「集合と離散・祝福と呪い」

及川 信

創世記 11章 1節〜 9節

 

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。



 聖書を「壮大な歴史ドラマ」として読むと言うと、何か不謹慎な印象を持たれるかも知れませんが、私は基本的にそう考えています。しかし、その歴史ドラマを書いた著者は誰かと言えば、それはやはり人間ではなく、神様なのです。先日、『マザーテレサ』の映画を観ました。その映画の中で、かねてから彼女の言葉としてよく知られている言葉だと思いますが、「私は神の手の中にある鉛筆です。神がお書きになる通りに動くしかありません」という言葉がありました。
聖書、それは千数百年という歴史の中で人間が直面した出来事や経験が沢山の人々の手によって書かれ続けてきた書物です。その過程の中で、それぞれの時代、それぞれの土地で、バラバラに出来上がっていた話が繋ぎ合わされ、バラバラの預言も一つに纏められ、新約聖書も、いくつもある福音書や手紙が取捨選択されたり、編集されたりしてゆっくりと出来上がってきたのです。
 一昨日、教会学校の夏季学校を催しました。今年のテーマはモーセの「十戒」だったので、モーセに関するアニメ映画を観ました。その中で、モーセの舅になる男が、「すべての現実を神の側から見よう」と繰り返し歌うシーンがありました。聖書はまさに一つ一つの現実の中に、またその連なりの中に何があるのかを神様の視点から見た書物だと思います。神様から見ると、こう見える。その事実を知らされ、書くことを命ぜられた者たちが、止むにやまれぬ思いで書き記し、さらに後の世代の人々が神の導きの中で推敲しつついくつもの断片的な文書を繋げていき、複雑にして重層的なのだけれど支離滅裂ではない、創世記からヨハネ黙示録に至るまでの一貫した筋道がある聖書という書物が出来上がってきたのだと思います。そのすべてを仕切っているのは、言うまでもなく神様です。その神様の御心を尋ね求めるということが、聖書を読むということです。今日もご一緒に神の言である聖書を読んでいきたいと思います。
今お読みいただいた一一章は、一〇章と裏表の関係にあるという趣旨のことを前回語りました。一〇章に記されている民族の「離散」は、基本的に神様の祝福の結果でした。ノアという一人の人から生まれた三人の息子、その三人の息子たちの子孫が、次第に、「言語、氏族、民族」が異なるものとなり世界の各地域に散らばっていった。それは、天地の造り主なる神様の祝福の結果です。それに対して、一一章の「バベルの塔」の話では、民族の「離散」は神様の「呪い」の結果としばしば解釈されます。つまり、「離散」という同じ現象が描かれているのに、「祝福」と「呪い」という違いがある。それは一体どういうことなのか?それが、今日の箇所を読み進めていく上での一つの問題です。
 私たちは今、何章何節という区分をもって聖書を読んでおり、新共同訳聖書は小見出しまでありますが、元来は章も節もなく、段落の区切りもなければ、句読点もありません。文字がずらずらと並んでいるのです。そういうものとして読むことも大事だと思うので、一〇章の三一節から読んでみたいと思います。皆さんは、「新共同訳聖書」を開かずに聞いてください。

「これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」

 氏族、言語、地域、民族が全部異なる人々が世界各地に分かれて住んでいたと言ったその直後に、何の断りもなく、「世界中は同じ言葉を使って同じように話していた」とある。もしこの文章を一人の人が一気に書いていると想定するなら、その人は、やはり頭の中が分裂していると言う他にありません。しかし、そういう人が書いているはずはありません。だとするなら、これはやはり別の人が全く別の意図をもって書いたと想定するほかにない。しかし、「別の人が別の時代に書いたのだから、前後のつながりは全くないのだ」と断定してしまうと、聖書を続けて読む意味など何処にもなくなりますし、注意深く読めば、「前後の繋がりはない」という断定も出来ないと思うのです。
 たとえば、一一章二節に「シンアルの地」とあり、そこにある町として「バベル」が出てきますが、それは両方とも一〇章一〇節に出てきていた地名です。バベルとは、ニムロドという王が建設した町の一つです。そして、そのニムロドは、九章でノアから「呪われよ」と言われたカナンの親族、子孫に当たります。つまり、九章の後半から既に「バベルの塔物語」に向けての伏線が綿密に張られているのです。洪水後の家族がひとつ所に集まっている「祝福」の中に既に裸の罪の現実があり、将来の分裂をもたらす伏線があったのです。
 しかし、それにしても世界中の民族はそれぞれ言語が違っているという話と、「世界中は同じ言葉を使っている」という話がくっつくのはあまりにも矛盾が大きくないかと言わざるを得ません。ただ、これも注意してみれば分かることなのですが、一〇章のほうは「言語」とあり、一一章には「言葉」と記されています。「言語」と訳された方はヘブライ語では、元々「舌(ラーション)」を表わす言葉で、「言葉」と訳された言葉は、ヘブライ語では「唇(サーパー)」を意味する言葉です。そして、次に出てくる「同じように話していた」とは、「同じ言葉(ダーバール)を使っていた」とも訳されます。とにかく、一〇章と一一章では、使われている言葉が違うのです。意識的に違えているとするなら、その意図や意味を考え、聴き取るべきメッセージを聴き取っていかなければなりません。
 一〇章のニムロドは「勇士」「勇敢な狩人」であり、「彼の王国の主な町はバベル・・」とありますように、彼は「王」でもあります。古代帝国のアッシリアだとかバビロン(バベルと同じ)帝国の遺蹟には宮殿の壁などに多くのレリーフが残っています。戦争の場面だとか、外国からの貢物の数々とか略奪品の数々が描かれている。そういう帝国の権勢を顕示するための図柄と共に、ライオン狩りをしている王の姿が描かれていたりするのです。古代帝国においては、王は勇敢な狩人として人間を襲うライオンにも立ち向かう勇気と力が必要だったのですし、「我こそは、そういう偉大な王なのだ」と、同時代人にはもとより、後世の人々にも自分の名を残しておきたいと願ったのです。
 「バベルの塔の物語」の舞台はこの大帝国バビロンです。大帝国は歴史上いくつも誕生しては消えていきました。帝国は、基本的に権力を集中して強大な軍隊を作り上げ、武力でもって領土を拡張し、その土地の資源を収奪し、その土地の人々を何らかの意味で奴隷化します。そして、統治を徹底するために公用語を作ったり、自分たちの言語を押し付けたりするものです。たとえば、ブラジル人は今ポルトガル語を話しますが、ブラジル以外の南米の国々の人々はスペイン語を話します。それはヨーロッパの二つの国の植民地とされた時代に、その統治国の言語を押し付けられたからです。それ以前には、あの大陸には部族ごとに無数の言語があったでしょう。私たちの「大日本帝国」もかつて、「大東亜共栄圏」という身勝手な構想の下に朝鮮半島を植民地として、そこに生きる人々に日本語を強制し、さらに名前までも日本名に変えさせるということをしました。現在、世界の公用語が英語になっているのも、かつての大英帝国が世界中に植民地を持っていたお陰です。英語が世界中の言語の中で一番優れているとか、愛されているから皆でこれを世界の公用語にしましょうと決めたという事実はありません。
 そういう帝国の歴史、あるいは帝国と言語の歴史を振り返りつつ「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という文章を読みますと、この「世界」とは大帝国の支配領域のこと、具体的にはバベルを主要な都市とするバビロン帝国の現実を言っているのだと想定しても、少しもおかしくないことが分かります(当時、地球という考え方もないのですし)。そして、どんな帝国でもシンボルが必要です。その富と権力を誇示するシンボルが必要なのです。そして、そのシンボルは政治的な権力だけでなく、宗教的な権威を持っていることが大事です。人々を恐怖させるだけでなく、畏怖させるものなければならないのです。何故かと言うと、帝国はいつも分裂と崩壊の危機をその内側に抱えていますから、それを避けるために、一致のためのシンボルが必要なのです。バビロンの場合、巨大な町と巨大な塔がそのシンボルだったのです。

「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」

 焼きレンガやアスファルトはメソポタミア地方の大帝国の建築材ですが、その後の言葉の中に彼らの傲慢と恐怖の両方を見ることが出来るのではないでしょうか。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。「天」は言うまでもなく、神の座のあるところですから、そこまで届く塔のある町を建てるとは、神の如くなろうということです。「有名になろう」というのは、「名をあげる」ことですが、旧約聖書の中ではイスラエルを救ってくださった神様を讃える時にも使われる言葉です。エレミヤ書では、「神の御名が崇(あが)められる」(三二章二〇節)と訳されています。主の祈りも、真っ先に「神の御名が崇(あが)められますように」と祈ります。何よりもまず、神を礼拝すること、讃美すること、それが私たち人間にとって最も相応しい、そして最も喜ばしい、自由な生を与えてくれることなのです。しかし、大帝国の人々、特にその権力者は、自分たちの名が世界中で讃美され、崇(あが)められることを望みました。そして、その心の奥底にあるものは、いつか「全地に散らされてしまう」かもしれないという恐れ、恐怖なのです。その恐怖の大きさと恐怖を打ち消そうとする傲慢の大きさが、互いに刺激しあってどんどん大きくなる。いつしかそれが世界中に敵を作り出し、その敵と戦って勝利する世界帝国という形になっていくのです。しかし、私たちにとって本当の敵は、私たちを支配し、その傲慢と恐怖の奴隷にしようとする罪なのです。しかし、私たちはそのことに気づかない。敵は目に見える人間だと思う。自分の中に敵がいるとは思わない。自分が実はその敵に完璧に負けて奴隷となっている惨めな人間だとは思わない。その自分の内に巣食っている罪の姿が自分には見えないからです。罪は、神しか見えないのです。
 私たち人間には、その罪の姿が見えないから、見えないままに、大きな町と高い塔を建てます。敵からの攻撃に備えた二重三重の城壁に囲まれた町の中に、その塔は建てられました。そして、イスラエルを滅ぼして、多くの民を捕囚した紀元前六世紀のバビロンの塔は(お配りした資料にもありますように)「エ・テメン・アンキ」「天と地の基の家」と呼ばれるものでした。つまり、天と地を結び、さらに地下の冥界までも結ぶ世界の中心とされていたのです。四方が九十メートル、高さも九十メートルという巨大なものです。
「バベル」とは(「バビロン」のヘブライ語の呼び方ですけれども)、元来、「神の門」の意味を持ちます。つまり、人々はこの門を通って神のところに行くことが出来る。神との交わりを持つことが出来るということを、この塔は表わしているのです。そして、バビロンの人々は、自分たちの守護神(マルドゥク)を祭るこの塔の下で、全世界を支配しようとしました。しかし、その手段は信仰とか愛ではないし、神の言の宣教によるものでもない。武力なのです。彼らの神は、所詮、戦争の神に過ぎません。彼らの欲望の投影に過ぎないのです。つまり、彼らの神は、彼らに勝利した内なる罪の投影なのです。そして、その罪の支配の下で、世界中の人々を恐怖と畏怖に陥らせるために作り上げた装置、それが町であり塔なのです。彼らは、内なる罪の言いなりになって、自分たちの帝国を作っているだけなのです。そして、その帝国が、支配下に生きる人々にとっても幸せをもたらすのだと勝手に思い込んでいる。かつてのヒットラーが夢見た第三帝国、レーニンが夢見たプロレタリア独裁のソビエト連邦、現人神を中心とする大東亜共栄圏、また超大国アメリカのお仕着せ民主主義・・・すべて「私に従えばあなたがたは豊かで幸福な生活が出来ます」という謳い文句がついています。
 しかし、それは果たしてどうなのか?そういう帝国、超大国を神様は、どう見ておられるのか?これが問題です。
神様は、「降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見た」とあります。この「降る」という言葉は七節でも繰り返されますから、「どんなに高い塔を作っても、神様にしてみれば降ってこないと見えない程度の低いものなのよ」という皮肉があるようにも思いますが、問題は、むしろ神様が「見た」という方です。神様から見ると、この塔と町はどう見えるのか?それが問題なのです。そして、神様は人間の行為に対して、どういう行為で報いられるのか?

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 その結果、人々は建設をやめ、その町はバベルと呼ばれ、民は全地に散らされたのです。神の門を意味するバベルは、混乱を意味するバラルと語呂合わせをされてからかわれてしまう。
私はここで、「言葉」に関して新しい考察、あるいは解釈を加えていかなければなりません。先程、一〇章に出てくる「言語」という言葉と一一章に出てくる「言葉」という言葉は、ヘブライ語では違うと言いました。そして、一〇章の「言語」はいわゆる母国語で、一一章の「言葉」は支配者が流通させる公用語のことではないかと、私は解釈しました。しかし、ここでもう一つの解釈を加えていかねばならないと思うのです。
 昨日、下の娘が顔は日本人と同じなのに何故か英語しか喋れない男性に恵比寿駅に行く道を聞かれたことは何とか分かったけれど、どう答えたら良いかは分からず、「学校で習っていることは全く役に立たない」と八つ当たりをしていましたが、そういう意味で言葉が通じないことは確かにあります。しかし、私たちが「あの人とは言葉が通じない」という時、それは外国語だから通じないということではありません。同じ日本語を話していても言葉が通じないことがいくらでもあることは、誰でも日常的に経験していることではないでしょうか。
以前、「あなたが私の言うことを『分かった』と言うたびに、あなたが私の言うことがまるで分かっていないことがよく分かる」と言われて、「ああ、そうかなるほどな」と、何か妙に分かったように思ったのですが、そこで「それも分かる」なんて言おうものなら、大変なことになることがこれまた分かるものですから、その時は、「うーん、なるほど・・」と唸りながら沈黙する他になかったことがあります。そして、こんなに一生懸命に聞いて、その上で「分かった」と言っているのに「分かっていない」と言われてしまい、自分が実は分かってなどいなかったということが、何となく分かるのは何故かと考えました。そして、分かった?ことは、自分の守るべき我というか、エゴがあって、その枠から出ようとせず、自己防衛的に言葉を聞いている限り、どんなに一生懸命に聞いていても、相手の言っていることは分からないからだと思いました。自分の考えが正しいことを前提にして人の言葉を聞いたり、自分の利益を失わないことを目的として人の話を聞く、あるいは自分の言葉の論理の中に相手も引き入れようと思って聞いている時、もうそこで一つのフィルターがついていますから、相手が言ったままの意味では聞こえてこないのです。しかし、自分の耳にそういうフィルターがついていることは自分には見えないので、自分はちゃんと正しく聞いていると誤解してしまう。そういう誤解の中で、言葉のやり取りをすればするほど誤解が拡大し、それはいつか敵対や分裂になっていく。それがまた罪人の現実なのですが、そういう言葉の乱され方もあると思います。
 普通、創世記一一章は、元々、世界は一つの言葉だったのに、人間の傲慢の罪に対して、神様が介入して、言葉を乱して人々の企てを崩壊させた。言葉が通じなくなったのは、英語と日本語のように異なる言語が生まれかたらだと解釈するのです。それは、この箇所だけを独立したものとして読む限り、大いに妥当性のある解釈だと思います。しかし、一〇章との繋がりを重視するならば、言語の違いは既にあるわけですから、ここでの「言葉」は、支配者としての言葉が乱されたと言うべきではないかと、私は思うのです。政治的な意味での支配者に限らず、とにかく、人よりも上に立とうとし、自己義認し、自分に栄光を帰そうとする人間の企てを、神様は言葉を通じさせないことを通して崩壊させた。そして、その言葉が通じないとは、いわゆる英語と日本語は通じ合わないという次元のことではなく、もっと別の次元のこと、先ほど言ったような、夫婦親子友人同士の間で言葉が通じ合わなくなる。そういう次元のことなのではないか、と思うのです。
 そう思うもう一つの理由は七節の言葉にあります。ここを直訳風に訳すとこうなります。

「さあ、私たちは降ろう、そして乱そう、そこで彼らの言葉を、そうすることで、人は自分の友(仲間)の言葉を聞かない(理解しない)ようになる。」

 新共同訳聖書で「互いの」と訳されている言葉は「友」とか「仲間」「親しい奴」(ヘブライ語ではレーア)というような意味をもつ言葉です。つまり、互いに心と言葉が通じ合っていた者同士なのです。そういう者たちが、自分の目には見えない罪の奴隷となり、人よりも上に立ち、人を見下し、奴隷化させようとする時、互いに言葉が通じ合わなくなり、いつしか敵対し、分裂し、骨肉の争いをするようなことにもなるのです。
 そして、そういう観点から考えますと、後半で二度も繰り返される言葉、「主がそこから彼らを全地に散らされた」という言葉は、通常、神の呪い、怒りの裁きの結果であると解釈されますけれど、ひょっとしたら、神様の深い配慮に基づく行為かもしれないとも思います。
ずっと先の創世記二五章に記されていることですが、アブラハムが妻サラとの間に生まれた子イサクに全財産を与えつつ、側女ケトラとの間に生まれた六人の息子たちに贈り物を与えた上で、イサクから遠く離して移住させたということが記されています。それは、兄弟同士の間で遺産相続などの争いが起きないようにというアブラハムの配慮です。それと似た配慮が、ここにおける神様の行為の中にあるのかもしれません。
しかし、たとえそうではあっても、この時の世界の現実、そこに生きる人間の現実は、洪水の後にノアとその子孫に「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と仰った神様の期待とは、相当にかけ離れていると言わざるを得ません。人間が同じ言語を話していても言葉として通じない。互いに聞き合えない、理解し合えない。そういう人間同士が、全世界に散らばっている。お互いに何を考えているのか分からない。突然、自爆テロみたいなことをするかもしれない。そういう不安や恐怖が蔓延している。それが、天地創造物語から始まった原初物語の帰結なのです。光からの創造と救いの完成という明るい希望をもって始まったこの物語は、夢も希望もない結末で終わるのです。そして、この結末は、極めて冷徹な現実認識に基づく結末ですし、現在の世界の姿に通じる結末ではないでしょうか。ここに記されていることは、昔のことではなく、今のことなのです。そして、その世界に向けて、神様が何を為さるのか。それがこれから始まるアブラハム物語の主題です。
 皆さんは、ここまでの話を聞いてきて、聖書の言葉の中で、何が心に浮かんだでしょうか?私は準備しながら、いくつもの聖書の言葉が心に浮かんできて困りました。説教の最後にどの言葉を読んだら良いか迷ったのです。
バベルの塔の話との関連でしばしば引用されるのは使徒言行録のペンテコステの記事です。弟子たちが世界中の言語で福音を語り始めた。キリストの出来事を語り始めた、あの箇所です。いつか、その箇所で説教したいと思います。しかし、私は今回はイザヤ書二章の言葉も思い出しました。そこには世の終わりに起こるべき幻が記されています。それは、全世界の民がエルサレム神殿に礼拝に来るという幻、ヴィジョンです。その時、すべての国々の民がこう言うのです。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう。」
「主の教えはシオンから、
御言葉はエルサレムから出る。」


全世界の民がシオン・エルサレム神殿の中で、神の教え、神の言を聞き、その言葉に従う。その時、

「彼らは剣を打ち直して鋤とし、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、
もはや戦うことを学ばない。」


 すべての民が、神殿で捧げられる礼拝において、「神の言」を聞き、ひれ伏す時、真の一致、真の平和が実現するのです。
 それとの関連で、最後に引用したい言葉はフィリピの信徒への手紙に出てくる「キリスト賛歌」と呼ばれる言葉です。これは私たちが暗誦するまでに身につけたほうが良い言葉ですけれど。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 神と等しい高みにおられた方が、地に降り、最も低い僕(奴隷)の姿勢で神と人に仕えて生き、その結果、最も惨めな十字架の死を味わわれた。しかし、この方を、神は高く引き上げ、すべての名に勝る「主」という名をお与えになったのです。本当の意味で、キリストは有名であり、崇められるべき方なのです。そして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、この方の前に跪き、すべての者が「イエス・キリストは主である」と信仰の告白をして、神様を讃美する時、すべての人の罪が赦され、新しい命が与えられ、神様の祝福の内に互いに和解し、一つの家族、主にあって互いに愛し合う兄弟姉妹になれるのです。そして、それは既に天において実現し始めていることであり、世の終わりの日に完成する救いの現実です。
 教会とは、すべての人間をこの救いに導くために神が主イエス・キリストを通してこの地上にお建てになった神の門、あるいは神の家です。人間が建てたものではありません。教会のシンボル、それは十字架です。私たちの罪が赦される為に、私たちが義とされるために、そして私たちが互いに和解し、愛し合うために、神の子イエス・キリストが罪と死と戦い勝利してくださった愛と力の証である十字架が、私たちの教会のシンボルです。この十字架をこそ高く掲げ、己が十字架を負いつつ、主イエスに従う。あのマザーテレサのように、神の鉛筆として、徹底的に御心がなることだけを願って、神様に仕えていく。そのようにして、一人でも多くの人がこの門から救いに入っていけるように、この神の家で、神と人との愛の交わりに入ってこられるように生きる。そこに私たちキリスト者の使命、私たちの祝福があるのです。
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