番を私がするのですか?」という皮肉を込めた返答が、いや、嘘がここにはあります。殺人という罪、そして、その罪を隠すための偽証という罪が、ここにあります。罪は放置しておけば必ず次なる罪を生み出していくのです。
そして、罪は、それが重ければ重いほど、深ければ深いほど、見つめることすら恐ろしいことですから、私たちは本能的に、そのことを避けます。だから表面だけを見て、誤魔化すのです。カインだって、「お前の弟は、どこにいるのか」という問いが、単に草原だとか井戸だとか天幕の中だという場所を訊いているのではなく、生きているのか死んでいるのかを訊いているのだし、その問いの中に、お前が殺したことをお前は認めるのか認めないのかと訊いているということは、心の奥底では分っていると思います。しかし、その問いに正面から応えることは出来ない。それは、自分にも得体の知れない自分を支配している罪の現実(正体)を見つめることだからです。それは恐ろしいことです。だから誤魔化す。そして、嘘をつく。彼の気持ちはよく分ります。しかし、彼がそうである限り、罪は新たな罪を産み出していき、その連鎖の果てには滅びとしての死があるのみなのです。
神様は、アダムとエバにも問いかけ、悔い改めの機会を与えましたが、彼らはその恵みを拒絶しました。今、カインも同じことをします。神様が、何もかもご存知であることをうすうす知っているのに、まるでそのことを知らないかのように、とぼけ、居直り、噛み付きます。「そんなに心配なら、あなたがいつも番をしていればよいでしょうに」と言わんばかりです。すべてをご存知の方の前で、そして、神がご存知であることを実は知っているのに、こんなことを言ってしまう。惨めなものです。
神様は、今度はエバに向かって言った言葉をカインに投げかけます。

「何ということをしたのか。」

「何を、あなたはしたのか」。これは、アベルを殺したという行為だけを問い詰めている言葉ではないでしょう。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と忠告したのに、それを無視したこと。さらに、殺人を犯した後に、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけ、自らの行為を告白し、悔い改め、謝罪する機会を与えたのに、それすら拒んで、なお一層心を頑なにして、「そんなこと、知ったことか」と居直り、神様の憐れみの心をいく度も踏みにじる。そういうカインの心のあり方をも含めての嘆きだと思います。

「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

神様は、殺された者の血の叫びを聞いておられる。聞いてくださる。これは殺された者にとっては、深い慰めです。人間にとっては「死人に口なし」でも、神様は死人の叫びを聞いてくださる方なのです。しかし、そのことは、人を殺した者にとっては、脅威です。
神様は、人間に人間を殺す自由をお与えになってはいません。いや、与えた自由をそのように用いることを禁じておられると言ったほうが正確でしょう。人の命は神様がお造りになり、それはとっても「良い」ものであり、神様が「祝福」なさったものだからです。その命を殺してもよいと心の中で思い、その思いをそのまま実行する権利と自由が自分にはあると思い、それを実行する。そこには、神様に対する重大な罪があります。その罪には必然的に罰が伴うのです。先ほどの金を盗み、そして捨てた若者達は、これから法的な裁きを受けるでしょうし、受けなければなりませんが、その前に既に、もう罰を受けています。恐れによって、前のように顔をあげて生きることが出来ない罰、毎日毎日、心の中に恐怖と不安を感じながら生きなければならない罰、自分を愛せない罰、いつも恥を胸に秘めながら生きなければならない罰が既に与えられています。それらの罰は、犯した罪が何であるかを人に教えようとする神様の教育という面があるのです。罰を通して、人は、自分が何をしてしまったかを知るからです。少なくとも、そういう一面があります。
兄弟の命を奪ったカインに対する罰、それは「呪い」です。「祝福」が命の充満をもたらすとすれば、「呪い」はその逆に命の喪失をもたらすのです。農民であったカインにとって、「土が作物を産み出さない」ということは、生存の基盤がなくなることを意味します。もう、そこで生きていくことは出来なくなるのです。そして、その土地、共同体から追放される。それは一切の法的保護から排除されることですから、一つの死刑判決だと言って良いのです。
その判決を受けて初めて、自分の行為の重大さに気づいたカインは、慌てふためいてこう言いました。

「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」

ここで「罪」と訳されている言葉は、しばしば「罰」と訳される言葉です。聖書においては、しばしば、罪と罰は、そういう不即不離、表裏一体のものとして見つめられているのです。そして、人間は罰を通して自分の犯した罪を知る。その罰が内面的な恐れや不安であっても、それは同じです。だから、罰は必要なのです。
(ここで、言わずもがなのことを念のために言っておきますが、ここでカインは「わたしに出会う者はだれであれ」と言っています。こういう言葉を読んで、「ほら、だから聖書は信じられない。今、地上にはアダムとエバとカインしかいないはずじゃないか。それなのに、こんなことを書いている。矛盾している。」こんなことを言う人がたまにいます。子供ならまだよいのですが、大の大人でも得意になって言う人がいます。しかし、そんなことは、先刻承知の上で書かれているのです。聖書は一人の著者が書いた一つの書物ではなく、何世代も掛かって次第に出来あがってきた巨大な書物ですから、今言ったような意味で、辻褄が合わない個所は他にいくつもあります。しかし、そのことを承知の上で、この物語が何を語りかけているのかを探るのが、現代の学問的な聖書の読み方です。学問で聖書の意味が分かるというつもりは少しもありませんが、今言ったような稚拙な疑問からはごく初歩の段階で解放してくれるという意味では、非常に有益であることは事実です。この物語を、自分の罪の問題と無関係に読むのだったら、何の意味もありません。少なくとも、礼拝では昔話の解説をするつもりはありません。)
主なる神は、罪の結果としての罰の重さに恐れおののき、減刑を嘆願しつつも、殺人の罪そのものの恐ろしさにおののき、罪の赦しを乞い求めるわけではないカインに向かって、こう仰いました。

「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

そして、「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」のです。
これは一体、どういうことなのでしょうか。人を殺した者にはその命を求める。殺人には死刑。これが旧約聖書の律法の原則です。つまり、神様の基本姿勢のはずです。それなのに、神様はここで、アベルを殺したカインを即座に死刑にはしない。これは一体、どういうことでしょうか。そのことを考えるためには、そもそも律法は何のために与えられるのかを考える必要があるでしょう。神様がアダムに与えた「園の中央の木からは食べるな、食べれば死ぬ」という戒めの目的は何であるかと言えば、神様を愛し、信頼し、その交わりの中を生きよ、ということです。神様は、そういう命を生きて欲しくて、愛の本質である選択の自由を戒めを通して与えたと言えると思います。そして、主イエスがすべての律法は、神を愛し、隣人を愛して生きることに尽きると仰ったことも、同じです。私たちの命は、神と人との愛の交わりの中でこそ、その本来の姿で美しく生きることが出来る。祝福の中を生きることが出来るのです。神様の願いは、律法を与える目的は、私たちがその命を生きるということです。
神様は、ここでもカインにそのことを願っておられると思います。その罪によって失ってしまった彼本来の姿を取り戻して欲しいと神様は願っておられるのです。つまり、自分のやってしまったことが何であったかを知り、恐れおののき、悔い改め、神に罪の赦しを求めて欲しいのです。罪を犯した人間が、すぐその場で死ぬわけではないという事実の中には、神様の恵み、期待が隠されていると、私は思います。その期待の中に私たち人間は生きているのです。しかし、そのことに気づき、その期待にこたえる人間は実際ごく稀にしかいません。
次回の問題ですけれど、カインがその期待に応えたとは到底思えません。アダムとエバが、皮の衣を着させられて追放されても、悔い改めなかったように、カインもまた、神様に「しるし」(刺青のようなものだと言われます)をつけて頂いて、自分が殺されることはないと分ると、急に強気になって、これまで同様に大胆不敵に生き始め、町を建てて、彼と良く似た子孫、「カインの末裔」を残していくことになります。
聖書が見つめる人間、それはどこまでも罪深く、惨めです。人の死が、教訓にならない。人を殺しても、悔い改めない。罪の重さに恐れおののかないのです。今でも人間は、その自由をもって人を殺し続けています。大地が殺された人間の血を飲まない日はないのです。最近のニュースでは、アメリカ軍は殺人ロボットを開発してイラクの現場に導入するのだそうです。機関銃がついた小型戦車のようなロボットが細い道路に入っていき、カメラに動く者が映ったら機関銃を発射するようです。人が人に殺されるのではなく、人が作ったロボットに殺される時代が来始めているのです。自ら「呪い」を招いているとしか言い様がないと、私は思います。カインの末裔が「自由」と「民主主義」を世界中に広める手段の一つはそういうものです。かつての日本の「大東亜共栄圏」だろうが、ナチス・ドイツの「第三帝国」だろうが、アウグストゥスの「ローマの平和」だろうが、本質は同じです。罪の奴隷が、罪の奴隷であることを自覚しないで、高く美しい理想を掲げると、実際には低レベルにして醜い自殺行為を繰り返すだけなのです。
そういう私たちに向かって、神様は、一体何度、深い嘆きの中で問われたでしょうか。

「あなたは、どこにいるのか。」
「あなたの兄弟はどこにいるのか。」
「あなたは、なんということをしたのか。」
「あなたの兄弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。お前は呪われる者となった。」

私たちは、この一つ一つの問いかけ応えなければなりません。そして、判決を受けなければなりません。身を隠さずに応えなければなりません。はぐらかさずに、とぼけずに、応えなければならない。しかし、そんなこと私たちに出来るでしょうか。主の顔に向かって自分の顔をあげ得るのでしょうか。目と目を合わせて応えることなど出来るのでしょうか。私たち罪人は、裸では神の前に立つことは出来ません。神様の前に顔をあげることも出来ません。
しかし、私たちは、今、礼拝しているのです。神様についての「お話」を聞いているのではないのです。神様の言葉を聞いているのです。ここで語っている私も、語りながら神様の言葉を聞いているのです。既に説教の準備の時にずっと神様の言葉を聞くのです。色々と調べたり、多少勉強したりもしますが、そういうことをしながら、神様の前に引きずり出されていき、神様の前に立ってその言葉を聞く。「お前はどこにいるのか」「お前は一体何をやってしまった人間なのか。そのことを今お前は前よりは少しは分っているのか。」「お前が裏切ったあの人、この人は、今どこにいる。」「お前を裏切り傷つけたあの人、この人は今どこにいる。」「お前はその人達と和解できているのか、お前は赦されているのか、お前は赦しているのか。」「お前は、私に対して赦しを求めているのか。」「私がお前の罪をどのように思っているか分かるか。どのように裁き、どのように赦しているか、分かっているのか。」そういう言葉を聞き続けるのです。そして、「赦してなんかいません、赦せません」とか「赦してもらえるわけないじゃないですか」とか、「自分のやったことが、前よりは少し分ります。見つめることが出来ます。赦してください」とか、とにかく、そういう対話をする。皆さんが説教を聞くということも、そういうことではないでしょうか。み言葉の光に照らされて、見えなかった暗部が見えてくる、見たくないものをみさせられる。神様と向き合うことで、自分と、その罪と向き合っていく。そういう経験がそこにはあるはずです。なければ、その人にとって、礼拝が起こってはいないのです。
ヘブライ人への手紙の中に、こういう言葉があります。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」

礼拝というのは、この神の言葉を聞き、そして、この神様に、隠れることも、隠すこともできない神様に、自分のことを申し述べることです。だから、これは本来苦しいことであり、恐ろしいことです。実際は、人間には出来ないこと。しかし、そのことをしない人間は人間ではないのです。神の像に似せて造られたとは、神様を礼拝し、神様との交わりの中を生きることなのですから。罪とは、その交わりを崩壊させ、私たちを死に至らせるものなのです。そして、私たちはその罪に支配されていた奴隷だったのです。その罪の奴隷が今こうして礼拝している。それはどうしてか。何故、そんなことが可能なのでしょうか。
カインは一つの「しるし」を与えられたとありました。私が、その言葉を読んでどうしても思い出さざるを得ない言葉は、ガラテヤの信徒への手紙の中にあるパウロの言葉です。彼は、そこで、自分とは何であるかを、神に対して申し述べていると思います。

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされたのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」


「焼き印」この言葉は新約聖書で一回しか使われていないのですが、辞書には丁寧な説明がありました。それによると、ここに出てくる「焼き印」とは、「主人の所有であることを示すために、奴隷の体に主人の焼き印を押す習慣から、その焼き印で出来た印」です。もともとは、「刺す」という言葉に由来するようですし、刺青のように、炎で消毒した針で皮膚を刺して、決して消えない印をつけてしまうことです。
パウロは、かつては罪の奴隷だったのです。つまり、罪が彼の主人だった。しかし、今、キリストの十字架の故に、自分はキリストの奴隷なのだ、キリストが私の主人なのだ、と言っているのです。主イエスが、十字架で死んで下さったお陰で、罪の奴隷であった自分は死に、新しくキリストの奴隷、復活の主イエス・キリストに仕えることが出来る僕に造り替えられたのだ、と言っているのです。罪なき神の独り子が、私たちのすべての罪を背負って、十字架に掛かって死んで下さった。そして、罪なる私たちを新しく造りかえるために復活し、今も共に生きてくださる。そのことを信じることが出来る時、罪は最早私たちを支配することは出来ません。私たちは解放されたのです。私たちはもう今や、主イエス・キリストのものです。神様がカインに印を付けた限り、誰も彼を撃つことが出来ないように、神様がイエス・キリストの焼き印を、私たちに付けてくださった限り、私たちは永遠にイエス・キリストのものなのです。私たちがイエス様のことを忘れてしまうときにも、イエス様は私たちを忘れることなく、愛し続けてくださっているのです。み言葉がそのことを私たちに教えてくださいます。
主のみ言葉、両刃のように鋭いみ言葉は、私たちの罪を抉り出し、さらけ出しつつ、実は、私たちの罪のために、その呪いの一切をその身に受けて十字架に死に復活してくださった主イエス・キリストの御姿をも鮮やかに指し示して下さるのです。この御子の苦しみと復活が自分の罪のためであり、自分を新しく創造するためであることを知るとき、私たちは初めて自分のしたことに対して、「ああ、なんということをしてしまったのか・・」と思えるのです。罪の自覚と悔い改めは、御子を通して示された圧倒的な愛と赦しの中でしか与えられることはありません。そして、神の愛と赦しのしるしである御子が今も生きておられるから、私たちは神様を礼拝できるのです。主イエス・キリストの執り成しのおかげで、私たちは神様の前に立って、顔をあげることが出来る。神様の問いの前に立ち、応えることが出来る。
「父よ、わたしは今、ここにいます。あなたの恵みのお陰です。イエス様が、さまよい出てしまった私を憐れみ、探し出して連れ戻してくださったからです。イエス様が、わたしが犯してしまった恐るべき罪のすべてを身代わりに負って、『わたしが十字架に掛かって死んだから、何も心配するな。あなたはただ信じればよい』と言ってくださったから、私はここにいます。父よ信じます。どうぞ、御子の故に私の罪を赦してください。そして、私を新しく造り替えて下さい。祭司の務めを果たすことが出来ますように、キリストの使者の務めを果たすことが出来るようにしてください。そして、私を祝福して、この世に派遣してください。あなたの愛と赦しを賛美します。ハレルヤと、賛美しつつ生きます。アーメン」
これが、私たちの礼拝における応答です。そして、この応答に生きる。それがイエス様の焼印をつけられている私たちキリスト者の生き方なのです。
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