「兄弟の愛憎を越える希望」

及川 信

創世記 4章 1節〜 8節、25章 7節〜10節

 

新しい年度が始まりました。しばらくの間、これまで月に一回だった創世記を続けて読んでいこうと思っています。そのうち、ヨハネによる福音書の連続説教を始めます。
 先月の初め、モーセの「十戒」をテーマとしたミュージカルを観ました。その中で、私が興味深く、また感銘深く思ったことは、モーセとエジプトの王であるラムセスが深く愛し合う兄弟として描かれていたことです。兄弟同然に育った彼らは、深く愛し合いつつ、それぞれの立場上、現時点では愛し合うことができない。いつかは、天地の造り主であり、イスラエルの神である主の愛をすべての国民が受け入れて、互いに愛し合える日が来るはずだけれど、今はまだ、戦い、決裂し、どちらか一方は死ななければならない。そういう人生の悲しみがあるのです。まだ完成していない不完全な世界、途上にある歴史の現実が、そこにはあります。
 そのミュージカルを観ながら、私はその頃ずっと読んでいたカインとアベルの物語を思い出していましたし、今の世界の現実をも思いました。歴史認識の問題や領土問題などで、日韓、日朝、日中、中台、韓朝間は、いつも緊張と危険を含んでいます。西洋人から見れば見分けがつかないほどに良く似た極東のアジア人同士が、互いに心から和解出来ない傷を抱えて生きているのです。しかし、そういう現実は、世界中のあらゆる国々の間にあり、民族の間にあり、また人種の間にあります。そういう現実をいつも見させられながら、私たちは、「何故、私たちは愛し合えないのか?同じ人間なのに。お互いに、心の奥底では愛を欲しているのに、それは分かっているのに、何故、私たちはかくも憎み合ってしまうのか。私たちは、本来、愛し合うべき兄弟としてこの世に誕生し、生きているはずなのに・・」という思いを持つのではないでしょうか。
 よく「世界平和は宇宙人が攻撃してきた時に実現する」と言われたりします。つまり、共通の敵を持った時にだけ、私たち人間は一致するのであり、共通の敵がいない限りはお互いが敵となる以外にはない、ということです。そう言わざるを得ない程に、私たちの現実は、深刻な不和対立の中にある。これは確かなことです。
 創世記は、そういう世界を作り出す人間の罪を、その最初から根本的に見つめている書物です。その書物に登場する最初の兄弟が殺人を犯すことからもそれは分かることです。そして、それ以後も、人間は結局、その罪から自由になることはなく、世界は分裂と対立に終わる。それが祝福に満ちた天地創造に始まる原初物語の結論です。
 しかし、神様はそういう世界に一組の子供が生まれなかった老夫婦を旅立たせるのです。アブラハムとサラという夫婦です。そのアブラハムに信仰を与え、アブラハムを全世界の祝福の基とするため、全世界の人々がアブラハムの信仰を受け継いで祝福に与ることが出来るように、旅立たせるのです。そして、主の言葉どおり旅立ったアブラハムに、将来子供を与える約束と、その子供にカナンの土地を与えるという約束をします。アブラハムは、その約束を信じて旅を続けます。しかし、神様の約束はなかなか実現しない。ただでさえ年老いているのですから、子供が生まれるという約束は年月が経てば経つほどその実現の可能性は乏しくなります。だからこの夫婦は、ある時、神様の約束の実現を待ちきれず、自分たちの力で子供を作るということをしました。サラの女奴隷でハガルという名の女性を、サラがアブラハムに与え、ハガルとの間に子供を作り、その子を自分たちの子として養子縁組しようとしたのです。
 しかし、それは当然の事ながら家庭内に大きな悲劇を生み出しました。奴隷だったハガルは、子どもを身ごもると同時に、不妊の女であるサラを見下しました。女として、また主人として、その軽蔑はサラにとっては耐えがたいことでした。怒りに震えるサラは、ついにアブラハムにハガルを追い出させます。ハガルは、身重の体を抱えてさすらいの身になります。通常なら、それは死を意味します。しかし、主なる神は彼女を見捨てず、彼女に出会って、女主人の許に帰り、従順に仕えるように促します。そして、彼女がやがて男の子を産むことを預言し、生まれた子はイシュマエルと名付けるように命令されました。(これは「主は(悩みを)聴いてくださる」という意味の名前です。)ハガルは、大きな屈辱と悲しみを抱えつつ、再びサラの許に帰りました。そして、ハガルは男の子を産みます。その時、75歳で旅立ったアブラハムは86歳になっていました。
それから13年経った93歳の時、神様は再び、アブラハムに子を与えると約束をされます。しかし、その時のアブラハムは、最早その約束を信じることが出来ずに、心の中で笑うのです。また、妻サラも笑います。当然です。
 しかし、それからさらに7年後、アブラハムが100歳になった時に、ついに神様はその約束を実現して下さいました。もう年老いて子どもなど生まれるはずもないアブラハムとサラの間に子供が生まれたのです。その子の名はイサクです。これは、「笑い」という意味です。神様の約束を信じないで心の中で笑ったあの不信仰の笑いであると同時に、神様が本当に約束を実現してくださったことを知った喜びの笑い。そういう二重の笑いが、このイサクという名前には込められています。
 そして、そのイサクが乳離れする時、アブラハムとサラは盛大な祝宴を開きました。その場は、喜びの笑いで満たされていたでしょう。しかし、その時、サラはイシュマエルがイサクと笑いながら遊んでいるのを見ました。その瞬間、サラの心は突然凍りつくのです。それまでの笑い顔は急にこわばり、彼女はアブラハムにこう言います。

「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎになるべきではありません。」

 このサラの言葉は、アブラハムを「非常に苦しめ」ました。イシュマエルもまたアブラハムの子であり、イサクの兄弟だからです。兄弟同士は、楽しく遊んでいるのです。しかし、神様がアブラハムに、イシュマエルもまたアブラハムの子供として守りの中に置くと約束されたことによって、アブラハムは次の日の早朝に、ハガルとイシュマエルを家から追い出します。この母と子は、程なく飢えと渇きの中で死にそうになります。ハガルは、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、潅木の木陰にイシュマエルを横たわらせて、自分は離れた所に座って声をあげて泣きました。イシュマエルも泣きました。そういう惨めこの上ない親子、このまま泣きながら死んでいくほかにない親子を、神は顧みて下さり、その命は助かり、彼は一つの民の祖先となっていくのです。
 しかし、サラとハガル、アブラハムとハガル、イサクとイシュマエルの間には決定的な断絶が出来たことは明らかです。彼らの心の中に、決して消えることのない傷がついたことは事実です。ハガルは、サラの指図によって自分たちを追放したアブラハムを赦すことは出来ないでしょうし、イシュマエルもまた、ある日突然、父親から追い出されて、ついに実の母親からも見捨てられるように木陰に寝かされた事実を忘れることは出来ないでしょう。そして、母親から、何故、あんなことをしてしまったかを後で聞かされ、サラとアブラハムを恨み、イサクを心底妬んだでしょう。サラはサラで、元はと言えば、自分の発案でハガルをアブラハムに与え、ハガルが産んだ子を、当時の慣習に従って自分の子として育てようとしたことを、どれ程後悔したか分かりません。自分が神様の約束を信じることが出来なかったが故に、今で言う代理母を利用することを提案したことの後悔が、彼女にはあると思います。そして、自分を見下したハガルへの消えない怒り、自分の子の地位を危うくさせる幼子イシュマエルへの恐れ、そういういくつものどうしようもない感情が、彼女の中には渦巻いていたはずです。そういうサラとハガルは、一緒にいることは決して出来ません。アブラハムにとっては、イシュマエルもイサクも可愛い子供であることに違いはなくても、この兄弟は、決して一緒に生活することは出来ないのです。神様の約束の地を受け継ぐのは、イサクだからです。
 分裂と敵対の世界に旅立ち、その世界の祝福の基となるべきアブラハムでありサラでしたが、その家庭もまた、こういう分裂と敵対を生み出してしまうものであったのです。
 しかし、アブラハム物語はその後もまだ続きます。そのすべてを語るわけにはいかないのですけれども、アブラハムは、その後、「愛する独り子を生け贄として捧げよ」という命令を神様から受けます。それは、彼にとって耐え難い試練でした。しかし、この時の彼は、すべてを神に委ねて、その命令に従うアブラハムでした。その時、彼は、全身全霊をかけて神様の愛を信じ、その愛に一切を委ねてみ言葉に従う信仰を与えられたのです。
 そのアブラハムに対して神様は、こう語り掛けられます。

「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 つまり、75歳の時に、主なる神様の命令に従って見知らぬ土地に旅立ったアブラハムに与えられた約束が、ここで再び確認されるのです。しかし、地上の諸国民がアブラハムの子孫によって祝福を得るという約束は、何時どのようにして実現するのでしょうか。
 この後、サラが死にます。そして、アブラハムは彼女を葬る墓を取得するために非常な努力をします。そして、その後何年も経って、アブラハムは年老いて、息子イサクの嫁探しを僕に託します。そして、イサクの嫁としてリベカが来た後、25章を見ると、アブラハムが再び妻を娶ったということが記されています。これまでの物語の筋から言うとあり得ないことなのですが、25章には物語部分とは別個に作られた系図が結び付けられているのです。そこにある系図が言いたいことは、アブラハムの子孫が当時の全世界に散らばっているということなのです。そこに記されている子供たちの名前は、その後の各民族、部族の名前になっていきます。それは12節以下のイシュマエルの子孫の系図についても言えます。彼らもまたアブラハムの子孫です。そして、その住む地域は現在のエジプトの南からアラビア半島を含めてイラクやクウェートという広大な地域なのです。それは、当時知られている全世界です。その全世界にアブラハムの子孫が散らばって生活しているのです。ということは、彼らは実は皆兄弟だということです。
 しかし、アブラハムは、「全財産をイサクに譲った」あと、(1節には「妻」となっているケトラという名の)「側女」との間に生まれた子供たちには「贈り物を与え」、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方に移住させ、「息子イサクから遠ざけた」とあります。彼らが一緒にいると、必ず争いが起こるからです。そこには、アブラハムの手痛い失敗の経験に基づく知恵があることは言うまでもありません。
 既にアブラハムが離れていたイシュマエルの子供たち、つまり兄弟たちは、「エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた」とあります。これはもうエジプトからメソポタミアに至る広大な地域において、近くに住む兄弟同士が互いに敵対しつつ住んでいたということです。
 先ほど読んで頂いた箇所は、そういう世界の現実を示す系図の間に挟まった物語部分です。

「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。(中略)そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。」

 この「息子」とは厳密に言えば「息子たち」です。イサクとイシュマエル、彼らは両方ともアブラハムの子です。約束を受け継ぎ、信仰を受け継ぎ、財産を受け継ぐのは当面イサクですが、いつの日か、アブラハムに与えられた信仰を与えられて祝福を受け継ぐべきアブラハムの子孫、全世界の民なのです。彼らは皆、兄弟なのです。互いに愛し合うべき兄弟なのです。しかし、今はまだそこまで成長していないので、争いを避けるために遠くに住んだり、互いに敵対しつつ生活していたりする。しかし、いつの日か、この兄弟たちは皆、アブラハムの子孫として神様の祝福の中に互いに愛し合う日が来るのです。その第一歩、それがイサクとイシュマエルが、共にアブラハムの遺体をサラが眠る墓に葬るというところにあるのだと思います。
 イサクとイシュマエル、彼らは、あの別れの場面を考えれば、もう二度と会うことはないはずの兄弟です。会うとしても、それは財産と祝福を巡って争うために会うのであって、それ以外の会い方は考えられない兄弟です。
 しかし、最後にとてつもなく深く強い信仰を与えられたアブラハムの死は、この二人の兄弟に和解をもたらしました。彼ら兄弟の心の中に残った深い傷やわだかまりは、信仰の父アブラハムの死によって氷解し、彼らは協力してアブラハムを墓に葬りました。イシュマエルにとっては赦しがたい異母のサラが眠る墓にです。
 先月の水耀会に備える学びの中で、さりげなく書かれているこの場面に出会った時に、私は深く慰められました。この25章の系図には沢山の民族が出てきます。後のユダヤ人の基になるアブラハムとイサクが中心ですが、エジプト人、アッシリア人、アラビア人・・、彼らは長い歴史の中で争いと和平を繰り返していきます。そして、それぞれの民族や国の支配領域は時代によって変化し続けていきます。つまり、戦争によって国境線は変るのです。今もそうです。その長い歴史の現実を見ると絶望的にもなります。しかし、アブラハムの死によって、あの兄弟、イサクとイシュマエルが深い和解を与えられている。その事実も確かなことなのです。大きな山の間に挟まれた暗い谷底にひっそりと咲いた小さな花のようではあっても、その事実は暗澹たる歴史の中で、消えることのない希望を与えてくれるものだと思います。
 私たちが新約聖書を開けると真っ先に飛び込んでくるのが、こういう言葉です。

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」

 聖書が告げていること、それは、主イエス・キリストはアブラハムの子孫であるということです。それは、主イエス・キリストが肉におけるアブラハムの子孫であるということを超えて、イエス・キリストこそが全世界の祝福の基となられたということなのです。神のようになろうとする罪によって、神様と敵対し、分裂してしまった世界中の人間が、神様と和解し、また互いに和解できるとすれば、その場所はこの方の十字架の下にしなない。聖書は、そう告げているのです。
 その主イエス・キリストが生まれてからの2000年の歴史をどう考え、どう評価すべきなのか?それは難しい問題です。2000年間、教会によって、主イエスがもたらして下さった神の国の福音は全世界に宣べ伝えられてきました。しかし、そのキリスト教会自体がいつも内部で争いを繰り返してきたのですし、他宗教の人々に対しても敵対的であったりもしています。イエス・キリストご自身は、すべての敵意の中垣を自らの死によって打ち砕き、神と人、人と人との分裂を解消する道を開いて下さいました。しかし、現実の世界は宗教の違い、民族や人種の違い、性別の違いなどによって分裂し、敵対をしています。もちろん、人種や民族や宗教が同じ者同士なら互いに愛し合っているのかと言えば、そんなことはありません。日本人同士であっても同じ家族であっても憎み合っていることはいくらでもあります。私たちの争いの原因は、目に見える違いにあるのではなく、目に見えない罪にあるからです。その罪が死滅しない限り、イシュマエルの子供たちが兄弟同士互いに敵対しながら生きていたように生きざるを得ないのですし、だからこそ、アブラハムが子供たちをイサクから遠ざけたように、兄弟同士が互いに距離をもって生きていた方が安全なのです。そのことは具体的な歴史における事実ですし、私たちの小さな家庭の中でもしばしば起こる現実なのですから、その現実を無視して、「私たちは愛し合えるはずだ」と叫んで、すぐに裸になって抱き合うわけにはいきません。
 しかし、だからと言って、互いに愛し合えないという事実が、今後も決して変わることなく続くと決め付けることもまた、歴史における事実を見ていないことになると思います。
私たちキリスト者は、歴史をキリストが生まれた年を基準として、キリスト以前とキリスト以後と分けて見ます。最近はあまり使われなくなりましたが、かつては紀元後のことをADと表記しました。これはアンノ ドミニというラテン語ですが、主の日々、主が導く歴史という意味です。主イエスが生まれた当時、それは基本的に男尊女卑の社会でした。また奴隷が多数存在する身分制の社会でした。基本的人権という発想もなかったのです。そういう社会体制は長く長く続きました。今も完全には無くなっていません。しかし、人間は男も女も平等であり、民族や人種によって優劣があるわけがないという思想は次第に広まってきました。そういう思想の根拠はキリストの愛にあるのです。キリストが、すべての人間の罪のために十字架に掛かって死んで下さり、すべての人間を新しく神の子として生かすために復活して、今も生きてくださる。そのキリストの愛がすべての人に無差別に与えられているが故に、「すべての人間は平等であり、互いに愛し合うべく生かされているのだ」と言い得るのです。もし、キリストの愛がないのなら、そして、今もキリストが生きておられないのなら、私たちは到底そんなことは言えませんし、すべての人間が互いに愛し合う希望など、少なくとも私は少しも持ち得ません。
 先日の計画総会の開会礼拝において、私は「小事に忠実な者は大事にも忠実である」という主イエスの言葉によって説教をさせて頂きました。大事に向かう道は小事の積み重ねです。世界の平和という一大事は、イサクとイシュマエルという二人の兄弟の和解からしか始まりません。世界中でたった二人の兄弟が、互いの愛憎を乗り越えてアブラハムの墓の前で和解をした。その事実の中に、敵対し分裂している世界中の人間同士の和解の基礎があり、出発があるのです。そして、その和解の基礎は、その時から数千年の年月を経て、ついにアブラハムの子である主イエス・キリストの十字架において世界に据えられました。この十字架の前に、すべての罪人が悔い改めをもって立ち帰ってくる。その十字架の愛と赦しを全身で受け止めつつ、互いに愛し赦し合う。神様の導きの中で、いつか必ずそういう日が来る。あと何千年、何万年掛かるか知りませんが、「主イエス・キリストの導きの中で、歴史はその日に向かっている」と、私たちは信じることが出来ます。その日を夢見て、その日に向かって、私たちは今日、目の前にいる兄弟姉妹と共に十字架の前に立ち、主イエスの愛を全身で受け止め、互いに愛し合うことから始めるしかないのです。
 お手元にマルティン・ルーサー・キング牧師の有名な演説をお配りしました。二年前のイースター礼拝においてもご一緒に聞きましたが、私はこれまでも数年に一回は必ず礼拝の中で聞いてきたので、今日もご一緒に聞きたいと思っています。

M.L.キング牧師 「私には夢がある」 だから私は言う。我が友よ。今日も明日も困難に直面せねばならぬとしても、私はなお夢を持っている。この夢はアメリカの夢に深く根差した夢である。つまり、いつの日かこの国は立ち上がり、「すべての人間は平等に造られたという真実は自明のものであると考える」という信条の本当の意味を実現させていくであろう。
 私は夢を持っている。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子供とかつての奴隷所有者の子供が、共に兄弟のテーブルにつくことが出来るという夢である。
 私は夢を持っている。不正と弾圧でうだるようなミシシッピー州も、いつの日か自由と正義のオアシスに変わるだろう。
 私は夢を持っている。いつの日か、私の四人の子供達が、肌の色の違いによってではなく、人格の中味によって評価される国に住むであろう。私は、今日、夢を持っている。
 私は夢を持っている。酷い人種差別主義者と干渉と拒絶の言葉をたえず口にする政治家がいるアラバマでも、いつの日か、黒人の少年と少女が、白人の少年少女と共に兄弟姉妹として手を取り合うだろう。私は、今日、夢を持っている。
 私は夢を持っている。すべての谷が高く挙げられ、すべての丘や山が低くされ、荒れ地が平地とされ、曲がりくねった道が真っ直ぐにされ、神の栄光が現れ、すべての人間がその栄光を共に見るであろう。
 これは私達の希望である。これが、私が南部に持ち帰る信仰である。この信仰があれば、絶望の山から希望の石を切り出すことが出来るだろう。この信仰があれば、我々は我々の国にある不和や敵対を、兄弟愛の美しい調和へと作り替えることが出来るのだ。この信仰があれば、我々は共に働くことができ、共に祈ることができ、共に戦うことができ、共に拘置所に入ることができ、自由のために共に立ち上がることができる。我々はいつの日か自由になると知っているのだから。
 その日は、すべての神の子たちが新しい意味を込めて「我が祖国、それは汝のもの、麗しき自由の国、我汝を讃える、我が父祖たちの死せる国、巡礼父祖の誇れる国、すべての山々から自由の鐘を鳴り響かせよ」と歌うことができる日である。もしアメリカが偉大な国であるべきだとするなら、このことが真実にならなければならない。
ニューハンプシャーの大きな山頂から、自由の鐘を鳴り響かせよ
ニューヨークの巨大な山から、自由の鐘を鳴り響かせよ
ペンシルバニアのアルゲニー山脈から、自由の鐘を鳴り響かせよ
コロラドの雪を頂いたロッキー山脈から、自由の鐘を鳴り響かせよ
カリフォルニアの曲がりくねった坂道から、自由の鐘を鳴り響かせよ
 しかし、それだけでなく
ジョージアの岩山から、自由の鐘を鳴り響かせよ
テネシーのルックアウト山から、自由の鐘を鳴り響かせよ
ミシシッピーのあらゆる丘から、すべての山腹から自由の鐘を鳴り響かせよ
 私達が自由を鳴り響かせる時、すべての村や集落、すべての州や町から自由の鐘を鳴り響かせる時、その時こそ、私達が黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手に手をとって、あの古い黒人霊歌にある言葉を歌う日を早めることができるのだ。
「ついに自由になった、ついに自由になった、全能の神に感謝すべきかな。我々はついに自由になった」。


この演説を聴きながら心に思い浮かぶ聖書の言葉は沢山あります。この演説の背景にはいくつもの聖書の言葉があるのだから当たり前です。しかし、一つだけあげろと言われれば、私はガラテヤの信徒への手紙の言葉をあげます。そこには、こうあります。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこでもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、取りも直さず、アブラハムの子孫であり、約束の相続人です。」

 アブラハムの子孫、それはキリストであり、そしてキリストに結びつく私たち一人一人なのです。私たちもかつては罪の奴隷として、互いに愛し合えない人間だったのです。争わないように互いに遠く離れて暮らすか、隣同士で互いに敵対しながら生きるしかない人間だったのです。しかし、その私たちが今、キリストを信じる信仰によって洗礼を受け、神の子とされ、兄弟姉妹とされたのです。そして、この礼拝において、神の家族としてキリストが分け与えてくださる糧を共に頂くのです。キリストの命を、命をかけた愛を共に頂き、その愛で互いに愛し合う家族とされているのです。今日、ここに集う私たちが、キリストの愛によって互いに愛し合う。そこからしか世界の一致は始まらないのです。この小さな教会の中で、この国にあって、ごくごく少数の私たちが、キリストの愛を受け入れて愛し合う。そのことが世界の救い、歴史の完成、神の国の完成に繋がる小さな一歩なのです。そして、私たちはアブラハムの子として、約束の御国、天国を受け継ぐ者なのです。
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