「神様への礼拝は、誰が、何故するの?」
「主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。」今日の朝礼拝は信仰修養会の開会礼拝という(夕礼拝も同じ内容ですけれど)位置づけをもっています。修養会の主題は「聖餐の食卓を囲む共同体」であり、その「聖餐の食卓」は礼拝の中で囲むのですから、礼拝においては「聖餐」の枠である「礼拝」に関して御言葉に聴かなければならないと思いました。そして、この説教題をつけたのは二ヶ月前ですが、九月十八日には創世記の一二章に入っているはずだから、アブラハムが「祭壇を築き、主の名を呼んだ」という御言葉の中から「礼拝」に関するみ言葉を聴こうと思ったのです。 そして、最近はいつでも心のどこかで修養会のことを考えながら過ごしていましたけれど、先週になって立て続けに面白いな・・・と思うものを観たり、聴いたりしました。一つは中国の京劇に関する映画の中の台詞です。京劇の師匠さんが子供たちに虐待と言っても良いような指導をしつつ、こう言うのです。 「人間だけが演劇を見る。人間なら誰だって劇を見る。猿が劇を見るか?見ないだろう。人間だけが見るんだ。その演劇が出来るお前らは幸せだ。」 棒で子供たちを殴りながら、こう言っているのです。この場合の演劇とは、祭りの時などに広場や路上でもやる大衆演劇のことですけれど、私は、「なるほどな・・」と思いつつ聞きました。そして、その同じ日の午前にあった神学講演会で語られた言葉を思い出しました。その講演会で語られた言葉は、「ホモ・リトゥルギクス」(ギリシャ語でレイトゥルギアは「礼拝」の意味)「礼拝する人間」という言葉です。「人間とは、本来礼拝する存在なのだ。礼拝することにおいて、人間は人間らしいのだ」ということです。私が学生時代によく聞いた人間理解は、ホモ・サピエンス(知恵をもっている人間)とか、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)というようなものでした。知恵も遊びも、人間が持っている特色のひとつでしょう。猿も確かに遊んでいますが、劇を作ったり見たりという高度に知的な遊びはしません。それはたしかに人間だけがすることです。 しかし、「礼拝する」「礼拝を捧げる」とは、そういうものとも本質的に違う性質を持っていると思います。「人間だけが神様に礼拝を捧げる」と言う場合、それは「人間だけが演劇を見る」と言うのとは全く異なる何かがあると思うのです。 しかし、人間はいつでも神様に礼拝を捧げているのかと言えば、そんなことはありません。また、人間なら誰でも礼拝するのかと言えば、そんなこともありません。これは事実です。神を信じない人は、沢山います。また、信じていても滅多に礼拝しない人も沢山います。しかし、どんな人間も、その状態が不変である保証はどこにもなく、いつ何時、礼拝を捧げる人間になるかも知れず、また逆に礼拝をやめてしまうかもしれません。その点、人間はまことにうつろい易い存在です。問題は、「神様への礼拝は、誰が、何故するのか」です。 今日は最初に、ご一緒に読んできた創世記を振り返りながら、その問題を掘り下げていきたいのですが、そこで最初に考えておかなければならないのは、人間の定義です。神様は、人間の創造の際にこう仰いました。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。 神はご自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって人を創造された。 男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた。 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」 人間は神様に似せて造られた被造物であり、男と女がいます。この男と女がいること自体の中に、神様の像、神様に似せて造られた像があると思います。男、女それぞれに神の像があるということではなく、男と女が存在することが神の像としての人間なのだと思います。そこで意味されていることは、人間は愛し合う交わりの中に生きる存在であるということです。神様は愛の交わりそのものであり、人間とは他の被造物との間にはあり得ない特別の交わりを求めておられる。それが、ここに記されていることの内容だと思うのです。 そして、その神様との交わりは形として礼拝を捧げるということなのです。天地創造物語の最後は、七日目の祝福であり、安息日です。この日に、神様は仕事を離れ、安息されました。この「七日間」とか、「七日目」とか、「安息日」というのは、主題講演において何度か出てくる言葉ですが、お祭りの日、礼拝の日です。その日には、すべての仕事を止めなさい、そして、神様の御業を覚えなさい。そこに人間の命がある。生きる道がある。本来の姿がある。そういう根本的なことが、ここに既に書かれています。仕事を止めて神様を礼拝する。それが人間が創造された目的であるということ、あるいは世界はその七日目に向かっているのだということ、それが、ここに記されていることだと思います。 しかし、その後、アダムとエバは、その「礼拝する人間」として生きることが出来ません。蛇に唆されて、自らが神のようになりたいと思う人間が、神様を礼拝するはずがありません。先週語りましたように、アダムとエバは、神のようになろうとし、すべてを手に入れようとして、すべてを失うのです。 彼らは、エデンの園から追放されて以後、一層強く自己実現の道を走り、自らの力で子供を造り、そのことで神の力を手にしたと自負したのです。そういう傲慢が何をもたらすか?それは彼らの息子たち、カインとアベルという兄弟の物語に明らかです。 カインとアベルは、神の如くになろうとしている両親の下で生まれ育ち、エデンの園の東、人間が中心の世界で生きる者となりました。しかし、その彼らも、農業や牧畜から得たそれぞれの実りを「主のもとに献げ物として持って来た」と、あります。これもまた、動物は決してしない礼拝行為です。これは収穫感謝であると同時に次なる収穫の豊かさを求めての礼拝、あるいは祭りです。五穀豊穣を祈り求める礼拝がここにあると言って良いでしょう。そういう礼拝が聖書において禁じられているわけではありません。収穫は何よりも神様に感謝すべきだし、その徴として、献げ物を捧げるべきです。そして、翌年の収穫も、ちゃんと主なる神様に、つまり他の神々ではなく、イスラエルの主なる神様に願うべきなのです。そういう礼拝を通して、肉体の命を養ってくださるのも主なる神様であることを承認し、主を礼拝し、崇めるべきです。しかし、ものにはいつも両面があります。そして、人はいつも勘違いをします。 この礼拝が捧げられた後、アベルは祝されて豊かになったのに、カインには何も良い結果がもたらされなかった。そういうことが起こったのだろうと思われます。そして、最初に自分の願いがあり、それを叶えてくださるのが神様の仕事だと思っている場合、自分の願いが叶わないと神様を恨むということが起こりがちです。カインは、神様を恨みました。しかし、いくら恨んでも神様を殺すことは誰も出来ませんから、神様がえこ贔屓したと思われるアベルを殺害することで、神様への恨みを晴らしたのではないでしょうか?しかし、そんなことを神様に対してしておきながら、「今、お前は呪われる者となった」と言われると、そんな「罪(「罰」とも訳される言葉)は重すぎて負いきれません」と刑の軽減を懇願する。なんとも惨めなものです。 普段は、神様なしで何でもやっている偉そうな人間が、さらなる富を得たい時や、困った時には神頼みをし、上手くいかないと逆恨みをして、とんでもないことをする。そして、罰が下されそうになると嘆願する。これはいつの時代にもいる変ることのない身勝手な人間の姿です。聖書に出てくる人々は、そういう意味でも人間の典型だと思いますけれど、聖書に最初に出てくる礼拝が、所謂商売繁盛、五穀豊穣を願うものであり、その結果が実に悲惨なものであったということは、深く覚えておくべきことのように思います。人間の欲望の投影に過ぎない「礼拝」の行き着く先は恨みによる殺人であり、更なる追放でした。しかし、カインは性懲りもなくと言うか、生きていくために居直ってと言うか、町を建てていきます。つまり、自分の身は自分で守らなければいけないという生き方を選び取るのです。そのカインの末裔は、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」と、妻に向かって豪語するような人間になりました。この「殺す」は、脅しの言葉であるように聞こえますが、他のいくつかの聖書では「殺した」と訳しています。つまり、富を守るためには殺人をも厭わないという現代の野蛮な都市文明の考え方が、既にあるのです。 アダムとエバが「神のようになろう」として禁断の木の実を食べたことで蒔かれた罪の種は兄弟殺しに至り、いつしか大量殺人にまで至る。小さな種で蒔かれた罪は、放っておけば、時の経過の中で知らず知らずの内に成長して、大きな実を結ぶのです。それが、私たちの人生における経験ですし、また人間としての歴史経験でしょう。猿は罪を犯しません。罪を犯すのは人間だけです。そして、実はそのことを通して、人間は商売繁盛を願う礼拝とは全く質を異にする新たな礼拝を捧げることへと導かれていくのです。 創世記四章の終わりはこういうものです。ここは口語訳聖書の方が相応しいと思いますので(固有名詞だけは新共同訳のものにして)、そちらを読みます。 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセトと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。セトにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノシュと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。 このセトは、アダムとエバが自分に与えられた生殖能力や出産能力によって生んだ子ではありません。神様からの「授かりもの」として与えられた子です。彼らは、そう受け止めたのです。そして、「授かる」を意味する名をその子につけました。そして、そのセトにも子供が生まれた。その子の名はエノシュです。そして、エノシュとは、ヘブライ語で「人間」という意味をもっています。それもか弱き人間とか、はかなき人間という感じが強いと言われたりもします。 「この時、人々は主の名を呼び始めた。」 「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」 実に象徴的だと思います。ホモ・リトゥルギクス、礼拝する人間、それはここで一つの明確な形を持ち始めるのです。この「主の名を呼ぶ」人々の中には当然、アダムがおりエバがいます。最初の人間がいるのです。そして、その最初の人間は、神に背く罪を犯しても悔い改めることなく、エデンの園を追い出された人間ですし、ついには自ら蒔いた罪が結んだ大きな実を刈り取らざるを得なくなった人間です。その経験を通して、彼らは自分たちが何をしてしまったのかを、痛切に知らされました。そして、悔い改めたでしょう。その時、神様の憐れみの中で、赦しの徴のように新しい命を授けられたのです。そして、セトにも神様の祝福が注がれ、子供が与えられ、その子をエノシュ「人」と名付け、人は主の名を呼んで礼拝を始める。その礼拝は、言うまでもなく、罪の赦しを乞い求め、その赦しを与えて下さる主を讃美する礼拝です。つまり、聖書が言わんとしている事は、少し危険な言い方ですが、人は罪の恐ろしさを知って、初めて、神様に罪の赦しを求め、その罪を赦し、新しい命を授けてくださる神様を賛美するようになるということではないか、と思います。 その後、どこで誰が礼拝を捧げるのか?ご一緒に読んで来た方なら直ぐに思い浮かべられると思います。それは、ノアです。それも大洪水の後のノアです。「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」現実を神様がご覧になり、ついに地球滅亡という規模で引き起こされた洪水。その恐るべき裁きを眼前にし、同時に、その滅びからの救済を体験したノアは、箱舟から出た瞬間、恐ろしさと感謝に身を震わせながら祭壇を築き、罪の赦しを乞い求める犠牲を祭壇の上に捧げたのです。彼は、人間の罪と悪に対する神様の怒りと悲しみ、そして、尽きることのない憐れみに触れて、悔い改めと赦しを求める礼拝を捧げたのです。そして、その礼拝は罪を赦して新しく生かして下さる神様を賛美する礼拝でもあります。洪水後の新しい世界は、この礼拝によって始まりました。そして、滅びを経て救われた人間は、まさに礼拝する人間、ホモ・リトゥルガクスとして、新しい世界における歩みを始めたのです。そして、その世界と人間は、神様によって新たに「産めよ・増えよ、地に満ちよ」と祝福されたのでした。 そのノアが、しかし、祝福の一つの実りである富を与えられると、天幕の中で、ひょっとすると神を礼拝する場所で、裸の罪を犯します。何らかの意味で、性的な誤りを犯すのです。そして、ノアの子孫の一人も、その罪に加担する。聖書の人間理解は、あくまでも深刻です。その後人間は再びカインの末裔と同じく町を建て、天まで届く塔を建てようとし、神にとって替わろうとする。そういう人間の飽くことなき企ては、ことごとく崩壊していき、世界は分裂し、その歴史は死の滅びに向かって行く他になくなるのです。それがアブラハムに至る系図が示していたことでした。 しかし、幸いなことに、神様の憐れみ、その愛の力は、人間を虜にする罪の力をはるかに上回り、あくまでも創造の目的に適った世界に導くために、一人の人を呼び出し、信仰によって新しく造り替えていく御業を始めてくださるのです。その一人の人こそ、アブラハムです。彼は、神様の召し出しに応え、その行き先も分からぬままに旅立ち、生涯、旅を続けます。その旅の目的は、彼が滅びの世界から抜け出して「ひとり救われる」ということではありません。全世界に散らばっている「地上の氏族がすべて、あなたによって祝福に入る」ためなのです。彼に与えられた祝福が、すべての人に及ぶために、彼は旅を続け、様々な人と出会い、そこで様々な試練を経験し、挫折や失敗を経験し、そして、何よりも神様の全能の力と何よりも強い愛を身をもって知り、証ししていくことになるのです。 そのアブラハムに対して、主はこの時、ご自身を現し、こういう約束を与えられました。 「あなたの子孫にこの土地を与える。」 この言葉の意味の深さ広さは、今後、この物語を読み進めていく過程の中で次第に明らかになってきますから、今日は省きますが、この時点のアブラハムにはまだ子供はなく、彼は既に老齢に差し掛かっており、そして、彼は一介の寄留者、外国からやって来た旅人に過ぎないのです。子供の約束も土地の約束も、そういう彼にとっては荒唐無稽な約束であり、アブラハムには、具体的イメージは湧かなかったでしょう。しかし、それは「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束だって同じことです。彼は、具体的には何を言われているのか分かるはずもありません。彼が生きた時代から四千年を経て、何十億人にもなるユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒が、自分のことを「信仰の父」として敬うことになるなど、想像すら出来なかったはずです。そして、彼にとっては、そんなことは全く関係ありません。彼はただ、滅び行く人間の一人に過ぎない自分に与えられた神様の招き、その促しに応えて生きることしか出来ませんし、それがまた神様が求めておられることなのです。 その彼が、いわゆる「約束の地カナン」において為した最初の行為、それが、礼拝です。 「アブラムは、彼に現われた主のために、そこに祭壇を築いた。」 そして、その後、彼はさらに旅を続け、 「西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」 のです。 彼は、各地で主に礼拝を捧げます。カナンの地、それは後に出てきますように、ソドムとゴモラのある地でもありますし、いずれ出エジプトをしたイスラエルが徐々に定着をし、そして徐々にカナン人の神々になびいていく事にもなる地です。カナンの地とは、人間の欲望の投影に過ぎない礼拝が盛んに捧げられ、神など誰も信じていない汚れた快楽に溺れる人々がいる地なのです。そのカナンの地を巡り歩きながら、主に祭壇を築いて、その名を呼びつつ生きる。主に礼拝を捧げながら生きる。それがアブラハムに与えられた使命です。 その時の礼拝、それは後にアブラハムがソドムとゴモラの罪が赦されるように神様に願うことにも現われていますが、世の罪を執り成す祈りの礼拝でしょう。世の人々の罪が赦されますように、そして、世の人々が一人また一人と主を礼拝する者となりますようにと祈る。主を礼拝する中で、人は、主の祝福を受けて生きることが出来るのです。そして、すべての人間を祝福することこそが、主なる神様の願いなのです。その願いを実現していくための人生、その願いの実現を祈り求める礼拝、そういう「主のため」の礼拝が、ここにはあるでしょう。アブラハムの礼拝は「自分のため」の礼拝ではないのです。 そして、彼のこの礼拝は、創世記二二章にありますように、独り子であるイサクを捧げる礼拝に行き着くのです。そこで神様は、アブラハムにこう仰います。 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった。」 そして、アブラハムが目を上げてみると、後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていたのです。アブラハムは、その羊を捕らえて「焼き尽くす献げ物としてささげ」ました。 羊の犠牲、それは今日の午後の主題講演においても出てきます。それは生と死を分けるものです。羊の血が流され、その血がイスラエルの家の柱と鴨居に塗られる時、その家には死の使いが入り込まず、初子が贖われますが、その血が塗られていないエジプトの家には死の使いが入り、その家の初子が死ぬという恐るべき出来事が起こります。そして、その出来事を通して、ついにイスラエルは、エジプトの奴隷状態から解放されて、神の民として歩み始めることが出来る。そういうものとして、小羊の血が流されます。 そして、新約聖書において証しされていることは、私たちの救い主、主イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」として、この世に来て下さったということです。そして、過ぎ越しの祭りの時に、あの十字架の上でご自身の血を流してくださったのだということなのです。神の独り子が、ご自分の死によって私たちの罪を贖い、新しい命に生かすために復活し、聖霊を注ぎつつ、派遣してくださるのです。その出来事が起こったのは十字架の死から三日目、「週の初めの日」つまり日曜日のことです。その消息をヨハネによる福音書は、こう告げています。 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。」 これが、主イエスが復活された日に起こったことです。不信仰で裏切り者の弟子たちが暗い心を寄せ合いつつ一つの部屋に集まっている。その部屋の真ん中に、突然主イエスが立って下さるのです。闇の世に輝く光として、決して闇に負けない命の光として、立ってくださる。そして、弟子たちの罪、弟子たちの裏切りの徴でもある十字架の傷、ぶっとい釘が打たれた手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡、そのあまりにむごい傷跡を見せながら、しかし、「あなたがたに平和があるように」と仰ったのです。それは、「わたしの十字架の死によって、あなたがたの罪は、赦された」という宣言であり、祝福です。そして、即座にこう仰った。 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 三日前に逃げた弟子たちです。主イエスのことを「知らない」と言ったペトロもいます。しかし、主イエスは、まるで何事もなかったかのように、彼らに聖霊を吹きかけるのです。ただ肉体が生きているだけの人間を霊的な人間に造りかえるために、新しい人間として生かすために、礼拝する人間を誕生させるために、主イエスは御言葉と共に聖霊を吹きかけ、そして、この部屋から弟子たちを外の世界、死の闇が支配しているこの世に派遣するのです。 二千年前のある週の初めの日に、エルサレムの隠れ家で起こったこの出来事。それが今に続くキリスト教会の礼拝の出発点なのです。罪人が主・キリストにまみえ、御言葉と御霊によって罪赦され、新しく生かされ、罪の赦しの福音を証しするために派遣されるのです。これが、今でも毎週の礼拝で起こる出来事でしょう。 私たちが毎週捧げているこの礼拝は、主イエスがご自身の命を十字架の上に捧げて下さり、その死から復活され、弟子たちに平和を告げるために現われて下さったことに始まるのです。この礼拝に、私たちは今日も招かれ、そして、御言葉と御霊を与えられ、罪赦され、新しく造り替えられ、派遣されるのです。赦されたように赦し、愛されたように愛して生きる生活へと派遣されるのです。そこに礼拝から押し出された生活があるのです。「礼拝生活」とは、そういうものです。私たちは、礼拝と生活を分けてしまいがちです。しかし、それでは何にもなりません。礼拝は生活のためにあります。そして、生活が礼拝なのです。それが、「礼拝する人間」というものです。週に一回、会堂に集まって礼拝する人間のことを「礼拝する人間」ホモ・リトゥルガクスというのではありません。この主の日の礼拝によって新しく祝福をもって派遣され、毎日毎日、主に赦され、愛されていることを感謝し、その感謝や賛美がすべての立ち居振る舞いに現われてくる人を言うのです。私たちは、一人一人、そういう「礼拝する人間」になるべく選ばれ、召され、そして派遣されるのです。アブラハムだって、ペトロだって、長い時間をかけて神様に鍛えられ、育てられて、そういう人間になっていきました。私たちだって、神様はきっとそういう人間に育ててくださいます。私たちの望みは、ただ神様にあるのです。神様の真実な愛を信じて、今日よりの歩みを始めましょう。 |