「神の選びの系図」

及川 信

創世記 11章10節〜12章 3節

 

セムの系図は次のとおりである。セムが百歳になったとき、アルパクシャドが生まれた。それは洪水の二年後のことであった。セムは、アルパクシャドが生まれた後五百年生きて、息子や娘をもうけた。・・・・・ナホルは、テラが生まれた後百十九年生きて、息子や娘をもうけた。テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた。
テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。サライは不妊の女で、子供ができなかった。テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」



 アメリカ南部を襲ったハリケーンのニュースは、その規模や被害の大きさという点でも心痛む出来事でしたが、その後に町の中で起こっている現実は、さらに痛ましいことではないでしょうか。そこでは、生き延びるための略奪はもちろんのこと混乱に便乗しての略奪もある。避難所の中ですら婦女暴行があり、殺人がある。そして、留守宅への強盗が数多く起こっていると報道されています。
 昨日、地盤のことに詳しい人から教えてもらったことですけれど、ニューオリンズの地盤沈下の原因は、地下に眠る石油を採掘するために大量の地下水を吸い上げた結果なのだそうです。そして以前から、ニューオリンズの地盤沈下は知られており街を囲む堤防の補強工事の必要性が言われていたにも拘らず毎年見送られてきたとも、報道されています。理由はもちろん、費用がかかるからです。補強工事をしても、土木工事関係者が少し潤うだけで、何の利益も生み出さないからです。そして、費用を惜しむ理由の一つは、その低地帯に住む人々が低所得者層で、避難勧告とか命令が出ても、車も現金も持っていないが故に避難しようがない人々が多く住んでいるということでしょう。税金による保護で暮らしているような人々の安全のために、さらに高い金額をかける必要はない。そういう論理が、そこにはあるでしょう。
 つい先日のテレビのニュースで、赤ん坊を抱いた白人の女性が水浸しの道路を歩きながら、「貧富の差があったって、皆、人間なんだから、互いに傷つけあうのは止めてちょうだい」と絶叫している姿を見ました。テレビを見ても分かりますように、避難所生活をしている人々の多くはアフリカ系アメリカ人、黒人です。元々、そういう人々が多い地域ですけれども、こういう事態になった時に、逃げ遅れざるを得ない人々の多くが、その人種になってしまう。そして、普段から積もりに積もっている恨みや怒りが、こういう時に爆発し、町は一気に無法地帯と化してしまう。そして、アメリカでは、自分の命を守る権利という名目の下に住民が銃を持つ自由もありますから、人殺しも略奪も暴行もまかり通ってしまう。だから警察も軍隊も救助よりも先に、まるで戦場に向かうような装備で町に入り、自国民に銃を向けて治安の回復を図らねばならない。そうこうしている内に、老人、病人、赤ん坊が何の手当てもされないまま死んでいく。恐るべき悪循環です。
 先日、韓国人の牧師たちと三日間の研修会をし、ノアの洪水とその後の物語の解釈についても話し合いました。その研修会でいつも何かビックリすることがあるのですけれど、その時にビックリしたことは、韓国の教会では、「カナンは呪われよ、セムの奴隷となれ」という言葉を、アフリカ系民族がヨーロッパ系民族の奴隷になる預言として読んでいるということです。黒人は白人の奴隷になる。ノアは、そう預言していると解釈されているらしい。そうなると、アメリカの白人たちが黒人を奴隷として支配したことも、現在も人種差別をしていることにも、それなりの理由があるということになってしまいます。そういう解釈がどこからどのように入ってきたか?私は、そのルートを正しく知りませんけれど、アメリカのファンダメンタリスト(根本主義者)たちは、白人至上主義的に聖書を解釈しますから、そこにルーツがあるでしょう。しかし、そのように聖書を読む傾向は、アメリカに限らず白人社会の中にはずっと前からあるように思います。
しかし、聖書は実際何を語っているのか?洪水が終わって以後一〇章の終わりまでに語られていることの基本的内容は、世界の諸民族、諸氏族、あるいは人種は、すべてノアの子孫から分かれ出たものだということです。そして、それはつまり、世界中の人間は、すべて「神にかたどって造られた」人間であり、神様によって「産めよ、増えよ」と祝福されて増え広がっているのだということでした。そこに何らの差別はありません。カナンとセムの違いに関しても、カナンへの呪いに対してセムの祝福が書かれているのではなく、「セムの神はたたえられよ」と、すべての人間が主なる神様を讃美すべきだと書かれているのです。セムがその民族性、あるいは人種性においてハム(カナン)やヤフェトより優れており、上に立って支配して良いと書かれているわけではありません。セムの末であるイスラエルが罪を犯して悔い改めることがなければ、イスラエルはハムの子孫であるアッシリアとかバビロンの奴隷になるのです。聖書は部分だけを取り出して読んで、自分勝手に解釈したら、とんでもない書物になります。ちゃんと全部読んで冷静に、何を言っているのかを聴き取らなければなりません。
人種が何であれ、すべての人間は神に愛されている被造物であるが故に、すべての人間が神の祝福の中に世界中に増え広がっていると書かれているのだし、すべての人間が神の御名を崇め、互いに愛し合うべき兄弟なのだと、聖書には書かれているのです。違うでしょうか?
しかし、その世界の中にいつしか帝国あるいは超大国が出現することになります。その帝国を築く人々は、世界中に自分たちの言語を押し付け、自分たちの名を世界に知らしめて、すべての人を支配しようとする。しかし、その帝国、あるいは超大国は、必ずその内部から崩壊をしていくのです。強権的な親に支配されている家の中が、実はその内実において崩壊しており、いつか子どもたちの抵抗や反乱によって目に見える形でも崩壊するように、帝国の支配も、所詮は人の支配ですから、それは百年二百年の歴史の中で必ず崩壊していきます。「バベルの塔の物語」が告げていることは、そういうことです。労働者独裁を歌いつつ、労働者を奴隷化したソビエト連邦は崩壊しました。そして、沢山の奴隷労働によって豊かな繁栄の基礎を築いた国は、今、その内部において崩壊し始めているようにも見えます。歴史はそういう意味ではたしかに繰り返されるのです。 
今日の箇所は「セムの系図」が記されている所です。今日も資料をお配りしました。表に一〇章二一節から一一章一〇節に繋がる系図、裏面はアブラハムの旅の道筋を印刷しておきました。系図は、時間的な流れを表わし、地図は空間的広がりを表わします。この時間と空間の中で、神様の御業が為さていくことになります。
まず「系図」を見ていただきたいのですが、セムから数えて五代目のペレグとその兄弟ヨクタン、そしてアルモダドに始まるヨクタンの十三人の子供たちの名は一〇章に記されています。しかし、考えてみると、系図というものは本来どんどん拡散していくはずものです。セムには五人の子供が生まれましたし、その五人がそれぞれ子供を産んだでしょう。そして、その子がまた幾人かの子供を産むというふうにして人口はどんどん増大していくのです。そして、その様を描くのが系図の一つの役割です。しかし、聖書の系図は、一方でそういう広がりを描きながら、他方で非常に細い一筋の線を描いていくのです。その線以外の線は消えていく。
今日の場合で言えば、セムの子供の中でアルパクシャドの子孫の線だけが残っていきます。しかし、その理由は説明されません。そして、その後ペレグとヨクタンの兄弟が生まれます。一〇章では、ヨクタンの子供の名前がたくさん出ていますが、一一章ではヨクタンの名前は出ず、ペレグの線が残っていく。系図に表われる命の連鎖は、基本的に神様の祝福を表わしていますけれども、その祝福の中に、静かに神様の選びが働いているということ。私たちにはその理由は分からないし、選びが働いているなんてこともこの段階では目には見えないけれども、しかし、確実な事実であることを、この系図は告げています。
目に見える形では、セムの子供たちは五人おり、アルパクシャド以外がすぐに死に絶えたわけではなく、皆生き延びて世界に広がっているのです。しかし、聖書の中の記述としては消えていく。それは「捨てられた」とか「拒絶された」ということではありません。神様が与える特別の使命を果たす者として選ばれてはいないということです。神様が特別に使命を与える人物、それはセムから数えて十代目のアブラハムです。
アブラハム、彼のことは日本では知らない人の方が多いかもしれませんが、世界では最も有名な人物の一人です。アブラハム、彼は全世界に散らばるユダヤ人にとってはもちろん忘れえぬ先祖ですし、やはり全世界に散らばっている私たちキリスト教徒にとっても信仰の父ですし、同じく全世界に散らばるイスラム教徒にとっても唯一神教の創始者として絶大な尊敬を寄せられている人物です。だから、世界中にアブラハムという名前の人がいます。私たち日本人でも、アメリカの大統領のエイブラハム・リンカーンは知っていますが、このエイブラハムがアブラハムと同じです。その子のイサクはアイザックですから、これまたアイザック・スターンとかいうユダヤ人の有名人もいます。とにかく、アブラハムは世界中でその名を知らない人はほとんどいない「超」のつく有名人です。
何故こんなことを強調するかと言うと、聖書というものは、焦らずにじっくりと読んでいると、やはりちゃんと繋がっているんだなと思うからです。先週、バベルの塔の話をご一緒に読みました。その中で、バベル(バビロン帝国)の人々が、「天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう」と言っていました。「有名になろう」とは「名をあげる」とか「名をなす」という意味です。「名は体を現し」ますから、これは「自分の存在を高く大きくしよう」ということです。「塔の頂を天に届かせ、神のようになろう」と言っているのです。問題は「名前」です。「名前」は、ヘブライ語ではシェームという言葉です。このシェームという言葉を日本語で表記すると「セム」となります。ですから、一〇章の後半に出てきたセムの系図が「バベルの塔の物語」挟んで一一章一〇節から再び出てくるというのは、「名」(シェーム)に関して、バビロンの人々の野望を打ち砕く神の御業が記されていると言って良いと思うのです。バビロンの人々は富と権力をもって世界の歴史に自分たちの名を残そうとした、いや、永遠に支配しようとしたのです。しかし、実際に残っている名は、彼らの名ではない。セム族の一〇代目に生まれたアブラ(ハ)ム、彼の名が残るのです。生涯、地上をあちこちうろつき回った一人の老人、何処にでもいる半遊牧民の老人こそが、その後の数千年の歴史に決定的な影響を及ぼした人物であり、権力も富も何も持たないこの老人こそ、世界に名をなすことになったのです。
神様は、アブラハムに対して、こう仰っています。

「わたしはあなたを大いなる国民にし、
あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の基となるように。」


「名を高める」とは、「名を大きなものとする」「偉大なものとする」という意味です。「バベルの塔」は、今は廃墟の遺跡としてその名を留めているだけですが、アブラハムは今なお世界中にその影響力をもっています。現在のパレスチナ問題もまた、アブラハムに対する神様の約束に端を発します。とてつもない規模で、アブラハムは今に至る世界の歴史に対して影響を与え続けているのです。
しかし、何故彼は、それほどまでに大きな存在なのか?今も言いましたように、アブラハムに至る系図の中に、その偉大さの痕跡を探しても何も見えません。系図の中では、アブラハムに至る線も多くの線の一つであることは明白です。何故、アブラハムに至る線が選ばれたのかは分かりません。それは神様のご計画の中にあることであり、「神の選び」としか言いようがないのです。それを不公平と言おうが、不平等と言おうが、それは私たちの勝手ですが、覚えておかねばならないことは、私たちが神ではないということです。私たちが神様を選ぶわけではなく、神様が、私たちを選ぶのです。また、私たちが、神様の為さることに採点をつける立場であるわけでもありません。その逆です。そのことはよく覚えておかねばなりません。思い上がってはならないのです。私たちはただ、神様の御心を尋ね求め、その御心に従って歩む時、その本来の命を生きることが出来るのです。これは、ひたむきに誠実に実行しないと分からないことです。
二七節には「テラの系図は次のとおりである」とあります。しかし、そこに記されていることは、その文体においても内容においても、それまでの「セムの系図」とは大分違うのではないでしょうか? 「セムの系図」に繰り返されていた言葉は、「だれそれが生まれた後何年生きて、息子や娘をもうけた」というものです。すべて命が誕生すること、また生きることに関する言葉なのです。よく似た系図は創世記五章ですけれど、そちらの系図では、最後には「死んだ」(エノクは例外)という言葉がついていました。しかし、一一章のセムの系図には、それすらありません。もちろん、「だれそれが生まれた後何年生きて」とあり、それが寿命を表わすでしょうけれど、「死んだ」とは記されていない。あくまでも「産むこと、そして生きること」が強調されていますし、「生きるとは子孫を残すことである」というメッセージが、ここにはあると思います。

(ここで、皆さんの中には、五章の系図よりも格段に寿命が短くなっていることの意味が気になる方がいるかもしれません。次第に人間の罪が深まってきて寿命が短くなってきたのだとか、物語自体が現実の歴史に近づくに連れて実際の寿命に近づけてきているのだとか、一年の数え方が違うのだとか、色々と言われますが、確定的なことは分かりません。私としては、次第に現実の数字に近づけていくという線で理解しています。)
 しかし、その系図を直に引き継ぎつつアブラハム物語に繋ぐ「テラの系図」には何が書かれているのでしょうか?

「ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
「テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。」


 ハランが人名でありつつ地名としても出てくるので少し分かり難いかもしれませんが、ここに二度も「死んだ」という言葉が出てくることはすぐ分かることです。その内の一人は、アブラハムの兄弟であるハランです。彼は、ロトという息子を生んだ後、父のテラよりも早くカルデアのウルで死んでしまいました。これは非常に悲しむべき不幸な出来事です。その出来事が影響しているのか、ハランが死んだ後、テラは「息子アブラハムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラハムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かい」ます。地図をご覧頂くとそのコースが分かります。ウルはユーフラテス川の下流にある町で、そこからバビロン(バベル)を通り、川を遡っていくとハランという地名があります。約千キロの道程です。テラの一行はそこまで歩いて行き、テラはその地で二百五年の生涯を終えて死にました。セムの系図は、すべて「生まれた」が最後の言葉なのに、セムの子孫であるテラの系図の最後の言葉は、「死んだ」です。これは意識的なことだと思います。
 さらにもう一つ、「サライは不妊の女で、子供ができなかった」とあります。「死んだ」だけでなく、「生まれない」のです。カルデアのウルを出立した家族、それは子供の一人に死なれた老人のテラであり、親に死なれた子供である独身のロトであり、さらに子供が生まれないアブラムとサライという名の夫婦です。そして、程なくテラは死にました。残されたのは子供が生まれない中年から高年になりかけている夫婦と、親のいない独身の青年です。つまり、この血筋の未来は開かれていない、閉ざされているのです。この系図は続きようがない。神様が選んだ家系、それはこういう結末を迎えるものなのです。それは、何を意味するのか?今日の問題は、そこにあります。
 創世記一章から一一章まで、それはわずか一五ページほどのものですが、天地創造に始まる実に壮大なスケールの物語であり、真に深い物語です。ここで私たちが考えるように促され、また見つめるように促されてきた事柄を思いつくままに挙げてみますが、それは世界、歴史、人生、創造、命、死、人間、動物、植物、労働、男、女、兄弟、親子、家族、裸、礼拝、民族、言語、言葉、都市文明、人間による支配、戦争と平和、血・・・・などです。私たちは、数え切れない事柄について考えさせられ、そのすべての事柄の中に「人間の罪」を見、また「神様の愛と赦し」を見てきました。そして、すべての事柄が、これから始まるアブラハム物語の中にまた流れ込んでいくのです。
 こういう壮大にして深遠な物語の内容を、それでも敢えて一言で言うなら、どうなるか?「それは祝福から呪いへ、調和から分裂へ、命から死へと向かう物語だ」と言ってよいように思います。別の言い方をすれば、「人間の罪の物語」です。しかし、それは同時に、「神の愛の物語」でもある。そして、この物語は、今日の系図によってアブラハム物語、族長物語に繋がっていきますから、原初の物語は厳密な意味では完結したものではありません。ここで終わりなのではなく、実はここから始まるのです。しかし、テラの系図が示すように、祝福と命から始まった世界とその歴史は、罪によって呪いと死に行き着き、もう新しい命を生み出すことが出来ないところにまで行き着いてしまったのです。世界の歴史は、これで終わりなのか?終わりでないとすれば、それはどうやって引き継がれていくのか?そういう問題提起によって原初の物語は終わるのです。
   天地創造物語は、主が闇と混沌に覆われていた世界に「光あれ」と言葉を発するところから始まりました。それは物語が始まったというより、出来事が始まった、歴史が始まった、創造が始まったということです。それと同じように、呪いと死に覆われた世界に新しい出来事を起こすのも、神様の言葉なのです。アブラハムに対する言葉、その言葉によって、神様は新しい世界、新しい歴史を造り出そうとされるのです。そしてアブラハムが、この神様の言葉に応えるか否か、彼が「生まれ故郷、父の家を離れて」神様が「示す地に行く」か行かないか。そこに神様による新しい創造、新しい歴史が始まるかどうかが掛かっているのです。彼が、この神様の言葉に従って未知なる土地に旅立つならば、彼自身が祝福されるだけでなく、「地上の氏族はすべて祝福に入る」道が開けてくるのです。つまり、神様を信じ、一切を神様に委ねて、服従する信仰を生きる人間が誕生するか否か?そこに呪いと死に覆われた人間と世界に対する祝福が回復するかどうかが掛かっているのです。
 アブラハム物語の一つの柱は、妻が不妊であるこの老夫婦の間に子供が生まれるか否か、この夫婦の間に新しい命が誕生するか否かという問題です。神様は子供を与えると約束してくださいます。それは最初から信じ難い約束ですし、実際、幾たびも約束の実現が危ぶまれる出来事が起こり、アブラハムたちは疑います。約束を信じて生きるということそれ自体が厳しい試練です。そういう厳しい試練の中で、アブラハムとサラはいく度も挫折をしながら、厳しくも憐れみに満ちた神様によって、信仰を鍛え上げられていくのです。そして、この一組の夫婦が完全に生殖能力、出産能力が無くなった時、それは神様の愛と全能の力を信じる信仰しかなくなった時でもありますが、その時、神様は約束どおり、イサクという名の男の子を誕生させました。旅立ちの時七十五歳だったアブラハムは百歳になっており、妻のサラも九十歳を越えていました。生理はもうとっくのとうになくなっていたと、聖書にはちゃんと書いてあります。
だから、このイサクの誕生は、自然的な出来事ではないのです。イサク誕生は、これまでの系図の中で親から子が生まれてきたという連鎖と同じではないのです。アブラハムから始まる系図、それは神様への信仰抜きにはあり得ないのだし、人間の肉の力で生まれる子の系図ではなく、神様の霊の力によって生み出される子供たちの系図なのです。神様の霊の力によって生み出される子供は、アブラハムの信仰を受け継ぐ子ですし、それは、神様からの祝福を受け継ぎ、次世代に継承していく存在以外の何ものでもありません。
 そして、神様は、そういう信仰に生きる人間を造り出すために、セムからの一〇代の系図を閉じてしまわれたのではないか。肉の命の継承としての系図をここで終わらせ、信仰によって与えられる命を継承する家系、信仰の家系をこのアブラハムから始められたのです。
 話は飛びますが、主イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネは、見せ掛けだけの悔い改めをしようとするユダヤ教の指導者に向かってこう言いました。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 私たちキリスト者は、聖霊によって信仰を与えられ、洗礼を授けられたキリスト者です。それは、キリストに結ばれて、新しく生まれ変わった人間であるということです。私たちは、自分が罪に支配されていることを知った人間です。罪に支配されていることによって、祝福から始まった人生が既に呪いの中に落ち、命が既に死に呑み込まれていることを知った人間なのです。そして、この惨めな奴隷状態、呪われた状態から救い出して下さるのは、私たちのために十字架に架かって死んで下さり、 陰府まで降り、復活して下さった神の独り子主イエス・キリストであることを知らされ、その福音を信じ、信仰告白をして、洗礼を受けた人間なのです。私たちは、その時以来、アブラハムの子として生きているのです。私たちの信仰の先祖はアブラハムだからです。
アブラハムの子として生きる。それは信仰に生きる、霊的に生きる、神様に服従して生きるということであり、神様の溢れる祝福の中に生きるということです。「生めよ、増えよ、地に満ちよ、生き物を支配せよ」という祝福と使命を与えられて生きるということです。神様の命、その祝福を一人でも多くの人に知らせ、分かち合うために生きるのです。罪による分裂と敵対の中にいる世界の民が、本来の世界の民、神の家族として一つの食卓につくことができる日を、その日を確信しつつ主の日の礼拝を捧げ、一人でも多くの人を礼拝へと招くために生きる。いつの日か、神様はご自身の御国を完成してくださる。それが神様の約束なのですから、私たちはその約束を信じて生きるのが、私たちキリスト者です。
今日も、そのキリスト者に与えられる最大の祝福である聖餐が備えられています。真の悔い改めと感謝と賛美をもって与りましょう。この聖餐の糧を頂きつつ、はるかに天を見つめ、天に御心が行われるごとく地にも行われることを祈りましょう。そして、私たちがその御心を行うことができますように、今日も新たに神様が「行きなさい」と仰るところに、出で行く信仰を持つことができますように、共に祈りを合わせたいと願います。
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