「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに息子が生まれた。
ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、・・・・・ 海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンであった。クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。・・・・カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。
セムにもまた子供が生まれた。・・・セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラムであった。・・・・ アルパクシャドにはシェラが生まれ、シェラにはエベルが生まれた。・・・これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。
ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」
今、司式者が苦労して全部読んで下さいましたが、創世記一〇章などは私たちが聖書を自分の信仰の糧として読むときなどは、ただ目で追うだけで、いわば素通りしてしまう所だと思います。つまり、現代に生きる日本人である自分とは何の関係もない話と思ってしまうのです。関係のないことには無関心になるのは、当然のことです。しかし、この箇所は次週の一一章のバベルの塔の物語と相俟って実に深い意味を持っていますし、現代の世界とその中で信仰を持って生きる私たちと深い関わりを持っており、素通りなどしたら勿体ないところなのです。
しかし、そんなことはちょっと読んだだけでは到底分かりません。愛と忍耐をもって繰り返し読み続けないと、実は疑問すら浮かばないものです。それは実は、聖書のどの箇所においても同じなのですが、今日の箇所の難しさは、もちろん、私たちがこちら方面の歴史や地理に全く疎いということがその理由の一つであるに違いありませんけれど、今日の箇所だけでも、様々な理由によって矛盾や形態的不一致などがあることにもよると思います。
最初にそのことをいくつか挙げておきますが、たとえば、ここに「系図」として挙がっている人の名前は、すべて個人名かと言うと、一三節以降はリディア人、アナミム人とか出てきますし、一五節以降のカナンの息子たちも途中からエブス人、アモリ人となっていく。目に見える形で「〜人」となっていない場合でも、それは民族の名であったり、町の名であったり、国の名であったりもするようで、五章のアダムからノアまでの十代の系図と比べれば、全く統一が取れていません。そういう意味で、一〇章全体は所謂「系図」ではありません。
また、記述全体のバランスも取れていません。ヤフェトの子孫は二節から五節までで終わりですけれど、ハムの子孫については、非常に長く書かれています。そして、その中に、ニムロドという人物の物語があり、十一章の「バベルの塔の物語」を先取りして「バベル」という町の名が出てきたりします。
また、ハムの子孫の中でカナンの子孫にも特別なスペースが割かれ、彼らが住んだ地域が詳細に書かれています。その中に、ソドム・ゴモラという町が出てきます。それは、九章に出てくるノアの叫び「カナンは呪われよ」と関係し、一九章に出てくるソドムとゴモラ滅亡という呪い(裁き)の出来事を暗示しているでしょう。
そして、これまでは「ヤフェトの子孫は〜〜」「ハムの子孫は〜〜」とあったのに、次のセムに限っては、「セムにもまた子供が生まれた」という書き方になっています。明らかにセムは他の二人とは違う扱いになっています。そして、この「子供が生まれた」という言い方は、創世記に繰り返し出てきた言葉であり、特に「系図」の中に繰り返される言葉であることは言うまでもありません。そういうことの中に、セムの選びが暗示されているのだと思います。その先を読むと、セムの子孫の一人であるアルパクシャドが系統として残り、彼の二人の孫のうちの一人であるペレグの家系が十一章後半の系図に引き継がれ、その系図の果てにイスラエルの先祖であるアブラハムが登場することになっています。ですから、この系図は、実は呪われた世界を祝福に変えるアブラハムの選びに至る系図なのです。ですから、一番最後に出てくるセムとその子孫が、イスラエルにとって最も近い関係にあるわけです。
そういう観点から言うと、最初に出てくるヤフェトの子孫はイスラエルから遠いということになります。(しかし面白いことに、エゼキエル書を見ますと、そこに記されているゴメルとかマゴグという町の人々が、世の終わりの最終戦争の時にイスラエルに攻め上ってくるという形で登場します。つまり、空間的には最も遠い存在が世の終わりには最初にやって来るのです。)しかし、ゴメルとかマゴグがどこの地域にあるのか、現在のトルコ、ギリシャ、ロシアなどに囲まれる黒海沿岸地域だと思われるのですが、正確には分からないようです。黒海沿岸だとすれば、それがどこであれイスラエルの地からははるかに遠い地域です。
今日は資料として地図を皆さんにお渡ししました。(何人かの方に手分けして色を塗っていただいたので、人によって海の色も陸地の色も違うと思いますけれど)それは十章で三度繰り返される「言語、氏族、民族、(地域)」に従った区分です。その地図にも記されていない町や地域の名前が一〇章にはいくつか出てきますし、一〇章の記述と地図が合わないところもいくつかあります。その理由の一つは、ヤフェト、ハム、セムの区別は言語、氏族、民族、地域に従った区分だけではなく、この部分を書いた時代のイスラエルにとっての政治的関係、その近さや遠さ、敵対しているか味方であるかという観点が入っているのだという学者もいます。しかし、むしろ社会経済的区分によって分類がなされているという学者もいます。つまり、ヤフェトの子孫は五節で「海沿いの国々」とも言われますように基本的に海洋民族であり、ハムの子孫はニムロドが代表の一人ですが、彼は「非常に大きな町」を建てる定住民族であり、ソドムやゴモラは死海周辺の豊かな町ですから、そこに住む人々も都市生活者です。それに対して、セムの方は高原で羊や山羊を飼いつつ移動する民族ではないか。これまた、実に興味深いことですが、一つの観点からすべてを明快に説明することは出来ないようです。
しかし、この一〇章全体の大枠ははっきりしていて、一節と三二節に「系図」という言葉と「洪水の後」という言葉がありますから、洪水の後の系図をここに書きたかったということは明らかです。しかし、この場合の「系図」とは、先程から言っていますように、たとえば五章のような家系図ではなく、全世界を一つの家族と見立てる系図なのです。つまり、洪水の後の世界はノアの息子たちの子孫たちが各地に広がった世界なのだと言っているのです。それは裏を返せば、世界の民族は皆、一人の人ノアを父祖とする兄弟だということです。ノアは十代遡ればアダムに至ります。そして、アダムは神に似せて造られた人間であり、神様に祝福された人間です。神様に「産めよ、増えよ」と言われた人間です。そして、「地を従わせよ、生き物を治めよ」と命じられた人間です。
しかし、アダムは罪に落ち、その子孫はさらに罪に落ちていきました。神に背き、呪いとしての死を自ら招いたのです。その結果が洪水なのです。しかし、その「洪水の後」、つまり神様による徹底的な裁きの後、神様は新たにノアとその子孫を「祝福」し、「人は神にかたどって造られた」ことを確認し、「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する」(つまり、殺すな)と明言した上で、もう一度「産めよ、地に増えよ、地に群がり、地に増えよ」と祝福し、「二度と洪水によって滅ぼすことをしない」と「契約」を立ててくださいました。その神様の祝福と戒めを含む契約の下で、ノアの子供たちは子孫を産み、その子孫が、当時知られている全世界に広がったのです。三二節にありますように、三人の息子からすべての諸民族は「分れ出た」のです(五節の「彼らから出た」も原語では「分れ出た」で同じ)。これは言ってみれば家族の離散ですけれど、その離散が分裂ではない場合、むしろ豊かなことでもあります。
皆さんの中にも、親や子供が国内の遠くに住んでいる、あるいは外国に住んでいるという方も何人もおられるのですが、生活の場が遠くても心が通じ合っていれば寂しくも何ともなく、時たま会いに行ったり来たりすることは心からの楽しみだと思います。その逆に、空間的にはすぐ近くにいる、一つ屋根の下に暮らしていても、互いに心が通じ合わない場合、その家族は分裂しているわけですから、一つ屋根の下にいるだけにむしろ寂しいということもあるでしょう。
来週の創世記一一章は、今日の箇所に密接に続く箇所ですが、その説教題を「集合と離散、祝福と呪い」としました。目に見える意味で一箇所に集っていることが、いつも祝福に満ちた状態であると結論付けることが出来ないように、目に見える形では各地に離散していることが、即分裂を意味し、呪いを意味すると結論付けるわけにも行きません。
一〇章で語られていること、それは繰り返しますけれど、「全世界に散らばっている民族は、洪水後のノアに由来している」ということです。距離的にお互いにどれ程遠くにいよと、また現状としては政治的に敵対していようと味方であろうと、生活形態、経済状況がどう違おうと、すべての民族、すべての人間はノアの子孫であり、愛し合うべき兄弟であるということです。そして、すべての人間は神にかたどられた尊厳ある人間であるのだから、互いに血を流してはならないということです。世界は、そういう人間の集合体であり、その根本に神様の祝福があるということです。天地の造り主なる神様、ご自身にかたどって人間を造り、生かし、教え導いて下さる神様、この神様を自分たちの神と信じ、崇め、仰ぎつつ歩む時、世界の諸民族は広大な地域に離散し、様々な生活形態を持ちながら、しかし、一つの民として生きることが出来る。互いに愛し合う家族として生きることが出来る。一〇章全体は、そういうメッセージを私たちに伝えていると思います。
今年は戦後六〇周年ということもあり、新聞、テレビ、雑誌などでも戦争に関して、また靖国神社に関して様々な報道が為されています。先の戦争においては、日本は近隣アジア諸国に対してあからさまな侵略と支配をし、略奪をしました。しかしそれは、既にアジア諸国に対して露骨な侵略をし搾取を繰り返していた西洋列強を追い出し、「五族協和の大東亜共栄圏を構築するため」という崇高な目的が国民向けには語られていましたし、それは一面の真理でしょう。西洋列強は富と武力を持ってどこまでも侵略し、搾取を繰り返していたことは事実であり、何の行動も起こさなければ、日本も分割されて植民地となっていたでしょう。「だから、あの戦争は解放戦争であり、また正当な自己防衛の戦争であり、侵略戦争ではない。決して悪いものではないのだ」という主張があります。そして、「あの戦争のお陰で今の繁栄と平和があるのだ」というわけの分からない理屈まで語られます。
また広島・長崎の原爆の事実だけを見れば、日本は被害者の立場であることは明白だと思います。しかし、原爆を投下した側の言い分は、「あれで戦争終結が早まった」とか、「日本本土における陸上戦において出たであろう犠牲者よりははるかに少ない犠牲者で済んだ」とか、「宣戦布告前の真珠湾の奇襲攻撃よりもはるかにましだ」とか、色々とあります。
とにかく、一方で加害者の日本は、他方で被害者です。しかし、日本人は全体として加害意識は薄く、被害意識も妙に薄いように思います。戦後の占領政策上、ソ連よりも優位に立つことを一つの目的として、多くの市民が住む二つの都市の上に、実験もかねて核兵器を投下したアメリカの核の傘の下で、日本は戦後の経済的繁栄を築いてきたことは一つの事実でしょう。その事実の故に、この国の代表者がアメリカ政府に対して「あの恐るべき兵器である核兵器を捨てなさい。捨てない限り友好的関係を持つことは出来ません」と言ったためしはありません。そして、私たち国民も核廃絶よりも経済的繁栄を選び取ってきたことも事実だと思います。(最近明らかになった外交機密文書に寄れば、日本側が核武装を口に出したことがあったということですから、なんともはやです。)とにかく、加害者として為すべき謝罪も、被害者として為すべき抗議も曖昧なままに時間だけは徒に過ぎて行き、今この国では、平和憲法を変更しようという気運が高まりつつあります。
また、八月十五日は韓国、北朝鮮、中国の人々にしてみれば日本の支配や侵略からの解放記念日ですから盛大な祝いが為されました。国内では、今年は特に多くの若者が靖国神社に参拝したと報道されています。日本の被害者である近隣アジア諸国で反日気運が高まれば、国内では徒な愛国気運が高まるのです。すべての底流に、民族や国家間の根深い対立がありますし、劣等感とその裏返しの優越感が垣間見えます。その根深い対立の根源を放置したままに、今後政治・経済・文化の面で、どれほど交流が進んだとしても、結局、その関係は一触即発の関係であることに変りはないと思います。
そして、それは日本人同士の間でも同じです。今は二大政党化時代に向かっていると言われますが、お互いに権力闘争をしつつ、実は同じ党の中でも厳しい敵対をしています。政治の世界だけでなく、一つの家族や、友人の間においても、その関係は冷戦状態であったり、表面的な交流のみであったりして、何かことが起これば、一気に血で血を洗う骨肉の争いが生じることはいちいち例を挙げる必要もないことでしょう。国家間や民族間で起こることは、国の内部でも家庭内や友人同士の間でも起こります。人間がいれば、同じことが起こります。
それはいわゆる歴史認識の違いということだけが原因なのではありません。歴史をどう認識するか、事実をどう捉えるか、これは本当に大切な問題です。国同士、また一人一人の人間同士が一つの事実を双方の立場から検証し、それは一体なんであったかについて、双方で共通の認識を持つことが大切です。しかし、もっと根源になければならないのは、人間の罪の認識でしょう。私たちは根深い罪によって支配され、そのことの故に赦し合い、愛し合うことが出来ない惨めな存在なのだということところまで認識が深まっていかなければ、本質的な解決はないと、私は思います。
話を創世記に戻します。神様の祝福に満ちているはずの創世記一〇章の中に、ハムの子孫に関して特別な記述があります。その内の一つは、王国を建てたニムロドであり、彼の王国の主要な町としてのバベルです。このバベルが十一章の物語を暗示していることは既に言った通りです。そこで語られることは、世界中の権力を一つの国、さらに一人の人に集中させて世界を一つにしようとする企てです。それは、ものの見事に瓦解する。神様によって互いの言葉が通じなくさせられ、瓦解するのです。そして、各民族は離散し、根深いところで分裂していくのです。
さらに、カナンの子孫であるカナン人が住むソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイム。ソドムとゴモラは、その性的な乱れによって神様に滅ぼされる町ですし、アドマやツェボイムもまた申命記ではソドムに並んで滅亡させられる町として登場します。その性的な乱れは、私たちが通常考える意味で、つまり一般的な道徳の問題として「乱れ」と言っているのではなく、神様が定めた律法に対する反逆という意味で「乱れ」ているのです。
政治的権力による世界統一の企ても、性的な乱れも、人間の自由を拡大することと関係します。何でも思いのままにしたい。そういう欲望の発露として起こることなのです。そして、その欲望の底流にあることは、己を神の位につける、「神のように」自由に振舞いたい、誰からも行動の制限をされたくないという思いなのです。エデンの園で蛇がエバを唆した内容も、これです。「祝福」の結果としての人口の増大と各地への離散を表わすこの「系図」の中に、人間の深刻な罪とその罪に対して与えられる「呪い」、裁きの暗示があるのです。
世界中の各民族はノアから出、さらにそれはアダムに遡り、ついに神ご自身の創造に遡る。そこには祝福がある、しかし、呪いをもたらす罪が既に隠れている。その罪の問題、それが旧新約聖書を貫く問題であることは言うまでもないことです。
この問題を考えるに当たって、私の心に浮かんできたのは、新約聖書のルカによる福音書に出てくる系図です。三章の終わりに、それは出ています。その直前にあることは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていたバプテスマのヨハネから、主イエスが洗礼を受けるという出来事です。それはまさに、すべての罪人の罪が赦されるために、罪なき神の独り子が罪人の罪をその身に負われたという出来事です。その主イエスに向かって、神様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかける。それは、主イエスをすべての罪人の罪を赦し、すべての人間に祝福をもたらす王、新しく神の子としての命を与える王として任命されたということです。
その後に、主イエスの系図が書かれています。全部読むわけにはいきませんが、その書き出しはこういうものです。
「イエスが宣教を始められたときおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡るとマタト、レビ、メルキ・・・」とあり、延々七十人以上の人の名が記されています。その中に、今日も出てくる「アルパクシャド、セム、ノア」の名が出てきます。そして、最後は、創世記四章から一章まで遡ります。「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」
聖書における「系図」、それは家系図だけではなく、民族表である場合があり、さらに出来事、歴史を現す場合があります。歴史的な意味で事実かどうかはここでは問題ではないのです。系図が、神学的に何を語っているかが問題なのです。
そこで問題は、私たちは自分のアイデンティティーをどこに持つのかということです。アイデンティティーというのは、他の言い方をすると、何に帰属意識を持っているか、ということです。たとえば、幼い子供は、「君は誰?」と訊ねると、口では名前を言うかもしれませんが、その心は、「自分はお父さんとお母さんの子供」と思っているものです。自分はお父さんとお母さんに帰属している。そこにしか自分の居場所はないということです。だから何らかの理由で、両親から引き離された子供は、自分の存在の置き場所がなくなって非常な不安に襲われるのです。人は、大きくなるに従って、その帰属意識は次第に別のものに変っていくでしょうが、しばしば国家はその国民に対して、「国家こそ個人の命よりも優位な価値を持ち、個人は国家に帰属した時に最高に価値ある人生を送れるのだ」と教えます。今問題になっている新しい歴史教科書なども、そういう思想から書かれたものです。まだごく僅かですが、自治体の中ではその教科書を採用するところも増えてきているのです。恐ろしいことです。その思想の行き着く所は、国民による戦争讃美であり、靖国神社参拝であり、英霊として祀られることでしょう。教えられるままに為政者の言ったままに信じてしまう子供や善良な市民のアイデンティティーは、「神国日本の国民」、あるいは「天皇の臣民」ということになってしまうのです。お国のために天皇陛下のために敵を殺すことは名誉なこと、そして不運にも殺されて死に、靖国に祀られることは光栄なことだと思い込んでしまう。これは日本型ですけれど、旧約聖書の時代から世界各地で様々な型の国家主義、民族主義が台頭し、人々を戦争に、つまり、兄弟殺しに駆り立て続けているのです。その事実は変ることなく、その事実の中に変ることなき罪の問題が存在するのです。
そういう罪が支配しているかのような世界の中で、そしてそういう世界に向けて、聖書が語りかけていること。それは、人はすべて神の被造物だということです。すべての人が神に愛されている子供なのだということです。すべての人間はノアに遡り、アダムに遡り、ついに神に至るのです。しかし、罪によって神に反逆してしまう人間は、人間同士も互いに分裂し敵対し、ついに殺し合い、それを正義だと言って平然としている。そういう絶望的な罪に陥ってしまった私たちを救うために、神はセムを選び、その中からアブラハムを選び、ついにアブラハムの子として、ご自身の子であるイエス・キリストを地上に人として誕生させ、その子はすべての人間の罪をその身に背負い、罪に対する呪い、裁きをその身に受けて、十字架の上で死んでくださり、罪と死を打ち破って復活してくださったのです。聖書は、その事実を証言しています。そして、この事実の証言を信じる者の罪を赦して下さると、神様は約束してくださいました。つまり、神の子としてご自身の家である教会に迎え入れて下さるのです。祝福の満ち溢れた家、新しい命に満ち溢れた家、キリスト教会に迎え入れて下さるのです。私たちのアイデンティティーは、ここにあります。「神の子、キリストの教会に属するキリスト者」。それが私たちのアイデンティティーです。そして、その神の子、キリスト者は世界中にいます。地上だけではなく、天上にもいます。天と地を貫いて天地の造り主なる神の世界は広がっているのです。そして今、地上の世界に生きている私たち、それは何のために生きているのか?それは、この世界に生きるすべての人が、キリストを信じることによってその罪が赦され、神の祝福のうちに新しく神の子として生まれ変わり、神と和解し、敵対していた人間同士も和解できるように祈りつつ働くためです。
この先の一二章にセムの子孫であり神の民イスラエルの先祖であるアブラハムの選びと旅立ちの場面がありますが、そこで神様がアブラハムに仰っていることは、こういうことです。
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
彼は、そのために旅立ち、新しく生き始めるのです。私たちも同じです。私たちの信仰的な先祖はアブラハムなのですから。私たちキリスト者の信仰はアブラハムに始まり、私たちは信仰においてはアブラハムの子です。アブラハムは私たちの信仰の父なのです。だから、アブラハムに与えられた使命を引き継いでいるのです。すべての氏族が私たちによって、私たちの信仰によって、私たちが証しするキリストによって、祝福に入るために生きる。なんという光栄に満ちた人生でしょうか?罪に捕らえられ、敵意と憎しみ、劣等感と優越感の中でしか生きることが出来なかった私たちが、今はキリストを信じる信仰を与えられ、その信仰によって、このような使命に生きる者とされている。すべてはキリストによってもたらされたことです。感謝しましょう。そして、与えられた恵みを全身で受け入れ、その恵みに押し出されるようにして、今日からのこの世における歩みにその一歩を踏み出しましょう。
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