「主の名を呼ぶための長い時間」

及川 信

創世記 4章17節〜26節

 

「カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。」

 このカインとは、弟アベルを殺した男です。本来なら、自らの死をもってその罪を償わなければならない人間です。しかし、彼はその罪の重さを知り、「何ということをしてしまったのか」と愕然として、その罪を悔い改めたわけではありません。彼はただ、追放という刑罰を宣告されたときに、「わたしの罪は重すぎます」(これは「私の罰は重すぎます」とも訳される言葉です)と、自分が殺されることのないように神様に嘆願しただけです。神様はそこで、彼にひとつの印をつけて、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」という約束を与えてくださいました。つまり、弟を殺したカインは、誰からも殺されないという保障を神様から与えられたのです。この事実をどう受け止めるか?これがカインにとっての問題なのです。彼は、そこに隠された神様の願いを受け止めたのでしょうか?私には、そうは思えません。
 カインはその後結婚し、子供が与えられ、エノクと命名しました。意味は、「賢人」と言われたり、「従者」と言われたりと、解釈が分かれるようです。そして、「カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付け」ました。この記述には色々な議論がありますけれども、追放されて放浪者となったカインとその子孫が、程なく放浪を止めて自らの安全を確保するために町を建て始めたという解釈をしておきたいと思います。しかし、ここで言う「町」とは何なのか?それがひとつの問題となってきます。
 私は最近、「やっぱり東京だな・」と思うことがあります。何故かと言うと、東京以外の場所で知り合った人やその家族が東京にやって来て住み始めているのです。ここにはいくつもの大学があり、職場があるからです。都市の文化があるからです。自然が無く、静けさが無い代わりに、人間が作り出すありとあらゆるものがあり、様々な情報があり、富と権力が集中しているからです。そういう所に人は集まってくるものです。
 エノクにはイラドが生まれ、イラドにはメフヤエルが、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、そしてレメクが生まれました。世代を越える弛みない都市建設の営みがここにはあります。そして、その果てに何があったのか。

「レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまな道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。」

 レメクが「二人の妻を娶る」ということが、あからさまに批判されているかどうかは分かりません。しかし、アダムとエバの物語の中で、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあったことを、私たちは忘れてはいません。この男女の一体性は、やはり一夫一婦制の中でその意味を獲得するのではないでしょうか。
ご承知のように、人間の歴史の中で、結婚は子孫を増やして繁栄さ、さらに家系を継続させるための道具であったりしました。そうであるが故に、子供を産めない女、特に男の子を産めない女は、女として存在価値がないかのように言われ、嫁いだ家から追い出されるようなこともあったわけですし、子供を作るためには男が側室を持っても仕方ないかのように言われたりする場合もあります。それでは、男も女も子孫を産むため、お家安泰のための道具でしかないということです。しかし、聖書における結婚とは、基本的に男女の一体の交わりなのであり、子を産むためや、家を継続させるための手段ではありません。愛の交わりを生きることそれ自体が結婚の意味なのであり、家系が続くということは、神様の祝福の一つの結果です。そして、結婚は、神が出会いを与えることによって初めて生じる出来事です。主イエスも「神が合わせたものを、人が離してはならない」と仰いました。だから結婚は、キリスト教においては神聖なものと言われるのです。世俗的な事柄ではないのです。
 しかし、ここで二人の妻を娶るレメクの中には、そういう人格性も精神性も感じませんし、まして神が合わせて下さったという神聖さなど微塵もありません。ここにあるのは、富と権力に裏打ちされた世俗的な結婚です。そういう結婚の中で子供たちが生まれて来るのです。(現在、いくらでも見ることが出来る結婚が、ここにあります。)
 しかし、ここでレメクとその妻たちの間に生まれる子供たち、それは個人であると同時にある人々の代表、先祖でもあります。カインだって、かつては農民の代表でもあり、アベルは牧羊者の代表でもありました。ここでのレメクの子供たちもそうです。ヤバルは遊牧民の先祖、ユバルは音楽奏者の先祖です。そして、トバル・カイン。彼は鍛冶工の先祖です。この場合の遊牧は、町から町へラクダなどを使って物資を運ぶ運送業という側面があります。今で言う物流を担った人々です。町というのは大量消費をする場所ですから、物や金が絶えず流れていないと息絶えて死んでしまうのです。ですから、物流は今でも都市の生命線です。
そして、大きな町には富と権力を手にする者が必ずいます。彼らの宮殿には必ず楽士がいて、宴会の時には楽を奏でるものです。
さらに鍛冶工。これは、様々な調度品を作る特殊技術を持った者です。その技術は農具を作ることにも使えますが、同時に武器を作ることにも使えます。特に、鉄の加工技術は、現代で言えば、高度な武器製造技術、特に原爆製造技術のように、権力者にとっては門外不出の技術なのです。だから、権力者はこういう技術者を高い給料を払って囲って技術を独占しようとします。そして、自らの軍隊を強化する。そういうことが、古代から現代に至るまで、人間の歴史の中では、延々と繰り返されているのです。
 ここで語られていること、それは代表的な職業の誕生であり、それはまた都市文明の誕生を意味します。それまで住んでいた土地を様々な理由で出てきた人々が集まり、町を建設し、そこに権力と富が集中する。そのようにして出来上がる都市は、都市文明を作り出します。その文明は、快適で便利な、そして贅沢な生活を作り出します。しかし、その一方で、恐るべき野蛮な現実をも作り出していくのです。「文明社会」の反対のものとして、しばしば野蛮な「未開社会」という言葉が使われます。しかし、現実には、いわゆる文明が発達すればするほど野蛮さが増大することが多いのです。
 4章の最初に戻ってみれば、カインとアベルという、農耕社会と牧畜社会を代表する兄弟は、神様に捧げ物を持ってきました。ある観点から見ると、それは彼らが未開の人であり、未熟な人間であることのしるしなのです。神を恐れて、物をささげて礼拝する人間は未熟なのです。成熟した社会、成長した人間は、最早神などを恐れたり頼ったりはしない、捧げ物を捧げるなんてナンセンスだ。人間はもう神になど束縛されない。自分の意志と決断で生きていく。誰の指図も受けない。そういう人間こそ、大人、成熟して、そして洗練された文明人だ。そう考える立場があります。現代の社会は、そういう社会ではないでしょうか。カインの末裔の時代は、そういう社会なのです。
 しかし、神を恐れなくなった社会、そして、神を恐れぬ人間には、実は別の恐れがあるものです。それは人です。人が怖いのです。何をするか分からないからです。人は人を殺すこともする。そのことを誰よりも良く知っているのがカインであり、その子孫なのです。ですから、彼らは実は人を恐れている。そして、その恐れの根底にあるのは、死に対する恐怖です。
神を捨てた世俗社会においては、すべては自分のものですから、すべてを自分で守らなければなりません。富も命も自分で守らないと他人に奪われてしまうのです。その恐怖を打ち消すために、ますます富と権力を求めて突っ走る。そして、そうすればするほど、実はすべてを失う恐怖を増していくのです。
 今、ある大物財界人が逮捕されたことが大きなニュースとなっています。その人は二代目ですが、先代は正妻三人と側室二人の間に五人の男の子をもうけた人物のようです。ある時期は、すべて母親が違う男の子たちを同じ屋根の下に住まわせ、ある意味で互いに競い合わせるようなことをさせていたと言われます。それは子供たちにとっては温もりのある家庭なんてものではなく、まさに火宅の家と言うべき修羅場でしょう。その家長は、家の財産がすべて無くなってしまうことを極度に恐れ、とにかく家の財産を守ることを子供たちへの至上命令としたようです。そして、友人を作るなという家訓を遺した。友人とは所詮、金の無心にくるし、裏切られるかもしれないからだ、というのがその理由のようです。その絶対君主的な家長に最も忠実だった子供が、すべての事業を受け継ぎ、さらに事業を拡大して巨万の富と権力を自らの手に集中させました。その企業イメージは皇室を利用しつつ高級感を漂わせたものであり、高級な文化の発信地としてリゾート開発やスポーツ経営、各種イヴェントなどを手がけてきたわけです。しかし、その上品且つ高級な企業イメージとは裏腹に、現実には事業の拡大と成功に反比例するように二代目君主は腐敗し、退廃し、堕落し、野蛮にすらなっていったのでしょう。富と権力の集中の中で作り出される所謂高尚な文化の背後には、こういう退廃と野蛮さが隠されていることが多いものです。すべてを自分のものとしようとする欲望と、そうすればするほど、すべてを失ってしまうのではないかという恐れが、その背景にあると私には思えます。
 町に象徴される富と権力、芸術と技術。それらのものが、増大すればするほど、高度になればなるほど、実は、人間の精神性は貧困になり、社会は野蛮になる。神を捨て、神を恐れない人間は、却って根深い恐れに捕らわれて、野蛮に暴力的になっていくのです。その象徴としてレメクがいると思いますが、彼は、二人の妻を前にして、こう歌いました。

「アダとツィラよ、わが声を聞け。
レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
わたしは傷の報いに男を殺し
打ち傷の報いに若者を殺す。
カインのための復讐が七倍なら
レメクのためには七十七倍。」

 これは「威嚇の歌」とも言われます。妻を前にして、自分の力を誇示しつつ、自分の富と権力を奪おうとする者を威嚇していると読めるからです。しかし、「殺す」という言葉を現在形と訳すことが唯一の可能性ではなく、「殺した」とか「殺してきた」と訳す場合もしばしばあります。原文が、その両方の可能性を示しているようなのですが、もし過去形として訳すとすれば、威嚇の要素を深く併せ持ちつつ、自らの報復の業を自画自賛しているということになります。「俺は打ち傷に対して、殺人で報いてやった。どうだ、凄いだろう。ちょっとでも、刃向かう奴はコテンパンにしてやった。そうしておけば、皆が俺様を恐れて、逆らう奴はいなくなるはずだ。」こう歌っているのです。これは極めて野蛮な歌です。だから、学者は、ヴェドウィンなどの未開な人の歌が原型になっていると言ったりしますが、そうでしょうか?これは誰もが持っている思いだし、特に都市に住む金持ちの「文明人」こそが持っている思いであり、口に出している言葉のように思います。しかし、こういう歌を歌う人間の心の奥底にあるのは恐怖、怯えなのです。
 2001年9月のテロの後、あの国は「報復」という言葉で一色になりました。そして、大統領は、「俺たちがどれくらい強いか見せつけてやろう」と演説し、当時の国民の圧倒的多数が大喝采を挙げました。そして、二つのビルを壊された報復に、二つの国の秩序を破壊しました。もちろん、その国の秩序がその国の多くの人にとって良かったかどうかは分かりません。分かることは、あの国の大統領と政府の人々にとっては良くなかったということです。しかし、結局、見つけることが出来なかった大量破壊兵器を戦争開始の口実に使うやり方も、あのテロとの因果関係があるかどうかも分からない独裁者を、とにかく「危険な人物だ」と言って排除するために、多くの市民を殺すことになる戦争を始めるやり方も、極めて野蛮なように、私には思えます。
 こうやって見て来ると、創世記の第4章はわずかな字数の中に、人間が作り出す長い長い歴史の実相を描き出しているように思えるのですが、どうでしょうか?「神のように」自由に、「神のように」強くなりたくて、禁断の木の実を食べた人間の行き着く先は、自己防衛から過剰防衛となりついには先制攻撃となる。そして、復讐の連鎖の泥沼に落ちていく。神を恐れる思いを無くした人間は、人の悪意、殺意に怯えるだけになっていく。人間の歴史は、こういう歴史として、私たちの目の前にあるのです。その人間の歴史の姿を、聖書は2ページで書いている。私は、そう思います。この書物に記されている言葉によって、私たち一人一人の心の奥底に隠されている闇は照らし出され、歴史の実相が炙り出されてくるのです。
 そして、アダムとエバはすべてを見ていたのです。(レメクまでカインから数えて五代目なのに生きていたのか??なんてことで躓かないで下さい。5章を見れば分かりますように、アダムは930年生きているのです。)彼らは、自分の子供が人を殺すのを見ていたのです。そして、その子と子孫が都市を作り、文明を作り出す中で人を殺す様を見てきたのです。それも些細な打ち傷を与えられただけで倍返しどころか七十七倍もの復讐をする様を見てきたのです。カインに「しるし」をつけて下さった神様は、カインを傷つける者に対して、カインが復讐をして良いというお墨付きを与えたのではなく、彼を殺す者に対して神ご自身が復讐をすると言っているのです。しかし、カインとその末裔は、最早神など信じていません。神の復讐など当てにはしません。復讐は自分でやるのです。それも何十倍にしてお返ししてやるのです。人間とは、そういうものです。私はよく分かります。だから「目には目を、歯には歯を」というのは、復讐の倍返しを禁じる掟なのであって、復讐を奨励している掟ではありません。しかし、最初から人間は掟を破るものです。
 先週も「たまたま」ワイドショーを見ていたら、去年の12月に起きた殺人事件のことが報道されていました。それは50歳代の男の恨みによる殺人でした。しかし、実行犯は20歳代の無職の青年たちです。彼らは殺人報酬として一人十万円を貰って人を殺したのです。もちろん、依頼を断れない抜き差しならない人間関係もあったのですが、無職ですから十万円の金が欲しかったことも事実です。テレビでは、そのような理由で見ず知らずの人を殺してしまった青年たちの親が、被害者の妻を訪ねて謝る場面が報道されていました。親たちは、泣き崩れて道路に土下座して、「息子たちのやったことを赦してください。本当にすみませんでした。私たちが死にたいくらいです・・金なんて無くたって生きていけると教えます」と謝ります。しかし、殺された被害者の妻は赦せる筈もありません。「金なんて無くたって生きていけるって、そんなことも子供に教えてないの?そんな当たり前のことを・・」とやはり泣きながら訴えます。「あんたたちが死んだって、私の夫は帰ってこないのよ。私の夫だけが死んだんだからね・・」と謝罪を突っぱねます。当然でしょう。
 今話題の財界人の家に限らず、親が子供に決定的な影響を与えていることは明らかです。もちろん、子供の行動のすべてが親のせいであるはずも無いことですが、しかし、親には逃げることの出来ない責任があることも事実です。
 アダムとエバ、彼らは自分の子供が自分の子供を殺すということを目の当たりにした親です。加害者の親であり、また被害者の親でもあります。そして、弟を殺したほうの兄は、そのことを反省もせず、追放されてしまいます。それは、そういう苦しみを経験して後に、カインが罪を認めて、悔い改めて、神の前に立ち返るために与えられた処罰だと思います。しかし、その後、カインは町を建て始め、その子孫は繁栄を手にします。しかし、その繁栄を手に入れるために、また守るためにやっていることは殺人なのです。
 アダムとエバは、はるか遠くから聞こえてくる彼らの消息を聞きながら、自分たちの罪を思わないわけにはいかなかったでしょう。神様から「食べるな」と言われたのに食べた罪、そして、その罪を悔い改めなかった罪、そして園から追放された後に、ますます伸び伸びと自分の欲望のままに生きていたこと。そういう自分たちの姿を思い返さざるを得なかっただろうと思うのです。そして、カインは、その姿を見ながら、真似をするようになっただけだと思わざるを得なかったでしょう。カインはまさに自分たちの子であると思うほかに無いのです。カインの末裔、彼らも結局、自分たちの真似をしているだけだ。
最初の小さな誤りを放っておけば、それはどんどん拡大再生産されていくものです。「嘘は泥棒の始まり」とはよく言ったものです。小さな嘘が、盗みに発展し、盗みは殺人に発展します。一人の殺人が放っておかれれば、その何倍もの殺人に発展するのです。大量殺人である戦争は、その発端を辿ると小さな嘘なのです。だから、主イエスは「馬鹿」と言えば、殺人と同じだと仰り、情欲を抱いて見れば姦淫を犯したのと同じと仰るのです。
 アダムとエバ、彼らの悲しみは深いのです。彼らは、この時に、自分たちがやってしまったことが何であったかを知ったでしょう。そして、「食べると必ず死んでしまう」と言われた意味を知ったでしょう。そう言われたのに食べ、「何と言うことをしたのか」と言われたのに、悔い改めることもせず、「悪いのは女、悪いのは蛇、結局、神様あなただよ」と居直っていた自分たちの罪とその罪に対する罰が何であったかを、彼らはこのような形で知らされることになったのです。恐ろしい話です。
 しかし、神様はそういう罰だけを彼らにお与えになったのでしょうか。

「再び、アダムは妻を知った。」

 4章は「さて、アダムは妻エバを知った」という言葉で始まります。そして、中間に「カインは妻を知った」という言葉があり、最後に、「再び、アダムは妻を知った」とある。これは夫婦の営みをしたということです。愛がそこで試されるのです。神様が合わせて下さった伴侶と、愛において結ばれるのであれば、それは神様に祝福された営みです。しかし、自分の欲望を満たすために、性欲を満たし、一家繁栄のために子孫を残すという欲望を満たすためであれば、それは自らに呪いをもたらす営みです。目に見える行為は同じであっても、その内実は全く違うのです。

  「彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。」

 ここで「カインが」以下は、他のいくつもの翻訳がエバ自身の言葉としています。私も断然そちらの訳に賛成です。カインを産んだとき、彼女は自分の力に酔いしれていました。自分は、命を生み出すことが出来るのだ、もう主と同じ力を持ったのだと勝ち誇っていたのです。しかし、「命は自分のものだ」と思うことが、「だから自分が殺そうが何しようが勝手だろう」と思うことに繋がるのです。小さな思い上がりが、とんでもない思い違いに繋がる。そして、命を滅ぼすことに繋がるのです。その事実を知った今、アダムとエバは、初めて痛切な悔い改めに導かれたでしょう。そして、彼女は、かくまで深い過ちを犯してしまった自分たちに尚も祝福を与えてくださり、新しい命を宿らせてくださる神様の憐れみに感謝し、息子をセトと名付けました。「命は、人間が自分で作るのではなく、神様が授けてくださったものなのだ」という思いを込めてです。神様が授けてくださったものだから尊いのです。命は。自分の命も尊いし、他人の命も尊いのです。傷つけてはいけないのです。まして、殺してはいけない。命は神様のものだから。
 そして、セトにも男の子が生まれました。彼はその子をエノシュと名付けた。これは集合的な意味での「人間」を表す言葉です。そして、その言葉には「弱さ」、「儚さ」という意味があると言われます。神様の支えなくして生きていけない人間、神様との交わりの中で初めて生かされる人間、そういう意味が、そこには込められているように思えます。

  「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」

 「主の御名を呼ぶ」、それは主を礼拝するという意味です。人間は、ここまできてやっと主を礼拝し始めたのです。何と何と長い時間が必要だったことかと思います。主に顔を向け、主の名を呼び、赦しを乞い、その憐れみを感謝し、罪の赦しを賛美するために、何と多くの重い罪を犯してしまったのか・・・・
 私は先ほど、子供が殺人を犯してしまった親の苦しみと悲しみに触れました。私たちは人間は皆、神に命を与えられた神の子です。だから、私たち人間は皆、兄弟姉妹なのです。その兄弟姉妹が、文明の発達の中で、互いに恐れ、警戒し、傷つけ合い、そして殺し合っている。その様を、父なる神様が見ている。一体、どれ程、悲しく辛い思いをしておられるだろうか?一体、どれだけ怒っておられるだろうか。
 十字架の主イエスを思います。何の罪も犯していないのに、いやだからこそ無残に殺される神の子がいます。そして、むざむざと殺されるままに黙ってその姿を見ておられる父なる神様がおられます。なぜ、そんなことがここで起こっているのか。誰が殺したのか、殺しているのか。私たちです。私たちの心が怒りに震え、情欲に燃え、権力欲に燃え、高度な文明人であると奢り高ぶる時、私たちは神を亡き者としているのです。心の中で抹殺しているのです。神を恐れていないのです。神は、その罪に怒りを発せられます。しかし、その罪人を憐れまれるのです。そして、罪無き神の独り子に私たちのすべての罪を負わせて、容赦の無い裁きを与えられたのです。
 その罰、最も残虐な方法による死刑によって神の子は裁かれました。その十字架の死は、自分のためだ、自分の罪のためだと心から信じ、恐れ戦きつつ罪を悔い改める者の罪は、その死の故に赦されます。そして、その信仰の故に、その者は新しく造り替えられます。新しい命が「授けられる」のです。主イエスの復活の命に与って、新たに生き始めることが出来るのです。主の名を呼んで礼拝するとは、そういうことです。その命が与えられることなのです。その礼拝をするまでに、何と長い時間を費やし、何と多くの罪を重ねてしまったかを思います。その間、主イエスがどれ程その心を痛めつつ苦しまれたかを思います。そして、私たちはこれからも尚も苦しめてしまうに違いありません。しかし、その度に、ひれ伏して主の名を呼びましょう。「主よ、どうぞ赦してください。主よ、信じます、あなたの愛と赦しを信じます。主よ、どうぞ私を憐れんでください。そして、罪を帳消しにして新しく生かしてください。あなたの御用のために用いてください。私をあなたに捧げます。どうぞ御業のために、私を用いてください。用いていただけるのなら、それに勝る幸いはありません。主よ、どうぞあなたの御栄を現す者として下さい。」そう祈りつつ礼拝を捧げましょう。主はきっとその祈りと告白と賛美を聞いてくださり、悔い改めと信仰を喜んでくださり、新しく生かしてくださいます。これから、共に頂く聖餐の糧は、主によって与えられる罪の赦しと新しい命そのものなのです。
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