「神の後悔と心痛」
今日の礼拝はペンテコステ礼拝として捧げます。つまり、主イエスが復活されて50日目に聖霊が天から弟子たちの上に降り、弟子たちが力に満ち溢れ、世界中の言葉でキリストによってもたらされた福音、救いの知らせを語り始めたことを記念する礼拝ということです。ですから、この日のことを、よく「教会の誕生日」と言います。その「教会」とは、神様がこの世に誕生させた「救いの共同体」です。今、私たちはノアの洪水物語を読んでいるのですが、この洪水物語に登場する巨大な箱舟、これは実はエルサレム神殿の象徴なのです。つまり、私たちにとっては教会です。この箱舟と教会。それは一体何なのか?それが、今日の説教においても中心的な問題となっていきます。 以前も聖書の成り立ちについて少し語りましたけれども、これまでの所は、基本的に大きな資料が2つあるとしても、1つの物語については1つの資料でした。たとえば、創世記1章から2章4節前半までの天地創造物語。これは神殿に仕える祭司が書いたと思われるところからP(Priest)資料と呼ばれる資料です。しかし、2章4節後半からのエデンの園の物語からは、神様が「主」という名前で出てきます。ヘブライ語ではヤハウェと発音しますけれど、ドイツ語で「ヤ」はJですから、J資料の物語と言われます。これらは全く異なる時代に書かれた物語です。しかし、その2つの資料が、洪水物語においては複雑に交差しながら1つの話になっています。その意味について、今日はお話しすることは出来ません。資料をお持ち帰りになって、JはJで、PはPでお読みになれば、それぞれが何の問題もなく、何が同じで何が違うかも分かります。私たちとしては、その2つが合わさるとどういうことになるかを何週間かかけて、ゆっくりと読み解いていきたいと思います。 今日も説教題のことから入りますが、今日の説教題を最初に見た方が、「あら、神様も後悔ってなさるのかしら?」と仰いました。皆さんの中にも、同じ疑問をお持ちになる方がおられるのではないでしょうか。「天地の造り主にして全能の父なる神様が、後悔をする?そんなことって、あるのか?」そう思ったとしても少しも不思議ではありません。実際、聖書の中には、「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか」(民数記23章19節)という言葉がありますし、「神は人間のように気が変わることはない」(サムエル記T 15章29節)という言葉もあります。しかし、「主は(審判を)思い直され」(アモス7章3節)とか、裁くと言いながら、どうして裁けようか(ホセア11章8節)と煩悶しておられる箇所もあるのです。私たちにとって、神様の全能、絶対的主権は、疑うべくもないことです。しかし、その絶対的主権をお持ちの神様が、心を痛めるし、後悔もする。そういう神様がおられる。そういう神様が、私たちを見ている、そして語りかけ、また働きかけてこられるのです。その事実の深さを、私たちは御言葉から知らされなければなりません。 神様が天地をお造りになったということ、それはしばしば「無からの創造」と言われます。しかし、その一方で、それは「秩序の創造」とも言われるのです。 聖書の書き出しはこういうものでした。 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。 『光あれ。』 こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」 細かい議論は一切省きますが、ここで前提とされていることは、「世界は混沌であった」ということです。闇が覆い、水が覆っていた。水というのは、昨年末のスマトラ沖の津波を見ても分かりますが、すべてを呑み込んでしまう恐るべきものです。人間は水なくして生きることが出来ませんが、同時に荒れ狂う水、つまり洪水や津波によって死んだ人間も古代から数知れないのです。また、巨大な地震があると地下から水が噴き出してくる液状化現象が起こり、その被害を大きくするものです。雨は恵みの雨ですが、降りすぎれば恐るべき水害の元になります。今日お配りしたもう一つの資料の左側には、古代人が頭に描いていた「宇宙像」があります。それをみても分かりますように、神様に創造された世界の天の上にも地の下にも水があるのです。神様が天地を造るまでは、すべては水で覆われており、天も地もないし、海も陸もないし、朝も夕もないのです。それは闇と混沌に覆われている世界です。その世界の中に向けて、神様は「光あれ」という言葉によって光を創造することによって、闇と光を分け、昼と夜を分け、さらに天と地を分け、さらに海と陸とを分けてくださったのです。つまり、時間と空間を造り出し、その時間と空間の中に生きる生物を造り出して下さったのです。そして、その生物を従わせ、地を治めるために人間を創造してくださった。それが6日目までの天地創造です。7日目は終末の救いの完成を指し示す独自の意味があります。それはとにかくとして、今も言いましたように、神様による天地創造後も、水がなくなったわけではありません。水はかろうじて天蓋によって支えられ、また地表によって抑えられているだけです。天の窓が全開になり、この図で「7、大地のへそ」と書かれている「へその穴」が大きくなれば、天からも地下からも一気に水が溢れ出てきて、あっと言う間に世界は混沌へと逆戻りするのです。古代人は、そういう世界観をもっていたのです。つまり、神様が、天の大水、地下の大水を抑えてくださっていることによって、世界はかろうじてその秩序が保たれているということです。これは非科学的とかなんとか言う前に、非常に深い世界認識だと言うべきではないでしょうか。自然科学の問題ではないのです。 そして、この天地創造物語の終わりに出てくる言葉は、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」というものです。 しかし、その後、エデンの園の物語、つまり、堕罪の物語があり、楽園追放が続き、さらにカインのアベル殺しが続きました。そして、十世代の歴史があって世界はどうなったのか? 6章5節を少し直訳ふうに訳すとこうなります。 「主は、御覧になった。地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを。」 創造直後に神様が見た時は、極めて良かった世界が、今や悪が満ち溢れるものになったのです。人の心の中に悪が満ち溢れているからです。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。人の心の中に悪があれば、その行いは悪くなります。そういう一人一人の人間が増え広がることによって、祝福された世界に悪が満ち溢れ、呪いがもたらされ、命に満ちていた世界に死が入り込み、滅亡に向かっていくのです。 しかし、何故こういうことになってしまうのか?という疑問は残ります。神様が全能なら、最初からこんなことにならないように出来なかったのか?そう思ったとしても不思議ではありません。その問題に深く立ち入っていく時間的余裕も力も私にはありませんが、しかし、これだけは言えると思うのです。 神様は、ご自身に似せて私たち人間をお造りになりました。神に似せられて造られたということの一つの意味は、自由と責任を与えられたということだと思います。私たちは、自由な判断をすることが出来るのです。しかし、そこには責任が伴います。(先日も有名なマラソン選手が監督から独立すると記者会見しましたが、その理由の一つは、成績が良い時も監督のお陰、悪い時は監督のせいというのではなく、すべての自己責任でやっていきたいというものでした。) しかし、先程も言いましたように、宇宙に水がなくなったわけではありません。水はあります。水がなければ人は生きていけません。水は人を生かすためにあるものです。しかし、一歩間違えれば、それは人を滅ぼすためにもあるのです。そのことにも象徴されていますように、世界に悪がなくなったわけではないのです。善があれば悪もあるのです。天地創造とは、善に満ち満ちた世界が造られたことを意味しません。人間が神の御心に従って「地を従わせ、生き物を支配する」ように造られたのです。これからの人間の自由な選択によってどうにでもなるように造られているのです。そして、それを食べたら死ぬと言われる禁断の木も、食べられないような所に生えているのではなく、園の真ん中に生えているのです。いつだって見えるし、手を伸ばせばその実を取って食べることも出来るのです。食べるも食べないも人間の自由な選択に掛かっています。その選択の結果を人間は身に引き受けなければなりません。神様は、世界と人間をそのようにお造りになりました。そして、そのように世界を愛し、人間を愛されているのです。神様が求めておられるのは、自由が保障された中における愛の交わりです。強制された愛とか信仰、服従ではなく、自由な愛と信仰と服従です。 そのことをいかに真剣に受け止めるか?それが私たち人間に与えられている課題なのです。しかし、人間の歴史は、その課題を果たすことの失敗の連続だと言ってよいでしょう。少なくとも、1章から6章まではそうです。4章の終わりで、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあって、一瞬、ほのかな希望が見えるのですが、系図の後の6章でその希望は絶望に変わるのですから。 そして、その現実を見て、神様も、後悔するのです。心を痛めるのです。愛と信頼が裏切られたからです。人間を愛するが故に、信頼するが故に与えた自由が、こういう形で帰ってくるということ、それは神様が自由を与えた時点で既に可能性としてはありました。しかし、こうならない可能性だってあったわけで、神様はこうならない可能性を願いつつ私たちを造り、自由を与えてくださったのですから、その心の痛みは想像するに余りあります。 しかし、この「後悔する」とか「痛む」と訳された言葉を調べてみると、実に興味深いことが分かります。「後悔する」(ナーハム)とは、他の箇所ではしばしば「慰める」と訳される言葉です。最も近いところでは、ノアの誕生を記す系図の中にあります。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」の「慰める」が、それです。(そして、それがノアという名の語源だとも言われますが)「自分自身の心を慰める」という場合、それは大きな過失を犯してしまった自分を慰めるということで、6章では「後悔する」となるのです。もちろん、ここで過失を犯したのは神様ではなく、人間なのですが・・ そして、「心を痛める」の「痛める」(アーザブ)という言葉は、しばしば「苦しめる」と訳される言葉です。この言葉は、ノアの系図に出ていた手の「苦労」(アーザブの名詞)という言葉と同じです。つまり、人間の犯した罪の結果もたらされた「呪い」による「苦しみ」です。聖書の中で最初に出てくるのは、罪を犯したあとのエバやアダムに対する神様の言葉の中です。神様は、エバにはこう言われました。 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。」 そして、アダムに対してはこう仰いました。 「お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」 犯した罪によって、人間の人生は苦しみの人生になった。これが、聖書が告げていることです。人間がその罪によって苦しむ。それは自分の責任です。 しかし、人間の犯した罪によって、今、神様が苦しんでいるのです。その心を痛め、自ら慰めなければならないほどに苦しんでいるのです。罪を犯すとはそういうことなのです。私たち一人一人の罪、心の中で思い描く悪を御覧になって、神様が苦しみ、痛んでいる。神様は苦しみ人間を見て、「ほら見たことか、ざまー見ろ」と笑っておられるのではありません。「ああ、何ということをしてしまったのか・・」と心を痛め、苦しんでおられるのです。 何故でしょうか?神様は、尚も私たちを愛して下さっているからです。「愛する」ということは「苦しむ」ことなのです。愛する対象が罪人だからです。 私たち人間も人間を愛します。そして、苦しみます。信頼が裏切られ、そして、自らも裏切るからです。罪の本質は信頼の裏切りです。私たちは人を裏切り、自分を裏切り、そして神様を裏切り、苦しみます。しかし、次第にそれが当たり前になっていきます。そして、苦しむこともなくなります。慣れるのです。そして、感覚が麻痺するのです。麻痺させなければ生きていけないという面もあります。私たち人間が作り出す世というのは、そうやって「悪」が満ち満ちていくのです。その悪の世の中で、私たちはひたすらに堕落していきます。堕落しているとも思わず、金に目がくらみ、地位に目がくらみ、欲情に目がくらみ、腐敗していくのです。 そういう私たちを愛する神様は、私たちと同じように裏切られることに慣れてしまうのか、そして、私たちと同じように、裏切りには裏切りで対抗するようになるのか。そして、そこで感じるべき痛みも苦しみも感じなくなってしまわれるのか。そうではないのです。神様は、いつまでも心を痛めます。苦しみ続けるのです。心が鈍磨して何も感じなくなるなんてことは決してないのです。神様の心は痛み続け、このようにまで罪の中に落ちてきてしまった人間を見ることが耐えられず、人間を造ったことさえ後悔するほどに苦しまれるのです。そして、ついに洪水を起こすことを決意されます。それもまた激しい苦しみ痛みの中での決断なのです。 その洪水とは何であるか?それは、次回の問題ですし、もう時間がありませんけれど、今日は今日としてどうしても言っておかねばならないことがあります。洪水とは、13節や17節にありますように、「すべて肉なるものの終わり」であり、「すべて肉なるものを天の下から滅ぼす」ためのものです。しかし、それは同時に、19節20節にありますように、「すべて命あるもの」が、ノアと「共に生き延びるように」するためのものなのです。これまでもすべてそうでしたが、神様の裁きの中には必ず救済が隠されているのです。そしてそれは、悔い改めの機会が隠されているということでもあります。完全な滅亡こそが、完全な救済に繋がるということなのです。 先程の古代人の「宇宙像」の右隣に「洪水物語の構造」を上げておきました。そこでは、(基本をP資料に置いているので、今日の箇所はまだ導入にも入っていませんし、少し単純化しすぎていないかと思わないわけでもありませんが)洪水物語が8章1節に記される「ノアに対する神様の顧み」を境にして、あるいは頂点にして、左右対称になっていることが分かります。地上の暴虐に対する神様の破壊の決断があり、洪水が起こり、それがピークに達した時に、 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留めた。」 という言葉があります。この神様の心の動きが、その後の現実を引き起こしていくのです。つまり、洪水が次第に減退し、ノアたちが箱舟から出て礼拝を捧げた時に、神様は二度と洪水をもってすべての生き物を滅ぼすことはしないと約束をされ、最後に世界に再び秩序を与え、祝福を与えて下さるのです。そして、ノアとその家族は、祝福された世界に生き始めます。 そのノアは、洪水物語の主人公なのに、実は一言も発しません。しかし、ノアに関して語られる言葉はすべて重要です。その中で、今日、挙げておかねばならない言葉は、今引用した8章1節であり、同時に6章8節の言葉です。 「ノアは主の好意を得た。」 そして、6章22節や7章5節に繰り返される言葉、 「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」 これらの言葉が何故重要なのか?それは新約聖書との関係において重要なのです。ここで「好意を得た」と訳された言葉は、「恵みを得た」という言葉で、その方がはるかに良いと思います。この「恵みを得る」という言葉には「神様に受け入れられた」という意味があります。神様に受け入れられた。彼は箱舟の中に入れられ、神様のみ救いの中に入れられ、さらに全世界の救いのために用いられるのです。 そして、8章1節の「御心に留める」、これはまさに神様がご自分の心の中に留めることです。何故、神様がノアをその心の中に留めてくださるのか?その理由は、神様の自由な選びにあることはもちろんですけれども、ノアが徹底的に神様の命令に従ったからです。(実は、この洪水の後、ノアの全く別の姿を私たちは見ることになります。しかし、この段階で、ノアは、神様の御心に完全に従う信仰者です。)この信仰の故に、彼とその家族は生き延び、そして、他の生き物もすべて生き延びることになるのです。 今、これらの言葉が新約聖書との関係において重要だと言いました。私たちが、新約聖書において完全な信仰を生きた方として思い浮かべる方は一人しかいません。神の独り子主イエス・キリストです。この方だけが、神様の御心に、その命令に完全に従った唯一のお方です。「それはどこに現われているのか」と言えば。あの十字架においてです。 主イエスは、十字架に掛かる前の晩、あのゲツセマネにおいて汗を血のように滴らせながらこう祈られました。 「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 主イエスの父なる神様は、天地の造り主なる全能の父です。その父の全能に依り頼みつつ、主イエスは、「十字架の死以外の救済の道はないのですか?」と尋ね、「出来ることなら、十字架の死を避けたい」と願われました。しかし、この祈りの中で主イエスに示され、主イエスが再度確認させられた父の御心は、心に思い計ることが常に悪いことばかりの人間の罪に対する裁きを、主イエスが身代わりに受けるということでした。悪と暴虐に満ち満ちた世は滅ぼされなければなりません。しかし、神様は洪水の後に、二度と世界を滅ぼすことはしないと約束されたのです。神様は、その約束を必ず果たされるのです。神は人でなく神であるが故にです。しかし、人間を愛する神様は、すっかり感覚が麻痺した人間が、神様によって与えられた尊厳を自ら汚し、本来美しく調和が取れている神様の世界を汚し、破壊することを黙ってじっと見ていることは出来ないのです。それは、人間と世界を見捨てることと同じです。自滅するのを黙って見ていることだからです。滅亡は、自由をもって自覚的に罪を犯した人間の自己責任なのですから、滅びるに任せたって良いのです。しかし、神様の御心は、そうではありませんでした。 神様は何をされたのか。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのですか。」 神様は、神様の御心に完全に従った神の御子イエス・キリストをお見捨てになったのです。旧約聖書においてはノアが、呪われた世界を祝福するために選ばれました。そして、彼は神様の命令に従い箱舟を作り、そして、救われました。神様に恵みを与えられ、受け入れられ、心に留められたのです。しかし、新約聖書においては、罪なき神の独り子が、神に見捨てられたのです。神様の命令に従って、神様に見捨てられたのです。見捨てられるべき罪人の罪を赦すためにです。「裁き」を通して「救う」という点において、旧約聖書も新約聖書も同じなのですが、その手段は全く違います。ノアの洪水物語では「神に従う無垢な人」が救われるのに、新約聖書ではその人が滅ぼされるのです。そして、滅ぼされるべき罪人が赦される。 神様は、この十字架の死を通して新しい世界を創造されました。呪われて滅びるべき世界を新たに祝福して下さいました。神様は、御子を三日目の日曜日の朝に甦らせ、天に上げて、復活から五十日目の今日、聖霊を降し、弟子たちに御子を信じる信仰を与え、福音を語らせて教会を誕生させて下さったのです。つまり、罪を悔い改めて信仰を告白し、水の洗礼を受けて救われる者たちの共同体を誕生させて下さったのです。その日だけで、3000人の人々が教会に加わったと使徒言行録には記されています。 その教会が生きている地上の世界、それはある意味では天地が造られた後の世界と似ているのです。つまり、地上に罪や悪が無くなった訳ではないのです。たしかに真の光である主イエスの到来によって、光と闇とは分けられました。善と悪も分けられました。しかし、闇はまだありますし、悪もあります。 箱舟は教会をある面で象徴していると言いました。そこから様々なイメージが喚起されて、これから何度かそのいくつものイメージを語らせて頂くことになるかもしれませんが、いずれにしろ、箱舟の中にいる人間は、いつ呑み込まれてもおかしくない恐るべき水の上を漂いながら、いつか救われる日が来ることを信じて、その日を待ち望んでいる人間であることに変わりありません。 洪水物語は、その真ん中で、ノアが神様の御心に留められることによって、呪いに満ちた世界が次第に祝福へと変えられていくという構造でした。聖書全体の構造は、神様の祝福に満ちた天地創造が最初にあり、その世界に人間の罪と悪が満ち満ちたその時に、神の独り子主イエスが天から到来し、その主イエスが神様に見捨てられることによって、世界は呪いから祝福へと変えられたという構造になっています。そして、旧約聖書が、いつの日か到来するキリストを待ち望んでいるように、新約聖書は、世の終わりのキリストの再臨を待ち望んでいるのです。新約聖書の最後、ヨハネの黙示録の最後の言葉は、こういうものです。 「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐ来る。』アーメン、主イエスよ、来てください(マラナタ)。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」 この主イエスが来られる時、何が起こるのか。救いが完成するのです。天地創造によって始められた神様の御業が、この時に、完成するのです。その時の情景を、黙示録はこう描いています。 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」 「海もなくなった。」これはもう人間を脅かし、ついには滅ぼすものがなくなったということです。悪も罪も死も、すべてが滅ぼされたということです。私たちの世界、その歴史は、今もそこに向かっているのです。終末の救いの完成に向かっているのです。 「そのとき、(中略)『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(中略)事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いているものには、命の泉から値なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。』」 これから共に囲む主の食卓は、世の終わりに完成する神の国、天国を先取りしたものです。悔い改めと感謝と賛美をもって主の命を頂き、献身の信仰をもって、その恵みに応えることが出来ますように。祈ります。 |