「箱舟を造り、箱舟に入りなさい」
先週の月曜日に、教会学校の夏季学校の下見ということで河口湖や西湖周辺に行き、青木が原樹海の中のハイキングコースを少し歩きました。その地表はコケで覆われた鬱蒼とした森でしたけれども、そのコケの下は9世紀半ばの富士山の大噴火によって流れてきた溶岩なのです。土と呼べるようなものではありません。今から1000年以上も前の大噴火の時、その地に生きていたすべての動植物が、噴煙と高温で流れ出てくる溶岩に覆われて死滅したのです。たしか樹海のどこかの溶岩の中に一メートくらいの円筒状の空洞があるはずですけれど、それは直径一メートルもの大木が溶岩に一瞬にして倒され、その溶岩の中で、じわじわと燃え尽きたことによって出来た空洞だということでした。私は、今は大小さまざまな木々が鬱蒼と生えている森林が、灼熱の溶岩に覆い尽くされた時の光景を頭に思い浮かべて、自然界の滅亡と再生について思わされました。大噴火前の大地は、もちろん鬱蒼とした緑に覆われた大地でしたでしょうが、完全に死滅しました。しかし、そのお陰で、それまでとは違う特性を持った新しい樹海が誕生したのです。 滅亡と再生、死と復活。昨日は清水披路子さんの埋骨があり、今日の午後には墓前礼拝の中で高橋冨與さん、三枝ミツ子さん、阿部綾子さんの埋骨を致しますし、今読んでいるのは、世界の滅亡と再出発を記す「洪水物語」ですから、私はその樹海の中を歩きながら、それらのことを色々と思い巡らし、飽きることがありませんでした。 今日は6章14節から22節までです。いよいよ箱舟の建造命令が、ノアに与えられるのです。 この「箱舟」という言葉は、あのモーセがナイル川に流された時に乗せられた葦で作られた「籠」と同じです。つまり、帆もなければ舵もオールもない箱のようなものです。水の上を漂い、また流されていくだけのものです。自分で行く先を定めたり、進んだりすることが出来ないもの。それが箱舟です。すべてを天に任せて漂うだけなのです。そういう箱舟を造り、その箱舟に入りなさい。それが、神様がノアに与えた命令であり、ノアは、「すべて神が命じられたとおりに」したのです。それは、何もかもを神様にお委ねし、その御手の中に全身全霊を委ねたということです。その信仰において、彼は神に従う無垢な人であったのです。 この箱舟の素材になっているゴフェルという木についていろいろ推測されていますが、何なのかはよく分からないようです。タールは、もちろん水が滲みこまないようにするためのものです。箱舟のサイズについては、こう記されています。「箱舟の長さを300アンマ、幅を50アンマ、高さを30アンマにしなさい。」そして、「明り取りのある三階建ての箱舟を造りなさい。」このアンマという単位をメートルに直すと、箱舟の長さ(奥行き)は135メートル、幅は22.5メートル、そして高さは13.5メートルということになります。それは相当に大きな箱舟です。そんな巨大なものを、家族あわせてたった8人で作れるのか?と考えてしまうと、全くつまらない話になってしまいますから、こういう記述を通して何を言わんとしているのかを注意深く探っていきたいと思います。 今日も資料をお配りしました。表に神殿の絵を印刷し、裏に今日の説教の中で引用する聖書の言葉を印刷しておきました。絵の上の方は、紀元前10世紀にソロモン王が建てた神殿の想像図です。下は、紀元前6世紀にエゼキエルという預言者が幻の中に示された神殿を上から見た設計図です。エゼキエルの預言は旧約聖書の中に「エゼキエル書」として残っていますけれど、彼はエルサレムを首都とするユダ王国がバビロンによって滅亡させられた後に、バビロンに連れ去られた捕囚民の一人で、そのバビロンの地で預言者になる召命を受け、その活動を始めた人です。彼はもともとエルサレムの神殿、つまり、ソロモンが建てた神殿において神に仕えていた祭司の家の出身なのです。その彼が、バビロン軍によってエルサレム神殿が跡形もなく破壊されるのを目にし、さらに、敵地バビロンに連れ去られて、そこで預言者として立てられていくのです。それは、実に悲惨にして劇的な経験であることは言うまでもありません。そういう経験を経て、預言者になった彼の預言は、読んでいると本当に心が揺さぶられるようなものがいくつもあります。(機会があったら是非お読みになったら良いと思います。分からないところがあっても、分かるところもいくつもあるはずですから。)そして、洪水物語のこの部分を書いた人を便宜的にP=祭司(資料)と呼びますけれど、このPとエゼキエルがかなり近い関係にあることが、最近はよく指摘されます。エゼキエルが捕囚の民に預言した時代と、Pが天地創造物語から系図を経て洪水物語を書き進めていた時代は同じだと考えられますし、それぞれの出自が祭司であることも同じなのです。彼らは両方とも、国の滅亡という未曾有の大惨事を経験した人たちです。それも、神殿に仕える祭司として、神殿が完全に破壊されるという経験をした人たちです。それはもう命の拠り所を破壊されるという経験です。その経験を経て、今はイスラエルの残りの者として、唯一の神を信じる信仰を継承し、いつの日か、死んだも同然のイスラエルが、その僅かな残りの者から息を吹き返して再生することを神様から示され、その約束を信じて生きているのです。その点においても、エゼキエルとPは同じだ、と言ってよいと思います。エゼキエルは、その信仰と希望を示されるままに預言の形で告げ、Pはそれを天地創造に始まる壮大な物語の形で告げているのです。 そこで箱舟のサイズに再び戻りますが、この巨大な構築物の幅は22.5メートル、高さが13.5メートルで、奥行き(長さ)は135メートルです。中渋谷教会は、一昨日、設計図を見ながら、また粟野さんと巻尺でも実測しましたけれど、幅は9.5メートルで、高さが16メートル、長さが27メートルです。高さだけは中渋谷教会の方が少し高いのですが、長さは僅かに五分の一、幅も半分以下ということになります。完全に負けています。 何故、今、箱舟と中渋谷教会の大きさを比べたかと言うと、もちろん実際の大きさを実感しておきたかったことがありますけれど、それだけが理由ではありません。この箱舟のサイズが実はソロモンの神殿やエゼキエルが幻の中で示された再建されるべきエルサレム神殿のサイズと一致するからです。ソロモンの神殿とエゼキエルが示された幻の神殿ではその建物部分に関しては多少大きさが違います。しかし、ノアの箱舟とソロモン神殿は幅と高さが一致しています。そして、エゼキエルの神殿には高さが示されていないのですけれど、それは恐らくソロモンの神殿を前提としているからでしょう。そして、エゼキエルの神殿の幅と箱舟の幅は同じで、建物に前庭などを合わせた神殿域の長さは箱舟の長さと全く同じになるのです。これはもちろん偶然の一致であるはずがありません。ここで、神様がノアに「造れ」と命じ、また彼とその家族がすべての動物のつがいと共に「入れ」と命じられた箱舟は、神殿の象徴、その雛形なのです。その事実は一体何を意味するのか。それが今日の最後の問題になります。 17節に「洪水」という言葉があります。この「洪水物語」のもう一つの資料であるJの方では40日40夜の雨が降り続くことになっているのですが、Pの方ではいきなり洪水が起こる。それは7章6節によればこういうことです。「ノアが600歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。」また11節にはこう書かれています。「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」以前、古代人の宇宙像を図解したものを資料としてお渡ししましたが、当時のユダヤ人は、天の上にも大水があり、地の下にも大水があると思っていました。そして、天の窓が開けば雨が降り、地の底にある深淵の源が開けば、地下からも水が溢れ出てきて、地上は一気に創造以前の闇と混沌に呑み込まれてしまうと考えていました。6章でノアに予告をされ、7章で現実に起こったことは、長雨の結果やってきた洪水ではなく、上からも下からも水が一気に溢れ出てくるまさに天変地異であり、世界が創造以前の状態、形なく空しく闇に覆われた状態に帰ってしまうということなのです。つまり、光も命も何もない世界に帰ってしまうのです。 そういう時に、神様はノアにこう語りかけるのです。 「あなたは、箱舟を造りなさい。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。」 これが、その直前に、「すべて肉なるものを、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と仰った神様の言葉なのです。つまり、神様が「滅ぼす」目的は、「生き延びさせる」ためなのです。そのためにノアとその家族が選ばれ、他の鳥や動物がすべて二つずつノアの所にやってくるのです。これは、彼が集めるのではなく、彼らが救いを求めて集まってくることになっています。この辺りも、もう一つの資料であるJとの違いです。 ここに「契約を立てる」という言葉があります。これは後にも繰り返し出てくる重要な言葉ですが、この場合、神様がノアを、すべて肉なるものを滅亡させることによって、すべてのものが生き延びるようにするための、被造物側の代表者として選ぶということです。そして、ノアが、「すべて神が命じられたとおりに果たした」ということは、彼がその契約を受け入れたことを現しています。 今、滅亡の中で生き延びるということを言いました。いろいろな意味を込めて言ったのですが、その内の一つのことはこういうことです。もう一ヶ月以上が経ちましたけれど、あの福知山線の電車脱線事故において生き残った方たちがいます。特に、壊滅的な衝撃を受けた一両目と二両目に乗っていて生き残った方たち、彼らはまさに地獄を見たし、経験した人たちです。自分の隣に座っていた人が、自分の隣で惨たらしい姿で死んでいくのを見た人たちです。しかし、自分はどういう訳か生き延びている。広島や長崎の原爆を経験しながら生き残った人たちも、やはり地獄を経験しつつ生き延びたのです。 その時、多くの方が、何故自分が生き残ってしまったかが分からず、自分が生き延びたことに対して罪責感を持ってしまう。そういうことがあります。そして、時間の経過の中で心の傷が癒されて、「死んでしまった人の分まで、精一杯生きなければ」と思える場合もあります。しかし、その場合でも、その人の人生は、あの地獄の経験の前と後では画然と分かたれているのです。同じではあり得ません。ある面で、あの事故の時に、それまでの人生は終わり、新しい人生がそこから始まる、始まらざるを得ない。そういう経験が、そこにはあるのではないでしょう。肉体としては死ななくても、死んでしまった多くの人の死を我が身に受けて、それまでの人生に死ぬ。その死を深く受け止めることでしか、新しい人生を生き始めることが出来ない。そういうことが、あると思います。 ノアとその家族、彼らの経験は私などの想像をはるかに越えたものです。昨年のスマトラ沖地震による津波でも、目の前で何人もの人々が壊れた建物や車と同じように大量の水に押し流されていくビデオ映像をいくつも私たちは見ました。流された人の大半は、行方不明者になってしまうのです。ノアの洪水で描かれていることは、さらに壊滅的な出来事です。ノアとその家族は、洪水が溢れ出てくる時に、多くの人々や動物が水に溺れ死んでいく様を、その目で見たでしょう。しかし、その人々は、神様から見れば「常に悪いことばかりを思い計っている」人々でした。その人々によって、地上に悪が増し、人間は堕落し、世界を滅亡に追いやり、自分自身を滅亡に追いやっていることに対して、神様が心を痛め、「人間を造ったことを後悔する」とまで言わざるを得ない状況でした。その状況に対して、神様が下した裁きが、洪水による滅亡です。それは、人間の手による滅亡ではなく、神様の手による滅亡であるが故に、すべてのものを「生き延びさせる」ための滅亡なのです。 しかし、その滅亡の様は、彼らにとっても決して忘れることが出来ない衝撃的なものだったでしょう。まさに罪に対する裁きという恐るべき地獄を見たと言っても過言ではありません。その裁きとしての死、滅亡を十分に経験した上で、彼らは新しい世界で生きることが命じられたのです。彼らは人間の罪とそれがもたらすものが何であるかを嫌というほど深刻に見させられた上で、すべてを呑み尽くした水の上で、ジーと解放の時を待ち続けるしかありませんでした。 洪水物語は少なくとも二つに資料からなり、恐らくPがバビロン捕囚時代に、以前の物語と自分が書いたものを合わせて一つの物語として纏められたのではないかと推定されています。それが事実であるとすれば、この洪水物語はユダ王国の滅亡という大惨事の後に、敵地で捕虜として生きている人によって書かれたということです。 聖書の中には、ユダ王国が滅亡する時に何が起こったかが書かれている「哀歌」という書物があります。そこには、こう記されています。 「シオンの背きは甚だしかった。 主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し 苦しめる者らを頭とされた。 彼女らの子はとりことなり 苦しめる者らの前を、引かれて行った。」 ここにはエルサレム陥落後にバビロンに捕囚されていく様が描かれていますが、「シオン(エルサレム)の背きは甚だしかった。」この言葉は、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になった」を思い起こさせる言葉です。事実、「甚だしい」と、「悪が増し」の「増す」はヘブライ語では同じ言葉です。神への背きが甚だしく増大し、地上に悪が蔓延し、人間が自然を破壊し、互いに殺しあいつつ自分自身を滅亡へと追いやる。その様を見て、神様はついに裁きを下されるのです。繰り返しますが、それは人間による自滅を防ぐためです。人間による自滅には希望はありません。神様が齎(もたら)す滅亡だけが、その中に、救済が隠されているのです。神様は、背きの甚だしいシオン、神様が世界の中心において愛したエルサレムとそこに生きる人々を「懲らしめる」ために、「苦しめる者らを頭とされた」のです。具体的には、バビロン軍の手に渡されたのです。それが、どういうことであるか。しばらく哀歌の言葉に耳を傾け、その様を見つめていきたいと思います。 「エルサレムは罪に罪を重ね 笑いものになった。 恥があばかれたので 重んじてくれた者にも軽んじられる。 彼女は呻きつつ身を引く。」 「主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。 女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。 祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです。」 「ソドムは、その罪のゆえに人の手によらず、一瞬にして滅んだが わたしの民の娘は それよりも重い罪を犯したのだ。」 「剣に貫かれて死んだ者は 飢えに貫かれた者よりも幸いだ。」 「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。 わたしの民の娘が打ち砕かれた日 それを自分の食料としたのだ。」 バビロン軍の剣による蹂躙と兵糧攻めの繰り返しの中で、精神に異常をきたした母親がわが子を殺して鍋で煮て食べるということがあった。神の手に掛かって一瞬で滅ぼされた罪の町ソドムの方がはるかにましだ、と呻かざるを得ない悲惨な情景がここにはあります。これが罪と悪が増して、心に思い計ることがいつも悪となってしまった神の都エルサレムの住人に対する神様の裁き、痛切な心の痛み、人間を造ったことを後悔するような痛みと悲しみの中から出てきた裁きの現実なのです。 バビロン捕囚という出来事は、ここに記されているような凄惨な出来事を経てのことなのです。そして、敵地バビロンに連れ去られ、その地でこの洪水物語を書いた人の心にあることは、かつての自分たちの罪であり、その罪に対する神様の凄まじい裁きです。神殿の祭司であったエゼキエルやPは、神殿の中で祭司や預言者たちが殺されるのを見聞きしているのです。この礼拝堂の中で、牧師や長老たちが殺されるということです。そして、今、自分たちは惨めな捕虜としてではあるけれど、奇跡的に生かされている。その事実をどう受け止めるか、それが問題なのです。 再び哀歌に戻りますが、その中にこういう言葉があります。 「主に望みをおき 尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。」 「打つ者に頬をむけよ 十分に懲らしめを味わえ。 主は、決して あなたをいつまでも捨て置かれはしない。 主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。 人の子らを苦しめ 悩ますことがあっても それが御心なのではない。」 主の御心、それは人に懲らしめを与え続けて、滅ぼすことではありません。もちろん、この懲らしめは罪に対するものなのであり、正当な懲らしめです。人間社会の中だって、犯罪が放置され、性懲りもなく犯罪を繰り返す者を放置しておいたら、それこそ社会は自滅します。ですから、罪や悪に対する懲らしめ、裁きは絶対に必要なのです。だから、神様からそれを与えられる時、それは十分に味わわねばならないのです。途中で逃げては駄目なのです。その恐るべき懲らしめの果てに救済があるからです。そのことを信じて、主に望みをおきつつ、今の苦しみを十分に味わい尽くせ。これもまた、バビロン捕囚の地で書かれた文書です。 箱舟に入れられたノアとその家族たちは、まさに、その懲らしめと裁きを味わいつくすことを強いられているのです。バビロン捕囚とは、そういう時期なのです。少なくとも、聖書に残った言葉を書いたり語ったりした人々は、そのように受け止めたのです。かつての自分たちの罪深さを自覚し、神様の激しい悲しみと怒りと愛による裁きが与えられたことを自覚し、罪を悔い改めて、救いを待ち続けたのです。きっといつの日か、神様は自分たちを救ってくださる。その日まで、自分たちはじっと耐えよう。望みを持って生きていこう。これからは、ノアがそうであったように、神と共に生き、神に従って生きよう。そういう思いが、次第に与えられていったのだと思います。 そして、その思いの中で、「箱舟を造れ、そして入れ」という命令を聞いたのです。この「箱舟」によって喚起されるイメージは実に多いし、それぞれに深いものですが、今日は今日として示されたことの一つを語らせていただきます。 荒れ狂う水の上に漂う舟という光景は、ご承知のように新約聖書にもあります。主イエスと弟子たちが乗った小舟が、ガリラヤ湖の真ん中で嵐にあって沈みそうになったとか、弟子たちだけが嵐にあって難渋している時に、主イエスが海の上を歩いて来られたとか、そういった出来事が記されています。そこにおいて暗示されているのは、この世の荒波にもみくちゃにされているキリスト教会です。主イエスが一声だしてそれを静めて下さらないと、また、主イエスが歩いて来て、乗り込んでくださらないと、教会は荒波に呑み込まれてしまう。そういう教会の姿が、そこに暗示されているのだと思います。 ノアが造れと命じられた箱舟、それは先程言いましたように、明らかに神殿の象徴です。この神殿に入っている者が救われるのです。旧約聖書におけるエルサレム神殿は、新約聖書においてはキリスト教会となりました。先程、中渋谷教会の建物のサイズをあげましたが、建物が教会なのではありません。今週、この教会の建物が火事で燃えてしまうとか、地震で崩壊してしまうということが起こったとします。しかし、そのことで「中渋谷教会」がなくなってしまうわけではないのです。そんなことは何の関係もないことです。 私が時折お話をする京都の北白川教会という教会、これは中渋谷教会が親教会のような教会ですが、学生時代の三年間お世話になりました。最初にその教会の礼拝に出た時の説教題は今でもよく覚えています。「あなたがたが神の宮なのである」というものです。その教会は、普通の日本家屋の一階をつかって礼拝をしていましたが、そこは牧師館でもありました。私が初めて行ったその日の礼拝が、たまたま牧師館を使っての礼拝の最後の日で、翌週から近くの民家に移るという日でした。優に七十歳を越えた小さな牧師先生が、甲高い声で、繰り返し繰り返し、「あなたがたが神の宮なのだ、教会は建物ではない。人であり、その交わりなのだ」と、天に向かって叫ぶようにして語っておられました。私はその時に落雷をうけたようなショックを受けましたけれど、その日のみ言葉はこういうものです。当時、用いていた口語訳聖書で読みます。コリント人への第一の手紙の言葉です。 「 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」 この宮は神殿のことです。 そして、主イエスは、こう仰いました。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 主イエス・キリストの名によって集まる人々の共同体が教会なのです。この主イエス・キリスト。この方は、すべての罪人の罪をその身に負って死んで下さった方です。父が裁いたのです。殺したのです。エルサレムの母親は、自分の子を殺して食べました。これはあまりに悲しいことです。しかし、主イエス・キリストはご自身の民のところに来たのに、その都エルサレムで民を愛したのに裏切られ、憎まれて、十字架につけられて殺されたのです。しかし、そのことの本当の首謀者というか実行者は、人ではなく父なる神様です。父なる神様が、独り子を十字架につけて殺したのです。独り子は、自分の父親に見捨てられて殺されたのです。こんな惨いことが、何故、起こるのですか?神様が愛だから起こるのです。神様が、私たち罪人を、それでも尚、愛し続けてくださるから起こるのです。懲らしめるべき、裁くべき、滅ぼすべき罪人を、赦し、新しく生かすために、父なる神と子なる神イエス・キリストは、愛するが故の壮絶な苦しみの果てに十字架の死という出来事を引き起こされます。これが、私たちに与えられた新しい契約なのです。神様は、ここですべての人間との間に契約をお立てになったのです。どういう契約か?この御子イエス・キリストの十字架の死が、自分の罪のため、その赦しのためにあるのだと信じる者は、その信仰においてそれまでの自分の罪に死に、新しい命に生きることが出来る。主イエスの復活に与らせるという契約です。 キリストの死を見て、何故自分のような者の身代わりにこの方死なねばならなくなったのか?!と痛切に自分の罪深さを知らされ、その罪に勝る神の愛を知らされた者は、それまでの自分に死ぬのです。そして、信仰によって主イエスの復活の命に与るのです。 新しい神殿、キリスト教会とは、この契約を神様と結んだ人間、キリスト者の共同体です。その教会が、滅び行くこの世の海原に漂っているのです。古い契約によるノアの箱舟は、神様によって戸を閉ざされました。ノアとその家族以外は箱舟に入ることは出来ませんでした。しかし、主イエスの十字架による新しい契約によって造られた教会の門戸は、いつでもすべての人々に開放されているのです。罪の奴隷として滅びに向かって生きるしかなかった私たち一人一人は、キリストに手を差し出されて、この箱舟としての教会の中に引き入れられたのです。まさに世の濁流に流され、最後は、呑み込まれるだけの私たちは、幸いにも、今生きているのです。キリストが死んで下さったからです。そして、復活して今も生きてくださっているからです。このキリストのお陰で、私たちも古き自分に死に、新しく生かされているのです。神様の霊が、私たちの中に住んで下さっているのです。教会は、神様の霊、キリストの霊によって生きている神殿です。「この教会に入りなさい。そこに救いがあります。」私たちは、こう告げて生きるために、今生かされているのではないでしょうか。 |