「天を仰ぎ、星を数えてみなさい」

及川 信

創世記 15章 1節〜 6節

 

これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。



 つい先日のことですが、聖ヶ丘教会との合同祈祷会の帰りに、すぐ近くのビルの角を曲がった途端に煌々と輝く満月が目に飛び込んできました。東京に来てから初めてのように思います。私は、その月を見たとき、一体どれくらいの期間、空を見あげることのない生活をしてきたのかを思いました。そして、東京に来てから五回目のクリスマスを迎えようとしていますが、その間に与えられた恵みと戒め、服従と背き、知らされた神の愛と怒り、深い喜びと耐えがたい苦しみなどなど、一瞬にして走馬灯のように心をよぎりました。
 今日与えられております箇所には、神様に命じられて空を見上げるアブラハムの姿が出てきます。そこを読みつつ先日の月を思い出したのですが、一昨日の夕刊には、星の最後の爆発を伝える「かに星雲」とかいうもののカラー写真が出ていました。それは今から約千年前の一〇五四年に起こった超新星の爆発の名残りなのだそうです。その爆発が起こった場所は地球から六五〇〇光年離れた所で、その星雲の大きさは六光年だそうです。私には何が何だか分からないので、一光年とは一体どれくらいの長さなのか調べてみると、光が一年で届く距離だそうですけれど、それは十兆キロメートルです。ですから、「かに星雲」のある場所は、十兆キロメートルの六五〇〇倍も遠い所ということになります。地球は一周わずか四万キロだそうですから、とてつもなく巨大な宇宙空間の中では目に見えない埃のようなもので、私には想像することすら出来ません。
 しかし、はるかな宇宙を思うとき、私たち人間が認識できることなど、ごく僅かであることが分かります。そして、自分という存在の小ささ、無力さ、そういったことを、空を見上げることにおいて知らされる。しかし、そういう自分が、今もこうして生きている、生かされている。その不思議さ、その尊さに心が打たれる。そういうことがあると思います。
 最近、中渋谷教会の中で、旧約聖書の詩編がお好きな方たちが「詩編へのおもい」という小さな文集をお造りになって、それを大変興味深く読ませていただきました。その詩編の中には、一五〇の詩が集められていますけれど、調べてみると実に七二回も「天」という言葉が出てきます。少なくとも五十以上の詩に「天」という言葉が出てくる。その「天」とは、いわゆる「空」のことだけではなく、「天にまします我らの父よ」という祈りからも分かりますように、「神の御座」という意味での天を意味する場合も沢山あります。そして、「かに星雲」は特大望遠鏡の高感度カメラで撮影できますが、「天の御座」は決して撮影できません。しかし、神様は確かに「天にまします」ことを知らされ、また信じて、旧約聖書の信仰者は天を見上げたのです。そして、天に向かって祈り、天からの言を聞きつつ生きてきたのです。
 その代表的なものの一つは何と言っても詩編八編だと思いますが、そこにはこうあります。

「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」


 天にある月も星もすべてをお造りになった神様が、取るに足りない人間を顧み、その心に留めてくださる。その事実に心を打たれて、ひれ伏し賛美する信仰者がここにいます。
 しかし、この詩を歌った人が直面している現実は、必ずしも神様の全能の力がみなぎり溢れているとか、すべてが神様の導きの中で順調に進んでいるとか、そういうことではなかったと思います。現実には苦しいことも多々ある、思うに任せないことも数多い、悲しいこともある。そういう人生の中で、天をじっと見つめていると、それまで見えなかったものが見えてきて、また聞こえなかったことも聞こえてきて、それまで湧いてこなかった感謝とか賛美が湧き起こってくる。そういうことがあったのではないか。そう思います。
 今日の箇所は、「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」という言葉から始まります。「これらのことの後で。」これは深い言葉です。アブラハム、彼が神の召しに応えて見知らぬ地カナンに旅立ったのは七五歳の時です。その時既に、人生の経験を十分に積んだ人間ですし、財産を持っていました。しかし、彼と妻の間には財産を受け継ぐべき子どもが出来なかったのです。そのアブラハムが、神様との出会いと招きによって、全く新しい歩みを始める。神様は、そういうことをする。神様と出会うと、人間もそういう経験をする。「歳をとったら新しいことなんて何もない。すべては古びていくだけ」というのは、この世のことであって、神様は、いつも新しいことを始めることが出来るのです。そして、アブラハムが、神様の言葉に従って旅立ち、カナンの地に着いた時、神様は、アブラハムにこう約束をされます。

「あなたの子孫にこの土地を与える。」

 これが約束です。子孫と土地。この二つを手にするということは、常識的に考えれば、つまり、人間の経験に基づいて考えれば、高齢であり旅人であるアブラハムが得ることは不可能なものです。しかし、この後のアブラハムの旅路、人生は、すべてこの約束を巡ってのものとなります。アブラハムは主が自分に現われて下さったその地に祭壇を築いて礼拝をしました。そこに彼はその約束を「信じた」とか「主を信じた」という言葉はありませんが、とにかく、彼は主を礼拝して応答したのです。
その後、彼は飢饉に襲われてエジプトに難民として下り、エジプトの王に妻を差し出すということをします。しかし、主が介入してくださって多くの財産を手にして再び約束の地に帰ってくることが出来ました。そうしたら今度は、皮肉なことに、連れてきた甥のロトと財産の多さが原因となって決別しなければならなくなったのです。これは、アブラハムの跡継ぎになる可能性のある者を、神様がアブラハムから遠ざけた出来事として見ることが出来るかもしれません。そして、次に起こったのが、絶望的な戦争に巻き込まれるということです。彼は富に目が眩んでソドムの町に移っていったロトを救出するために、僅か三一八人の手下を連れて四つの国の連合軍に戦いを挑むのです。それは、彼自身の命が危険に曝されることでした。しかし、前回ご一緒に読みましたように、「天地の造り主、いと高き神、主」の守りのお陰で、彼はその戦いに勝利したのです。
 しかし、その間に、恐らく十年近い歳月が経っているのですけれども、彼に与えられた神様の約束は、少しも実現しないのです。今見ましたように、約束を与えられて以後、その約束が反故にされるようなことばかり起こる。そういう現実の中で、彼は迷い、悩み、失敗し、悔い改め、礼拝をし、戦い、また感謝もしてきました。そういう人生の辛酸が、「これらのことの後で」、という言葉の中に込められているのです。私たちも今、それぞれの「これらのことの後で」、こうして礼拝するために集まっている、いや集められているのです。
 そして、その礼拝において、「恐れるな」という言葉を聞いています。今日の礼拝の準備ためにこの言葉を読んだ時、あまりの偶然に驚きました。私は最近、色々な意味で「恐れる」ことが多い日々を過ごしていますが、先月発行された「会報」に寄せた私の巻頭言は「恐れるな」という題です。その巻頭言を書いている時はまだ「創世記」を読んでいたわけではありません。その巻頭言においては、新約聖書の「ヨハネの黙示録」の言葉を時折読む理由を書き、そこに記されている言葉を沢山引用しました。その言葉とは、迫害の中で命の危険にさらされているキリスト者に向けて語られた主イエスの言葉です。恐れを感じるときに、この黙示録を読むと、それも繰り返し、時には声に出して読むと、次第に心が天に向かって開かれていき、また目が世の終わりの救いの完成を仰ぎ見ることが出来るようになり、恐れが取り除かれる時があるのです。私が最初に引用した言葉は、こういうものです。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵をもっている。」

そして、黙示録の最後の言葉は、こういうものです。

「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」
「以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」


 この言葉を、世の終わりに主イエスが再び来て下さり、救いを完成してくださるというその約束の言葉を、心の奥底で聴き取り、信仰をもって「アーメン」と言える時、私たちはすべての恐れから解放されて、目の前の現実がどれ程困難に満ちていても、望みをもって力強く前進できるのです。
 アブラハムもまた、厳しい現実の中で、この「恐れるな」という主の言葉を聞きました。主は続けてこう言われます。

「わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」


 しかし、この言葉を聞いた時、アブラハムの心の中に静かに溜まっていた疑いや不満が爆発しました。  彼は、こう言います。

「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
 そして、それだけでは気が収まらなかったのでしょう。すぐにこう言います。
「ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
 「下さる」とは原文では「与える」です。ですから、子どもを与えて下さらないで、他の何を与えて下さっても、結局、赤の他人である使用人がすべてを受け継ぐのですから、もう何も要りません、ということを言っているのです。さらに言えば、それは「下さると約束したものを下さいよ」ということです。それは「子孫」であり「土地」ですが、土地は次回の問題です。彼はここで子どもがいない現実を「ご覧下さい」と言っている。「ご覧のように」とは「見てください」「見なさい」という言葉で、辞書を見ると「感嘆詞」と出ていますから、「ああ」とか「もうまったく・・」みたいに、あからさまに不満を表しながら神様に文句を言っているのです。しかし、これは大事なことなのです。心に思っていること、言いたいことをちゃんと言うことは、大事です。もちろん、人の世においては、心に思っていることを何でも言えばよいというわけではなく、言わない方が良いことが沢山あることは事実であり、言いたくても言わないという賢いんだか、悪賢いんだか分かりませんが、そういう知恵を身につけることはある程度は大事です。しかし、言いたいことがあるのに、また言わなければならないことがあるのに言わないというのは、一面から見ると無責任な態度だと言わざるを得ないと思います。そして、ここでの問題は、人に対する態度や言葉ではなく、神様に対する態度や言葉です。私たちはえてして神様に対しても、色々言いたいことや聞きたいことがあるのに、何も言わないで心を閉ざしていたり、心とは裏腹の言葉を言ったりすることが多いのです。しかし、それは偽善です。神様から見れば、すべてお見通しの浅はかな偽善です。
詩編を読めば分かりますけれど、そこには喜びや賛美を捧げる詩が沢山あります。しかし一方で、神様への不平不満や怒りや恨みがありますし、また人への呪いとか復讐心とか、憎しみとか、もう何でもありという感じで神様に訴えているのです。読んでいて、「おいおいこんなことまで言っていいの?」とこちらが心配するようなことがある。しかし、そういう詩に限って、最後まで読んでいくと、突然、ああースッキリしたという感じで終わるのです。それは思いのたけを口にして清々したということだけでなく、心の奥底の思い、普段意識も自覚もしない深い深い思いを、神様の前ではしっかりと見つめて、祈りに祈って、言葉になるものもならないものもすべて神様に吐き出した人間が、最後に神様の声を聞くことができたり、それとは逆に神様が自分の心の奥底の叫びを聴き取ってくださったことを知る、あるいは、自分に与えられている苦しみの現実、目に見える現実も、目に見えない心の奥底の思いも、みなちゃんと見ていてくださることを知るのです。その時、その人は、たとえ目に見える現実が少しも変わらずとも、すべての重荷を下ろすことが出来、平安が与えられ、神様への信仰と賛美が与えられていくのです。詩ですから、読めばあっと言う間ですけれど、その詩の最初と最後は数ヶ月、あるいは数年に亘る祈りの年月があるのではないかと、私は思います。
 とにかく、アブラハムはここで思いのたけを神様に口にしました。「見てくださいよ、私のことを。あなたが約束を実現してくれないから、財産ばかり増えても空しいだけですよ。全部、他人のものになるのですから・・・」
すると、「見よ、主の言葉があった」とあります。この「見よ」は、この部分を書いた作者の言葉です。読者に対して、こういう心底から叫ぶ者に対しては、神様が応えてくださるのだということを知らせようとして「見よ」と書いたのでしょう。
 主はこう仰った。
「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
 そして、アブラハム同様、主なる神様も、これだけでは足りないと思われたのでしょう。天幕の中にいた彼を外に連れ出してこう仰った。
「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」
「あなたの子孫はこのようになる。」

 随分前のことになりましたが、エジプトからシナイ山を通ってイスラエルに入る旅行をしたことがあります。そのシナイ山を登りながら見た満天の星は、星と星の間の間隔が一センチもないのではないかと思うほどの密度でした。親指と人差し指で輪を作り目に当てて、その小さな穴の中に入る星だけでも数えてみようかと思いましたけれど、それでさえすぐに諦めざるを得ないような星がそこにはありました。アブラハムは、その星を「見なさい」と言われたのです。ここで「仰いで」と訳されている言葉は、アブラハムが「ご覧下さい」と言った時の言葉とは違います。ある方向をじっと見つめる、凝視する、そういう意味の言葉です。人が天を見つめる時、それは様々な思いが去来する時です。
 天、それは限りなく広いものであり、私たちが捉えることが出来ないものです。それは無限の象徴であり、また私たちが決して手を伸ばしてつかむ事が出来ないが故に超越の象徴でもあります。しかしまた、私たちは天の下にしか生きられないわけで、私たちがどこに行こうとも、そこに天はあります。
 そういう天を、聖書は、神が造ったというのです。天が先にあって、神が後から、そこに御座を据えたのではなく、神が天を造ったというのです。それが聖書の信仰です。そして、満点の星、それを人間はお星様とか言って神格化して拝んできたのですし、今でも星占いとかいうものが人々の心をつかんでいるらしいのですが、それらも皆、神が造った被造物に過ぎません。神様とは、そういうお方。
 そのお方が、今、「あなたの子孫は、この天の星のようになる」と仰ったのです。アブラハムは、その言葉を聞きつつ、天を見上げ、そこに輝く無数の星をじっと見つめた。そして、これまでの自分の歩みをじっくりと振り返ったに違いありません。赤面したくなるような罪を犯した自分がそこにいます。しかし、信じ難い方法で、裁きつつ赦してくださった神様がそこにいます。また、命がけの戦いを勝利に導いてくださった盾としての神様がいます。アブラハムは、天をじっと見上げつつ、これまでの彼の歩みのすべてと、そこで神様が為してくださった御業と、語りかけてくださった御言のすべてを思い起こしたに違いありません。その時に、心の奥底で抱いていた深い疑いや不満のすべてが氷解したのです。神様が全能の神であられること、そして、その神様が、星屑の一つに過ぎないような自分を今日も顧みてくださり、語りかけてくださり、また自分の心の奥底の叫びを聞いてくださり、神を信じて生きる希望を失い、この世の人間としてこの世の慣わしに従って生きている自分を、今一度、信仰と希望に生きるようにと促してくださっている。その事実を深く思ったに違いありません。そして、彼は天地の造り主にして全能の父なる神、至高者にして超越者であるが故に、いつだって新しい命を造りだすことが出来るお方であることを信じ、同時に、そのように大いなる方が、どんなに小さな者でもご自身が愛をもって造った被造物としてその目に留め、いつも慈しみをもって見つめ、導いて下さる神様の愛の前にひれ伏す思いで、主を信じたのだと思います。そして、主は、約束の実現が遅れていることに不満を抱き、不信仰に陥り、この世を生きる普通の人になってしまったアブラハムに、このように語りかけ、天の星を見あげさせつつ信仰を新たに与えてくださったのだと思うのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とは、そういう消息を告げているのではないでしょうか。
 アブラハムの旅路、それは主に召し出しを受けた人間の旅です。それは信仰者の旅です。私たちの人生も同じなのです。私たちもまた、信仰からその歩みを始めますけれど、その歩みは必ずしも順調なものではありません。迷います、疑います、時には信仰を捨ててしまいます。すっかり世の人間になってしまうこともあります。私たちは神様を忘れるのです。そして、この世の中で、つまらぬことで一喜一憂していますし、そして、深いところで恐れに捕らわれます。神を信じない人間は、その心の奥底で恐れと空しさに捕らわれているのです。
 私たちに与えられている約束、それは主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して与えられているものですが、罪の赦しであり、復活の命です。別の言葉で言えば、それは天国に生かされることです。罪赦されたすべての信仰者と共に神の国で生かされることです。それが救いなのです。その救いを完成させるために、天国を完成させるために、復活の主イエスが世の終わりの日に再び来られる。生ける者と死ねる者とを裁くために来られる。神様はそうお語りになり、その言葉を聞いた人が聖書を書き記し、私たちはその言葉を神の言として読み、信じ、その信仰を告白して、洗礼を受けてキリスト者として生き始めたのです。ですから、キリスト者はいつでも聖書に記されている約束を信じて生きているはずなのです。
 しかし、私たちはその約束を疑います。本当に実現するのかと心の底で思っている。あるいは、約束のことなど忘れる。そして、信仰以前の生活に戻っていく。そういうことは、残念ながら、よくあることです。しかし、神様はご自身の約束のことをお忘れにはならないのです。何年経とうが、何百年経とうが、お忘れにならない。そして、私たちのことをも、神様はお忘れにならない。いつでも心に留め、顧みて下さっているのです。天地をお造りになった神様が、天の星の一つ一つをお造りになった神様が、私たち一人一人を心に留め、顧み、愛して下さっている。そして、神様が与えてくださった約束を再び思い起こすように促して下さり、約束を繰り返し与えて下さるのです。礼拝とは、そういう時です。
この礼拝の中で、私たちは何を仰ぐように言われているのでしょうか。
 今日の礼拝で最初に歌った讃美歌は「こころを高くあげよう」でした。

「こころを高くあげよう  主のみ声にしたがい 
ただ主のみを見上げて  こころを高くあげよう

終わりの日がきたなら  さばきの座を見あげて
わが力のかぎりに    こころを高くあげよう」


 私たちが礼拝の中で、心の目をあげて仰ぎ見るべきもの、それはもちろん、天の月でも星でもありません。天地の造り主なるいと高き神であり、その神様が私たち罪人の救いのために世に下し、あの十字架に掛かって死んで下さり、三日目に甦り、今は神の右に座し、いつも私たちのために執り成して下さり、世の終わりの日には生ける者と死ねる者とを裁いて救いを完成してくださる主イエス・キリストその方です。この方が、私のために一体何をして下さったのか、そして、今何をして下さっているのか、そして、これから何をしてくださるのか。そのことを御言と御霊の導きの中で深く思い巡らす。訴えるべきことは何もかも訴える。不平や不満も疑問も何もかも正直に訴えつつ、静かに御言に聴く。心を開き、耳を澄まして聞くのです。それが礼拝です。
 私たちはこれから聖餐の食卓に招かれようとしています。これは、信仰を告白して洗礼を受けた者だけがつくことが出来る食卓です。そして、すべての人が洗礼を受けるようにと招かれているのです。まだ洗礼を受けておられない方は、今後も求道を続けて、いつの日か聖霊の導きの中に神の招きを聴き取り、主イエスがあなたの救いのために何をしてくださったかを知り、罪を悔い改めて、罪の赦しの洗礼を受けることが出来ますように祈りつつお待ちしています。私たちが待っているというより、主イエスご自身が待っていてくださるのですが、洗礼を受けて初めて与ることが出来るその聖餐式のことを、宗教改革者のルターは「見える説教」と言いました。耳で聞く説教ではなく見る説教です。説教の一つの務めは、主イエスによって与えられる罪の赦しを信じる者には救いが与えられることを告げることです。聖餐は、その救いの現実を見させてくださるものなのです。
これまでも繰り返し言ってきたことですが、その中渋谷教会が聖餐式の中で歌う讃美歌二〇五番です。それはこういう詞です。

「わが主よ、今ここにて したしくまみえまつり
 かぎりなきさいわいを うくるこそうれしけれ」


 私たちは、この聖餐の中で、私たちのためにその体が裂かれ、その血を流してくださった主としたしくまみえるのです。信仰の目、心の目で、パンとぶどう酒を「これはあなたがたのために裂かれるわたしの体だ」「これはあなたがたのために流すわたしの契約の血だ」と仰りつつ配ってくださる主イエスを見るのです。
 それだけではありません。

「おもかげうつししのぶ 今日だにかくもあるを
 みくににていわう日の そのさちやいかにあらん」


 私たちは、この聖餐に与る時に、はるかに天の御国、天国の完成を仰ぎ見るのです。
礼拝とは、私たちの罪の赦しのために十字架に掛かってくださった主イエスをひれ伏して拝み、復活し天に昇り、今も私たちのために執り成し祈ってくださっている主イエスを賛美し、そして、神様が約束してくださった天国の完成、主イエスの再臨を信じ、その日が来ることを確かな望みとして新しく生き始めることです。そういう礼拝の時を、神様は今日も私たちに与えて下さっているのです。ただ、感謝するほかにありません。感謝して、献身をして、今日よりの歩みを始めましょう。
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