「それでもなお祝福の中を生かされる」

及川 信

創世記 5章 1節〜32節

 

 私たちはこれまで、天地創造以来の実に素朴にして壮大な物語を読んできました。その中の1章26節以下にこういう言葉があります。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生きものすべてを支配せよ。』」

 今日の「系図の書」は、ここに繋がる、あるいは、この言葉を背景としています。ここに「人」という言葉が出てきます。原語では「アダム」です。アダムとは、神に似せて造られた人のことであり、男と女に創造された人のことです。この言葉は、しかし、2章7節では、こういう形で出てきます。

「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

 ここでは、土から造られた一人の人という意味です。しかし、原語は同じアダムです。この時のアダムは、厳密に言うとまだ性別がない人で、後に女が造られた時に男となったアダムという名前の人を現す言葉ともなります。このアダムに対するのがエヴァという名の女性です。この辺りが聖書の難しいと言えば難しく、面白いと言えば面白く、深いと言えば実に深いところです。今日は、そういうところから入っていきます。
 今日の系図の書き出しはこういうものです。

「これはアダムの系図の書である。
神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」


 「これはアダムの系図」の中の「アダム」、これは固有名詞としてのアダム、あの「一人の男性」としてのアダムであると同時に、人類の最初の「人」としてのアダムでもあるでしょう。何故かと言えば、この系図は一人の人間の「家系図」であると言うよりは、むしろ、「人類の系図」あるいは「歴史」だからです。そして、「神は人を創造された」という場合、これは「一人の人」であると同時に「男と女に創造された人」を現しているのだと思います。「創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」とありますが、ここにもちゃんと「彼ら」とあります。「一人の人」を「人」と名付けたのではなく、「男と女に創造された人(複数)」である「彼ら」を、神様は「人」と名付けたのです。つまり、一人の人はまだ人ではない。人は二人いて初めて人だということなのではないか?
全く違う時代に、違う目的で書かれた、2章4節以下のエデンの園における人の創造においても、その点については、同じことが言われていると思います。2章のほうで、神様は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と仰り、アダムの肋骨から女を造りました。それはアダムと向き合う存在でした。彼と対等の交わりに生きる者が造られることによって、人は人となる。女が造られることによって男も造られる。この時に、初めて人は人となる。1章と2章では同じ「人」(アダム)でも相当に違う要素があるのですが、この点においては共通していると、私は思います。そして、人が交わりを生きる存在であるということが、神に「似せられている」ということの内容だと思います。
 それに対して、創世記3章以下に記されているいわゆる堕罪物語、楽園追放物語は何を語っているかと言うと、「罪とは結局、神と人間を引き裂き、人間同士の愛の交わりをも破壊するものである」ということです。神様の戒めに背いて、園の中央の木の実を食べたことによって、人は神様の前から身を隠すようになりましたし、男女もいちじくの葉で腰を覆うようになりました。それは、心を隠すことと同じでしょう。人は神を恐れ、また人間同士も互いに恐れるようになったのです。しかし、自らの罪を悔い改めない。自分の罪を神のせいにし、人のせいにする。そういう人間を、神様はエデンの園から追放されます。それは裁きであると同時に教育です。人間が自分の欲望に従って生きれば、その結果、何が起こるかを自分自身の身で経験をさせるという教育的な処置が、そこにはあるからのです。
 「神のように」なりたかったアダムとエバは、楽園追放をある面では喜んだでしょう。これで自由になった!と。しかし、神様からの自由は、実は罪の束縛に入ること、罪の奴隷になることです。しかし、その時は誰もそんなことには気づきません。自分が大人になったような気持ちで得意なのです。彼らは、早速、命の創造の業に取り組み、子供が生まれると、エバは、「主の力をも捉えた」という意味の自己讃美の言葉を発します。
しかし、彼女が産んだ二人の兄弟は、最初は神様に献げ物を持ってきたりしますが、自分の意に沿わないことが起こると、神様の制止を振り切って、兄のカインはその弟アベルを殺すのです。しかし、殺人という恐るべき罪を悔い改めるわけではない。彼は、神様に命乞いはしますが、罪を悔い改めて、赦しを乞うわけではありません。
 神様は、カインの命を保障した上で、さらに遠くに追放します。しかし、カインの子孫はその地で町を作り、繁栄を手にしていくのです。アダムから数えて七代目のレメクは、その繁栄を手にするために、自分が何をしてきたかをこういう歌で表現します。

「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。」

「殺す」は、しばしば「殺してきた」と訳される言葉です。そして、レメクは二人の妻の間に三人の子を設けますが、彼らはそれぞれ遊牧(運送、情報や文化の伝達者)、音楽(都市の王宮に欠かせないものでもある)、鍛冶(鉄の精錬、農具や武器製造)という職業を代表する者となります。カインは農民でしたから、アダムから数えて八代目までに、当時の主だった職業が出ているということになります。そういう人間の歴史がここには記されている。つまり、都市文明を発展させてきた歴史が記されているのですが、その歴史の内実は、あの復讐の歌、殺人をしながら繁栄を築くことを賛美するような恐ろしい野蛮性にあります。現代の世界でも自らを文明国だと誇る国ほど、恐ろしい戦争をするものです。「人間がその欲望とか意志のままに作り出す歴史であり世界とは、こういうものである。」聖書は、そう告げているように思います。
アダムとエバは、その子孫たちの恐るべき姿に、自分たちがエデンの園で犯した罪と、その罪を悔い改めることをしないままに生きてしまった恐るべき結果が現れていると知らされました。そして、自らの罪におののき、神に赦しを乞うたと思うのです。
その後、彼らは、もう一人の子を産むことになりました。そして、その子の名をエバは「セト」と名付けたのです。その名の意味は、神が「授けて下さった」という意味です。つまり、命は、自分で「作った」とか「獲得」できるものではなく、「神様が創造し、私たちに授けて下さるもの」であることを知ったエバの感謝とか賛美の心が、ここにはあると思います。
そのセトにまた子供が生まれました。その子の名をセトは「エノシュ」と名付けました。それはアダムと同じように「人」という意味です。どちらかというと儚い存在という意味があるとも言われますが、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。「主の御名を呼ぶ」とは祈りのことですし、礼拝のことでもあります。つまり、主の名を呼んで礼拝を始めたのがエノシュの時代だということです。そこには「人は主を礼拝することにおいて人となる」という意味が込められているでしょう。ここにおいてアダムの罪によって破壊された神様との交わりの回復があり、また男女の交わりの回復があるのです。神様との交わりの回復の故に、男女の性の交わりに対する祝福として命の誕生があるからです。そういう物語を経て、5章の系図があることの意味は深いと思います。
聖書の成り立ちというのは、これまでも何回か語ってきましたように実に複雑な、そして長い長い歴史的な過程があります。と言って、現在でもそのすべてが明らかになったわけでもなく、今尚、学者たちの間では様々な議論が積み重ねられています。しかし、確実に言えることは、聖書の中のどの書物(巻物)も、一人の人が一気に書いたものではないということです。創世記1章から4章の終わりまでの素朴にして壮大な物語一つとっても、少なくとも時代が全く異なる二つの大きな物語が合わさっているでしょうし、その物語の中にさらにいくつかの口伝の伝承素材があるだろうと思います。そういう伝承が一つの文書となり、さらに異なる時代や土地で成立した文書と組み合わされていくという過程がある。そういうことが繰り返されながら、次第に大きな物語が出来上がっていき、それが創世記とか出エジプト記とか一巻ごとの巻物に区切られ、最終的にそれらの巻物を編集して旧約聖書が出来上がってきたのでしょう。私たちの場合は、その上に、百年以上の間に各地で書かれたイエス・キリストを証しする福音書や手紙などが含まれる新約聖書が加わって、創世記からヨハネ黙示録に至る巨大な書物としての「聖書」を、信仰の基準となる「正典」として持っているのです。ですから、それぞれの書物も、それぞれの書物に含まれている文書や伝承も、それが語られたり、書かれたりした時に持っていた意味があるだけでなく、聖書全体の文脈の中に置かれたことによって新たに獲得する意味が出てくるのです。そうなりますと、やはり聖書の作者は神様だとしか言いようがないことになります。聖霊なる神が、その時代時代の人間に語らせたり書かせたりしているのですが、そのひとたちの誰も、清書の最終的な姿を知りません。自分が語った言葉や書いた言葉が、最終的にどんな文脈の中に置かれるのかは分からないのです。それを知っているのは、神様だけなのです。そして、私たちは今、そういう意味で、神様が最初から最後までお書きになり、そして編纂された「聖書」という巨大な書物を手にして読んでいるのです。だから、聖霊なる神様に祈りつつ読み、その言葉の意味を開いて(説明して)貰わないと分からないのです。聖書は、神様の書物ですから、神様に教えて頂かないと分かりません。少なくとも、そこから神様のメッセージを聴き取ることは出来ません。
私が今、何故こんなことを言うかと言うと、5章の系図は文献的に言うならば、2章4節から4章の終わりまでの物語とは全く別の時代に書かれた文書だからです。5章の系図が1章の創造物語を前提としていることは、冒頭に挙げた人間の創造の言葉と系図の言葉が同じであることから明らかです。そして、この1章の天地創造物語が、イスラエルの歴史で言えば、バビロン捕囚という時代にバビロンの地で書かれたことは、ほぼ定説になっています。日本で言えば、太平洋戦争に敗れ、皇居も靖国神社も完全に破壊され、政財界人はもちろん、国の復興を担う技術者とか知識人などが根こそぎアメリカとかソビエトに連れ去られてしまうというような出来事です。このバビロン捕囚に比べれば、日本の敗戦はまだ不徹底だったと言えるでしょう。日本の場合は、国そのものが亡くなったわけではありませんし、天皇制も靖国神社も形を変えて残ったというより、占領軍に利用されました。しかし、バビロン捕囚は、国の滅亡です。そして、支配者層は殺されるか、捕囚されるかしたのですから、国の領土が奪われ、体制が崩壊しただけでなく、イスラエルの民のアイデンティティそのものが崩壊したのです。
その壊滅的な現実を前にして、「何故、こんなことになったのか」を根本的に考えさせられ、神様に祈り、その祈りの中で神様によって書かされたとしか言い様がない文書が、聖書の中にはいくつもあります。その一つが、創世記1章の天地創造物語です。しかし、2章4節以下のアダムとエバの物語は、全く違う時代に書かれた文書で、それが1章に続けて配置され、4章の終わりまで続き、その後に1章と同じ人(人々?)が書いた(あるいは系図だけを専門的に書いた人がいたかもしれませんが)系図が配置されることになったと思われるのです。
そうなりますと、イスラエルの歴史とこの二組の物語の合成が見事に重なってくることになります。イスラエルの歴史は、いずれご一緒に読んでいくことになるアブラハム物語に始まりますけれども、それは遊牧民時代です。その後、色々あって結局国を持つことになりました。そしてその国は、戦後の高度経済成長時代、あるいはバブル全盛時代のように一気に発展するのです。その成長過程の内実を、アダムとエバの物語、カインとアベルの物語を書いた人は、批判的に書いているのかもしれません。神のようになりたいと願う人間が、神様の戒めに背き、傲慢にも自分の力で生きようとすると、一体どういうことが起こるのかを、この作者は、まるで童話のような素朴な形で、しかし、非常に鋭く描き出しているのではないでしょうか。
しかし、その物語の最後に、さりげない形ですが、自らの傲慢さと愚かさに気づいた人間の悔い改めが描かれており、その人間に対する神様の祝福が描かれているのだと、思うのです。
それに対して1章や5章は、神に逆らって繁栄と自由を求め続け、結局、退廃した社会を作り出した罪の結果、完全に滅亡し、バビロンにまで捕囚をされてしまったイスラエルの民に向けて書かれた文書です。その文書で繰り返されている言葉が、驚くべきことに「祝福」なのです。
私は経験がありませんが、戦争で敗れるということは、本当に惨めなことだと思います。スポーツの試合なんかでも、外国との試合に負けると、何か非常に惨めな思いになり、相手に対して劣等感を持ったりします。人間として、相手のほうが優れているのではないかと思ったりする。戦争に負けるということは、そんなことと比較にならないほどに惨めなことでしょう。まして、この時のイスラエルの民にとっての負けは単なる敗戦ではなく滅亡であり、さらに敵地への捕囚です。もう帰る国はないのです。日本の敗戦どころではないのです。バビロンでは、「お前たちの神はどこにいる?!」と嘲られ、人間としての尊厳などこれっぽっちも持てない状況なのです。
そのとき、かつてのエルサレム神殿に仕えていた祭司たちの中に、この敗戦と滅亡の原因は自分たちの罪にあるということを神様から示された人々がいたのだと言われます。しかし、彼らは、それだけでなく、それでも尚、神様が祝福を与えて下さることも知らされたのです。そこで、彼らは、イスラエルの歴史の開始よりもさらに天地創造まで遡り、人間とは何であり、世界とは何であるかを書き始めたのです。それが、闇の中に輝く光の創造に始まる天地創造であり、神に似せて造られた王としての人間の創造であり、祝福された安息日の創造の物語なのです。これは、時間的な意味で世界の創造を振り返り、多分こうやって世界は造られたのだろうと想像して書かれたのではなく、これから新たに神様によって造られる世界が書かれているのです。新しい世界、新しい人間のあり方を示すために書かれているのです。しかし、彼らは何故、そのような祝福に満ちた創造物語を書くことが出来たのでしょうか。
先程、バビロン捕囚時代に書かれた文書は沢山あると言いました。その一つが列王記という文書です。これはヨシュア記、士師記、サムエル記に続く一連の歴史書で、やはりイスラエルが滅亡した理由はイスラエル自身の罪であることを明確にするために書かれた書物ですけれども、そこにこういう祈りの言葉が出ているのです。これはイスラエル王国の絶頂期、ソロモン王が壮麗な神殿を建造した時の祈りの言葉です。その長い祈りの中で、彼はこう祈ったということになっています。

「もし彼らがあなたに向かって罪を犯しーーー罪を犯さない者は一人もいませんーーーあなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いていかれたときに、彼らが捕虜になっている地で自らを省み、その捕らわれの地であなたに立ち帰って憐れみを乞い、『わたしたちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました』と言い、捕虜にされている敵地で、心を尽くし、魂を尽くしてあなたに立ち帰り、あなたが先祖にお与えになった地、あなたがお選びになった都、御名のためにわたしが建てた神殿の方に向かってあなたに祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてその祈りと願いに耳を傾け、裁きを行ってください。あなたの民があなたに対して犯した罪、あなたに対する反逆の罪のすべてを赦し、彼らを捕らえた者たちの前で、彼らに憐れみを施し、その人々が彼らを憐れむようにしてください。」(列王記上8章46節〜50節)

この書物もまた、単に過去の歴史を回顧している歴史書なのではなく、これからの新しい歴史を生み出していくために書かれたものです。罪を犯して罰を受けたのなら、罪を悔い改めよ、そして、神に赦しを乞え。そうすれば、神は赦してくださる!と教えているのです。
そして、創世記の1章にしろ、5章の系図にしろ、そこで神様が捕囚の民に語りかけていることは、罪を悔い改めた者に与えられる罪の赦しと新たな祝福なのです。敗戦と捕囚によってまるで屑のような扱いを受けているイスラエルの民が、こうなってしまった原因に、自分たちの罪があると分かった時、そして、「わたしは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました」と捕虜になった地からエルサレムの神殿の方を向いて祈り続けた時、深い悔い改めの中で神様を礼拝し始めた民に向けて、神様が語りかけた言葉が、「あなたたちは屑ではない。私はあなたを新しく創造する。私に似せて新たに造り直す。私との愛の交わりの中に生き、そして人として互いに愛し合って生きなさい。私はあなたを祝福する。産めよ増えよ地に満ちよ。地を従わせよ、生き物を支配せよ」という言葉なのです。
 神様は、私たちを裁いて滅ぼしたいのではありません。裁いて赦したいのです。救いたいのです。ソロモンが言うごとく、罪を犯さない者は一人もいません。「正しいものはいない。一人もいない」と、あるとおりです。しかし、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。御子が世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない」とあります。
 私たちは誰でも罪を犯した人間です。そういう人間として今、ここに集まっているのです。そして、今この時私たちは誰に向かっているのでしょうか。誰にその名を呼ばれ、誰の名を呼んでいるのでしょうか。誰の前に立っているのでしょうか。そこで私たちは何を言われており、何を言うべきなのでしょうか。
 エノシュの時代に、主の名を呼び始めたとあります。私たちにとって、その「主」とはイエス・キリストのことです。私たちの罪に対する神様の裁きを代わりに受けるために十字架に掛かって死んでくださった主イエス・キリストのことです。私たちは今その主の十字架の前に立っているのです。ただ、この十字架の前に立ち、その十字架の主イエスに向かって罪の告白をし、赦しを乞う時にのみ、私たちの罪は赦されるからです。そして、この十字架の主イエスは、また十字架によって死んだ主イエスであるが故に、復活の主イエスです。罪の赦しの結果としての新しい命、永遠の命を、悔い改めた罪人に聖霊と共に与えてくださる復活の主イエス・キリストなのです。この主イエス・キリストの名を呼んで祈ることを知るために、多くの時間を費やし、多くの罪を積み重ねてしまうのが私たち人間ですし、さらに主イエスの名を呼びつつ尚も罪を犯してしまうのが現実です。
 しかし、主イエスは、そういう私たちを尚も顧み、憐れみ、赦し、いつも新たに祝福を与えて、新たに生かして下さることもまた、何と言ってよいか分かりませんが、疑いようのない現実です。

「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」

 とあります。ここの「神に似せて」の「似せて」という言葉はギリシャ語ではエイコーンと言いますが、それはローマ書8章29節に出てくる言葉です。そこにはこうあります。28節から読みます。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマの信徒への手紙8章28節〜30節)

 またコロサイの信徒への手紙には、こういう言葉があります。

「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイの信徒への手紙1章14節〜15節)

 御子イエス・キリストは神の姿であり、神は私たちを御子に似た者にしようと定めて下さっている。つまり、御子による罪の赦しとは、私たち罪人を新たにご自身に似せて造り直して下さることに他ならないのです。この礼拝を通してです。この礼拝において、御子である主イエス・キリストによって罪を赦していただき、新しい命を与えて頂いているのです。そして、祝福をして頂くのです。そして、この祝福をもって、この世へと派遣されるのです。御子を信じる者は誰でも罪を赦され、永遠の命を与えられるという福音を証しするためにです。神は、私たち罪人を一人でも多く救うために、独り子さえも惜しまずに与えて下さったという神様の愛を証しするためにです。神様に愛されている者として、神様の愛で愛して生きるためにです。聖霊の力に励まされて、少しでもその愛に生きることが出来る時に、今もなお、祝福の中を生かされていることの意味と喜びが、私たちの中に満ち溢れてくるのです。こんなに有難いことはないのです。
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