「契約を信じて新たに生きる」

及川 信

創世記 15章 7節〜21節

 

主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。
あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」



 新しい年を迎えました。その最初の日に、主なる神様を礼拝できるということは真に幸いなことだと思います。今日の礼拝において、どの御言を聞くべきか、十一月に随分考えたのですが、十二月第一週に続けてアブラハム物語から御言を聴くことが相応しいことだと思いました。
この創世記一五章、これは非常に重要な章なのです。前回は、一節から六節までを読みましたが、そこには、アブラハムに与えられるべき子孫に関することが書かれていました。神様は、神様の召しに応えてカナンの地にまでやってきたアブラハムに対して「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束をされました。この約束を与えられて以後のアブラハムの生涯は、すべてこの約束にまつわるものです。この神様が与えた約束は、子供がいない老夫婦において本当に実現するのか?彼らに本当に子供が与えられるのか?また、旅人に過ぎない彼らが土地を持つことなど出来るのか?そして、アブラハムはこの神様の約束を信じて生きていくことが出来るのか?それがアブラハム物語を貫くテーマです。
 この旅立ちと約束から随分と時が経って、もうすっかり子供のことは諦めてしまっているアブラハムに対して、神様が現れて「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と新たに約束されるのが一五章です。その約束を聞いて、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と六節にあります。
 この言葉は、パウロがローマの信徒への手紙の四章五章において真正面から取り組んだ言葉ですし、そのパウロの取り組みを宗教改革者ルターが引き継ぎ、「信仰義認」と言って、私たちプロテスタント教会の信仰の中心的教義となっているものです。私たち人間は、つまり罪人は、信仰においてのみ神様に義と認められる。もちろん、この場合の信仰とは、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に掛かって死んでくださり、私たちに新しい命を与えるために復活して下さったことを信じる信仰です。神様が御子を通して、罪と死の奴隷であった私たちを解放して下さったことを心で信じて義とされ、口で告白し、洗礼を受けることによって救われる。私たちが属する日本基督教団が告白している「日本基督教団信仰告白」にも、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としもう」という言葉があります。教団の教会に属する者であるなら誰もが、洗礼式において、あるいは転入式において、必ずこの告白をし、誓約をすることになっています。
そういう意味で、創世記一五章六節の言葉は全聖書を貫く決定的な言葉であることを覚えておいて頂きたいのですが、今日はその続きの七節以下です。ここにもまた、とてつもなく深く重たい言葉が出てきます。
 今日の箇所では、最初に「土地」に関する約束が出てきます。

主は言われた。
「わたしはあなたをカルデヤのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」


 神様が、ご自分のことを自己紹介する形式はいくつかあります。今日の箇所と何かと関連があるのは、神様がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民に「十戒」を与える場面なのですが、その十戒は、神様の自己紹介の言葉で始まります。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』

 この自己紹介を通して、神様はイスラエルに対する愛を告白しているのです。ご自身が愛する民を滅びから救い出し、約束の地に至るすべての歩みを共にする神であることを宣言しておられるのです。
神様がアブラハムに向かって、「わたしはあなたをカルデヤのウルから導き出した主である」と自己紹介をなさる時も、ご自分がアブラハムのこれまでの歩みをずっと導き、共にしてきた神である。あなたにとってのインマヌエルであると仰っているのです。だから、その私が言っていることを忘れて欲しくない。そういうニュアンスがここにはあると思います。他の誰かが言ったことなら信じなくても良いが、この私が言うのだ。当然信じてくれるはずだ、ということです。その神様が、こう仰る。

「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

 この言葉は、しかし、ちょっと考えてみると不思議な言葉です。どうしてかと言いますと、一二章では「あなたの子孫に与える」となっているのに、ここでは「あなたに」となっていることが一つ。また、その先を読みますと、彼の子孫が四百年間も異邦の国で「奴隷として仕え」、苦しめられた後に、この土地に帰ってくることが預言され、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されている。つまり、アブラハム本人と彼の子孫が渾然一体となっているのです。これは一体、どういうことか。この問題は、最後に信仰とは何であるかという問題として考えたいと思います。
 アブラハムは、主の言葉を受けて後に、こう言いました。

「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何よって知ることができましょうか。」

 これが、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と言われた直後のアブラハムの姿でもある。これもまた意味深なというかリアルな描写だと思います。信じているけれども、信じることが出来ない。しかし、信じている人間だからこそ、神様にこのようなことを言われ、そして神様に疑問も抱く。そういうことが、信仰生活の実態なのではないかと思うのですが、とにかく、そういうアブラハムに向かって、主は雌牛とか雌山羊、山鳩などを持って来るように命じます。アブラハムは、主の命令どおりそれらの動物を持って来て、鳥以外の動物を真っ二つに切り裂き、互いに向かい合わせて置きました。これは実に生々しい情景ですが、この時代の契約締結のスタイルだと言われます。動物の体を裂けば血が流れるのは当然です。その血まみれの動物を向かい合わせに置き、契約を結ぶ当事者が、その裂かれた動物の間を通る。そういう行為を通して、もし契約を破るようなことをすれば、自分はこのように切り裂かれても良いという意思表示をする。契約とは、そういう命がけのものなのです。
日本の社会にはそういう契約概念が希薄ですし、教会にもそういう傾向が見られ、その希薄さがかつて流行った言葉で言えば「甘えの構造」を生み出し、無責任体質を作り上げていると思います。しかし、私たちが神の言として読んでいる「聖書」は、神様とイスラエルの間の契約の書である旧約聖書と、またイエス・キリストを通して全人類との間に結ばれた契約の書であることを、この一年の初めの礼拝において、新たに肝に銘じておきたいと思います。私たちは、神様が立てた契約を信じると告白をして、キリスト者になったのです。洗礼を受けるとは、神様との契約関係に入ることを意味します。教会は、「契約共同体」なのです。ですから、私たちが契約を破れば、引き裂かれても仕方がないということです。契約とは、そういうものであることが分からないと、聖書に書かれていることは良く分かりません。

「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」

この「深い眠り」という言葉は、聖書の中に滅多に出てこない言葉ですけれども、アダムのあばら骨から女を造り出す時、神様はアダムを「深い眠り」に落とされました。ヨブ記においては、ヨブの友人の一人が、この深い眠りの中で神の声を聞くという文脈で出てきます。いずれにしろ、その時の人間は全くの無力であり、能動的行為をしません。もっぱら神様が行為をしたり語ったりしている。しかし、言葉を聞いたり、神様の行為を見たりすることもある。それが「深い眠り」の意味するところだと思います。
 その眠りの中で、アブラハムが聞いた言葉、それはこういうものです。

「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」

 これは、一人の人間にとってはとてつもないスケールをもった言葉です。アブラハムの子孫が「天の星のようになる」という言葉もとてつもない言葉でしたが、ここでは、その子孫が四百年間も外国での奴隷生活を経験させられ、その上で、脱出させられてこの地(ここではカナン人ではなくアモリ人が、住人の代表となっていますが)に帰ってくるというのです。当然の事ながら、アブラハムはそのことが実現するよりもずっと前に、「長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く」と言われます。彼は一人の人間として、ほどなく生涯を閉じる。しかし、その後に彼の子孫たちは長い苦難の歴史を経て後、非常に多くの民となって約束の地に帰ってくる。主は、そう言われるのです。
そして、その言葉の後に、こういうことが起こりました。

日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

 「煙を吐く炉」とか「燃える松明」が意味することは、そこに神様が臨在しているということです。シナイ山でモーセが十戒を受け取るときも、山は「煙で包まれ」、「主が火の中を山の上に降られた」という記述があります。「十戒」を受け取るとは「契約」を受け取ることですし、その後に、やはり動物の血を使う契約締結の儀式があります。この契約を通して、イスラエルは神の民となったのです。主を心に信じ、「主がお語りになったことをみな行います」という誓約の言葉を口にし、血による契約を結ぶことで、イスラエルは神の民として生まれたのです。それと同じように、「主を信じた」アブラハムは、暗黒の中で、深い眠りに襲われながら、神様との契約を結び、それまでとは違うアブラハムにされている。そういうことが、ここで暗示されているのだと思います。
アブラハムが眠りの中で見させられ、聞かされた契約の内容とは、エジプトのナイル川からユーフラテス川に至る広大な土地、当時のイスラエルの人々にとっては「全世界」と言ってよい土地を、「あなたの子孫に与える」というものです。
 これまたとてつもない話です。そして、先程も言いましたように、この言葉は七節の言葉からいつのまにか大きな飛躍をしているように思うのです。七節では、「あなたにこの土地を与える」と主なる神様は言われました。「あなた」とはアブラハムです。そして「この土地」とは、あくまでもカナンの地、今のイスラエル共和国位の範囲を指しての言葉だと思います。しかし、アブラハムが深い眠りに襲われて以後の主の言葉においては、四百年後の「子孫」に与えることになっており、その範囲は、当時の人にとっては「全世界」と言ってよい広大な範囲になっている。もちろん、七節の言葉だって、半遊牧民として移動生活をしている老人に過ぎないアブラハムにとってはとてつもない言葉ですし、だからこそ、彼も信じることが出来ず、「この土地をわたしが継ぐことを、何よって知ることができるでしょうか」と言っているのです。しかし、日がまだ沈んではいない夕方に、「恐ろしい大いなる暗黒」に臨まれる中でアブラハムが聞いた言葉、また日が沈んで後の夜の闇の中で神様が一方的に契約締結の儀式をしながら彼に語りかけた言葉は、時間的にも空間的にも、一人の人間が信じるとか、信じないとか、そういうレベルの話ではないことを語っているのではないでしょうか。
 しかし、文脈上明らかなことは、この時のアブラハム、それは直前に「主を信じた」アブラハムであるということです。その信仰がどれほど弱くても、また脆いものであっても、主を信じたアブラハムであり、主はその信仰を彼の義と認められたのです。今日の箇所の出来事は、そのアブラハムに対する神様の言葉であり、御業なのです。信仰を与えられていない限り、聞くことが出来ない言葉があり、見ることが出来ない様というのがあります。
 アブラハムがここで見た様は、神様が暗黒の中で、ご自分の命をかけて契約を結ばれる姿です。そして、聞いた言葉は、全世界がアブラハムの子孫に与えられるという言葉です。
彼が聞いた言葉の方から言うならば、アブラハムの生きた時代から凡そ二千年余りの年月を経て、全世界を呪いから祝福に変えるべき「アブラハムの子」(マタイ一:一)として生まれたイエス・キリストを信じるキリスト者が誕生しました。そのキリスト者は、新約聖書の中では「アブラハムの子孫」と呼ばれます。アブラハムと同じく信仰によって義と認められた者たちだからです。そのアブラハムの子孫、それはユダヤの国や民族の枠をはるかに越えて広がり、当時のローマ帝国全域に広がっていき、ローマ帝国が滅びてもその拡大は終わらず、今も全世界で伝道がなされています。そして、二〇〇六年一月一日に、日本の首都東京の真っ只中で私たちが礼拝をしているという事実は、二千年間弛まず進められてきた伝道の成果でありつつ、今後も世の終わりまで続けられていく伝道行為そのものでもあるのです。
創世記一五章が見つめている一つの現実、それは「四百年」とか「エジプトの川から大河ユーフラテスに至る」という言葉や、そこに挙げられている実在した民族の名前からも分かりますように、私たちが生きている地上の世界であり、そこで繰り広げられている現実の歴史です。この地上世界の歴史の中で、神の約束、契約は必ず実現して行く。そのことを聖書は語っているのです。私たちが「主を信じる」という場合、主がこの世界の歴史の中で生きて働き給うことを信じるのです。契約を実現するために、今も生きて働いてくださる主を、私たちは信じているのです。そして、私たちも一緒に働くのです。
 昨年の末に、いくつものカレンダーを教会に出入りする会社から頂きましたけれど、牧師である友人からも頂きました。それはイエス様が迷子の小羊を抱き抱えている絵が描かれているものです。そのカレンダーには「共働」という言葉が記されています。主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と仰いましたが、その言葉どおり、主イエスは今もご自身の体である教会の伝道を通して、全世界で迷子の小羊を捜し求め、本来いるべき群れへと連れ帰ってくださっているのです。それが、主イエスの契約、いや、主なる神様が主イエスを通して、私たちと結ばれた契約だからです。そして、先週、二人の方が洗礼を受けることを通して教会の群れに加えられ、アブラハムの子孫として誕生したのです。しかし、その契約は、いつどのようにして結ばれたのでしょうか。
皆さんも、今日の箇所を読みながらあの十字架の場面を心に思い浮かべられたのではないかと思います。あそこでも、肉が裂かれました。血が流されました。そして、暗黒が襲ってきました。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マルコによる福音書一五章三三節〜三九節)

 これが、暗闇の中で、神様が罪人のために新しく立てて下さった契約締結の儀式なのです。そこで何が行われているのか。罪なき神の独り子が、神に見捨てられ、その体が引き裂かれ、血が流されているのです。神の独り子が神に見捨てられ、裁かれている。それも、鞭打ちとか禁固刑ではなく、死刑にされている。その裁きに神の子イエス・キリストは全身を委ねている。そのことによって、神様と御子は、どんな契約を人間に、つまり、罪人に与えようとしておられるのか。
 それは罪の赦しであり、新しい命です。その命は、世の終わりに世界が完成する時、神の国が完成する時に、完全なものとして生きる命です。天国に生きる命です。私たちが、その命を今から生きることが出来るように、神の独り子なる主イエス・キリストは十字架に掛かって死んでくださり、そして三日目に甦ってくださいました。それが、神が御子を通して私たちに与えてくださった新しい契約なのです。
 私たちが、神様が与えてくださったこの契約を結ぶために必要なもの、それは何か。信仰です。このお方が私の罪のために死んで下さったことを信じる信仰。そして、私の罪を赦し、新しく生かしてくださるために復活し、今も生きておられることを信じる信仰です。この信仰は聖霊の導きの中に御言を聞いて初めて与えられるものですが、その信仰を口で告白して洗礼を受ける。そして、罪に死に、義に生かされる。その時、神様が御子イエス・キリストを通して私たちに与えてくださっている約束、命をかけた契約の中に、私たちが生き始めるのです。私たちは今日、この一年の最初の礼拝において、この契約を新たに示されているのです。新たに信じてこの年の歩みを始めたいと願います。
 最後に、「あなたに与える」と「あなたの子孫に与える」に関して、また土地の範囲の拡大(飛躍)に関して一言付け加えておきます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。その信仰について、新約聖書のヘブライ人への手紙は、こう言っています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
(中略) 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」
          (ヘブライ人への手紙一一章一節、八節〜一六節)

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」。本当に素晴らしい言葉です。ここにある「望み」も、「見えない事実」も、神が与えてくださった望みだし、神が実現なさる事実です。だから、確信できるし、既に確認できるのです。
私は若い頃から、この箇所が大好きで、繰り返し繰り返し読んで来ましたけれど、ずっと「神は、彼らのために都を準備されていたからです」という言葉には引っかかっていました。「これが信仰だ」ということは分かります。しかし、その信仰が自分にはまだなかったのだと思います。どうして、生きている人間が、まるで見てきたことがあるかのように、「彼らのために都を準備されていたからです」などと言うことが出来るのか、と思っていました。でも、最近は、先週のクリスマス礼拝(兼・歳末礼拝)においても語りましたが、まだ行ったことがない天国が懐かしい故郷のように感じられることがしばしばあります。
主イエス・キリストによって私たちに与えられた新しい契約、それは地上の土地をアブラハムの子孫であるキリスト者に与えるという契約ではありません。国家として与えるということでもないのです。信仰によって罪赦された者が迎え入れられる新しい天地を与えるという約束です。私たちの望みは、この新しい天地、神の国、天国に生かされることなのです。この望みは、神様が与えてくださった望みであるが故に、この望みを望みとして生きる時、私たちは今既に救われているのです(ローマ八章二四節)。そして、この天国には星の数ほどの人々が既に迎え入れられており、これからも迎え入れられていく。私に与えられる天国は、私の子孫、同じように信仰を与えられていくキリスト者にも与えられる。子孫において起こると約束されたことは、信じている者にとっては今既に起こっていることと同じです。
 神様が、アブラハムに向かって、「あなたにこの土地を与える」と約束し、さらに四百年も先に、「あなたの子孫に与える」と約束をされました。そして、その約束は暗闇の契約締結の時にはとてつもない範囲に拡大していた。しかし、それもこれも主なる神様を信じる者にとっては、まだ現実に与えられていないものであっても、既に得たことと同じなのです。アブラハムをカルデヤのウルから導き出した神様が仰ることは、イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神が仰ることは、ご自身の独り子を十字架の上で見捨てるまでして私たちの罪を赦し、御子を復活させて私たちに新しい命を与えて下さる神様が約束して下さることは、いつの日か必ず実現するのです。そのことを信じることが出来る者は、その実現を目で見ていなくても、それを確信し、既に確認できるのです。
主イエスを信じる私たちのために、神の都は用意されています。そして、神様は一人でも多くの罪人が、主イエスを信じ、神の都を目指して生きることを望んでおられます。私たちは、この年、神様の望みを私たちの望みとし、その望みは必ず実現することを信じて歩んでまいりましょう。
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