「心の思いが悪いのに呪わない神」

及川 信

創世記 8章20節〜22節

 

「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」



 三日前の木曜日に、ロンドンで凄惨なテロ事件がありました。その事件の報道を見ながら、復讐の連鎖しか作り出せない人間、いつも新たに自ら敵を作り出し、絶えず自己を正当化しつつ敵を憎み、呪うことしか出来ない人間の性というか、罪深さを思わざるを得ません。犯行声明を出した側の論理から言えば、大国の正義、あるいは白人の正義を振りかざして、圧倒的な武力を持って戦争を仕掛け、自分たちにとって都合の良い政府を作り出す者たちに対抗できる手段はこれしかないということでしょう。私は、その論理が正しいとは全く思いませんが、二〇〇一年のニューヨーク・ワシントンのテロ攻撃に対して、即座に「報復」を叫び、「正義の戦争」だと声高に叫びつつ、アフガニスタンを攻撃し、さらに勝手な言い掛かりをつけてイラクにまで戦場を広げる論理にも全く賛成できません。これは両方とも「敵を憎み、呪うことは当然の権利だ」という論理において共通しているのです。その論理に基づく行為は、実際には正義でも何でもないし、「その行き着く先はどちらかの勝利ではなく、両者の破滅だ」と言わざるを得ないと思います。敵意と復讐は必ず新たな敵意と復讐を生み出し、延々とした連鎖反応を起こしつつ最後は滅びに至る他にないからです。
 このテロ事件とほぼ時を同じくして、日本国内では憲法改正論議に関する新聞報道がありました。それなどを見ますと、日本の政治家のそれなりの数の人々が憲法改正に積極的であることが分かります。そして、現行憲法を占領軍による押し付けだとし、自主憲法を定めるべきだと声高に叫ぶ陣営の人々は、特に憲法九条を改正し、「自衛隊」ではなく「国防軍」と明記すべきだと主張しています。つまり、戦争放棄を放棄して、有事の際は心置きなく戦争が出来る体制を作ろうとしているのです。そして、もう既に有事関連法案はほとんど成立しているのですから、周辺的な準備は着々と進んでいます。また彼らは、天皇を「国家元首」とすべきだと主張もしている。「国防軍」という名称も「天皇の国家元首制」も時期尚早ということで先送りになりましたが、彼らの意図は、既に明白です。改正後(改悪?)の憲法には、国民の「権利」よりも「義務」を数多く記す方向が打ち出されていますから、国民主権ではなく、天皇に権力を集中し、その権威を借りて権力者の意のままに国民を操ることを目指しているのです。いつでも仮想敵国を作り出し、恐怖心を煽り、無闇矢鱈に愛国心を強制し、「殺される前に殺さないと意味はない、国土防衛のためにこそ先制攻撃をせねばならぬ」という論理を作り出す。
人的物的に莫大な被害と傷を近隣のアジア諸国に与え、日本の各地が焦土と化し、数え切れない人が死に、さらには原爆を二発も落とされて降伏するということを経験しつつ、今もって近隣諸国に対する心からの謝罪と真の和解に向けての具体的な努力をしないで、軍備を増強し、靖国に参拝し、憲法を変えて、戦争が出来る「ふつうの国」を目指そうとしている。少なくとも、私にはそう見えます。
こういう内外の現実を見ていると、「何があろうが、悪は存在し続け、人間がその心に思い計ることは悪であることに変りはない。どんなに多くの人が殺されようが、人はまた戦争やテロを繰り返して、殺し続ける」と思わざるを得ません。これは歴史の事実が証明していることですから、否定しようがないのではないでしょうか。
 問題は、私たちがその悪が存在しているという事実をどう受け止めるかです。しかし、それだけでなく、神様が悪を心の内に持っている人間をどう受け止められるかなのです。
 今日の箇所は、洪水物語の一つの終わりです。九章ももう一つの資料による物語の終わりですけれど、六章の初めから始まった一つの話は八章で終わります。その初めと終わりに、共通する二つの言葉が出てきます。それは「心」と「悪」という言葉です。洪水物語の開始を告げる六章五節六節には、こういう言葉がありました。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」

ここに「悪」という言葉が二回、「心」という言葉も二回出てきます。悪は「人の悪」であり、それは人の「心」の中にある「悪」です。その悪を御覧になって、神様はご自身の「心」を痛められた。神様は、人間がその欲望の赴くままに行動し、姦淫をし、復讐を繰り返しつつ、神様と人、人と人との愛と信頼の交わりを破壊する様を見つめ、深く心を痛め、人を造ったことを後悔されました。そして、ついには人間の堕落を破滅(「堕落」も「破滅」も原語では同じ)させ、その後に、新しい世界、新しい人間を造り出すために、洪水を起こされたのです。ノアは、その恐るべき「裁き」と「救済」を経た新しい世界で、新たに生きるべき人間として神に選ばれたのです。
そのノアが、箱舟から出て初めてなした行為は、祭壇を築き、「すべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげる」という礼拝です。これは端的に言って、神様に罪の赦しを乞い願いつつ、自分自身を神様に献げて生きる信仰、献身の信仰を言い表す礼拝です。私たちも、主の日ごとに、そういう礼拝をささげているのです。
主は、その祭壇から上がってくる香りをかいで、ご自身の「心」に向かって言われました。

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」

 神様は、かつて人間の「心」の中の「悪」を見、その悪が行為となって現われている様を見て、ご自身の「心」を痛め、洪水を起こされたのです。その洪水が終わった今、神様は何を見ておられるのでしょうか。
 ノアという人が、犠牲を献げて礼拝をしている姿を見ているのです。そして、同時に、人間の「心」に思うことは、幼いときから「悪い」という事実を見ている。「幼いとき」というのは、いわゆる幼少期ということであるのか、人類の誕生時、つまりアダムとエバの頃からということであるのか解釈が分かれるのですが、どっちであっても「心に思うことが悪い」とは言えることです。私たちが「物心がつく」とは、「悪知恵がつく」ということと同じ側面がありますし、人類はその最初から悪に染まったことも事実です。そして、その事実は、洪水後も変わらない。その事実を、主なる神様は見ているのです。
 「人が心に思うことが悪である」という事実を見て、神様は洪水を引き起こされたのに、洪水後にもその事実は変ることなく存在している。にも拘らず、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と仰るのは何故か?その問題を聖書に即して考えていかなければなりません。

 ノアという人物が、聖書に最初に登場したのは五章の系図においてでした。そこには、こうあります。

「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」

 ここに、今日の箇所に出てくる言葉があります。「呪い」です。(原語では三章の方がアーラールで八章はカーラールと違う言葉が使われているのですが、この場合は、大きな意味の相違はないと思われますから、同じ「呪い」として論じていきます。)それじゃ、「呪い」という言葉は最初にどこに出てくるかと言えば、あの蛇に対する神様の言葉「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる獣の中で、呪われるものとなった」という所に出てきます。人間を誘惑し、神に背かせた蛇は呪われる存在です。そして、その蛇に唆されて神に背いたのに、そのことを認めず、謝罪もせず、悔い改めることもないアダムの故に、大地は「呪われるものと」なり、結果としてアダムは「生涯食べ物を得ようと苦し」まなければならなくなります。つまり、神に背き、その交わりを破壊する罪の結果が「呪い」であり、その呪いは、結果として人間に惨めな生と死をもたらすものなのです。更に、その後、楽園を追放された後にアダムとエバの間に生まれた子であるカインが、その弟アベルを殺しても悔い改めないことで、彼自身が呪われ、ついに、彼のためには大地は作物を産み出さないということになりました。
 人が犯した罪によって大地が呪われ、その結果、人は苦労して食物を得るようになる。さらに、呪われた人のためには、大地が作物をもたらさない。それが、聖書が告げることです。
 ノアは、このカインの子孫ではなく、アダムとエバに生まれたもう一人の子どもであるセトの子孫の十代目として誕生するのですから、彼自身は直接呪われた人間の後継者ではなく、その犯した罪ゆえに呪われた大地から苦労して作物を得る人間の後継者ですけれど、彼は「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を」「慰める」者となるとノアの親であるレメクは預言(?)します。この「慰める」という言葉、ナーハームが、ノアという名前と関連し、さらに今日の箇所に出てくる「宥め」(ニーホーアッハ)とヘブル語では語呂合わせになっているとしばしば言われますし、たしかにそういう関連を持たされているのだと思います。実際、この後を読んでいきますと、ノアは祝福されて、ブドウを栽培する農夫として良くも悪くも成功します。そこに落とし穴があったのですが、そのことはまた後日ご一緒に読んでいくことになります。
 ここで覚えておかねばならないのは、「祝福」とは明らかに物的なものでもありつつも、それだけではないということです。大地が呪われるということは、その一面において明らかに不作を意味し、その結果としての人間の苦しみを意味します。その反対にまた大地の祝福は、一面において豊穣多産を意味し、そこに人間の喜びがあるのです。しかし、大地が呪われる原因は人間の背きの罪にあるのです。罪と呪いは関係するのですから、その反対の祝福は罪の赦しと関係することは当然のことです。
 ノアが、箱舟から出て最初にしたことは礼拝でした。種蒔きではありません。肉体の命を養うためのことを最初にしたのではないのです。ノアが献げた礼拝、それは焼き尽くす献げ物を祭壇の上にささげる礼拝です。これは、レビ記一章によれば「その人の罪を贖う儀式」です。罪の贖い、罪の赦しとその結果としての新しい命、祝福された命を神様に求める礼拝、それが、ここでささげられている礼拝です。つまり、ノアは自分自身を含めた人間の心の内にある「悪」を自覚している。知っているのです。自分の中に悪があることを知るということは大きいことです。知ると知らないでは天地の違いがあります。先日の説教の中でルカによる福音書に出てくる二人の犯罪人のことを紹介しました。一人は、自分たちを十字架から下して逃がしてくれない主イエスを罵ります。しかし、もう一人は、自分の罪を自覚し、死の刑罰を受けることを当然のことと受け止めるのです。その上で、罪の赦しを乞い願い、御国おける命を与えていただきたいと願いました。その彼は、その日にパラダイスにいると約束されたのでした。罪を知るということがなければ、人は悔い改めることは出来ず、それが出来なければ救われることは出来ないのです。
ノアは、神様の激しい怒りと嘆き、悲しみと後悔、そして激しい愛と期待を、洪水の全期間を通していやと言うほど思い知らされました。そして今、洪水後の大地を踏みしめた時、神の御前にくず折れるようにして礼拝をささげざるを得なかったのだと思います。峻厳なる神様の愛から出てくる怒りと赦しを心と体に感じて、何はさておき、神様に犠牲を献げつつ罪を悔い改め、自分自身を献げる信仰を告白したのです。それは自らの内に悪が無くなった聖人のささげる礼拝ではなく、自分の内に悪があることを自覚するが故に、赦しを乞い求める罪人のささげる礼拝です。
そして、そういう礼拝を捧げる人間を造り出すことが、洪水の目的ではなかったのか?そう思うのです。この礼拝する罪人の姿を見て(ここでは犠牲の香りを嗅いで、ですが)、神様は、もう二度と人の故に大地を「呪わない」と仰ったのだと思います。
一人の人アダムの罪によって地が呪われ、死が入り込んできたように、一人の人の悔い改めと礼拝によって、人の心の中に悪が尚あっても、地はもはや二度と呪われず、祝福と命が入り込んでくるのです。ここに神に選ばれた者の使命があると言わざるを得ないと思います。ノアは、この礼拝を通して、神を宥め、そして大地を呪いから解き放ち、人間に慰めをもたらす人間となったのです。
 私は、ここで新約聖書のガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの言葉を思い起こします。彼は、そこでこう言っています。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだして下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられている祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」(三章一三節〜一四節)

 ここで言われていることは、人間の罪、その心の内にある悪に対する神の呪いを、神の子キリストが完全に受け止めて下さり、呪いの結果としての死、滅びとしての十字架の死を、その身に受けてくださったのだということです。キリストは、まさにその身を捧げて下さった。そういう礼拝を捧げて下さった。その礼拝を神様は受け入れてくださったのです。そして、ここには書かれていませんが、神はそのキリストを十字架の死から三日目に甦らせ、罪と悪とその結果なる死に対して完全な勝利を宣言されたのです。私たちは今、ノアとは違って、動物を犠牲として捧げて礼拝しているのではありません。動物に自分の罪や悪を背負ってもらい、代わりに死んでもらっているのではないのです。それは、何度繰り返したところで、そのひとりの人間の罪と悪に対する勝利をもたらすものとはなり得ません。犠牲を捧げて礼拝することは、罪や悪を自覚し、自覚するが故の悔い改めと赦しを求める信仰の表明にはなりますし、神様はその信仰を見て、その人の罪を赦して下さいます。しかし、時至って女から生まれた神の子キリストが自らを犠牲とした十字架の死は、ただ一回だけで世の終わりに至るまで、すべての人間の罪の贖いとなるのです。そして、神様は、三日目の日曜日の朝、独り子なる主イエス・キリストを十字架の死から復活させ給いました。そのことを通して、悪と罪に対する完全なる勝利を宣言されたのです。
私たちは、聖霊の導きの中で、この活ける神の子キリストと父なる神を礼拝しているのですし、この礼拝後も霊の導きの中で、この世において信仰の生活をするのです。それは、世の終わりに完成する天の御国に生きることを約束された者として、この世を生きるということです。国籍は既に天にある者として、この地上を生きる。それが、私たちの礼拝であり、また信仰の生活の有り様なのです。
その具体的な内容を、パウロはローマの信徒に向けて、こう言っています。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 私たちの世界、そこに生きる人々、それは冒頭に語りましたように、まさに罪と悪に支配され、自ら敵を作り出して互いに呪い合っている世界であり人間たちです。これはテロ事件とか戦争においてだけ見られる現実ではなく、ごく普通の家族や友人の間においても見られる現実でしょう。怒りや妬みや憎しみや復讐、そして呪いから、全く自由である人はこの礼拝堂の中にも外にも一人もいないはずです。私たちは誰でも、そういう悪に負けてしまう人間なのです。悪はどんな大災害が起ころうが、戦争があろうが、滅びることなく、世がある限り存在し、私たちを虜にしようとする。しかし、復活のキリストの霊は、世がある限りではなく、永久に私たちを生かし、導く神の力です。この霊に生かされ、この霊に心を明け渡し、身を委ねて生きる時、つまり、神様を礼拝しつつ生きる時、ただその時にのみ、私たちは、心の中の悪に負けて、敵を呪うのではなく、悪に勝利して、敵のために神の祝福を祈る者となることが出来るのです。つまり、敵を敵でなくしていく歩みをすることが出来るのです。
 このキリストの十字架の前で罪を悔い改めて赦しを乞う者のみが、神の赦しを受け、新しく生まれ変わり、復活のキリストの霊の力によって、希望をもって苦難を耐え忍び、たゆまず祈りつつ、和解の道を歩むことが出来る。既に約束されている天の御国を目指して歩むことが出来るのです。そして、天の御国における現実は、この世で敵対し憎み合い、呪い合い、殺し合っていた者が、御子の故に和解し、互いに愛し合いつつ捧げる神への礼拝なのです。主の日ごとに私たちが捧げる礼拝は、その天の御国の礼拝を写し出すものであり、そうでなければ、何の意味もないものです。

「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」

 罪を悔い改めて礼拝するノアの姿を見て、神様はこう仰いました。これは、神の恵みは、これからも与えられるということです。神様は、良い者の上にも悪い者の上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる神様です。地上の人間同士が、どれ程深く憎み合い敵対して、相手を悪魔呼ばわりしていても、神様は、すべての人間を愛し、御子の故に赦し、新しく生かし、御国へと招き入れようとして下さるのです。私たちは、この神様の愛、福音を告げ広めるべくこの礼拝に集められ、またこの世に派遣されるのです。
今日の夜中に、まさに伝道に生きた私たちの先輩が、その証しの生涯を終えて、天に召されました。後に続くことが出来ますように。今日、新たに造り替えられて、呪いと復讐の連鎖を作り出す者としてではなく、祝福と愛の連鎖を作り出す者として生きることが出来ますように。祈りましょう。
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