「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」
今日は久しぶりに創世記の説教です。一二章から始まるアブラハム物語も今日で五回目となります。老人になって子どもがいないアブラハムとサラの夫婦が、神を信じ、礼拝しつつ生きる人生へと召しだされ、その旅に幼い頃に親を亡くした甥のロトがついて行く。そして、彼らは、はるかチグリス・ユーフラテス川の辺、つまりメソポタミア地方から南下して、今で言うパレスチナの地、聖書ではしばしば「カナンの地」と言われる地にまでやってきました。彼に与えられた使命は、一切を神に委ねて、その導きに従って生きることです。ただその信仰において、彼は神様に義とされる。つまり、救われる。そして、それはすべての人間に神を証しし、信仰へと招き、祝福に与らせる。それが彼に与えられた使命なのです。彼自身、いくつもの試練に遭い、失敗や挫折を繰り返しながら、その信仰と使命を生きていきます。それがアブラハムの生涯です。そして、私たちもまた、つたない信仰の歩みではありますが、信仰を生きる者として、アブラハムの生涯を他人事ではない思いで見つめ、ある意味では、共に生きているのです。
先日、幼い頃から親しい牧師(女性)と車で出かけることがあって、その車の中で短時間でしたが話す機会がありました。その中で、彼女のちょっとした悩みを聞きました。彼女が今仕えている教会でも七五三の祝いの月である十一月に幼児祝福式というものをやるそうです。その教会は、一人の女性を中心とした家庭集会が教会となって二〇〜三〇年程度の若い教会ですけれども、その女性の意向で最初からそれは大々的にやってきたそうです。その日は、まさに神社のお宮参りのように、親もお祖父ちゃんお祖母ちゃんも晴れ着を着て、子どももど派手な晴れ着でやってくるのだそうです。そういう伝統に、私の友人である牧師は戸惑いを隠せない。これは教会が日本の風習、あるいは異教的な迷信に引きずり込まれていることなのではないか、そんなことをやって、キリスト教の伝道が出来るのか?日本の宗教との違いは違いとして鮮明に主張すべきではないのか?教会にはちゃんと教会暦があって、クリスマス、イースター、ペンテコステという三大祭があるのだから、それ以外の祭りをすべきではないのではないか?考えれば考えるほど色々と疑問がわくわけです。
これは余談ですが、私は牧師の家に生まれ育ちました。当時の私の教会では、十一月には収穫感謝祭(皆が野菜とか果物を持って来て、講壇の前に並べ、礼拝の後に焼き芋大会みたいなものをしていた)というものを随分大掛かりにやっていました。でも、幼児祝福式などはなかったと思います。私は、この季節に綺麗な袋に入った「千歳飴」を手にして歩いている小奇麗な子どもたちが羨ましくて仕方ありませんでした。神社に行きたいとかお払いをして欲しいとか思ったわけではなく、「あの飴が欲しい」と切実に思ったのです。そして、母に買ってくれと頼むのですが、母は絶対に買ってくれないのです。甘い物を食べると虫歯になると考えたのか、神社と関係するものは買わないと考えたのか、贅沢はさせないししないという感じの母のしつけとしてだか、よく分からないのですが、とにかく、泣きながら頼んでも絶対に買ってくれないのです。見かねた人が、「じゃあ、僕が買って上げる」と言っても、母は「駄目です」と断固断るのです。当時、私は小学校の一年だったと思いますけれど、もう悲しくて悲しくて、胸が張り裂けんばかりでした。本当に、この人は鬼だと思った。そして、そんなある日、私の頭が悪いのをいつも訝しがっていた父親が、何故か庭のベンチの上で、算数の特訓を突然始めました。寒い日でしたけれど、いきなり「三四七は?」とか言うのです。それは三足す四足す七は?という意味ですが、即座に暗算して答えなければならない。私は、体育だけはいつも五でしたけれど、主要科目は全く駄目なのです。多分三〇分くらい、そういうしごきを受けた後で、父が、「七五三は?」と言うのです。これは、当然のことながら、七足す五足す三は?という意味であることは明白なのですが、私は「七五三」という言葉を聞くと、もうどうしても、算数のこととは思えず、その頃はもうしごきに堪えかねて泣き出しそうなのですが、つい「飴一本」と答えてしまった。その時、自分でも、自分の答えが情けなかったのですけれど、どうしてもそれ以外の答えが思い浮かびませんでした。それ以来、父も、もう完全に諦めて、私に勉強をさせようとか思わなくなったので、それはそれで良かったのですが、とにかく、私には忘れることが出来ない思い出です。
問題は、キリスト教の信仰と日本の神社信仰、あるいは仏教、日本では神仏混合という面もありますから、まあ「日本の宗教」と言って良いのかもしれませんけれど、そういうものとの関係の仕方をどうするのか?という問題です。これは牧師と言っても人それぞれの対応の仕方が在りますし、クリスチャン家庭といわれる家でも色々でしょう。私の家でも、七五三の飴は決して買ってくれませんでしたけれど、二月の節句には豆を歳の数だけ食べて、「鬼は外、福は内」なんていって豆を投げていたこともありますから、親が何を考えていたのか今もって分かりません。「鬼なんて、聖書にはいないだろう??」と子供心に不思議でしたけれど、楽しかったので黙っていました。今日の箇所、特にその後半は、実はそういう問題と触れるのです。
この礼拝の後に執り行われる幼児祝福式、これもまた先程の牧師が悩んでいたように、明らかに七五三を意識したことです。神でも仏でも何でも有り難がる風土では、教会に通っていたとしても、教会で子どもに対する祝福の祈りを捧げてくれなければ、親を初めとする親戚からの要望もあって、神社に行ってお払いをしてもらうということが実際にいくらでもあるらしい。もし、そうなら、「教会でも祝福の祈りをしますから是非教会にいらしてください」というのが、多分、日本の教会が十一月に幼児祝福式をするようになった切っ掛けだと思います。しかし、それは日本の宗教や慣習に対する敗北なのではないか?それが先の牧師の疑問というかわだかまりです。これはよく理解できます。中渋谷教会は、私から見ると、子どもの存在を感じることが出来ない教会でした。しかし、子どもがいない家というのは跡継ぎがいない家ということですから未来がありません。そして、「教会は神の家族である」と、私は固く信じていますから、ここ数年、大人と子どもが交わりを持てる機会をいくつも設けてきました。そして、去年は土曜日にこの礼拝堂で幼児祝福式をし、これまで教会に来たことがない教会員のお子さんとかお孫さんとか、CS生徒の友達とかも来てくれました。その後、「来年は、是非、礼拝の後で皆さんの前でやって欲しい」という意見が出され、「それでは今年はそうしよう」ということでするわけです。ただ、式というほど、にぎにぎしくするのではなく、お子さんたちを皆さんに紹介し、私が代表してお祈りをします。
私は、しかし、日本の宗教や慣習に敗北したり、なびいてこういうことをするのなら、やらない方が良いと思います。私は友人であるその牧師に、中渋谷教会でこの季節に幼児祝福式を始めた意図を大体こういう筋で説明しました。一つには、教会でやらなければ神社に行ってしまうという現実がある。べつに神社を敵対視しているわけでもなんでもないけれど、私たちの信仰は、神様が命を創造し、救ってくださることを信じる信仰だし、神様の祝福を子どものために祈ることは、極めて信仰的なことです。神社の祝福のしるしは「千歳飴」だけれど、教会では「永遠の命」のしるしの飴を去年はあげた。桁が違う。「千年」と「永遠」では勝負にすらならない。そして、十一月は幸い、クリスマスも近いから、アドヴェント・カレンダーもあげて、「クリスマスにもお出でね」と誘うことにしている。こういう機会に、普段礼拝に来ていない親御さんや祖父母の方も来て下さるし、よい意味で伝道にもなるし、日本の風習や宗教に敗北してやっているのではなくて、むしろ、それをも利用して、主イエス・キリストの祝福を伝えるためにやるのだ。
しかし、クリスマスなどは、教会が準備するよりも早く日本のデパートは真剣に準備しています。讃美歌は客寄せの音楽ですし、もう完全にクリスマス商戦の道具として利用されているのです。しかし、そのクリスマス、意味は、「キリスト礼拝」ですけれども、もう長いこと十二月二五日に祝われています。しかし、現実に主イエスが誕生したのがいつだったかは分かりません。そして、聖書に書いてあるように、その日の晩に、羊飼いが野宿をしていたことが史実であるとするならば、北半球で冬にあたるこの季節であるはずもないことです。しかし、四世紀頃には各地の教会で、キリストの誕生が十二月二五日に祝われるようになった。この日は、ローマ帝国の冬至の祭り、あるいは太陽神オシリスの祭りとか、ミトラス教の不滅の太陽の誕生祭とかいろいろな宗教で祝われていたのです。しかし、そのことを教会側が利用して、この日にこそ、預言者マラキが預言した「義の太陽」であるキリストが誕生した日なのだと位置づけたのです。つまり、他の宗教の慣習や祭りを利用して、そこにもっと深いものを入れていくのです。もみの木がクリスマスのシンボルになったのだって、ゲルマン人が拝んでいた木をキリストのシンボルとして換骨奪胎して取り入れてしまう。そういうことだったのではないでしょうか。キリスト教の伝道は、その当初から、そういう一面をもっていました。そして、その土地の風習に土着しながらの伝道は、一面で、キリスト教が異教化する危険性をも秘めていたし、今も秘めています。
先程お読みいただいた創世記一四章は独特な箇所です。前半に記されていることは、地図の資料をお配りしておきましたが、メソポタミア地方の王たちが連合してカナンの地のソドムとかゴモラなどの王たちを攻撃するためにはるばるやってきたという話です。死海周辺には鉱山があったらしく、その利権を巡って、近隣のソドムとかゴモラを含む小都市国家の王たちとはるかに北にある国の王たちの間にいざこざがあり、ついに小都市国家が連合して、大国の支配下から逃れようとしたのだけれど、大国もまた連合を組んで攻めてきて、その土地の財産や食料、さらに捕虜も沢山連れ去るという強硬手段に出た。恐らく、そういうことが書かれている。それが何故、半遊牧民として生きているはずのアブラハム物語に組み込まれているのかと言えば、一つは、彼が生きている世界は戦争だってある世界だということを教えたいからでしょう。いつの世にも利権を求める戦争はある。
さらに、アブラハムにとっての甥であるロトが、この戦争で捕虜として連れ去られてしまったことが、アブラハムが登場する必然性を生み出します。ロトは、一三章で既にこの世の富や生活の安定を求めて遊牧生活を捨てて、富と繁栄の町、また享楽と淫蕩の町ソドムに定着したのでした。
しかし、一三節以降のアブラハムは、およそ遊牧民の家長ではなく、聖書で言えば「士師記」に出てくる士師、自分の部族を守るために外敵に対しては敢然と戦う士師のような英雄です。これは半遊牧民の一家の長とは全く違うアブラハムであり、前後の文脈ともロトの奪還という以外は全く結びつきません。しかし、ここでとにかくアブラハムは「すべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した」のです。そのことを聞いて、逃亡中にアスファルトの穴に落っこちて九死に一生を得たソドムの王は、いそいそとアブラハムを迎えに出ます。それと時を同じくして、サレム(平和という意味で、多分エルサレム「神の平和」の王)の王であり「いと高き神」の祭司でもあったメルキゼデクも、パンとぶどう酒をもって来てアブラハムを祝福します。祝福を受けたアブラハムは、彼がもっているすべての持ち物の十分の一をメルキゼデクに「贈った」とあります。これは、士師時代よりもずっと後の王国時代のエルサレム神殿における祭司制度、あるいは礼拝制度を民に教えるための話だ。アブラハムはちゃんと祭司の祝福に対して十分の一の献金をもって応答したのだぞと教えるために作られた話だ、と学者たちは説明します。この部分だけを読めば、そういう説明も面白いのですが、アブラハム物語全体の中で、この箇所を読めば、そういう説明だけではない、少なくとも私にはもっと興味深いことがいくつかあります。今日は、その一部にしか触れることは出来ません。
ここでは明らかにソドムの王とサレムの王であり祭司でもあるメルキゼデクが比較対照されています。ソドムの王は二節ではベラという名前が出ていますが、ここではそれすら無視されています。彼は、あくまでもこの世の功利と打算で生きる人物の代表だと思います。機を見て大国に謀反を起こし鉱山の利権を自分たちで独占しようと企て、その戦争に敗れると、今度はその配下の者を使って戦い凱旋してきた男と交渉して、なんとか利益を得ようとする。そういう人物です。彼は言います。
「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください。」
戦争というものは、現代は、さすがに人を財産として奪い取るということはあまりしませんが、つい最近までは、戦争の目的の一つは労働力としての奴隷の確保でした。日本も朝鮮半島の人々や台湾の人々などを強制連行し、強制労働に服させたり、戦争に駆り出したりしましたし、ソ連もまたシベリア開発に大量の捕虜を使いました。世界中の国々が、戦争によって土地とそこにある資源と同時に人を捕虜とし、奴隷とし、労働力として酷使してきたのです。それが戦争です。ソドムの王は、そういう戦争をして、それに敗れたのです。
そして今、すべての財産と捕虜を奪還してきた人物がいる。当然、その人物、アブラハムは、財産も人もすべて自分のものと主張するだろう。しかし、アブラハムは最近やって来た新参者だし、交渉すれば、人くらいは返してもらえるかもしれない・・・そう思ったのでしょう。
しかし、アブラハムの答えは、彼の予想とは全く違うものでした。それはレベルが違うというか、方向性が違うというか、彼には全く理解できないものでした。
アブラハムは、この戦争で人も物も何も要らないと言う。彼にとって、戦争は利益を得るためのものではなく、理不尽に奪い取られた他人の財産と、連れ去られた親戚を初めとする人々を解放するためであって、いかなる意味でも、裕福になるためではないのです。「戦争をした」という行為が同じであっても、動機も目的も全く違う。その点について、一切の誤解のないように彼は宣言するのです。糸一筋も靴ひも一本も要らない、と。ただ一緒に戦った同盟者たちには分相応の分け前を得ることが当然だ。
しかし、何故、彼は糸一筋も靴ひも一本も要らないのか?彼は、こう言っています。
「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を挙げて誓います。」
「天地の造り主、いと高き神」。この言葉は、その直前にサレム(シャローム。平和)の王、メルキゼデクが口にした言葉です。メルキゼデクは、新約聖書のヘブライ人への手紙の中で、キリストの比喩として出てきますから、そちらでご存知の方もおられるかと思いますが、ここでの彼はカナンの地の政治と宗教の代表者としてのメルキゼデクです。そのメルキゼデクが、ここで口にする「天地の造り主、いと高き神」、これが何であるかは実はよく分からない。ある人は、カナンの地に住む人々が信仰していた神、あるいはその最高神だと言います。しかし、そういう特定の神を言っているのか、もっと漠然としたものを言っているのか、それはよく分からない。しかし、彼は、ここで天地の造り主、いと高き神が、アブラハムに勝利を与えて下さったのだと信じており、その神の力を賛美し、その神の祝福の中で、アブラハムがこの地で生きていくことが出来るように祈ってくれた。それは多分確実でしょう。これは真に有り難いことです。アブラハムもまた、ある面からいえば、心から感謝したに違いないのです。メルキゼデクは、ソドムの王のように全くの俗物ではなく、俗の世に生きつつも、「天地の造り主なるいと高き神」を畏れる信仰をもっており、この世において起こること(戦争もその一つ)の背景に、その神の力を見る目をもっています。彼から見ると、敵に勝ったのはアブラハムの力ではなく、「いと高き神」が、「敵をアブラハムの手に渡された」のです。ソドムの王が、全くこの世的、水平的な目線しか持っていないとしたら、メルキゼデクは天地をつなぐ垂直の目線、神と人を繋ぐ垂直の関係を見る目を持っている。そう言ってよいでしょう。
そういうメルキゼデクに対して、アブラハムは最大限の敬意を払い、戦争で奪ったものではなく、自分の持ち物の十分の一を彼に贈ったのです。ですから、損得勘定という面から言えば、彼は戦争に勝利したのに、むしろ財産の十分の一を失うわけですから、大損です。「十分の一」というのは、聖書の中では献金の基本ですけれども、ここでは、メルキゼデクの信じている神様に献金として「捧げた」のではなく、敬意と感謝の印に贈ったのです。その点は、きちんと理解しておかないといけないと、私は思います。
そして、アブラハムはここで「天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います」と言っています。「天地の造り主、いと高き神」まではメルキゼデクの言葉と全く同じです。しかし、その後に、アブラハムは、その神は「主」であると言っている。「主」というのは、アブラハムの神、またイスラエルの神の固有名詞ヤハウェという名前の翻訳です。後にモーセに対して、神様は、こうお答えになりました。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」その「ある」という言葉がヤハウェという名前の由来です。これは神様がどこか遠くに「います」ということではなく、「あなたと共に生きる」という意味で「います」ということなのです。このアブラハムの神「主」が、実は「天地の造り主なる神」であり、「いと高き神」であることを彼は証しし、さらに「私は、この神の愛を信頼し、この神に生かされているのだ」と、その信仰を証ししているのだと思うのです。その信仰の証しの相手は俗物のソドムの王であり、同時に、尊敬すべき異教徒であるメルキゼデクです。富の損得勘定という全く下らない次元でしか生きていないソドムの王に対しては、「悔い改めて、この神の愛を信じなさい。そして、祝福を受けなさい」と招き、メルキゼデクに対しては、「あなたが信じている神は、実は主なる神なのです。どうぞそのことを知ってください。そして、私と一緒にこの主を礼拝しましょう」と招いているように、私には思えます。メルキゼデクに対して、非常な敬意を払いつつ、同じ主なる神への信仰へと招いている。
新約聖書に話を移しますけれど、たとえば、主イエスが生まれた時代、それはローマ皇帝アウグストスの時代でした。彼は「アウグストスの平和」あるいは「ローマの平和」と言われるような平和を築いた皇帝です。アウグストスという言葉自体が、「崇高なる者」という意味ですが、彼は、「神の子」と呼ばれましたし、「救い主」とも言われた。そして、彼が生まれた誕生日は「福音」グッドニュースとさえ言われたのです。しかし、そういう世にあって、教会は、ユダヤ人に訴えられ、ローマの総督によって犯罪人として十字架につけられて殺された方を神の子、キリスト、救い主であると信じ告白し、この十字架につけられた方は、その死から甦られた。だからこそ、「平和の主」であり、この方の誕生こそ喜ばしき「福音」だと宣言したのです。
「アウグストスの平和」とは、結局、数え切れない人間を殺して、最早刃向かう者がいない状態のことです。しかし、そのように、多くの人間の血を流すことで作った平和は、再び多くの人間が血を流す戦争によって破壊されるのです。主イエスは、「剣を持つ者は剣によって滅びる」と仰いましたが、それは本当のことです。
「平和」とは、敵を殺して作るものではありません。そんな平和を作りだす者を「平和の君」だとか、「神の子」だとか、「救い主」だといって凱旋門で歓呼して迎える人間というのは、ソドムの王と同じです。損得勘定、地上のこと、水平の次元しか見えない惨めな人間です。しかし、そういう者にもアブラハムは、天地の造り主、いと高き神、主を証しし、その神を信じて生きる心強さ、その喜びを証ししました。また、サレム(平和)の王であり祭司であるメルキゼデクのように、同じ出来事の中に、垂直の次元があることを見抜くことが出来る人間にも、神様の固有名詞であるヤハウェ、主を証し、その信仰へと招いたのだと思います。
それと同じように、生まれたばかりのキリスト教会、クリスチャン、キリスト者と呼ばれる者たちも、真の平和、サレム(シャローム)は、「主なる神が、神の独り子を通して造り出して下さった平和、ただそれだけなのです。この世の支配者、権力者が作り出した平和など平和ではありません。そして彼らは神の子でも、救い主でもありません」と証ししたのです。教会が聖書を通して証言していることは、こういうことです。
「天地の造り主、いと高き神である主が、その独り子イエス・キリストを通して、この世に創造して下さった平和、それは十字架の下にある平和です。罪なき神の御子、主イエス・キリストは、私たちすべての人間の罪を背負って、その罪に対する当然の裁きである滅びとしての死を、たった一人でその身に負って死んで下さいました。この方の十字架の死が自分の罪の赦しのためであると信じ、その主イエスが、罪の赦しの結果である新しい命を私たちに与えるために、復活させられ、今も聖霊において生きておられることを信じ、その信仰を公けに告白し、洗礼を受けるなら、あなたは救われます。何故なら、その信仰において、神様との関係に和解が与えられるからです。神様との間が平和になるからです。その平和こそ、私たちに与えられる祝福、命の祝福です。罪の中に留まることは、神様の敵であるということなのです。どうぞ目を上げて見て下さい。十字架の主イエスを見上げてください。主イエスを見ることが出来るなら、あなたがどれほど強く愛されているかが分かるはずです。どんなに深い罪を犯してしまっても、主イエスは、あなたのその罪が赦されるために、死んで下さったのです。そして、復活して、今は新たな命を与えるために聖霊を与えて下さろうとしているのです。その愛を信じてください。そうすれば、古い命は死に、あなたは聖霊によって新しくされます。神の子として、新しく生きることが出来ます。それが、御子主イエス・キリストを通して与えられる祝福、救いです。」
新約聖書は、結局、どこを読んでも、この主イエス・キリストと、この主イエス・キリストを救い主として、神の子として、送って下さった天地の造り主、いと高き神の御業が記されており、信仰への招き、祝福への招きが書かれているのです。そして、その招き応えて生きるとは、身も心も何もかも、すべてを神様の愛の御手に委ねて生きることです。何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかと体のことで思い煩うことなく、明日のことを思い煩うことなく、私を愛してくださる神様、天地をお造りになった神様が、私のことを心配し、本当に必要なことを満たしてくださることを信じて、感謝、賛美して生きるのです。悲しい時は、「悲しいよ」と言ってその胸にしがみついて泣けば良いし、嬉しい時は「神様、有難う」と言って感謝し、喜べばいい。子どもなのだから、子どもらしくすればよいのです。
今日は、この後で、子どもたちがこの礼拝堂に入ってきます。今は一階の集会室で遊んでいる子、親子室にいる子、親に抱かれている子色々です。でも皆、誰も明日、私はきっと親に捨てられて、飢え死にするかもしれないなんて思ってはいないでしょう。明日から食べ物を得るためにちゃんと働かないといけないとか、親に食べさせてもらうために良い子を演じないといけないなんて考えていませんよ。親やお祖母ちゃんお祖父ちゃんの愛を少しも疑うことなく信じている子たちです。私たちは子どもたちに、「神様は、あなたに命を与え、その命を永遠のものとするために、イエス様を送ってくださり、イエス様は、ご自分の命を捧げて、あなたを愛してくださっている。この礼拝堂にいる人たちは、そのことを信じている人だ。この神様の愛を信じて、神様の祝福の中を一緒に生きていこう。何も心配せず、いつの日か、世界中の人たちが、聖霊の導き中で、イエス・キリストを救い主と信じ、天地の造り主、いと高き神である主を信じて、礼拝する日が来る。世界が完成し、神の国が完成する日が来る。その約束を信じて一緒に生きていこう」と、子どもたちに語りかけ。彼らのために祝福を共々に祈りたいと思うのです。
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