「ああ、なんということを・・・・・(6章)」
先日、毎週「週報」を作ってくださる方から、「今度の『ああ、なんということを・・』という題は、以前も同じものがあったけれど、先生はちゃんとお分かりの上でつけていらっしゃるんですよね?」と言われて、「ええ、覚えているんだけど、まあ今回もこの題が思い浮かんできたもので」とか答えました。しかし、私は心のどこかで「以前は、『ああ、なんということをしたのか』と題したはずだ。似ているけれど少し違うはず」と思っていました。しかし、週報を調べてみると、実際は全く同じで、「・・・・・」の数まで同じでがっかりしました。違う箇所を同じ説教題で語ってはいけないという決まりがあるわけではないのですが、「ああ、なんということをしてしまったのか?四十代後半で早くも認知症か・・・」と愕然としてしまいましたが、仕方ありません。 しかし、それはそれとして、例によって私は毎日、最低一回は外に出ますし、結果として説教題が書かれている看板を見たくなくても見ます。そして、周の半ばほどまでは「この説教題からどんな話が聞けるのだろう・・」と、どこか他人事のような感覚で見ている場合が多いのですけれど、先週もそうでした。そういう日々の中で、これは多くの方と同じだろうと思いますけれど、尼崎の電車脱線事故の報道を見てきました。次々と明らかになるJR西日本の体質や対応の仕方には当然の事ながら腹が立ちます。事故に自ら遭いつつ、上司に電話したら「定時に出勤しろ」と言われて救助もしないで職場にいったJR社員がいたとか、事故を知りながらボーリング大会とか宴会とか慰安旅行が予定通り挙行されていたと知らされながら、まさに「ああ、なんということを・・・」と思わないわけにはいきませんでした。 しかしまたその一方で、事故があった現場のすぐ隣りの会社の社長さんは、男性社員全員を食堂に集め、「人命救助」と「安全第一」を告げて救助に向かわせ、女性社員も飲料水や救急用具を持って駆けつけたとか、反対隣の市場の責任者の方も、行ける人はすべて救助に向かわせ、周辺の渋滞解消のために市場内を車が通れるようにしたり、さらには市場に来ているトラックに協力を仰いで怪我人を病院に運んだりと・・実に多くの方が仕事を放り出して懸命に救助に励んだことも知らされ、逆の意味で「ああ、なんということをしてくれたのか・・」と感動させられたりもしました。 悲惨な脱線事故という一つの事実を巡って、全く異なる行動が引き起こされているのです。JRに勤めている方が皆悪人で、隣の会社にお勤めの方が皆善人だということではなく、人間というのは、属している組織の違いや、置かれている立場や境遇によって、全く異なる考えを抱き、行動をとるものだと思います。JRの人間と隣の会社や市場の人間が、すべて入れ替われば、きっと今回懸命に救助した人もボーリングをし、今回ボーリングをした人もきっと救助しただろうと思います。私も、JR西日本の社員であれば、事故当時は、きっと、上の人間の指示を待って、それが救助なら救助に行ったし、それが宴会なら多少ためらいながらも宴会に行ったでしょう。人間というものは、そのどちらの行動も出来るのです。 創世記5章の系図を巡って、私は「それでもなお祝福の中を生かされる」という題の説教と、「それでも増し加わる人間の罪」という題の説教を語らせていただきました。「祝福」と「罪」というのは、言うまでもなく一見すれば矛盾する現実です。しかし、実際の人間の歴史にはこの二つの現実があるのです。そして、神様から祝福を与えられていない人間はいないし、神様に対して罪を犯さない人間もいないのです。人間は、神様の祝福の中に置かれつつ、罪を犯し、その祝福を無にし、さらに汚すことさえします。その時、神様はその人間に対して、またその歴史に対して、どのように介入してこられるのか。それが、これから暫く続けて読むことになるノアの洪水物語の問題だと言って良いのではないかと思っています。 今日は、しかし、その洪水物語の序章にあたる1節から4節までのみ言葉の語りかけに耳を澄ませたいと思います。 「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった。」 短い文章ですけれども、この文章が何を意味するかについては学者たちの間で昔から喧々諤々の議論があって、今もなお決着がついているとは到底言えません。しかし、この文章の背後に古い神話があり、神話的な思想や表現があることは誰もが認めていることです。ご承知のように、神々と人間の女の間に、他の人間とは異なる人間が生まれるということは、古代の神話の中ではしばしば出てくる話です。前回も語りましたように、そういう神話はしばしば王家と結びついて語られもします。強大な権力を手中にする王はしばしば神の化身であり、また神と人間の間に生まれた神の子なのです。日本では、奇妙なことに、20世紀になってから新たに神話が作られ、「天皇」という名の人間が「現人神」などと言われていたこともあります。今の北朝鮮政府なども、「神」という名は使わないにしても、独裁者を神格化する点では全く同じことをしています。 旧約聖書が書かれた社会は今から3000年も前の古代社会ですから、神々の世界と人間の世界は今よりもはるかに近いし、所によっては混ざり合っていてもいたのです。そういう社会が、この文章の背後にある。それは確実なことだと思います。しかし、だからと言って、それはこの文章がそういう社会を肯定しているということを意味するわけではないのです。 ここで「神の子ら」と言われる者たちが誰であるかについては、いくつもの推定があります。堕落した天使たちだとか、人間の姿に化けた神々だとか言われたりもします。しかし、聖書は、当時広く知られていたそういう神話を利用しながら、実はそれらとは全く異なる、ある意味で全く逆のメッセージに造り替えているのだと思います。 5章の系図が、世代の連なりと同時に人口の拡大をも表し、それはさらに罪の増加と拡大をも意味したことを、6章の書き出しは告げているのです。 6章1節から4節が、いつ書かれたかについても諸説ありますが、私は、ダビデとかソロモンが王として君臨していた時代、イスラエルの歴史で言えば「統一王国時代」に書かれたと考えると分かりやすいと思っています。そして、この部分は、その時代の人々に向けての神様からのメッセージとして書かれたのです。 王が誕生し、そこに王国が出来たということは、その人間の社会が王の権力を頂点とするピラミッド型になったということです。これは、人間の歴史の中でごく普通のことですし、なんら不思議なことではありません。しかし、イスラエルは神の選びの民です。彼らが普通に生きたのでは、選ばれた意味はありません。彼らは普通の国の普通の人々のように、この世の富を求めて生きるのではなく、神様の祝福を求めて生きるために選ばれたのです。さらに、全世界に祝福をもたらすために選ばれた。そういう彼らの心と行動の規範は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛し」、「自分を愛するように隣人を愛する」ということに尽きます。神様を信じる信仰を土台として、神と隣人への純真な愛と服従に生きることにおいて、イスラエルは世界の中で聖なる民、祭司の王国となるべきですし、その世界に神様の祝福をもたらすべき民なのです。 しかし、イスラエルの民は、約束の地カナンに定着して以後、周辺諸国民の強さ、豊かさに憧れて、同じような王国を作ることを願いました。しかし、その願いに対して、神様は非常にネガティヴな態度をとられました。王というものは、結局、神の御心を尋ね求めることよりも、富と権力を求めるようになり民を奴隷とするものだと忠告するのです。しかし、イスラエルの民はそれでも王を求めます。彼らもまた富を求めているからです。 神様は、イスラエルが王を立てて王国になることの危険性を十分に警告した上で、結局、ご自身が選んだ王をお立てになりました。それが、サウルであり、ダビデであり、その息子ソロモンです。そして、神様は彼らを王にするにあたって、ご自身の霊をお与えになったと記されています。 しかし、彼らは王になって暫くすると、神に選ばれた時の姿を失っていくのです。地位が人を変えてしまう、富が人を変えてしまう。そういうことは良きにつけ悪しきにつけ、いつの時代、誰においても起こり得ることですし、多かれ少なかれ誰もが経験していることです。彼らもその例外ではありませんでした。彼らはそれぞれに地位を維持するため、また安定した地位に胡坐をかいて、過ちを犯していきます。神の命令に従うのではなく、内なる欲望の声に従っていくのです。そうして、結局、非常に厳しく惨めな晩年を過ごすことになります。 先程言いましたように、創世記6章1節から4節がその時代に書かれていたとしたら、それはその時代の王や民衆に対して、どんなメッセージが込められたものであったのでしょうか。 ここには「神の子」というものが登場します。この「神の子」という言葉は、世界中で実に多種多様な使われ方をしますが、旧約聖書の中では、王が「神の子」として描かれる場合があります。王が即位する時、神様が、「今日、わたしはお前を生んだ」と仰るのだと信じられていたのです。もちろんそれは、神話の中で言われているような意味での出産ではなく、神の養子として王の位につけたということです。そういう意味で、神的な権威が与えられるのです。今日の箇所は、「神の子」あるいは「神の子ら」は、王を初めとする権力者たちのことであるという線で読むとよく分かってくるのではないかと思うのです。 何故なら、彼ら「神の子ら」は、何をしているかと言うと、「人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻に」しているというのです。さらに4節を見れば、こうあります。 「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませたものであり、大昔の名高い英雄たちであった。」 ネフィリムと言われる人々については民数記に一回「巨人」として出てきます。この言葉の背後にも英雄伝説に結びつく神話的な背景があると考えられています。しかし、この箇所における「名高い英雄たち」。これも旧約聖書においては、王や王を守る近衛兵の親玉とか、王家に属する人々を指す言葉なのです。そういう人間が、自分の好む女を手当たり次第に召し抱え、子どもを産ませている。そういう事実を、この記事は暗示しているのだと思います。 私が以前おりました松本で、ある地元の女性がこんなことを言っていました。「松本には美人が少ない。何故かと言うと、松本の殿様が弱くて、美人は皆武田信玄に連れ去られたからだ。」ほんとか嘘か知りませんし、甲府には美人が多いのか分かりません。そもそも今で言う美人と当時の美人は基準が全く違うと思いますけれど、徳川幕府の大奥にしろ何にしろ、男が権力を持つと、富と共に、美しい女も(一つの財産ですけれど)召し抱えるものなのです。創世記の続きを読んでいけば、アブラハムが異国の地に足を踏み入れた途端、その地の王が彼の美しい妻サラを当然のことのように召し抱えるという話が二度も出てきます。権力を持つ者とは、そういうことをするし、出来るのです。 彼らは「美しい」と思えば、すぐに手を出す。こういう書き方の中に、やはり王国時代に同じ作者によって書かれたのではないかと言われるエデンの園の物語を思わないわけにはいきません。欲しいと思うものは何でもすぐに手を伸ばして取ってしまう。「神のように」なりたい人間の罪の姿がここにもあるのです。 「おのおの選んだ者を妻にした」とあります。漢字には複数形がないので表現できませんが、これは原文では「妻たち」という複数形ですし、直訳は「選んだものを誰でも妻として取った」ということです。それは「娘たちのところに入って産ませる」ためです。つまり、これは「これこそ私の骨の骨、肉の肉」として「一体となって」愛し合う夫婦になったということではないのです。「妻」と訳されていますが、彼らは愛によって結婚したのではなく、気に入った女たちに多くの子どもを産ませているだけなのです。王たちのそういう腐敗と堕落が、ここに描かれているのです。 さらに、古今東西を問わず、人は誰でも不老長寿とか永遠の命を求めますが、王たちは特にそのための労も財も惜しみませんし、人望のある王だと、しばしば「王の日々になお日々を加え、その年月を代々に永らえさせてください」(詩編)と祈られる対象ともなります。「細石(さざれいし)の巌となりて・・・」と同じです。しかし、ここで主は、こう言われます。 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 この「霊」は、人間が創造された時に鼻から吹き入れられた「命の息」というよりも、王として選ばれる時に与えられた「霊」のことだと思います。彼らは「神の子」と呼ばれたりしても、腐敗と堕落を繰り返せば、王になるときに与えられた霊は取り去られ、結局、他の人間と同じく死すべき「肉」に過ぎないのです。 念のため言っておきますが、この先を読めば、ノアは九百五十歳で死にますし、アブラハムだって百七十五歳です。「だから聖書はおかしい。矛盾だらけで信じられない」と言ってみた所で仕方のないことです。そんなことは先刻承知で、この文章をここに配置してあるのです。ついでに言うと、あのモーセの寿命が百二十歳です。そんなこともあって、百二十歳というのは、人間が求め得る最長の年齢として書かれているのではないかと言う人もいましたが、そうかもしれません。実際、現代でも世界の最高齢の方は百二十歳前後ではないでしょうか。 それはとにかくとして、この1節から4節までを書いた人々、つまり神様からの啓示を受けて書かされた人々は、サウルにしろ、ダビデにしろ、ソロモンにしろ、彼ら王たちやその側近たちの腐敗と堕落を目の当たりにして、その権力者とその人々に追随する民衆のことも鋭く批判しているのだと思います。サウルは、神の命令に背いて戦利品を取っておくという罪を犯しました。ダビデは既に何人も妻がおり、側女もおり、子供も沢山いましたが、バテシバという美しい女が沐浴をしている姿を見て、それが部下の妻であることを承知の上で妊娠させ、挙句の果てにはその部下を最前線に送って殺すということをしました。ソロモンなどはもう妻を七百人、側室三百人というのですから、一大ハーレムを作ったのです。これは、神様が人間をお造りになった時の意図とは全く違うのです。彼らは与えられた命の道を逸脱し、その限界を超えています。 民衆も、一般には王の倫理とか信仰ではなく、むしろ手腕を問います。今の日本の選挙だって、政治家がその政治的手腕によって地域の景気を良くしてくれるのなら、真面目で無力な人間よりも、私生活は乱れていても力のある人間を選ぶものです。結局、誰も彼も目先の利益で動くのですし、そういう意味では、王も庶民も同じなのです。 聖書を読んでいて私がしばしば絶望的な気分になるのは、結局、人間は罪を犯し、自ら堕落し、滅亡に向かっていく存在なのだと思わされるからです。アダムとエバは、長い長い時間がかかって自らの罪を悔い改めました。その間にはアベルを初め、多くの人の血が流されたのです。そういう血の犠牲を経て、漸く、彼らは自らの罪を知り、悔い改めたのです。その彼らに、セトという新しい子供が与えられ、セトの子どもエノシュの時代に、人々は「主の名を呼び始めた」とあります。つまり、主なる神様を礼拝し始めたのです。そこにのみ希望があるのです。悔い改めたアダムとエバ、主を礼拝する人間たち、そこに神の祝福があり、未来への希望があるのです。そういう祝福の連鎖としてアダム・セト・エノシュという系図が十代続いて、さあどんなに素晴らしい世界が出来ただろうかと思ってページを捲ると、そこに記されている現実は、「地上に人が増え」、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」という現実なのです。 これはしかし、この物語の中だけの現実ではないでしょう。日本の歴史だって同じです。1945年に敗戦によって戦争が終わりました。そして、広島の原爆碑には「過ちは繰り返しません」と刻みました。憲法も平和憲法と言われるものを制定しました。国際紛争を武力によって解決することを永久に放棄すると宣言したのです。しかし、すぐに「自衛」を目的とする軍隊をつくり、いつの間にか、自衛の枠は拡大され、海外にも派兵することになりました。そして今や、教育現場においては、日の丸に向かって起立して礼をしろとか、天皇の世が千代に八千代に続くようにと願う歌を、国歌として大きな声で歌えとか言われる時代になっています。あの教訓は何だったのかと思います。恐ろしいことです。「もはや戦後ではない」と言われた時、ある思想家は、「戦後の後には何が来るのですか?」という質問に答えて、「戦後の後には戦前がくる」と言いました。戦前の後には当然、戦中がくるわけです。日本の歴史だけでなく、世界の歴史はまさに戦前、戦中、戦後、そして戦前、戦中、戦後という繰り返しです。私などは幸い、戦争を知らない子どもたちの世代ですが、知らないからこそ呑気に構えて、気がつけば戦争を作り出す世代になってしまうかも知れません。恐ろしいことです。 そういう歴史を振り返り、現状を見つめると、全く、「ああ、なんということか」と思わざるを得ません。この人間の歴史に、また自分の人生に希望を持てないのです。人間は結局、愚かな罪を繰り返し、増し加えて、滅びに至るとしか言いようがありません。 しかし、この「ああ、なんということをしたのか」という言葉は、実は、禁断の木の実を食べてしまったアダムに対する神様の言葉ですし、また弟アベルを殺したカインに対する言葉です。神様こそが、人間を見ながら、悲痛な嘆きをあげておられるのです。そして、その都度、神様は人を裁かれます。しかし、神様の裁きは必ずその中に救済が隠されていますし、悔い改めへの呼びかけがあるのです。 たしか前回も、5章の系図はどこに繋がるかと話しました。それは、新約聖書の冒頭に置かれているマタイによる福音書の1章の系図に繋がるのです。そこには「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉があります。アブラハムは、神様の祝福を受け、その祝福を全世界にもたらす人物の代表です。そして、ダビデはイスラエルの王の代表です。「ダビデの子」とはイスラエルの王、キリストを意味します。このアブラハムの子、ダビデの子の地上の生涯の最後は、しかし、十字架に磔にされて殺されるというものでした。その時、イスラエルの権威ある宗教家はこう言って、主イエスを罵りました。 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 神の子にしてイスラエルの王。それは旧約聖書においては、宮殿に暮らし、権力と富を欲しいままにした人々です。そして、最後は一人の肉として死んだ人々です。しかし、新約聖書において、このイスラエルの「王」にして「神の子」は、「狐には枕するところがあり、鳥には巣があっても、自分にはない」と言うほどに旅を続け、群衆が飼い主のいない羊のように疲れ果てて倒れているのを見て、腸を痛めるように同情し、愛し続けてくださった方です。それなのに、最後は、その愛のすべてが裏切られ、ついには神にも見捨てられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫しながら、死んでいかれた方なのです。この方こそ、王(キリスト)であり、真の神の子なのだ。それが、新約聖書が告げるメッセージです。神様は、この方を通して、この方を十字架の上で裁き、殺すことを通して、裁くべき罪人、洪水でも何でも使って滅ぼすべき私たちすべての罪人の罪を赦し、さらにこの方を復活させて、罪人に新しい命を与え、さらに、この方を昇天させ、その右の御座、つまり天地を支配する王座に就かせて、私たちを天国へと招いてくださっているのです。ここに、神様の信じがたい御業、これまでとは全く逆の意味で、「神様、あなたは何ということをしてくださったのですか、こんな私のために」と言わざるを得ない救いの御業があるのです。 ルカによる福音書の最後には、復活の主イエスが手をあげて弟子たちを祝福しつつ、天に上げられたことが記されています。そこで弟子たちは、「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。主イエスを裏切り、復活を信じることも出来なかった不信仰な弟子たちですが、主イエスの愛と恵みは彼らの不信仰を上回るのです。私たちも同じです。信仰を与えられても尚、繰り返し繰り返し、不信仰に陥り、罪を犯してしまいます。しかし、そういう私たちを追い求め、捕まえ、礼拝に引き戻してくださる主イエスがおられるのです。今日も、その主イエスのお陰で、こうして礼拝を捧げることが出来るのです。主イエスは、真の神の子であり、唯一の王、キリストです。この方の愛と恵みに勝る力は何もないのです。罪の力も死の力も、この方の愛と恵みの力には勝てません。この方が、今日も、私たちに向かって手を上げて祝福してくださるのです。この祝福こそ、罪の力を上回る神の力です。この祝福を頂ける。ただそこにのみ、私たちの希望があり喜びがあるのです。この主イエス、神の子、キリストを礼拝し、讃美しつつ、この一週間の歩みを始めることが出来ますことを、神様に感謝いたしましょう。 |