「堕落と滅亡、その逆説」

及川 信

創世記 6章 9節〜22節

 

「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。」



 ここで「物語」と訳されている言葉は、他のところではしばしば「系図」と訳され、「系図」という言葉は、5章の説教のときに言いましたように、「歴史」という意味を持っています。
その5章の系図の中に、エノクが「神と共に歩んだ」とあります。ここでも「ノアは神と共に歩んだ」とあります。先週ご一緒に読みましたように、その世代の人々が皆、その心に「悪いことばかり思い計っている」のに、ノアは神と共に歩み、「神に従う無垢な人」だったのです。この「神に従う」は一般的には「正しい人」と訳される言葉です。悪に対する正義です。しかし、聖書の正しさは、私たち日本人が考える道徳的倫理的な「正しさ」に留まらず、神様に対する正しさです。つまり、神様の命令には完全に従う。それが、私たち人間の神様への態度として正しいことなのです。その生き方において、彼は非の打ち所がなかった。それが「無垢な」という言葉の意味です。たしかに、彼は雨の気配も全くない時期に、神様に言われたとおり、巨大な箱舟を作り始めるわけで、それは周囲の人間にとってはやはり狂気の沙汰に見えたでしょうし、嘲りの対象だったと思います。しかし、人にどう見えようが、何を言われようが、彼とその家族は黙々と巨大な箱舟を作っていったのです。その箱舟に関しては、来週語らせていただきます。今日は9節から13節までとします。

  「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は全地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。』」

 ここで、いくつかの言葉が繰り返されていること、つまり強調されていることが分かります。「堕落」「不法」「すべて肉なるもの」そして、「神の前に」「わたしの前に」という言葉です。地上の出来事、それはすべて神様の目の前で起こっていることなのです。神様の眼前で、すべて肉なるものが堕落し、この地は不法に満ちているのです。「堕落する」と「不法」が合わせて5回も出てきます。
しかし、しばらく字句に関わることで細かいことを言いますが、12節に出てくる「肉なるもの」とは、動物を含まない人間のことだと、私は思います。しかし、その人間の堕落、その不法が、結果として同じく「肉なるもの」である動物をも巻き込んでいくのです。何故なら、13節の「すべて肉なるものを終わらせる」と言われる「肉なるもの」は、動物も含むことは明らかだからです。この先の7章15節16節にでてくる「肉なるもの」、つまり箱舟に入れられた「肉なるもの」は「動物」です。しかし、6章3節には「人は肉に過ぎない」とあります。つまり、滅亡をもたらす原因である「堕落」は人間の特質ではあっても、堕落の結果としての滅亡は、動物も引き受けざるを得ないのです。これは現代の環境破壊でも、戦争でも同じことです。やっているのは人間ですが、殺されているのは、人間だけではありません。動物も人間の行為に巻き込まれて殺されているのです。あらゆる生物が同様です。
 また、私たちが用いている新共同訳聖書では「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」となっています。神様が終わらせる決意をしているということです。しかし、これは直訳すると、「すべて肉なるものの終わりがわたしの前に来た」となります。つまり、神様が「終わらせる」前に、既に、「終わりが来ている」。神様から見ると、そう見える、ということです。その現実に対して、神様が、「私は、彼らを滅ぼす」と決意をされたのです。どっちでも同じではないかと言われてしまうかもしれませんが、私は、この場合は、直訳の方が正しいと思っています。
 また「堕落する」と訳された言葉、これは他の多くの翻訳でも大体似たような訳が為されていますし、6章1節以下に記されていた、特に「肉に過ぎない」権力者に顕著に見られる横暴や性的関係の乱れなどが前提となっていますから、当然の訳だとは思います。しかし、この訳が当てられているヘブライ語のシャーハットという言葉は、「滅亡する」とか「滅亡させる」という意味も持っているのです。13節の「見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」とある「滅ぼす」という言葉と、「堕落する」は同じで、その意味は深いと、私は思います。今日の説教はそこに集中していくことになります。
 先日、人類による地球の環境破壊に関する番組を観ていましたら、地球が誕生してから今までの年数を二十四時間に換算すると、人類誕生はわずか二分前のことだそうです。しかし、その人類が、近代産業社会を作り上げて地球の各地で「開発」という名の環境破壊をし、地下資源や海底資源を掘り続けているのですが、それらの資源も無尽蔵にあるわけではありません。ご承知のように、石炭はほぼ無くなったし、鉄も次第になくなっているし、石油もなくなる。近い将来、金も銀もなくなる。今のペースで掘り尽くしていくと、200年後には、ほとんどのものが無くなるのだそうです。200年なんて、先程の時間換算で言えば数秒のことです。人類誕生からの僅かな時間の中で、何億年にも亘って出来上がってきた地球の自然環境と資源は、壊滅的な打撃を受けているのです。その多くが、私たちいわゆる先進諸国に生きる人間の手によってのことでした。しかし、今は貧富の差の増大と人口増加によっていわゆる開発途上国における環境破壊が、非常に深刻なものとなっていることは、ご承知の通りです。
 今言ったことは、地球の自然環境の面における破壊と滅亡の可能性ですけれども、人間の社会を見た時にも、私たちは将来に希望を持つことは難しいと思うのです。私たちは毎日毎日、悲惨な事件を見聞きしながら生きています。平和で安全な国と言われた私たちの国でも、犯罪は増加の一途を辿っています。つまり、社会が崩壊し始めています。その背景には、家庭の崩壊がありますし、一人一人の人間の心の荒廃があるでしょう。人間の心が壊れ始めている。人間の心が壊れ始めている感じがします。
最近、ある若い男が、インターネット上で女性になりすまして少女に接触し、ついには犬の首輪をつけて監禁していたという事件が発覚しました。その容疑者は過去に同様の事件を既に犯したことがあり、また三回だか四回だか結婚と離婚を繰り返し、その相手にも同じようなことをしていたことが分かってきました。そして、彼が生まれ育った家庭環境と親の教育のあり方も次第に明らかにされてきています。報道によると、親はその土地の資産家で、小学生の頃から月に十万円の小遣いをあげており、その子は子どもの頃から友達関係もすべて金で作っていたと言われています。もしそれらのことが事実であるなら、親自身が深く病んでいるとしか言い様がないのではないでしょうか?(その親の子ども時代の育てられ方がまたここに大きく影響しているはずですが。)親が子どもにお金を与えることで愛情を表現していると思うのは錯覚で、それは親の支配欲とか管理欲の現われに過ぎないと思います。そういう自分の欲望や願望を実現させる道具として子どもを利用しているに過ぎないのです。だから、子どもが成長して、手に負えなくなると、金を与えて放置する。いや、捨ててしまうのです。今回の事件の容疑者の場合、それまで彼を溺愛してきた母親の方は、彼が21歳になった頃に自ら死を選んでしまったそうです。その頃から、自らを「王子様」と呼ばせてきた青年の異常さは一気に加速して、一度監禁事件で逮捕されても、多額の示談金を父親が出したこともあって刑務所に入れられることなく、保護観察処分だけで再び放置されました。そして、ついに、一人の少女に犬の首輪をつけて、小屋に閉じ込め、理不尽な命令を繰り返し、少しでも反抗すると暴行を繰り返すということをしてしまったのです。親の、金に飽かせた溺愛の中で、常に人格が無視され、本質的には捨てられてきた人間は、その怒りと復讐をそういう形で表現することがあるのです。
 それとは逆のケースで、親の虐待を受け続けた子どもたちが大人になってから犯してしまう様々なことがあります。愛されるために生まれてきたのに、拒絶され、虐待され続けた悲しみを、他人を傷つけることでしか表現できない場合もありますし、自分が持った家庭の中で自分の子どもに同じ虐待をして、親にできなかった復讐をしてしまう場合もあります。いずれも真に悲しいことです。しかし、こうやって人間が人間に対してつける傷は、時間の経過と共に深まり、拡大し、社会全体に広がっていっているのだと思います。私たちはその流れを今のところ食い止める術を知らず、知っていたとしても、それを実行していく力がありません。
 そういう人心の荒廃は、愛国心の欠如に由来するとして、「忠君愛国を旨とするかつての修身教育を復活させなければならない」とか言う政治家や官僚がいるのですが、私個人は、「一体何を言っているんだか?!」と思わざるを得ません。何故かと言えば、かつての忠君愛国教育はそのまま鬼畜米英教育であり、国の敵であれば人を殺すことは善だという教育です。そして、その場合の「国」とは、全国民のことではなく、権力と富のピラミッド構造の上に立つ人々のことです。その少数の人々は、決して戦場には行かず、背後で「殺せ、殺せ。敵を殺すことは善、正義だ」「お国のため、天皇のために死ぬことは名誉だ。靖国神社に祀ってやるから心配するな」と言っているわけです。とんでもないことです。
 先日もある報道番組の中で、今のアメリカ軍が実際に行っている軍事訓練の一場面を見ましたが、それはコンピューターゲームです。大きな画面に向かって、ゲーム用のジープとか戦車を運転していると、突然敵が画面上に現われるのです。すると、即座にゲーム用の銃を敵に向けて発射するという訓練です。その画面に映る映像は、たとえば今のバグダッドの町であったり、イラクの砂漠であったりする。つまり、実際の戦場です。その戦場の中で想定されるあらゆる場面をコンピューターにインプットしておき、危険が起きたら、即座に引き金を引く訓練をしているのです。しかし、軍事専門家は、この訓練は心理的な訓練だと言っていました。つまり、敵と見たら躊躇わずに引き金を引くための訓練なのです。ある統計によると、第二次世界大戦の時、戦場で初めて生きている人間相手に引き金を引くことに躊躇しなかった兵士は十五%しかいなかったのです。つまり、六〇年前は、八五%のアメリカ兵が人に向かって銃を撃つことを躊躇したのです。しかし、最初に一発撃ってしまえば、次は簡単です。しかし、今は九五%の兵士が最初から躊躇しないという統計が出ているそうです。つまり、訓練の成果が大いに上がっているわけです。人間が人間を殺すことになんら躊躇いを感じない。そういう人間を育てる。国というものは、そういうことをします。「愛国教育」とは、個人的には何の恨みもない人間を、即座に殺すことが出来る人間を造り、そういう殺人は善であり正義であると教えるものである場合が多いのです。そういう愛国教育を、多くの国がやっている、またやろうとしている。つまり、自然環境の破壊による滅亡の可能性だけでなく、全面核戦争による滅亡の可能性もまた存在するのです。
しかし、こういう自然との敵対関係に生き、人間同士も敵対関係になってしまう人間の姿とは、最初の殺人者であるカインの姿を見るまでもなく、創造の時に神様から与えられた神の像(似像)を失った姿です。つまり、罪に支配された奴隷の姿なのです。私たちは罪に支配されることによって、人を平気で殺せる人間となるのです。人の尊厳を平気で破壊しながら、実は、自分の尊厳を破壊しているのです。人の人生を奪いながら、実は、自分の人生を、美しかるべき人生を破壊している。祝福されるべき人生を、呪われるべき人生に変えてしまっているのです。こういうことを、「人間が自ら堕落している」と言うのです。人間が自らを滅亡させている、滅ぼしているのです。神様の目の前で起こっている現実、それはこういうものです。
 神様が見ている現実、御覧になっている地の現実、それはかくまで悲惨なのです。その現実を見ながら、神様は、心がかきむしられるような思いをもって、「地上に、人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のです。
 そして、ついに神様はこう仰います。

「すべて肉なるものの終わりが、わたしの前に来た。」

 もう、ある意味で終わっているのです。9回裏ツーアウトで100対0の試合は、はっきり言って、もう終わっています。負けているほうの実力がないことが明らかですから、最早逆転は不可能です。しかし、人間はまだ負けているとは思わず、何とかなると思っている。またゲームが9回裏ツーアウトになっていることを知らない。しかし、だからこそ、実はもう終わっているのです。神様から見れば、終わっている。人間の将来に希望はありません。自滅するだけです。
 だからこそ、神様は、こう仰るのです。

「彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」

 これは、怒りに燃えた神様がついにその怒りを爆発させた言葉だとか、後先も考えずに怒りに身を任せているのだとか、義なる神様が血も涙もない厳しい言葉を口にしているとか、そんなものではありません。これは、美しい世界と自分自身を破壊し続け、もう滅亡が待っているのに、そのことに気がつくこともなく、どうすることも出来ない人間の姿を見つめつつ、心を痛め、苦しみ、人間を造ったことを後悔するほどに嘆き悲しんでいる神様が発した言葉なのです。つまり、誰よりも深く強く人間を愛している神様が、愛するが故に、発した言葉なのです。

「見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」

 先程も言いましたように、この「滅ぼす」は、原語では「堕落する」と訳された言葉と同じです。つまり、人間が世界を破壊し、自分自身を破壊している姿を見て、そのようにしか生き得なくなってしまった人間を、地もろとも破壊する、と仰っているのです。「人間の自己破壊を破壊する、自滅を滅ぼす」と仰っているのです。それが神様の愛なのです。他者を傷つけながら、自分で自分を傷つけ、最後は自滅する人間を、金だけ与えて放置するような無責任な溺愛ではなく、ご自身が責任を持って裁き、そして、救う。神様の、そういう決意が、この言葉の中に込められているのだと思います。
 洪水物語における神様の裁きと救いのあり方は、次週以降ご一緒に読み進めていく他にありませんが、私は今日も新約聖書の言葉をお読みする以外にはないと思うのです。今日示された言葉は、ペトロの手紙に記された言葉です。TとU、それぞれにノアの洪水のことに触れられていますが、自由に飛ばしながら引用します。

「神は大昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち8人を保護なさったのです。
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。
 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」


 ここで言われていることは、先週の問題であった神様の全能とも関係しますが、神様は、新約聖書が書かれた時代から数えれば数千年も前かもしれない洪水で死んだ人間のことをお忘れになっているわけではありません。神様は、彼ら不信心な者、堕落し、不法を働く人々を、かつて肉においてお裁きになりました。放っておけば、自滅するしかない人間を自ら裁かれたのです。しかし、それで終わりではないのです。神様は、神様であって、私たち人間とは全く違います。私たちは死んだ者には、何も出来ません。それが出来るのは、天地の造り主にして父なる神様だけです。その神様が、ご自身の独り子主イエス・キリストを肉の様(さま)で世に送り給いました。そして、そのキリスト、正しい者が正しくない者ために苦しみ、そして、死んだ、滅ぼされたのです。それは、何のためか。罪を悔い改めず、裁かれて死んだ者たちを、神のもとへ導くためなのです。そのために、キリストは死んで陰府に降り、そこにいる者たちに宣教して下さった。福音を告げ知らせて下さったのです。その説教を聞いて、神がご自身の御子を十字架につけて殺すことまでして、自分たちを救おうとして下さっていることを知り、罪を悔い改め、キリストの贖いを信じる者、キリストによって現われた神様の絶大な愛を信じる者は、肉において裁かれた後、霊において、神様との交わりの中に生かされるのです。復活の命を与えられる。救われるのです。
 神様の愛とは、そういう愛です。神様の全能とは、そういうものなのです。しかし、キリストの説教を聞いて、罪を悔い改め、信じる者は救われます。聞いても信じなければ、それは恐ろしい話ですが、自ら救いを拒絶することになるのです。私たちはあくまでも信仰によって救われるのです。
それは、今肉において生きている私たちにおいても同じことです。キリストに立てられた者が、キリストの霊の導によって語る説教を聞いて、これまで気づかなかった罪を知り、悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じる者は、いつも新たに救いへと導かれます。しかし、聞いても信じず、悔い改めない者は、自らを破壊する道を歩み続けるしかありません。それは既に信仰を告白して洗礼を受けている者にとっても同じです。洗礼を受けて清めて頂いたのに、神に従う正しさに生きることなく、再びこの世の罪と悪の奴隷になってしまえば、「犬は、自分の吐いた物の所へ戻ってくる」「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と、やはり、ペトロの手紙にあるとおり、「前よりもずっと悪くなって」しまうのです。
 しかし、私たちはいつまでもそんなことを繰り返しているわけにもいかないのではないでしょうか。私たちに残された時間は無限にあるわけではありません。人類の歴史という単位においても、一人の人間の一生という単位においても、無限ということはないのです。すべて肉なる者と大地の「終わり」が確実に近づいているのです。そういう有限な時の流れの中で、私たちは恵みによって、今日も、こうして神様の言葉、信仰への招きの言葉を聞かせて頂いているのです。この言葉に応えて、これまでの罪に死に、新たに信仰と希望と愛に生き始めたいと思います。
 今日は、聖霊降臨節第二主日です。ペンテコステの日に、聖霊に満たされたペトロの説教を聞いた人々は、自分の罪深さと神様の全能の力と愛に心打たれて、こう言いました。

「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」
 ペトロは答えました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。邪悪なこの時代から救われなさい。」
 そして、主イエスは、今日も私たちにこう語りかけておられるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 この信仰において正しく、無垢な歩みが出来ますように、祈りましょう。
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