「祝福の後に・・・」

及川 信

創世記 9章18節〜29節

 

「箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」ノアは、洪水の後三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ。



 今日の聖日は、日本基督教団の教会暦の中では「平和聖日」とされております。私たちの教会も、去年から八月のこの週の水曜日の朝と晩に平和祈祷会というものを持つようになりました。 戦後六〇年経った今、ついに自衛隊は海外の危険な地域に派遣されるところまで来ましたし、非武装、戦争放棄を明言した平和憲法の見直し論議も盛んに為されています。しかし、この六〇年間、戦争責任に関する様々なことを曖昧にしつつひたすら経済成長に邁進してきた結果、日本という国は、一体どういう国になったのでしょうか?「衣食足って礼節を知る」という言葉がありますが、日本はどういう国になったのでしょうか?確かに衣食は足りました。しかし、「礼節」という言葉は、死語になりつつあるのではないでしょうか。今は確かに自由で豊かな時代です。しかし、今、その自由をどう使ってよいか分からず、豊かさの中に礼節を失い、理想を失い、目標を失っており、社会は連帯感を失い、家庭もどんどん崩壊し始めています。
その現実に直面して、かつての封建的な愛国主義を復興させようとする動きが、今、大きなうねりになりつつあります。日の丸掲揚、君が代斉唱の義務付けに象徴されるように、天皇を頂点とする「忠君愛国」を旗印にする人々が権力を握り、「目上の人を敬え。お上の言うことには従え。そういう礼節を重んじることが日本国民のあるべき姿だ」と主張し、その主張を上から押し付けてくる傾向が強まっています。たしかに、現代の礼節なき自由と豊かさが平和の姿だとは思えませんが、国家の奴隷として一糸乱れぬ隊列を組んで歩く姿が平和だとも到底思えません。自由と豊かさと礼節、愛、あるいは平和。そういうものは両立しないのか?八月は、誰でもそう言ったことを考えさせられる季節だと思います。
今日与えられている箇所は、洪水物語のエピローグのような所ですが、同時に、創世記一章の天地創造物語以来の一大テーマである「祝福と呪い」と深く関係しています。また、五章に出ていたアダム以来ノアに至る十代の系図がここで漸く完結し、次の民族分布表(ノアの子孫の系図)に向かうという点でも非常に重要な箇所なのです。しかし、お読みになってお分かりのように、辻褄が合わない所もあるし、全体として何を言っているのかよく分からない。大体、そういう感想をお持ちなのではないでしょうか。たしかに難しい所なのですが、ご一緒に耳を澄ませていきたいと思います。
創世記冒頭の一章から一一章までは、よく「原初物語」と言われます。一二章以降は、アブラハムに始まるイスラエルの先祖たちの物語であり、「族長物語」と呼ばれます。しかし、一一章までは、天地創造物語から始まる「人間の物語」だと言ってよいでしょう。最初の人間、アダムとエバは何人(民族、国籍、人種は関係ない)でもない「人」です。アダムは、だから「原人」と呼ばれたりもします。しかし、その「人」の物語は、今日辺りから「人類」に変化し始めています。「この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである」とあり、十章の終わりには、「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た」とあります。つまり、原初の物語が次第に世界史に繋がっていくのです。世界史の中を実際に生きた、あるいは今も生きている民族や氏族の出発が今日の箇所から一〇章にかけて記されているのです。そして、その民族の系図がアブラハム物語に繋がり、出エジプト記からイスラエル民族の話になっていきます。そういう民族の話と原初物語である洪水の話が繋がることで、文章的にはちょっと難しい問題が生じてしまうのです。
しかし、少し異なる視点から見ると、アダムとエバの物語は人間の物語でありつつ、それは同時に男女の物語、あるいは夫婦の物語でした。その次のカインとアベルでは兄弟の物語です。その流れで言うと、今日の箇所は親子の物語です。夫婦、兄弟、親子ですから、すべて家族の物語と言っても良い。家族の愛とその破綻、また赦しと和解の希望の物語を、私たちは読んでいると言ってもよいでしょう。
また、先程言いましたように、今日の箇所は、洪水物語のエピローグです。プロローグは、「神の子らが人の娘たちのところに入って産ませたネフィリム」の話で、あれも何だかよく分からない話でした。プロローグもエピローグも、元々は洪水物語とは関係のない話がここに持ってこられたのではないかと考える学者たちがいますし、私も同感します。プロローグの方には、権力者の腐敗と堕落の現実、豊かな王国時代の現実が暗示的に示されているのだと思います。それに対して、エピローグは、王国時代かどうかは分かりませんが、イスラエルがカナンの地に定着し、農民となって、豊かな生活を始めた時代の現実が背景にあるのではないかと思うのです。
洪水物語そのものが異なる時代に書かれた少なくとも二つの物語が編集されて出来上がっていると思いますけれど、その前後に置かれた話もまたそれぞれ独自の意図をもって出来上がっていた短い話がここに繋がれている。そして、そのことによって新たな意味が生じているのではないかと思うのです。しかし、そういう編集には無理が伴いますから、所々辻褄が合わない部分が生じるのは当然でしょう。しかし、無理を承知で編集された物語全体からメッセージを聴き取らなければ読んでいる意味はありません。

「箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。」

 箱舟から出たノアの息子は三人で、この三人の子孫が世界中に広がり、世界各地の民族や氏族を形成していくのです。彼らは洪水を生き延びた人々であり、既に「産めよ、増えよ」という祝福を、命に関する契約(血の契約)と共に神様から与えられている人々です。世界は、神様によって与えられた祝福と契約によって新しい出発をしました。それが今日の箇所の前提です。そして、当時知られている世界中の人々は、箱舟を出た途端に犠牲をささげて主に礼拝を捧げたノアから出たのです。
 さて、しかしです。その後、何が起こったのか。

「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」

 「ノアは農夫となり、ブドウ畑を作った」とあります。ご承知のように、イスラエルは元々農民ではありません。アブラハムは半遊牧民で羊や山羊などの小動物を飼って移動することがその基本的な生活形態でした。また出エジプト、荒野放浪時代も言うまでもないことですけれど、イスラエルの人々はいつでも折りたたんで移動できる天幕に住んでいたのです。農民というのは定着民ということで、そこに「家」を建てて畑を耕し、種をまき、時が来れば収穫する人々です。しかし、ここでは「農夫」であるノアが「天幕」に住んでいるかのように見えます。もし、そういうことを言っているとすると、それは何故なのか?という問題が一つあります。
 また葡萄畑から収穫できる葡萄酒を飲むということは、イスラエルの民にとっては神様の祝福によって与えられる豊かさの一つの象徴であったし、飲酒そのものが禁じられているわけではありません。また、葡萄酒は神様への献げ物としても用いられましたから、汚れたものであるわけもありません。しかし、酒に酔いつぶれることが、推奨されるということはあり得ないことですし、まして、酔った上に裸になり寝てしまうということは、やはり恥ずべきことであることも確かです。私たちはこれまで、黙々と神様の命令に従い、また礼拝を捧げるノアの姿を見てきましたから、ここにおける落差はあまりに大きいと言わざるを得ないと思います。皆さんも、百年の恋もいっぺんに冷めるというか、尊敬が一瞬にして幻滅に変るというような思いを持たれるのではないでしょうか。しかし、聖書においては、最初から最後まで完璧な義人は出てきません。必ず何か大きな過失なり、失態があるのです。ノアもまたその例外ではないのです。しかし、この天幕の中の飲酒と裸とは、一体何を意味しているのか?この問題は尚残ります。
 次に問題になるのは、その場に最初からいたのか、この時にたまたま天幕の中を見たのかよく分かりませんけれども、ノアの息子の一人であるハムが、「自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」というのです。これは一体どういうことなのか?父親に呪われるほど恐るべき悪事なのか?恥ずべきは父の方ではないのか?こういったことも問題になります。また、父の裸を見たのは、実際誰なのか、ということも実は問題になります。
 ここにもわざわざ「カナンの父ハムは」とありますけれど、その先を見ると、こう記されています。

「ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。『カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。』」

 ここで「末の息子」はハムではなく、ハムの息子であるカナンです。また、考えてみると、一八節では「セム、ハム、ヤフェト」という順番で出てきます。普通に考えれば、それは長男次男三男ですから「末の息子」はヤフェトであってもおかしくないのです。しかし、ここでは何故かハムがノアの末の息子になっている。あるいは一〇章六節にはハムの「末の子」としてカナンが生まれたように見えますけれど、九章二四節二五節では、カナンがノアの末の子となっているのです。これは、何故か。こういう疑問が次から次へと湧いてくるのです。
 すべての疑問を今日ここで取り上げて解決することは出来ません。しかし、これらの疑問を考えるに際しては、どうしても原初物語の成り立ちを考えなければなりません。
先程言いましたように、この部分はイスラエルが農民として定着し始めた時代、つまり「カナンの地」と呼ばれた土地に定着した時代に書かれたと考えられます。それは経済的には貧しい生活から豊かな生活への移行を意味したでしょうし、異なる民族と宗教との出会いと折衝の時代であることを意味します。砂漠で出会った唯一の神、主を礼拝しつつ移動生活をしていたイスラエルにとって、一箇所に定着して、そこに住む人々との折衝の中で農民としての生活を始めるということは、一大変化であることは言うまでもありません。
 日本も戦後、空前絶後といってよいキリスト教ブームがありました。戦勝国アメリカの宗教に多くの人が心引かれたのです。その後、キリスト教ブームはすぐに去りましたが、日本人はアメリカの物質文明、大量消費社会の豊かさに心奪われ、そのブームは今も変ることなく続いていると言ってよいでしょう。
イスラエルが「約束の地カナン」に定着した過程は、実際には戦争に勝利して土地を奪い、そこに住んでいたカナン人をすべて追い払ったということではなく、むしろ徐々に定着しつつ、カナン人から農法を教わり、様々な文化的宗教的な影響を受けていったということのようです。日本の明治政府は「和魂洋才」と言って、西洋文化の中枢であるキリスト教を排除して技術や制度だけを導入しようとしましたが、それは遠い島国だからある程度出来たことなのであって、イスラエルのように、自分たちの方がカナンの地に入って行った場合、そんな悠長なことは言っていられないことは当たり前のことです。農業は自然と密着したものであり、自然は宗教と密着しています。日本の四季折々の祭りも、すべて農閑期、農繁期や種蒔きや刈り入れの時期などと重なって五穀豊穣を願い、また祝う祭りです。そういう祭りの暦の中で人々は生活しているのです。遊牧民だったイスラエルがカナンの地に定着して農民になれば、「郷に入れば郷に習え」となるのはある意味当然のことでしょう。
 そこで問題は、カナン人の宗教とか習俗文化はどういうものかということです。
出エジプト記の中に、主なる神様がカナン人に関して、モーセに向かってこう言っている所があります。

「あなたは彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない。そのならわしを行ってはならない。(中略)あなたたちは、あなたたちの神、主に仕えねばならない。主はあなたのパンと水を祝福するであろう。」

また、レビ記の中でも、主はモーセにこう仰っています。

「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちがかつて住んでいたエジプト(創世記では、エジプトもハムの息子です)の国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。」

 こう仰った後に、カナン人の風習が羅列されているのですが、それはここで読むのが憚られるような様々な近親相姦、あるいは姦淫の現実なのです。そして、さらに「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」とあり、続いて主はこう言われます。

「あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。(中略)これまで(カナンの地で)行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」

  「裸」とは「性」、あるいは「性的な行為」を象徴する場合があります。天幕の中でのノアの裸をハム、あるいはその息子であるカナンが「見る」とは、何らかの意味での性的行為がここで為されたことを暗示しているのかもしれないのです。
一〇章の一五節以下を見ますと、カナン人の領土の中にソドムとゴモラという町があります。その町は男の旅人を町の人間が集団で襲って犯すことが慣わしになっているという町なのです。だから、神様はその町を滅ぼされるのですが、アブラハムの甥のロトとその娘たちがアブラハムのお陰で間一髪逃れることが出来ました。しかし、彼は町に住むことを恐れて山の洞穴の中に住むことにしました。その時、カナン人の町、ソドム生まれの二人の娘は、父親に酒を飲ませて酔いつぶし、その間に父と性的関係を結んで子を作るという話も出てきます。
 「カナンの地」とは、神様がアブラハムの子孫に与えると約束された土地であり、砂漠に比べればまさに「乳と蜜の流れる地」、実り豊かな地です。しかし、その地にイスラエルが定着することは、大きな祝福でありつつ同時に大きな誘惑なのです。豊かさに溺れて、次第次第に堕落し、唯一の神主の民イスラエルが、カナンの神々になびき、その習慣に馴染んでいく。そういう危険性があったのですし、実際、それは危険性に留まらず、現実となっていきました。そういう現実の中で、この箇所が書かれたとするなら、そこにあるメッセージは明瞭でしょう。出エジプト記やレビ記に記されているように、「カナンの人々の習俗に倣ってはならない。それに倣う者は呪われる。聖なる民イスラエルの中から断ち切られる、というものです。イスラエルはあくまでもセムの神、主をこそ礼拝せよ。そして、その地における祝福の担い手となれ。神の祝福をその地にもたらすものとなれ。」そういうメッセージがそこにはあったでしょう。
そして、その話が洪水物語のエピローグの位置に置かれる時、完全な人間はいないという事実を告げるに留まらず、新しい時代、豊かな時代の中に潜む危険性を告げ知らせ、その時代の中で、また世界の中で、神の民イスラエルの、それに留まらず全人類の生きるべき姿勢を告げ知らせているのではないでしょうか。  ノアは、こう言います。

「セムの神、主をたたえよ。」

 「カナンは呪われよ」に対する言葉であれば、「セムはたたえられよ」であるはずです。「たたえる」は原語ではバーラクで、これまでは専ら「祝福する」と訳されてきた言葉です。つまり、「呪い」の反対の言葉です。「カナンは呪われよ」。しかし、「セムの神は祝福されよ」と訳してもおかしくはありません。
 今日の箇所の大きな特質は、ここで民族が登場し民族の神が登場していることです。後に登場するアブラハムはセムの子孫でイスラエルの民の先祖となり、そのイスラエルの神の名は主(ヤハウェ)です。この民族の神が、この原初物語の中に出てくることで、天地創造の神と同じであることが明らかにされるのです。アブラハムは自分やその子孫であるイスラエル(後にユダヤ人と呼ばれることになる)の神を信じて、その信仰の故に彼だけが祝福されるのではなく、彼を召しだし、彼が信じている神は天地の造り主なる唯一の神であり、その神を信じる信仰によって「地上の氏族がすべて祝福に入る」のです。「アブラハムの神であり、イスラエル民族の神である主は、単なる民族神ではないし、数多ある神々の一人でもない。天地の造り主なる唯一の神である。だからこそ、すべての民はセムの神、主をたたえよ。その時にその民は、その人は、主の祝福の中を生きることが出来るのだ。」そういう主張がここにはあります。
 さて、そこでもう一度、本文の中に戻っていきますけれど、先程、「農夫」と「天幕」の組み合わせは通常あり得ないと言いました。しかし、そのあり得ない組み合わせを敢えてここに書き記しているのかもしれません。
旧約聖書で「天幕」というと、それは先程言いましたように、住居である場合と同時に、神様との「会見の幕屋」をさす場合も多いのです。つまり礼拝所です。その幕屋には十戒が刻まれた板を納める契約の箱が安置され、その箱の上に主は臨在するのです。その主を礼拝する聖所としての天幕が暗示されているのだとすれば、そこにおける飲酒や裸を見せることは律法によって厳禁されています。いずれも、破れば死を招く罪として規定されています。(レビ記一〇章九節〜一一節、出エジプト記二八章四一節〜四三節) もし、ここに出てくる天幕が礼拝所を暗示しているとすれば、ノアは聖所における飲酒と裸という二重の罪を犯したことになり、その末の息子は、その罪に加担したか、あるいはそれを忌避すべきものとせず、ある意味、面白半分に他の兄弟(つまり他の民族)に吹聴し、彼らをも誘うという罪を犯したことになります。いずれも豊かにして自由な風土の中で人間が陥りやすい罠に落ちたのです。
しかし、他の兄弟たちは、異常とも思えるほどの慎重さで、父の裸を見ないようにします。目をそむけて近づくことでも裸を見ないで済むとは思うのですが、姿勢そのものも後ろ向きになり、聖所における飲酒と裸という死を招く罪、まさに自らに呪いを招く罪に対して、徹底的な拒否の態度を取りつつ、父の裸を覆う思いやりを見せました。
ノアは酔いが覚めたその時に、自分の犯した罪の重大さに気づき、また末の息子がしたことを知りました。そして、「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言い、最後にまた「カナンは奴隷となれ」と叫んだのです。ノアの肉声は、ここにしか出てこないのですが、その内容がこれであること。それは何とも重たい事実です。
しかし、ノアのこの叫び、それは自分の罪を棚に上げた言葉としか聞くことが出来ないのかと言うと、私はそんなことはないと思います。彼は、「末の息子がしたことを」知りました。しかし、それは同時に、自分のしてしまった重大な罪を知ったということ以外の何物でもありません。その彼が「セムの神、主をたたえよ」と叫んだことは、自らのすべきことをここで確認したということでもあります。彼は箱舟から出たその時に、「主のために祭壇を築いて」「焼き尽くす献げ物を祭壇の上にささげた」人間です。そのことの故に、主は、もう二度と洪水を起こさないと心に決め、さらに彼とその子供たちに、つまりこれからの人類の先祖たちに祝福を与えてくださったのです。その彼が、豊かさの中で主に対する礼節を失い、その子の一人もまた同様の罪を犯してしまいました。しかし、彼はそのことを知った時、憤然として主に立ち帰り、自分の本分に立ち返ったのです。そして、罪を犯した息子(ハム族)にもそのことを求めたのです。
カナンはカインのように追放されたわけではありません。「セムの奴隷となれ」と言われるのです。イスラエルの奴隷は、イスラエルの民と共に安息日に与る奴隷です。神様の天地創造を覚え、出エジプトの救済の御業を覚えて、仕事を休むのです。それがイスラエルの奴隷です。それは、いつか「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という現実に至る通過点だと思います。
また、ヤフェトについては、神様が「セムの天幕に住まわせる」とあります。これは先程言いましたように、生活を共にするという意味と同時にセムの神、主を礼拝することにおいて共に生きるという意味を暗示しているのではないでしょうか。
つまり、ここには一つの家族の中の大きな罪が描かれていますが、同時に、その罪の認識と悔い改め、そして赦しと和解の希望が語られているのです。家族のすべてが一つの天幕の中で、唯一の神を礼拝する。全人類が共に安息日を覚え、聖として守る。そして、主の創造の御業、救いの御業を讃美する。そういう日が来る。そういう終末的な希望がここに語られているのではないか?そう思います。
セムの子孫であるアブラハムは、カナン人を含む全世界の氏族に祝福をもたらすために選ばれたのですし、肉においてはアブラハムの子である主イエス・キリストは、マタイによる福音書の言葉で言えば、「自分の民を罪から救う」お方として女の体を通してお生まれになったのですし、それはガラテヤの信徒への手紙に記された言葉によれば、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出す」ために、十字架に架かって死んで下さったのです。パウロは、そこでこう言っています。

「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

 すべての人類の罪に対する呪いを越える祝福をもたらして下さるのは、神の独り子主イエス・キリストだけです。この方こそ、セムの神主の独り子であり、祝福の源であり、私たちが讃えるべき方であり、この方を信じる信仰によってのみ、私たちは罪の赦しと新しい命という祝福を受けることが出来るのです。そして、そこにのみ真の平和があるのです。キリストにおける神様との平和があるからです。私たちは私たちのために「呪い」となって死に、復活してくださった主イエス・キリストを讃え、キリストを与えてくださったセムの神、主を讃えて、真の祝福を担い、一人でも多くの人々と分かち合うために世に派遣されたいと願います。
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