「箱舟の内と外、命と死」

及川 信

創世記 7章 6節〜24節

 

 創世記一章のいわゆる天地創造において、神様は闇と原始の海に覆われた世界に、光と闇の区分を与え、空と陸、海と陸の区分を与え、時間と空間の秩序を造り出し、その秩序の中で人と動物が共に生きる世界を造り出して下さいました。その天地創造の目標は七日目の安息日であるということは、既に何回か語ってきました。そして、洪水は、世界が創造以前の闇と原始の海が支配する混沌に逆行することであり、同時にそれは、残された者を通しての新たな天地創造への序章であるということも既に語ってきたことです。
 今日の箇所で、いよいよ洪水が始まります。この箇所は同じ事柄を告げる二つの資料が入り乱れていますから繰り返しが多いのですが、そのことで実に見事な強調効果が出ている箇所でもあります。先週の箇所に遡りますが、七章一節に、こうあります。

「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。」

 この「入りなさい」という言葉は、ヘブライ語ではボーと言いますが、これは「行く」とか「来る」とか「入っていく」「入ってくる」とかいう意味の言葉です。このボーという言葉がこの七章では繰り返し出てきます。 七節「ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入 った。
八節九節「清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものも すべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それ は神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であっ た。」
一三節「まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェ ト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に 入った。
一五節「命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに 来て箱舟に入った。
一六節「神が命じられたとおりに、すべての肉なるものの雄 と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」
 この一六節は、原文では「そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった」と、「入った」が二度繰り返されています。とにかく、ここだけで七回出てくるのです。  これらの箇所には、「入った」「来た」以外にも、誰が箱舟に入ったかが繰り返され、それは神様の「命令」に基づくことであることも繰り返されています。そのことによって、わずかな人間と動物たちを残すことを通して、天地を再創造しようとする神様の意思が明確に示されているのです。神様は、徹底的な裁きを与えつつ、その裁きの後に生き延びる人間と動物を残されるのです。それが、神様のご意志です。裁きと救済。裁きの中の救済。聖書を貫くテーマがここにはっきりと出ています。それは命と死の問題であり、死の中の命、あるいは死を経ての命の問題でもあります。
 これまでの説教で言って来たことの一つは、箱舟は神殿の象徴であるということです。だとするなら、ここに繰り返される「入る」と「来る」は、神殿の中に人間と動物たちが入る姿を現していることになります。詩編の中に「神殿に入る」という言葉が出てきますけれど、それは「あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏しあなたを畏れ敬います」(詩編五編八節)とか、「わたしは献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます」という文脈の中で使われています。私たちは名所旧跡の観光旅行をするときに、神社仏閣の境内を見物したり、教会の中に入ったりします。しかし、ここで「箱舟に入る」とか「ノアの所に来る」というのは、ちょっと教会の見物に来るとか、礼拝堂の中を見ることではないことは明らかです。礼拝するために来て、入ることを意味しているのです。そして、その礼拝を捧げることを通して、新しい世界の担い手となるために「来て」、「入る」ということを意味しているのだと、私は思います。
 そして、そのことの意味については、最後に再び触れることになるはずです。
 今日の箇所で繰り返されている言葉、また事柄は他にもあります。一七節から二十節にかけて、水が次第に「増し」「みなぎり」「勢いを加えてみなぎり」「増していく」と、くどいまでに繰り返されます。そして、その結果、高い山々も水に「覆われる」という言葉が一九節と二十節に出てきます。つまり、世界が完全に水に覆われたのです。もちろん、天もまた黒々とした分厚い雨雲で覆われているのですから、光はありません。世界は闇に覆われ、混沌の水に覆われてしまったのです。
そして、その結果、何が起こったか。二一節以下を少し飛ばしながら読みます。ここでも同じ事柄が繰り返されています。「地上で動いていた肉なるものはすべて・・・・ことごとく息絶えた。」「その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。」「地の面にいた生き物はすべて、・・・・ぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られた。」もう、徹底的にすべての人間と動物が神様の怒りの裁きによって「息絶え」、「死に」、「ぬぐい去られた」事実が強調されています。
そして、その結果、何が起こったのか。

「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。」

 これは、より直訳風に訳すと、「ノアだけが残った。そして、彼と共に箱舟の中にいたものたちが」となります。神に従う正しい人ノアだけが残ったということと、そのノアのお陰で、ノアと共に箱舟に入った彼の家族とすべての生き物だけが残ったということです。先週の「神に従う一人の人のゆえに」という説教において語りましたように、このノアの正しさは、すべて神様の命令に従う正しさであると同時に、自分自身を含めたすべての人間の罪の赦しを求める礼拝を捧げるという意味での正しさなのです。このノアという一人の人が残された意味、それはこの地上に礼拝する人が一人残されたということなのであり、この礼拝こそが天地創造の目的なのですし、ここで神様が新しく天地をお造りになる目的なのです。
 先程、天地創造の目的は七日目の安息日にあることを言いました。この日は特別に祝福された日なのです。「闇と死で覆われた世界に、光と命を造り出された神様は、ついに光と命に満ちた世界を完成してくださるのだ。」これが天地創造物語のメッセージです。そして、その日は、何よりも完成の祝いの日であり、神様に賛美を捧げる礼拝の日なのです。
神様に礼拝を捧げるということ、これは明らかに、神に似せて造られた人間だけが為しえる業です。鼻に命の息があるということでは人間と他の動物は同じです。しかし、動物はどんなに頑張っても神に祈りはしません。動物には信仰も宗教もないのです。私が煎餅か何かを食べる時に、私の飼い犬は、その欠片でもくれないかと、もう必死の眼差しで私を見つめますし、宗教改革者のルターは、人間もそういう時の犬ほどに真剣に神に祈るべきだと言ったそうですが、彼が私に向かって祈っているわけではないことは、欠片をあげた後のぞんざいな態度ですぐに分かります。祈ること、礼拝をすること、それが人間だけに与えられた性質であり、本質であり、また使命でもある。神様に祈っている時、神様を礼拝している時に、人は人として生きていると言ってよいのだと思います。しかし、そうであるが故に、私たちが今の礼拝が終わった後、礼拝とは全く関係のない生活、さらに礼拝とは相反する生活を始めるのであれば、それはまさに犬にも劣るわけで、私たち人間は犬が決して犯さない罪を犯すことになります。神様に礼拝を捧げるのも人間だけですが、神様に背く罪を犯すのも人間だけなのです。
 ノアがただ一人残り、ノアと共にいたものも、彼のお陰で残ったのは、彼が神様に罪の赦しを乞い求める礼拝を捧げるためです。清い動物は、その礼拝において犠牲となって死ぬために七つがい箱舟に乗っているのです。残りの者とは、そういうものなのです。
 その残りの者たち、それはノアとその妻と三人の息子とそれぞれの妻を合わせた八人です。男四人女四人、あとはすべての動物や鳥のつがいです。八人の家族とすべての動物と鳥が三階建ての箱舟の中にひしめいている。ちょっと考えただけで壮絶なことです。親子、夫婦、兄弟、嫁姑、嫁同士、皆すべて仲が良いということは滅多にあることではありません。今も、マスコミでは、かつて麗しく見えたある家族が、互いに仲違いしてしまっている様を連日報道していますが、そういうことはべつに珍しいことではないでしょう。
私が神学校に入った時、私の実家は学校に自転車でも通える距離のところでしたけれど、親兄弟と一緒に暮らすなんて真っ平御免だった(むこうも嫌がったはずです)私は、それまで通りアパートにひとり住まいをしました。普通なら学生寮に入るようですが、私は御承知の通り、集団生活など出来ない性格ですから、寮には入りませんでした。その年の新入生に対する様々なガイダンスの中で、ある教師が神学校の寮をノアの箱舟に喩えていました。その教師は大体こんなことを言いました。
「ありとあらゆる動物がいて、箱舟の中は大変だぞ。声の大きなゾウとかライオンとかが吼えまくる場合もあるし、夜行性の動物が夜うろつき回ることもある。所かまわず糞をする奴もいる。鳥はギャーギャー鳴きまくる。そういうことに耐えることが出来なければ、将来教会の牧師なんてできっこない。教会にはもっと多種多様な会員がいる。やたらと噛み付いてきたり、甘えてきたりする。いやー、実に大変だ。」
 皆さんは「いろんな牧師がいて、それぞれ勝手なことをするから、教会員の方が余程大変だ」と言いたいと思いますし、私は反論するつもりはありません。しかし、結局、一つの箱舟に乗っているのですから、どちらも大変なのだということで、お互いに妥協しましょう。とにかく、この箱舟の中には色んな人がいます。静かなのが好きな人もいますし、賑やかなのが好きな人もいます。集団でいることが好きな人もいるし、一人でいることが好きな人もいる。歌が好きな人もいるし、黙って聖書を読んで祈っているのが好きな人もいるかもしれない。とにかく、多種多様な人がいて、箱舟である教会の中で色々と言い合っている。ぶつかり合っている。そういう関係の中で、愛とか赦しとか忍耐とかを学んでいるのです。学ぶべきでしょう。そして、いつか箱舟から出る日、新しい世界が始まる日を待ち望んでいる。その世界に生きるに相応しい人間になるべく訓練を受け、教育を受けているのだとも言えるでしょう。
 そして、私は毎週、まだ誰もこの礼拝堂に来ていない時に、三階の牧師館から二階に降りてきます。夏や冬には、誰もいない礼拝堂に冷房や暖房を入れたりすることもあります。そして、礼拝の時間が近づくと、遠くから近くから一人また一人と人が来て、この礼拝堂に入って来られます。私はその姿を二階ホールで見ていたり、この講壇の上で見ていたりします。べつに遅刻のチェックをしているわけではありません。そして、礼拝が始まれば、後ろのドアは閉められます。箱舟もそうでした。私は、そういう様を見ながら、やはり厳かな思いになるのです。
私たちは皆、清い動物か清くない動物か分かりませんが、どちらにしろ神様の命令によってここまで来て、この礼拝堂に入っているのです。これは自分の意志だと思うかもしれませんが、根本的には神様の意思だし、命令です。神様が、私たちをこの礼拝堂に集め、そこで礼拝することを許してくださらなければ、私たちは誰もここに「来る」ことも「入る」こともできません。私たちは神様の招きによって、この礼拝堂に入ることが許されているのです。そして、現在の招きの言葉(招詞)は、「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる」というものですが、私たちは神の名を呼ぶように招かれている、命ぜられているのです。このこと自体が、感謝なことです。親に勘当された子は「父よ」と呼ぶことは許されません。私たちは先週だって、自覚無自覚を問わず、礼拝を終えた後、様々な罪を犯してしまった者です。神様の御心を痛め、悲しみを与えてしまったものです。しかし、にも拘らず、その神様から、名を呼ぶことを命ぜられる。許される。これ自体が恵みなのです。この恵みの中に、私たちには隠された大いなることがある。そのことを毎週毎週新たに知らされて、罪を悔い改め、主イエス・キリストと父なる神様の絶大な愛と赦しと全能の力を賛美する。それが礼拝です。この礼拝に、私たちを招いてくださること、それは先程言った意味で、私たちを人間として生かしてくださるということに他なりません。私たちは、この時に、新たに人間として造り替えられ、生かされるのです。そこに神様の愛と恵み、私などが捉えることも表現することも出来ないとてつもなく大きな愛と恵みがあるのです。
今日の箇所で繰り返されている言葉の一つに、「覆われた」という言葉があることは先程言ったとおりです。この場合は、世界が水で覆われたということです。しかし、それは単に水で覆われたことではなく、闇と死に覆われた世界になったということです。人間の罪の業、それは闇の業ですし、その結果は死です。完全な闇に覆われることです。世界が、人間の罪に対する神様の裁きによって死の闇に覆われた。それが、ここで言われていることです。しかし、その闇の世界の中に、ごくごく僅かな者が残された「残りの者」となったのです。この「覆われた」と「闇」と「残りの者」に関して、最後に御言葉の語りかけを聞いていきたいと思います。
このノアの物語は単に空想的な昔物語ではなく、人間の奢り高ぶりと、その罪に対する神様の裁きという現実の比喩として書かれ、そして、読まれてきたことは言うまでもありません。そして、残念ながら歴史は形を変えつつ、しかし、繰り返すのです。
たとえば、紀元前八世紀のユダ王国の預言者イザヤは、奢り高ぶりと背信を繰り返す王と民衆に向けて、厳しい裁きを告げた預言者ですが、彼は、こう言っています。

「残りの者が帰ってくる。力ある神に。イスラエルの民が海の砂のよう(に多くて)でも、そのうちの残りの者だけが帰ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる、万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。」(イザヤ書一〇章二一節〜二三節、抜粋)

 主の恐るべき裁きの果てに、ごく僅かな残りの者だけが、悔い改めをもって神に帰ってくる。そういう幻をイザヤは見させられ、そして、語っています。
 この預言はこの後、メシア(救い主)の到来の預言となり、そのメシアが到来した時の世界の幻を、彼はこう語ります。このメシアは、主を知り、主を畏れ敬う霊に満たされた者として地上に誕生するのですが、その時、

「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」イザヤ書一一章六節〜一〇節

 神様によってメシアが送られる時、メシアが地上に立つとき、水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。覆われると言っても良いでしょう。その時、敵対する動物同士が、また乳飲み子が毒蛇の穴に戯れる。もう「何ものも(互いに)害を加えず、滅ぼすこともない」世界が実現する。エッサイとは、この場合、神の民イスラエルのことであり、その残りの者のことです。すべての民は、その民のところに、神を求めてやって来る。礼拝を捧げるためにやって来る。それが、イザヤが神様に示されて語った幻です。
 彼が語ってから百数十年を経て、結局、悔い改めることをしなかったイスラエルは裁かれました。バビロン帝国に滅ぼされたのです。しかし、地獄のような苦しみの果てに生き延びさせられた者たちの中に、さらにバビロンに連れ去られるという屈辱を経験した人々がいました。まさに死の闇に覆われた経験をした人々です。そういう人々の手によって、洪水物語も纏められてきたのだと思いますけれども、そのバビロン捕囚時代は約七十年続きました。つまり、完全に一世代が死に絶え、七十年後に生きているのは、子や孫の世代です。その時代に、バビロンからの解放という出来事がありました。バビロンが新興帝国のペルシャに滅ぼされたことによって、捕囚民も故郷エルサレムに帰って良いことになったのです。
 しかし、すべての人が帰った訳ではなさそうです。七十年の間に、バビロンの地にすっかり根付いて、唯一の神、イスラエルの神への信仰を捨てた人も相当数いたようです。エルサレムに帰ったのは、エルサレムに神殿を再建し、神が支配する国としてのイスラエルを再建しようという熱き思いを与えられた者たちだけです。しかし、その再建の業には、想像を絶する困難がありました。彼らは、その厳しい現実に直面して、途方にくれ、絶望して行きました。しかし、そういう民に向かって、力強く神の言を語りかける預言者が立てられたのです。学者たちは、その預言者を便宜上「第三イザヤ」と呼びますが、イザヤ書の五五章以降の預言が、その預言者のものと考えられています。
 私はいつも説教の準備をする時に、聖書に出てくる言葉の意味や、それが使われている所を調べます。当然、様々な聖書の箇所を開いて読みます。そして、この箇所から聴き取るべきメッセージと語るべきメッセージを探します。その時間はとても楽しい時間です。見知らぬ土地に、あるいは前にも行ったことがあるけれど、とても良いところだったので、新しい発見をすることを楽しみに旅立つような気分です。苦しみは、その後にやってきます。いつまで経ってもメッセージが見つからない、まとまらない、聞こえてくる、あるいは、見えてくるメッセージが厳しすぎる・・・その苦しみを越えると深い喜びがやってくるのですが、とにかく、今日の箇所は、繰り返される言葉が多いので、そういう言葉の使われ方を探していました。すると、これにはとても感動したのですけれども、イザヤ書の六〇章に行き当たりました。
 まだ二一歳の学生時代に、このイザヤ書六〇章の最初の言葉を巡る説教を聞いて、激しく感動したことを今でも覚えているので、尚更感慨深いのですけれど、ここには、今日の箇所に繰り返される「来る」とか「入るというボーという言葉が繰り返し出てきます。また「覆う」という言葉、そして、箱舟の象徴である神殿が神の「家」「わが家」という形で出てきます。つまり、今日の箇所における重要な言葉がほとんど全部出てくるのです。少し飛ばしながら、読みます。(お配りした文書で重要な言葉は青字にしておきました。)

「起きよ、を放て。あなたを照らす昇り(来る=ボー) 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。 国々はあなたを照らすに向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる(来る)。 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる(覆う)。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家(神殿)の輝きに、輝きを加える。」 (イザヤ書六〇章一節〜一一節)

 「闇で覆われていた地の上に、主の光が輝くのだから、立ち上がれ」と預言者は叫びます。「今は廃墟のようになっている神殿を再建するために、四方八方から献げ物を持ってくる民がいるのだ。イスラエルの残りの民もやって来る。いや、それだけではない。遊牧民もやって来る、遠い外国人もやって来る。皆、献げ物をもってやって来て、神殿を再建し、その神殿に入り、そこで神の栄光を讃美する礼拝を捧げる日が来るのだ。今、どれ程、罪と死の闇が全地を覆っていようとも、主の栄光が輝き、あなたを照らすのだから、その光を放て!」
 彼はこう語ります。ここにも動物が出てきますけれど、歴史的現実としては、イスラエルに敵対してきた民族や部族も出てきますし、見知らぬ遠い外国人も出てくる。この後を読み続ければ、そのことはさらに明らかになっていきます。ここで言いたいことは明らかです。神様は、完全な滅亡を通して新しい世界を造るということです。そして、その世界の中心は神様の栄光に輝く神殿なのだ、ということ。そして、世界中の人間がこの栄光の輝きを求めて神殿に集まり、神殿に入り、神様を礼拝する日が来る。その日のために、立ち上がれ。その日を信じて、立ち上がれ。預言者は、そう叫びます。
 私たちは、神様の愛と恵みによって箱舟である神殿、神の宮なる教会に招き入れられた者たちです。この神殿に宿っている神の栄光、それは神の独り子主イエス・キリストの栄光です。私たち罪人の罪のすべてを背負って、私たちの罪が赦されるように祈りつつ死んで下さった十字架の主イエスの栄光、それは、取りも直さず、罪と死の闇を打ち破って下さった復活の主イエスの光り輝く栄光です。この方の栄光が、聖霊において宿っている。それが、私たちキリスト者一人一人の現実であり、教会の現実です。
 しかし、私たちもかつては世の闇の中で、何が善で、何が悪であるかも分からぬままに、神様の御心に反することばかりをして、裁かれるべき人間でした。ただキリストの恵み、神の愛によって選ばれて、キリストの十字架の贖いを知らされ、信仰を与えられ、罪赦されて、新しい命に生かされているのです。だから、まことに感謝すべきことに、毎週、神様に一人一人名を呼ばれて、ここに来て、この礼拝堂に入り、「アッバ、父よ」と神様を呼ぶ礼拝を捧げることが出来るのです。命ぜられているのです。見捨てたものに命令することはあり得ません。私たちが、この礼拝堂の中にいるということは、まだ神様に見捨てられていないということだし、さらには、神様のために今後働けると思って頂いているということです。有難いことです。この礼拝堂の外、この壁の外と中では、全く違う世界があるのです。闇と光、死と命の違いがあるのです。この礼拝堂の中には、罪の赦しと復活の命の光が輝いており、私たちはいつか必ず完成する栄光の神の国を目指して生き、働くことが出来るのです。 この恵みを無駄にして良いはずがありません。
パウロは言いました。

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(テモテへの手紙二 四章一節〜二節)

 私も何人もの方が、こうやって忍耐強く教えてくださって信仰を与えられました。感謝です。
 主イエスは、こう仰いました。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるよゆになるためである。」(マタイによる福音書5章14節〜16節)

 来週の特別伝道礼拝、私たちが祈りをもってお誘いをしている人が、ひとりでも多くこの礼拝堂まで来て、この礼拝堂に入り、十字架と復活の主イエスを通して、世界を根本的に造り直し、いつの日か完成してくださる神様の栄光を讃美できますように。
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