「人は神にかたどって造られたから」

及川 信

創世記 9章 1節〜17節

 

神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
あなたたちは産めよ、増えよ
地に群がり、地に増えよ。」
(九章一節〜七節引用)



神は祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」

 この言葉は、創世記一章の天地創造物語に出てくる特徴的な言葉であることは言うまでもありません。そして、今、この言葉を聞くと、世界は、洪水という徹底的な裁きを経て、祝福に満ちた世界として再創造されたのだという晴々した気持ちにさせられます。たしかに、洪水を通してそれまでの悪に満ちた世界は滅ぼされ、新しい世界が創造されたのです。しかし、前回も言いましたように、洪水は悪そのものを水に流したわけではありません。箱舟から出たノアの心の中には悪があり、自分の心の中に悪があることを知っているからこそ、彼は神様に赦しを求め、神の御心を行えるようにと全身を献げて礼拝しているのです。彼が、そのようにして神様との交わりに生きる限り、彼は祝福の中に生きる新しい人間なのです。しかし、彼が神様との交わりを離れてしまえば、すぐに、彼は悪に支配されて、大きな失敗を演じる人間であることに変りはないのです。
 また、この先を読んでいくと、この新しい世界は、ただ単に祝福に満ちた世界の再創造ではないということは、すぐに分かります。

「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」

 テレビでは、趣向を凝らした料理番組とか旨い店の紹介番組などが多くて、私もたまに見ますけれど、鮨屋とか割烹料理屋の中には水槽で泳いでいる魚を目の前ですくい上げ、その場で捌いて出す所もあります。水槽の中で泳いでいる魚たちは、あっと思った時には、目の前で仲間が殺されて、人間に食べられるのを見ているわけですし、次の瞬間は自分がそうなるかもしれないのですから、生きながらにして生きた心地がしないだろうと思いますし、自分の仲間を旨そうに食べる人間というものを、どう思うのだろうか?と思います。「人間を見たら逃げろ、人間には近づくな。」自然界の動物たちは皆、基本的にそう思っているだろうと思います。金子みすずという詩人が、浜で人間たちが大漁のお祝いをしている時、海の中では鰯の群れが弔いをしているに違いないと詠いましたが、動物や魚にしてみれば、自分たちを食べる人間はまさに「恐れおののく」べき存在です。
 神様は、ここで人間に肉食を許可しておられます。これまでの人間は、草食だったのですが、これ以後、肉食が許可される。推奨されるわけでも義務付けられるわけでもなく、許可される。それは何故か?については、色々と考えられますが、今日、その問題に深入りすることは出来ません。ただ、預言者などは、世の終わりに実現する世界のイメージとして、人間だけでなく、肉食動物も肉を食べず、草を食べるということを言っていますから、創造の当初と創造の完成時には肉食、つまり、命を殺すことはあり得ないということなのではないかと思います。
神様は、続けてこう仰っています。

「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」

 レビ記や申命記などでも、血は命であるが故に、肉と共に血を食べてはならない。血はすべて地面に流さなければならないと記されています。つまり、血は命であり、その命は神のものだということです。そして、人間が食べることが出来る、自分のものとすることが出来るのは、肉であって命ではないのです。命は神のものであって、それを人間は自由に扱ってはならない。「命は神のもの」。その事実を確認するために、動物を殺す時には必ず血抜きをするのです。動物の命も神のもの。人間が勝手に殺したり、命を自由に扱ったりしてはならない。神様の許可のもとに、生きるためにその「肉」を食べるのであって、その動物の命そのものも人間が勝手に処理してよいということではない。神様は、すべての動物の命の尊厳を、この禁止命令を通して教えているのではないでしょうか。

  「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。」

 今度は、人間の命に関しての言葉です。動物が人間を殺して食べる時、動物は当然の事ながら血を抜くということはしませんから、その動物に対しても流した血の賠償を要求すると、神様は仰る。具体的にそれはどういうことかを考えてもあまり意味はなく、この場合も、命は「神のもの」であることを覚えるということが、大事なのだと思います。
 そして、今日の箇所において最も大事なのは、それに続く部分です。

「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
あなたたちは産めよ、増えよ
地に群がり、地に増えよ。」


 今年は戦後六〇年ということもあり、現総理大臣の靖国神社参拝問題とか日本人の歴史認識の問題とかいろいろな議論がなされています。新聞テレビでなされる議論を読んだり聞いたりしている限りは、どうも深まりがあるようには思えませんし、現在の首相の言説は、恐ろしく稚拙で乱暴なものだと、私には思えます。そして、私たちの国においてはあの平和憲法のお陰で(現在は無理やりイラクに自衛隊が行っていますが)、とにもかくにも戦場で人を殺したり殺されたりはしてきませんでした。このことは今後も守るべきだと思いますが、どうも多くの政治家が、戦争も出来る普通の国造りを目指していることは明らかで暗澹たる気持ちになります。そして、この六十年間、世界の至る所で戦争はありましたし、今も尚止むことがないのです。最近は国同士の戦争だけでなく、「テロとの戦争」という言葉が生まれるほどです。戦争とかテロという無差別大量殺人が起こる時、そこにはいつも「愛国心」とか、「神の命令」とか「神の祝福」とか「聖戦」という言葉が使われます。つまり、戦争はいつも、自分たちの国を愛するという大義名分の下で、さらに神もまたそのことをお望みだと語られ、引き起こされるのです。日本のような多神教の国だと、時の権力者が勝手に始めた戦争に駆り出されて殺された人間を「英霊」という神として祀り、拝むということをやるわけです。日本の兵士によって殺された人々のことは全く考慮はされませんし、軍人軍属以外の人々の死、例えば、空襲によって死んだ多くの人々なども英霊という神になるわけではない。とにかく、そういう神社を参拝しながら、新たな英霊を生み出す土壌を作ることに躍起になっている人々が、この国には相当数いることは確かなことです。
 しかし、国とか民族とか人種、そして宗教の違い、あるいは性の違い、軍人であるかないかの違いなどによって命の重さが計られて良いのでしょうか。「お国のために働くこういう人は大事な人だからその人の命は重く、そうでない人の命は軽い、死んでも構わない」「日本人の命は重いけれど、敵である外国人の命は軽い」。私たちは、平時には、そんな差別意識をあからさまに口にすることはないとしても、心の中で無意識に持っている場合は多いと思うのです。そして、どの国どの民族に属する人間であっても、私たち人間がそういうものを持っていることが、戦争がいつまで経ってもなくならない原因の、少なくとも一つであることは間違いないと思うのです。
 戦争が始まれば、「敵は鬼畜生だから殺しても良い、いや殺すべきだ」と、国の支配者は公然と教えましたし、アメリカやイギリスも日本とは少し観点が違うでしょうが、黄色人種を蔑む意識は明白であったと思います。現在イラク国内やイギリス国内、さらにエジプト国内で起きているテロや、その背景にあるアフガニスタンでの戦争や、その背景にあるニューヨークでのテロや、その背景の一つと言われるイスラエルとパレスチナの問題なども、皆、宗教、人種、国、貧富の違いによって人の命の重さが決定されるという発想、「あいつらは死んでも良い」と決め付けている点においては、すべて同じだと言って間違いはないでしょう。
 話を今日の箇所に戻しますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって正典である『旧約聖書』(この呼び名はキリスト教にとっての呼び名ですけれど)の冒頭に置かれている「創世記」、その一章は天地創造物語であり、その中で、人間の創造が語られています。そこには、ある民族の誕生の次第が記されているのではなく、全人類の命の由来が書かれているのです。そこに何らの区別もありません。そこでは、すべての人間が例外なく「神にかたどって造られた」と記されているのです。ギリシャ人だけが人間で、周辺の人間は皆野蛮人だとか、そういったことは全くないのです。まだ民族とか人種とかの違いはなく、男女の違いだけがあるのですが、男と女に造られたその人間が、神にかたどって、神に似せて造られた存在なのです。その意味は深く広いのです。しかし、今日の箇所との関連で言われなければならないことは、すべての人間は神の尊厳に与っているということですし、すべての人間の命は創造者である「神のもの」だということです。
 人間は、誰でも神の尊厳を身に帯びた者であり、その命は神のものである。これが創造物語の一つのメッセージであり、そのメッセージが洪水の後に、ノアとその息子たちに、つまり、新しい世界に生きる人間に新たに告げられているのです。

「人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。」

 学者たちは、この言葉が書き記されたのが紀元前六世紀のバビロンではなかったかと推測します。ユダ王国とバビロンの戦争よって、数え切れない人々が死に、ユダ王国は滅亡し、多くの民がバビロンに連れ去られるというイスラエル史上最悪と言うべき悲劇を経験しているイスラエルに向けて、神様は天地創造物語を書かせ、またノアの洪水物語を書かせ、その結末に新たなる祝福を与えつつ、バビロン人をも含める形で「人は神にかたどって造られたからだ」というメッセージを新たに告げるのです。神の前では、敵も味方もありません。勝者も敗者もないのです。神の選びの民イスラエルの人々だけが神にかたどって造られたのではないのです。すべての人間が、神にかたどって造られた人間なのです。だから、人間の血を流す者は、神様のものである命を殺す者なのであり、それはまさに神様に敵対することであり、神様によって責任を問われる。賠償請求をされるのです。この徹底的な平等性は、勝利の美酒に酔いしれ,敗者を見下す人間にとっても、敗戦の屈辱にまみれ、何時の日か復讐することを夢見る人間にとっても、実に面白くないものです。「なんで、おれがあいつと同じなんだ?!」と、双方が思うに違いありません。
しかし、私たち人間は、自分自身の中に神に似た尊厳を見い出し、同時に他人の中にも神に似た尊厳があることを見い出し、その尊厳を大切にして生きる時にのみ、神様に造っていただいた存在として、祝福の中を生きることが出来るのです。そして、そういう人間に対して、神様は「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と祝福を与えて下さるのです。これは戦前の日本政府が若い男を戦争に駆り出すために「産めよ、増えよ」と奨励したのとは全く違う、全く逆のものであることは言うまでもありません。日本政府が奨励し祝福したのは人殺しです。しかし、神様は、すべての人間が神の尊厳を持っていることを互いに承認し、互いにその人格を尊重し、自分の命はもちろんのこと、他人の命も神から頂いた賜物として尊重し合うことを奨励し、そういう人間を祝福して下さるのです。この祝福の中で、人は人として生きることが出来るのです。
この言葉が書かれ、読まれ始めてから既に二千五百年以上が経ちました。しかし、その間、この地球上で戦争がなかったことはないし、殺人が起こらない日はありませんでした。そして、戦争はいつも様々な神の名の下で行われてきましたし、その一つにイエス・キリストの父なる神の名も語られてきたのです。恐るべきことです。
人を殺すこと、それは神に敵対することである。これは私たちキリスト者にとって、明々白々のことでしょう。そして、少なくともユダヤ教徒やイスラム教徒にとってもそうです。創世記は、その三つの宗教にとって極めて大事な書物です。仏教徒も異なる根拠に基づくでしょうが、殺生は仏の教えに反すると言うはずですし、ヒンズー教徒だって人殺しを善だとは言わないはずです。人殺しが悪であることは、宗教を越えて、神にかたどって造られた人間にとっては、自明なことなのです。しかし、昔チャップリンという喜劇俳優が、「殺人狂時代」という映画の最後で、「自分はほんの数人しか殺さなかったから電気椅子に座らされる。戦争では沢山殺せば殺すほど英雄になる」と言う場面がありましたが、まさにそうなのです。私たちは、非常時になると、それぞれの神の名を語りながら、戦争を肯定し、人殺しを正義だと言い、自分たちが勝利すること、つまり利益を得ることを願い始める。所詮、利益を求めてのことなのに、正義や平和のためと言い、皆が、神の名を語りながら、実は神の敵になる。神様を利用しながら真っ向から刃向かうのです。そして、自分は善だ、正しい、悪いのは敵だ、殺さなければならないと喚いているのです。今でも世界中から、そういう喚き声が聞こえてきますし、小さなレベルですが、本質は同じ声が、私たちの心の中や口から出てくることもあるのです。
 神様は、その現実を繰り返し指摘し、悔い改めを求め続けてこられました。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、旧約聖書に記されているそれらの言葉を、これでもかと言わんばかりに引用しています。

「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」


 「アーメン、その通りです。私たちは皆、自分の利益を求めているだけなのに、『自分は善だ、自分は正しい、悪いのは敵の方だ、死ぬべきはあいつらだ』と言い合って、奪い合い、殺し合っているに過ぎません。そうやって、私たちはあなたに敵対しているのです。私たちは平和への道を知らず、『平和のために』と言いながら、破壊と悲惨を作り出しているだけです。主よ、どうぞこの私たちの罪をお赦しください。そして、平和への道を教えてください。その道を歩む者としてください。」そう告白し、願わざるを得ないと思います。
 私は、先程から、殺人は神様への敵対行為だと言ってきました。神様にかたどって造られた者を殺すことは、神様への敵対行為以外の何物でもありません。それは少し考えただけですぐ分かることです。たとえば、私が土をこねて愛情を込めて焼き物の器を作ったとします。その器を敢えて壊すということは器を壊すことではなく、私を壊すことです。器に向けられた敵意は、私に向けられた敵意です。私たちは、誰でも皆、一人一人、神様が深い愛情を持って造ってくださった存在なのです。その人を殺すということが、神様への敵対行為であることは明らかなのです。また、人を殺す者は、その時に既に、自分自身の尊厳をも完全に破壊しているのですし、その点でも大罪を犯していると言わざるを得ません。殺人に限らず、偽証、盗み、姦淫、貪り、神ならぬものを神と拝むこと、そのすべてが、神様が与えてくださった尊厳を破壊することであるが故に神様に敵対する行為、罪なのです。どれほど美しい巧みな言葉で言いくるめたところで、今述べたようなことはすべて、他人と自分自身の尊厳を汚すものであり、貶めるものであり、何よりも私たちすべてをご自身にかたどってお造り下さった神様の愛と信頼を裏切る背信行為であり、敵対行為なのです。そのことをちゃんと認めなければ、話にはなりません。そのことを認めないままに、お互いに、「テロには屈しない断固とした処置をとる」なんてことばかり言っているから、戦争もテロも終わることがなく、むしろエスカレートしていくのではないでしょうか。
 神様は、ご自身への敵対行為を止めない敵に対して、かつて洪水を起こしました。人間を造ったことを「悔いる」とまで仰って、放っておけば自滅する人間を、それでは救いがありませんから、ご自身の手で滅ぼし、新しい世界を造り出し、二度と洪水によって滅ぼさないという契約を立ててもくださったのです。
しかし、人間はその後も、数え切れないほどの罪を犯し続け、今尚犯しています。人間の歴史、それは罪の歴史以外の何物でもなく、一人の人間の人生もまた同じです。
 その現実を神様はどう御覧になり、その現実に対して、何をなさったのか、そして今、何をなさっておられるのか。そして、私たちは何をすべきなのか。それが今日の最後の問題です。
繰り返しますが、罪人であるとは即ち神の敵であるということです。その敵である私たちに向かって神様が何をして下さったのか、何をしてくださっているのか。
 このローマの信徒への手紙を読み進めていくと、六章にこういう言葉があることを、私たちは知っています。少し長くなりますが、一言もゆるがせに出来ないので読ませていただきます。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 神様は敵を呪い、敵に報復しても良い唯一のお方です。そういう権限も資格もあるお方です。私たち罪人は、その権限も資格もないのに、敵を呪い、復讐をします、そして呪いは新たな呪いを生み、報復は更なる報復を生み、エスカレートする一方です。しかし、敵を呪い、復讐することがお出来になる神様は、ご自身の独り子を通して、その憎しみと敵意の連鎖を断ち切ってくださいました。ご自身の愛する独り子、イエス・キリストに、私たちすべての罪を背負わせ、罪に対する断固とした裁きを与えて、私たち罪人に和解の手を差し伸べてくださったのです。
 旧約聖書に「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」という神様の言葉があります。その神様の報復、神様の復讐、それはキリストを私たちに与えるということだったのです。そして、私たちが流すべき血を、罪なき神の独り子であるキリストが流してくださったのです。神様は、そのようにして、罪人に対する裁きを貫徹し、敵に対する和解の道を開いてくださったのです。
 このキリストによって、私たちは神の怒りから救われ、新しくキリストの者、キリスト者、クリスチャンと呼ばれる者として造り替えていただきました。
 「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と言われた人間、それは洪水という徹底的な裁きを経て、罪の悔い改めと自分自身を捧げる礼拝をしているノアとその子供たちでした。私たちは、キリストの死という罪に対する完全な裁きを経て、キリストの復活という新しい命の創造に信仰によって与る者たちなのです。そういう私たちに、神様は今日も新たに祝福を与え、こういうキリスト者が地に増え広がるべく、励ましてくださるのです。
 パウロは、コリントの信徒への手紙の中では、こうも言っています。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古い者は過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」


 神様は敵であった私たちと和解してくださるだけではありません。敵であった私たちを和解のために奉仕する者としてお使いくださるのです。有難いことです。私たちが、このキリストを通して与えられている和解を感謝して受け入れ、新しく生まれ、和解のために奉仕する任務を忠実に果たす時、私たちは多くの人をキリストに結びつけるという、まことに栄えある御業をなすことが出来るのです。そして、敵意と憎しみの連鎖が続く世界の中に、愛と赦しの連鎖を作り出すために、今日も、キリストに祝福されつつ、キリストと共にこの礼拝堂を後にしたいと思います。
 先週の礼拝は、徳善先生に来ていただいて、豊かに御言葉の取次ぎをして頂けて感謝なことでした。そして、さらに感謝すべきことは、礼拝の終わりに、四世記の祝福の祈りを頂いたことでした。その言葉をコピーしてホールに置いておきました。どうぞご自由にお持ち帰りください。
 最後にその祝福の祈りを読んで終わります。

「主があなたの前におられ、
あなたに正しい道を示してくださるように。
主があなたの傍らにおられ、
あなたを胸に抱き、守ってくださるように。
主があなたの後ろにおられ、
あなたを悪人のたくらみから守ってくださるように。
主があなたの下におられ、
あなたが倒れるとき助け、わなから救ってくださるように。
主があなたの中におられ、
あなたが悲しむとき、慰めてくださるように。
主があなたを囲み、
他の人々があなたを襲うとき、防いでくださるように。
主があなたの上におられ、
あなたに恵みを与えて下さるように。
慈しみの神がこのように、
あなたを祝福してくださるように。」
アーメン。
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