「神に従う一人の人のゆえに」

及川 信

創世記 7章 1節〜 8節

 

 ノアの洪水物語が、少なくともJ資料とかP資料と呼ばれる二つの資料から成り立っているので、同じことが繰り返されたり、同じことでも違った書き方がされていたりすることは再三言ってきたことです。
 6章9節に、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」とありました。そして、その単元の最後は「ノアは、すべて神が命じられた通りに果たした」という言葉です。今日の箇所にも「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、私は認めている」とあり、その単元の終わりである5節には「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」と出てきます。ノアが神に従う人であること、その命令に従う人であること、それはPでもJでも同じです。
 しかし、Pの方では、箱舟に入る動物や鳥は、雄と雌のつがい(つまり二つずつということ)ですが、今日の箇所であるJの方では「清い動物を七つがい」「清くない動物を一つがい」「空の鳥も七つがい」ということになっています。こういう二つの資料が合わさることによって生じてくる瑣末な矛盾よりも、合わさることで生じてくる重層的な深みの方がはるかに勝るが故に、こういう物語が出来上がっていくのでしょうけれど、今日は今日として、この箇所のみ言葉から示される、深くて広い神様の御心を知らされていきたいと願っています。
 最初に、数字の問題を見ておきたいと思いますが、「七日」というのは、もちろん一週間のことで、一つの単位です。ユダヤ人は、神様が定めた七日目の安息日を守ることによって、ユダヤ人としての生活を守っています。私たちも、七日毎に主の復活を記念する日曜日の礼拝を守ることによって、キリスト者の生活を守っています。この安息日を守るということが、キリストへの信仰を生きるための生命線です。この日は、主を礼拝するためにあるのです。その礼拝を、自宅でも病室でも旅先でも誠実に守る時に、私たちはキリスト者として生かされる。命の言葉と命の御霊によって、新しい命を与えられつつ生かされるのです。
 そして、「40日40夜」。この40という言葉は、聖書の中に何度も出てきます。たとえば、エジプトの奴隷として過ごした期間は40年の10倍の400年と言われます。そして、エジプトを脱出して約束の地カナンに着くまでの荒野放浪の期間は40年です。また、主イエスが荒野でサタンの誘惑を受けた期間も40日です。そうなりますと、聖書において40年というのは、一つの試練の期間と言って良いのではないでしょうか。その試練を通して、人は鍛えられ、清められて、全く新しい存在になっていく。新たな使命が与えられていく。そういう期間として40日、40年、400年というものがあるように思います。今日の箇所のJ資料によれば、雨は40日40夜降り続き、その結果起こった洪水は40日間地上を覆い、40日たってノアは箱舟の窓を開け、烏や鳩を放し、それから7日待って再び鳩を放し、その鳩がくちばしにオリーブの葉をくわえていたのを見て、さらに7日を待ってもう一度鳩を放すということをします。そういう一連の時の区切り方は、P資料の区切り方と合わさることによって複雑になり、また実に興味深いものがありますけれど、それは後日の課題とします。
もう一つ、この箇所で私たちの目を引くのは、「清い動物と清くない動物」という書き方であり、「7つがい」と「1つがい」の違いでしょう。どんな社会でも、清い清くない、つまり浄不浄の決まりとかタブーのようなものがあるものです。触れてはいけないもの、食べてはいけないもの、交わりを持ってはいけないものがある。イスラエルにもあります。特に食物の規定に関しては旧約聖書のレビ記11章に記されていますから、興味のある方は後で御覧になると良いと思います。そして、そこにある区別の由来については、衛生上の問題とか、他民族との宗教の違いによるとか色々な説がありますし、よく分からない所もあるようです。しかし、今日の箇所においては、その浄不浄の区別そのものが問題ではありません。問題は、清いとされていようと清くないとされていようが、地上の動物はすべて箱舟に入って「全地の面に子孫が生き続ける」ようにしなければならないということです。つまり、清さが、生死の区別を決める選択の基準になってはいけないということです。生き延びてよいもの、生き延びる価値があるものを、清さの基準で判定してはならない。すべての動物が、ノアの子孫と共に生き延びなければならない。
このことが提示している問題も実は深く広いものです。その問題を、今日追及していくことはしませんが、動物への虐待とか自然環境破壊という問題だけではなく、人間の命に関することと深く関係していくのです。たとえば、現代では当たり前のようにやっている羊水検査によって障害児が生まれる可能性が分かれば堕胎をするということと、この問題は関係します。また、戦争が起こった時(今のアメリカなどでもそうですし、どこの国でも同じかもしれませんが)、実際に戦地に行くのは貧しい階層の人々です。金持ちの権力者は、他国を戦場とする戦争によってさらなる利益を得るので、戦争することを決めますが、実際に戦場に行って殺し合いをするのは、決めた人間ではありません。命を代償とした「給料を貰える」とか、「帰ってきてからの就職に有利だ」という宣伝文句を信じて兵隊になっている貧民層の青年たちです。つまり、この世には、妙に大事にされる命とゴミのように扱われる命の区別があります。こういうことも、この問題と関係するのです。
神様の命令は、清い動物も清くない動物もすべて、箱舟に入り「子孫が生き続けるよう」にしなければいけないということです。すべては、神様の被造物だからです。清さと命の重さには何の関係もありません。
 それでは、何故、清い動物は7つがいで、清くない動物は1つがいなのか?という疑問が生じます。この先を読み進めていきますと、その理由が分かります。この7つがいの「7」だって、7日の「7」と同じく、一種の完全数ですから、文字通り7と考えなくても良いかもしれませんが、8章の20節以下に、こうあります。これは洪水が終わった時の記述ですけれど。

「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。」

 清い動物は清くない動物よりも優遇されているから七つがいなのではなく、犠牲の供え物として必要だから、箱舟に七つがい乗っているのです。彼らは、子孫が生き延びるためだけではなく、自分が死んで人間の罪が赦されるために、箱舟に乗っているのです。差別的な意味で優遇されているわけではありません。人間社会の中にはどうしても必要な存在として、つまり、犠牲になる存在として、彼らは箱舟に乗っている。
この辺りから、今日のみ言葉の核心に触れ始めているのですが、主は、ノアに向かって、こう言われました。

「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」

 前回も言いましたが、「わたしに従う」と訳されている言葉は、通常は「正しい」と訳される言葉です。「正しい人とは何か?それは神に従う人だ」ということで、新共同訳聖書は「わたしに従う人」と訳したのでしょう。それは、このノアの正しさが、私たち日本人が理解している意味での正しさではなく、宗教的あるいは信仰的な意味での正しさであることを現したいからです。
しかし、ここでまず注目しておきたいことは、そういう意味での「正しさ」を生きている人間が一人しかない、これが神様が御覧になっている現実だということです。そのことがまず、まさに心痛むことです。この「認めている」という言葉は、原語では、6章5節や12節の「御覧になった」と同じ言葉です。天地を造り、人間を初めすべての動物をお造りになった神様が、人間の堕落、腐敗、悪が満ち満ちていく様を御覧になっている。見つめている。そして、心を痛め、苦しみ、人間を造ったことを後悔すらする。そういう現実がここにあります。
 その現実の中で、ただ一人の正しい人がいた。そのお陰で、実は世界が滅亡の果てに再生する道が開かれることになります。この正しさ、神に従うという意味での正しさが何を意味するのか、それが今日の問題となります。
 この神に従う人、正しい人とは、原文でツァディークという言葉です。この言葉を調べていくと、すぐにこういう物語に出会います。それは有名なソドムとゴモラの物語です。創世記18章後半に出てきます。
 神様が洪水を起こす前に御覧になった現実は、6章5節にありましたように、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」という現実でしたが、ソドムの町はまさにそういう町でした。そこで神様は、その町の実態をさらに調査した上で、人間による自滅が避けられなければ、ご自身の手で滅ぼそうとされます。しかし、その前に、神様が世界を祝福するために選んだアブラハムに、これからしようと思うことをお告げになるのです。
 すると、それを聞いたアブラハムは、主の前に進み出て、こう訴えます。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために町全部を赦そう。」

 ここでアブラハムが求めていることは、正しい者だけを生かし、悪い者は殺してくださいということではありません。それこそが、私たちが考える正しい裁きだと思うのですが、アブラハムは、「50人の正しい者がいるならば、その50人のために町全体を赦すべきだ。また、正しい者を悪い者とを一緒に殺し、同じ目に遭わせることは、正義ではないはずだ。神様なら、正義の裁きをして下さい」と言うのです。これは、私たちが通常考える正義とは違います。しかし、これが彼が考える神様の正義であり、その神様の正義が貫徹されること、それがアブラハムにとって大事なことなのです。そして、神様はそのアブラハムの主張を良しとされた。つまり、「それこそ正しい主張である。さすがアブラハムだ」とお認めになったと言って良いだろうと思います。
 私たちが通常考える「正義」の裁きとは、先程も言いましたように、「正しい者は生かされ、悪い者は罰せられる」という裁きです。しかし、アブラハムが主張し、主なる神様が良しとされた「正義」は、正しい者が少数でもいるのなら、他の大半の人間が悪い者であっても、その町全体を赦すということなのです。
ここで一つの問題は、「正しい者」とは何であるか、です。アブラハムが言う「正しい者」、それは、圧倒的に多数の悪い者の罪が赦される、少なくとも当面の裁きを免れるための働きをしている者たちです。こういう「正しい者」がいなければ、その町は滅ぼされるが、50人いれば、町全体が赦されるのです。この人数はその後、アブラハムの必死の食い下がりによって10人にまで引き下げられます。そして、神様は最後に「その十人のためにわたしは滅ぼさない」とまで仰いました。神様の御心、それは「赦し」であることは明らかです。
しかし、現実にはソドムの町にはその10人がいませんでした。そして、ついに神様によって滅ぼされることになるのです。しかし、その滅亡の中で、アブラハムの甥であるロトとその家族が救い出されていくことになります。そのことについて、聖書はこう記しています。

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅の只中から救い出された。」

 アブラハムの正しさ、それが、破滅の只中でロトとその家族を救うことになったのです。彼の正しさとは、何であるか。それは、主なる神様の正義を信じ、その正義とは愛と赦しの中に遂行されることを信じて、悪い者たちのために執り成したことにあるのではないでしょうか。正しい者が悪い者たちと一緒に滅ぼされることのないように願いつつ、実は、悪い者が滅ぼされないことを願う。そういう深い愛をもって、神様に執り成しをするアブラハムがここにいます。神様は、この「正しさ」を生きるアブラハムを御心に留めて、ロトとその家族をお救いになったのです。
 ノアの正しさも同じだと思うのです。彼の正しさがどういうものであるかは、この7章の初めの段階ではまだ十分には分かりませんが、裁きとしての洪水の後、はっきりとします。彼がその時に真っ先にしたこと、それは自分の家を建てることでも畑を耕すことでもありません。祭壇を築いて、犠牲の供え物を捧げるということだったのです。罪の悔い改めを表明し、その赦しを求める祈りを犠牲と共に捧げたのです。その礼拝で捧げられた犠牲の香りを嗅いで、主はその心の内でこう仰いました。

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」
この悪い思いを見て、神様は洪水を起こされたのに、洪水によっても、その悪さは押し流されてはいないのです。その点において何も変っていない。実に暗澹たる思いがしますが、しかし、そのことをよく知ったからこそ、ノアは、罪の赦しを求めて犠牲を捧げて礼拝をしたのです。ここに出てくる「祭壇」という言葉も、「焼き尽くす献げ物を捧げる」という言葉も、聖書の中で、ここに初めて出てきます。以前、あのカインの末裔の物語の後に、「主の名を呼ぶ」という形の礼拝が誕生しました。そこにも明らかに罪の赦しを求める礼拝があると私は思いますけれど、罪の赦しを求めて祭壇を築き、犠牲の供え物を捧げる礼拝は、この洪水という恐るべき裁きを通して初めて生まれた形です。心の中に悪をもっているが故に、そして、どうしても罪を犯してしまう人間であるが故に、その罪に対する裁きを身代わりに受けてくれる犠牲が必要であることを知って、犠牲を捧げて祈る。そういう人間が、洪水という裁きを経て誕生する。ノアは、そういう意味で、正しい者であることが、ここで明らかになるのです。つまり、自分が正しくないことを知っているが故に、犠牲を捧げて礼拝する正しさ。そういう正しさが、ここにあるのだと、私は思います。
 前回の説教で、この箱舟のサイズは明らかにソロモンが建てたエルサレム神殿や預言者エゼキエルが幻の中で見た神殿を意識したものであると言いました。神殿を神殿足らしめているものは、活ける神様の臨在です。神様が、その中で生きておられなければ、それはただの建物に過ぎません。エルサレム神殿においては、最も奥まった所にある至聖所に置かれている契約の箱の上に神様は臨在していると信じられていました。そして、至聖所は幕で隔てられており、人々は近づくことは出来ず、大祭司だけが年に一回、民の罪の赦しを求める儀式を行うために入るのです。
 しかし、先週語りましたように、新約聖書においては、私たちキリスト者一人一人、またキリスト者の群れが聖なる神殿なのです。何故なら、神様の霊が私たちの中に生きているからです。キリストへの信仰に生きる私たちこそが、神の栄光を現す神殿であり、神様の救いの御業を告げ知らせ、その救いを体現する神殿なのです。しかし、本来、罪人として裁かれ、滅ぶべき私たちが、神の栄光を現す神殿の働きが出来るようになるために、何があったのか?神様が、何を為してくださったか?それこそが問題です。
神に従う正しい人、それはノアにおいてもアブラハムにおいても、罪人の「罪を赦して下さるように」と神様に執り成し祈り、犠牲を捧げて礼拝を捧げる人でした。彼らは、そういう意味で、正しい人だったのです。
 そして、この「正しい人」「神に従う人」という言葉を調べていくとどこに行き着くのかと言えば、十字架の主イエスに行き着くのです。
 ルカによる福音書における十字架の場面を、少し飛ばしながら読みます。

「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。
『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』・・・  
既に昼の12時ごろであった。全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」


 主イエスは、かつて、ノアの時代の人々について、こう仰ったことがあります。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」つまり、彼らは、自分が滅ぼされなければならない罪人だなどという自覚がなかったのです。主観的には極めて幸せな状態だと言って良いかも知れません。悪いとも思わず悪いことをし、罪とも思わず罪を犯しているのです。ただ面白おかしく生きているのです。人間は幼い頃から、心に思うことは悪いのですから、大人になった時には、悪いのが当たり前で、「当たり前のことをして何が悪い」というどうしようもない状態になっているのです。
主イエスは、どんなに悪いことをし、罪深いことをしても、それを最早悪とも罪とも分からぬほどに堕落し、腐敗してしまった私たち人間の救いのために神に選ばれたメシアです。その方が、神様に完全に従った結果、それが十字架の死なのです。完全に神様に従うとは、自分が何をしているのか知らない罪人の「罪を赦してください」と神様に祈りつつ、自分が犠牲の供え物となって死ぬことなのです。これこそが、ノアもアブラハムも為し得なかった神への服従であり、正しさです。主イエスは、ただただ神様を愛して生き、そして、ただただ人を、つまり、自分で何をしているか分からぬ罪人を愛して生きるように神様に命じられ、その愛の究極として、罪人のために死ぬことを命じられたのです。主イエスは、深い喜びと死ぬほどの悲しみを味わいつつ、「すべて主が命じられたとおりに」されたのです。そして、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ、死んでくださいました。
 その姿を見て、自分で何をしているかも知らずに、主イエスを十字架に釘で打ち付ける命令を下したローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と告白をして、神様を賛美したのです。つまり、主イエスの死の姿を見つめながら、自分がいかに罪深い人間であるかを知り、同時に、この方が自分の罪の身代わりに死んで下さったことを知り、そのことで救いの道が開かれたことを知って、主イエスへの信仰を告白し、神様を賛美したのです。その時、百人隊長は、その信仰によって義とされました。つまり、神様から見て、正しい人なり、さらに神殿になったのです。神殿とは、罪の悔い改めが為され、信仰の告白が為され、神への賛美が捧げられる所だからです。
 キリストはその正しさの故に、十字架の死から3日目に復活し、天に昇り、神の右の座で、今も、罪を犯してしまう私たちのために神様に執り成してくださっています。(それはローマの信徒への手紙8章に記されています。)「この罪人を赦してやってください、私の十字架に免じて赦してやってください」と。神様の命令に従って私たちの罪のために死んでくださり、甦ってくださり、今も尚執り成し続けてくださっているただ一人のお方の故に、私たちには今日も新たに義とされる道が開けているのです。その道を私たちが歩くために必要なものは、信仰です。罪を悔い改め、主イエスの十字架の死による赦しを信じる信仰です。そして、私たちが新しく生きるために主イエスが復活してくださったことを信じる信仰です。この信仰によって、私たちは神様によって義とされる。「正しい人間」と見做されるのです。そして、その時、神殿とされるのです。
その正しい人間のすべきこと、神の霊、活けるキリストがその中に生きている神殿である人間として、またその人間の共同体であるべき教会がすべきこと。それは何よりも父・子・聖霊なる神様を礼拝することです。そして世の荒波に呑み込まれて滅ぼされて当然の自分が、恵みによって救い出されたことを感謝し、いつも新たに感謝の祈りを捧げつつ生きることです。そして、この救いのために、どれだけの祈りがキリストによって、また先輩のキリスト者によって捧げられてきたことかを深く覚え、世の罪が赦されるように祈ることです。ソドムにいなかった10人となることです。ノアのように、そしてアブラハムのように、さらにキリストと共に、祈ることなのです。そして、先週も語りましたように、「この箱舟に入りなさい」と招くことです。「教会の礼拝に来て、主イエス・キリストの十字架の前にひれ伏し、罪の赦しを求めなさい。そうすれば、あなたの罪は赦されます。あなたは、復活のキリストと共に新しく生きることが出来ます。あなたは義とされ、正しい人間とされて生きることが出来ます。罪の赦しと新しい命を与えられる洗礼を受けなさい。そして、赦された者が与る主の食卓を共に囲み、御国に生かされる救いを確信しつつ、喜びと感謝と賛美に満ちた歩みをしましょう」と、福音を宣べ伝えることです。二週間後の特別伝道礼拝は、そのためのよい機会です。共々に祈りつつ備えたいと思います。
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