「祝福と試練」

及川 信

創世記 12章10節〜20節

 

その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」
ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。



「その地方に飢饉があり」「その地方の飢饉がひどかった」 と繰り返されます。飢饉があれば人間も動物も食料がなくなるわけで、アブラハムのようなこの地に来たばかりの寄留の外国人、つまり、法的保護もなく、地域住民との昔からの連帯も何もない人間は、真っ先に飢餓難民となってしまうのです。
 冷害や旱魃、そして台風や地震などの自然災害によって大勢の人が死に、また避難する。そういう光景はもう何千年も前からこの地球上で繰り返されているものです。現代でも、アメリカ南部では再びやって来たハリケーンによって、三百万人近い人々が隣の州にまで避難していると言われます。しかし、そこでも車がない、交通機関に乗る金もない、また外国から来て不法滞在をしているような人々は取り残されているのかもしれません。
 九月に読み始めたアブラハム物語は、一二章の一節から九節までが序章で、今日の箇所から本格的に始まると言って良いだろうと思います。そして、序章において物語の主題がすべて出てきます。神様がアブラハムを選んだということ、それは人間の罪によって呪われてしまった世界を祝福に造り替えたいという神様の意思の現われであったこと、そのために子供がいない老夫婦であるアブラ(ハ)ムとサラ(イ)が用いられるということが明確に語られています(これは一一章の系図からの流れですけれども)。そして、神様の召しに全身全霊を傾けて応え、見知らぬ地に旅立ったアブラハムの信仰。そのアブラハムに対して、主が現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されたこと。アブラハムは、その約束を信じてカナンの地を移動しながら、主のために祭壇を築き、主の名を呼んで礼拝し、その礼拝を通して彼自身が神様に祝福され、世界に祝福が広がっていくこと。こういったことが、序章で語られています。以後の物語は、この序章で語られていたことの展開です。
 しかし、その書き出しは実に衝撃的なものです。アブラハムとその妻サラは、その地を襲った激しい飢饉によって、「子孫に与える」と約束された「土地」を離れなければならないのです。さらに、彼らが向かう豊かな国エジプトの王ファラオに妻を取られてしまうということが起こるのです。妻がいなくなれば、子供は生まれません。ですから、ここでいきなり、序章に記されていた「子孫」と「土地」の約束の実現が不可能になるわけです。物語はその開始早々どん底に落ちていきます。
 そして、ここに出てくるアブラハム、それは今まで私たちが心に抱いているアブラハムとは相当に落差があります。これまでは、神様の召しに決然として従う信仰の人アブラハムでした。そして、行く先々で主のために祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝を捧げる信仰の人アブラハムだったのです。
しかし、その彼がいよいよエジプトの国内に入ろうとしたときに、妻のサラにこう言うのです。

「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」

 原文を見てみると、最初に、懇願する時にしばしば出てくる言葉があります。「この状況を察してくれ、頼む、お願いだ」。そんな感じのことを言った上で、妻に向かって「わたしの妹だ」と言って欲しいと、彼は頼んでいるのです。
 何故、こんなことを彼が言うのか?これは古今東西を問わず、権力者というものは一般に、その支配領域の美しいもの、珍しいもの、高価なもの、何もかもを自分の手にしたいと願い、実際に手に入れようとするものなのです。もちろん物だけでなく、武術に長けた者や知略に富んだ者も召し抱えますけれど、美しい女性も召し抱えます。その女性に夫がいる場合、人妻と関係をもつことは姦通となりますから、いっそ殺してしまう。そうやって、はれて美人を召し抱える。そういうことをするのです。イスラエル史上最も有名なダビデ王も、部下の妻バテシバと不義密通をした上で召し抱えるにあたり、邪魔な夫を合法的な形で殺しました。権力を持つと、人間はそういうことをするようになるのです。アブラハムはそのことを知っていましたし、サラもまた同様でしょう。飢饉から始まった危機は、一気にここまで深まります。
 今日は、神様に召され、祝福された信仰の人アブラハムが、こういう危機に直面するとは一体どういうことなのか。そして、彼がここで為したことは何であり、神様がここで為さったことは何であるのか。そういうことが問題なのですけれど、その問題に入る前に、ひょっとしたら、さっきからずっと「不思議だ。そんなことがあるのか?」と心のどこかで訝しがっている方もおられるかもしれないので、その点を少しだけ説明して、本質的な問題に入っていきたいと思います。
 アブラハムが旅立った時、彼は七五歳だったと書かれています。そして、後で分かることですが、妻のサラは一〇歳下です。ということは六五歳です。六五歳で美しい女性は沢山います。それは私もよく知っていますけれど、もっと若くて美しい女性だって沢山います。だとするなら、王が、それなりに歳も進んだ上に難民として下ってきた惨めな外国人を、わざわざハーレムに召し抱えるだろうか?そういう疑問をお持ちの方がおられると思います。これは私自身のかつて抱えた疑問ですし、こういう疑問を抱えたままだと、この先に進めないので、解決をしておきたいと思います。
 天地創造に始まる原初物語もまさにそうでしたが、現在のアブラハム物語の中にもいくつもの資料層があって、それぞれに独自のメッセージや意図を持っていると考えられます。そういういくつかの異なる伝承資料が合わさって一つの物語が出来上がってくるので、具体的に細かい部分をつき合わせると、矛盾点がいくつも出てくるのです。アブラハムに関するそれぞれの地域に根ざした伝承が時代の移り変わりの中で成長発展していくわけですし、そういうものが合わされば、どうしたってお互いの間に矛盾は生じます。そのようにして、アブラハム像は実に複雑にして多様なものになっていくのです。しかし、それは一見荒唐無稽なようで、実は実にリアリティーのあるアブラハム像が出来上がっていくということでもあります。その点は、じっくりと読み進めていかないと分からないことですから、今後もご一緒に読んでまいりたいと思います。(と言っても十月第三週からヨハネによる福音書の連続講解説教を始めますから、創世記は月に一回になりますけれど・・)
 今の話を今日の箇所との関連で言うと、高齢の夫婦に子孫の約束が与えられ、その約束が二五年という年月の果てに奇跡的に実現したという話があり、それがアブラハム物語の一つの大きな筋であり枠でもあります。しかし、ここにありますように、まだ若くて人も羨むような美人の妻を持った族長アブラハムが、様々な試練を経験し、失敗しながらも、神様の力によって救い出され、成長する。そういう話もある。いずれも、事実としてあったことでしょうし、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が経験したことでもあったのです。そういう何らかの事実に基づく伝承が一つに合わさると、サラは、老人のはずが、ある時は若くて美人になる。一体どっちが本当なんだ?ということになるのです。しかし、それはそれとして物語全体として何を言い、この文脈の中で何が語られているのかを、捉えないと意味はありません。
 しかし、今まで自分で言ってきたことを根底からひっくり返すようなことを言いますが、ひょっとしたら、この時のサラはまだ十分に若いのかもしれません。何故なら、アブラハムたちの寿命は長いのです。原初物語のアダムやノアたちのように九百歳以上ということはないのですが、サラは一二五歳で死に、アブラハムは一七五歳です。そういうことを考えると、七五歳とか六五歳というのは、現在で言えば、三〇代後半から四〇代後半という感じになりますから、まだまだ若く、その美しさは人々の目を奪ったのかもしれません。
 まあ、そういう色々なことを踏まえつつ、最後は現在の形になっている物語が何を言わんとしているかを素朴に考えることが大事でしょう。
 とにかく、アブラハム物語が本格的に始まったその時に、すべての前提である二つの約束、その実現が不可能になってしまうという事態が起こりました。そして、神様がアブラハムに与えた使命、すべての氏族の祝福の源になれという使命を、彼はここで果たしているのか?という問題もあります。しばらく、この問題について考えていきたいと思います。
 アブラハムは、約束の地カナンに飢饉が起きた時、何を考えたでしょうか?
 神様の召しを信じて、はるばる危険な旅をしてきた。そこで神様は、俄かには信じがたい約束、不妊の女であることが明らかな妻を持つアブラハムに子孫が与えられるとの約束、一介の遊牧民に過ぎないアブラハムにこの土地を与えるという約束をされたのです。しかし、アブラハムはこの時は、その約束を信じ、自分に与えられた使命を果たすべく、礼拝を捧げつつ約束の地カナンの旅を続けていたのだと思います。
 しかし、その平和な生活も長くは続きません。この地に来て程なく、ひどい飢饉が襲ってきたのです。これはもちろん、一つの生存の危機でしょう。しかし、アブラハムにとってはむしろ信仰の危機であったと思います。彼は、神様が考えていることが分からなかったでしょう。この地に留まって自分たちが飢え死にすれば、子孫の約束も土地の約束も全く実現しないのですから。そして、天災に対して、人間は全く無力であり、為す術はないのですから。
 この時、アブラハムの心の中で、何かが崩れたという感じもします。「なんだ、神様。あなたの祝福って、一体何?」という疑心暗鬼、あるいは反抗心みたいなものも芽生えたかもしれません。ここで、彼は主の名を呼んで祈ったという形跡は全くありません。神様に訴えることも、お尋ねすることもなく、「飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」とあるだけです。なんか非常に短絡的というか、自暴自棄的な感じもします。しかし、いずれにしろ、このエジプト行きは彼の決断、いや独断だと思います。
 そういう独断によって歩み始めた彼の心の中には、恐れが生じるのです。その恐れは、彼ら一行が、エジプトの支配領域に近づいた時に最高潮に達します。彼はここで、何よりも自分が殺されることを恐れているのです。サラを妹にしてしまえば、妹を差し出す兄は金品を与えられ、殺されることはありません。そして、実際サラは、彼の異母兄姉でもあります。しかし、かつてはそうであっても、今は妻です。妻だから、「妹です」と言ってくれと懇願しているのです。万が一の時、そう言えば、自分は殺されないし、サラだって夫が殺されないで済むし、財産も入るし、すべて万々歳だということです。彼はそう考えた。
この時の彼は、神様が自分に与えてくださった約束のことも、使命のこともまるで考えていないのです。先週の説教題は、「神様への礼拝は、誰が、何故するの?」というものであり、アブラハムが礼拝する理由とその目的について語りました。そして、今日の箇所は、礼拝から始まる一週間の歩み、つまり過酷な現実が渦巻くこの世における生活が記されていると言って良いように思います。週の初めの日の礼拝において、私たちは約束と祝福を与えられ、使命を与えられてこの世での生活を始めます。しかし、その時、礼拝の中で与えられたすべてのことを忘れ、神様に祈らず、己の知恵と才覚に頼み、そして自己保身に汲々としている場合が多いのです。そういう私たちの姿、それがこの時のアブラハムの姿に重なって見えてきます。
 事態は、アブラハムが想像したとおりに進みます。エジプト人はサラを見て、大変美しいと思い、ファラオの家臣たちも見て褒めたので、サラは宮廷に召し抱えられ、アブラハムは「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなど」をもらうことになります。これは多分、時代が下るにつれてどんどん尾ひれがついて巨額なプレゼントになったのだと思いますけれど、とにかくアブラハムは難民としてエジプトに下ったのに、ひと財産築くことになる。これが普通の難民だったら、メデタシメデタシのハッピーエンドの話です。
 しかし、彼はそういう人間ではないのです。呪われた世界を祝福に造り替えるべく神様が選び、召し出した人物です。彼は、その時から、ただ神様の御心を尋ね求め、その御心に従って生きるべき人間なのです。彼は、実際、これまでそうでした。「主の言葉に従って旅立った。」「彼に現われた主のために、そこに祭壇を築いた。」「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」こういった言葉は、そのことを現しています。しかし、エジプトに下るとき、彼は主の御心を問うたのか?エジプトに入ろうとしたとき、彼はそこに「祭壇を築いて、主の御名を呼んだ」のか?そんなことはしていません。実にあっさりと、エジプトに下り、「そこに滞在する」ことに決めているのです。そして、妻を失いましたが、その見返りに多くの財産を得たのです。
そのことを彼が喜んでいたかどうかは分かりませんけれど、ここで物語は全く思いがけない仕方で急展開をします。

「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。」

 「ところが主は」。人間の間では「ことが決着した。巧くいった」と思ったそのことが、神様から見ると、実はとんでもない「過失」であり、「失敗」である。そういうことがあります。また、人間が「すべて巧くいった」と思ったその瞬間に、神様が介入してくる。そういうこともあります。もちろん、その逆もあります。「何もかも失敗してしまった。もう自分ではどうにもならない。ただ苦しいだけ。」そういう時に、神様が介入してくる。介入してきてくださる。そういうこともあります。「ところが主は」、これは大きな言葉です。
 ところで、介入してこられた主は、ここで何をされたのでしょうか?「ファラオの宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」のです。「アブラハムの妻サライのことで」です。アブラハムは妻に「妹です」と言ってくれと懇願しました。自分の命乞いを目的として頼んだのです。自分の命と引き換えに身体を売ってくれと妻に頼んだということです。そして、誰もがサラの言葉を信じて、サラはアブラハムの妹だと思った。ですから、サラがファラオの側室、あるいは何番目かの夫人としてハーレムに入ったことは、正当な手続きを経たものであり、「妹」を差し出したアブラハムは莫大な報酬を手にしました。ファラオには法的な違反も、倫理的な落ち度もありません。彼は当時の風習に従って、当然のことをしたまでです。
 しかし、主は彼と宮廷の者たちを撃たれたのです。法的には問題ない、当時の倫理としても問題ない、ファラオの主観としても疚しいところはないはずです。そのすべての点で問題があるのは、むしろアブラハムです。けれども、主はまず最初に、ファラオを撃ちました。そして、聖書には何にも書いていないのですから、推測するしかありませんけれど、何らかの方法で、その病気の原因が、「アブラハムの妻サライ」にあるということを教えたのでしょう。ファラオは即座にアブラハムを呼び寄せました。そして、こう言ったのです。

「あなたはわたしに何ということをしたのか。」

   ヘブライ語だとマー ゾート アッシータという発音で、私はよく覚えているのですけれど、この言葉とほぼ同じ言葉がこれまでに二回出てきているのです。どこだとお思いでしょうか?

「(あなたは)何ということをしたのか。」

 これは、蛇に唆されて禁断の木の実を食べたエバに向かって神様が仰った言葉です。直訳では、「あなたのしたこのことは何か。」
 そして、次に出てくるのが、実の弟アベルを殺した直後のカインに対する神様の言葉です。

「(あなたは)何ということをしたのか。」

 つまり、これは取り返しの付かない罪、重大な罪を犯した人間に対する神様の嘆きの言葉だし、詰問でもあるのです。アダムに対しても、カインに対しても、神様は痛切な思いをもって、また愛と信頼を裏切られた悲しみをもって、「あなたは、なんということをしたのか」と告げられたのだと思います。
 そして、今、その言葉が、天地の造り主にして、主なる神様を知らぬエジプトの王ファラオの口から、神が選び立てたアブラハムに対して告げられているのです。何ということでしょうか?自分の妻を自分の妻とせず「妹です」と偽らせたのは、私たちの信仰の父アブラハムです。この偽りの言葉を、しかし、本当の言葉だと信じてファラオはサラを「妻として」召し入れたのです。しかし、それはファラオに落ち度がなくても、主なる神様がお許しになることではありませんでした。だからこそ、神様は、ファラオを初めとしてエジプトの宮廷の人々は恐ろしい病気で苦しめられたのだと思います。そして、ある意味では、彼に姦淫の罪を犯させなかった。犯すことから守ってくださったのです。
 そして今、この異邦人の王様が、つまり異教の神々の代表者でもある王が、今、主なる神の代弁者として、アブラハムの罪を、その隠れた恥を暴く役割を演じさせられているのです。そして、異邦人の王の言葉によって、つまり主なる神を信じる信仰者とは程遠い人物の言葉を通して、己の深い罪を白日の下に曝されて恥じ入るしかないのは、物語の序章、私たちが現在使っている聖書では前のページまでは完璧な信仰者であったアブラハムなのです。何という皮肉であり、何という真実か、と思います。
 物語の結果としては、アブラハムはエジプトから強制退去させられます。妻はもちろん返されました。贈られたプレゼントは全部そのまま持って行くことが許されました。その後、彼が何処に向かい、何が起こるのか?私の気持ちとしては、はやくそちらを読んでいきたいのですけれど、今日は今日で、この箇所で起こった出来事が何であったのかを、もう一度ゆっくりと考えておきたいと思います。
 今日の説教題は「祝福と試練」としました。祝福を与えられた者、それは順風満帆な人生を歩むものではないのです。そもそもそんな人生があるのかどうか、私は知りませんが、少なくとも聖書の登場人物で、祝福された人物が何人も出てきますが、彼の人生は皆波乱万丈です。私は彼らの誰も羨ましいとは思えません。アブラハムを筆頭に皆、怠惰にして弱い私からしてみれば、「もう勘弁してよ」と泣きたくなるような試練の数々を経験します。もし、その試練が祝福の裏返しとしてあるのなら、祝福など要らないから、試練も与えないで欲しいと願いたくなります。
 しかし、私たちはもう時既に遅いのです。私は最近の説教の中で、しきりと「私たちキリスト者はアブラハムの子孫なのだ」と言ってきました。これは事実だから仕方ないのです。ここで言う「アブラハムの子孫」とは、神様に選ばれて、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスの導きに従って生きる人間、キリスト者のことです。この礼拝堂の中にいる多くの人は、既に信仰を告白して洗礼を受けたキリスト者です。そのこと自体が、アブラハムに与えられた祝福を全身全霊で受けているということ、受けてしまったということなのです。もう遅いのです。今更取り消せないのです。その事実は。
 そして、信仰を与えられるという祝福を受けるということは、即、裏切りの罪を犯す可能性の中に生きるということなのです。主イエスを裏切るのは弟子たちです。弟子が弱い人間だから裏切ったのではないのです。もちろん、彼らの信仰が弱かったことは事実です。しかし、彼らしか裏切りようがないのです。主イエスを信じて従いますと約束した人間しか、主イエスを裏切ることは出来ないのです。大祭司とか律法学者とか、主イエスを十字架につける首謀者たちは、もちろん、そのことにおいて罪を犯しているのですけれど、主イエスに対して裏切りの罪を犯しているわけではありません。この時主イエスを裏切っているのは、最後の晩餐を共にし、「あなたを知らないなどと決して言いません」と口々に告白したペトロを初めとする弟子たちです。主イエスに選ばれ、召し出された弟子たち、そして、主イエスへの信仰の告白をした弟子たち、彼らが主イエスを裏切るのです。そして、私たちキリスト者は、広義の意味で皆、キリストの弟子として、キリストに従う者たちなのです。そこに、先週の説教の言葉で言えばホモ・リトゥルガクス「礼拝する人間」の姿がある。神様に創造された人間の本来の姿、祝福に満ちた姿があるのです。しかし、そういう人間に、いやそういう人間だから、試練が与えられるのです。愛されているからです。
 ヘブライ人への手紙一二章に、こういう言葉があります。少し長いのですが、読みたいと思います。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。


 アブラハムは、この時以後、また試練、鍛錬を受け続けますけれど、その中で彼の信仰は鍛えられ、そして、ついにその信仰によって義という平和が与えられるに至りました。信仰義認、信仰による罪の赦し、救い、それはやはり彼に始まったことなのです。
 神様は、飢饉一つで疑心暗鬼と反抗心に捉えられ、恐れに捕らわれ、知略策略で生き延びようとする惨めな罪に落ちていったアブラハムを、エジプトの地まで追いかけていき、なんとエジプトの王、ファラオの口を通して、彼が一体「何をしたのか」を教えてくださいました。どんなに惨めな人間になってしまったかを教えてくださったのです。そのことを通して、彼は一つ成長します。そして、礼拝へと立ち返ってくる。その姿を私たちは来週見ることになるでしょう。
 神様は憐れみ深く、私たちが地球上の何処に行こうとも、そこにいます神様であり、私たちは逃げることも隠れることも出来ませんし、また逆に、見失われることもありません。これからの人生の中で、私たちは様々な天災や人災に遭うでしょうし、祝福のシュの字も感じられないような試練を経験するかもしれません。しかし、それは主の愛による鍛錬であるかもしれないのです。また、絡みつく罪に負けてしまっているから、祝福を感じられないのかもしれません。しかし、どんな時もどんな場でも、そこに十字架の死を耐え忍び、今は神の玉座にお座りになっている主イエスが聖霊において共にいて下さるのですから、主イエスに心を開き、主イエスをこの身と心に迎え入れて、罪をかなぐり捨て、鍛錬には耐え忍び、義という平和に満ちた実を結ぶために、自分の足でまっすぐな道を歩みたいと願います。
 主イエスは、こう仰いました。

「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ一六章三三節)
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