「神の計画・人の計画」

及川 信

創世記 16章 1節〜 6節

 

 先日、ロスアンゼルスに生きる黒人の若者達のドキュメンタリー映画を見ました。その地域は社会の最底辺の人々が暮らす地域であり、麻薬の売人やギャング同士の殺し合いや、何の理由もない殺人事件が頻繁に起こる地域です。人が虫けらのように捨てられ、殺される地域の中で、彼らが生み出したダンスを踊ることで生きていく道を探す大勢の若者達がいました。彼らの先祖は、家畜同然の扱いを受けつつ奴隷としてアフリカから連れてこられた人々です。そして、彼ら自身は今なお続く差別と偏見の中で、最底辺からなかなか抜け出せないでいる。そういう若者達の内に秘めた怒りや悲しみ、また呻き、悩みは、多くの場合、自分と他人を傷つけ殺して行く暴力となって現れざるを得ません。しかし、そのドキュメンタリーに登場する若者たちは、内にある怒りや悲しみを暴力で発散するのではなく、激しいダンスを踊ることで発散、あるいは表現していました。そうすることで、一人の人間として生きている自分自身を見出そうとしているのです。リスペクトという言葉をしばしば聞きましたが、彼らは仲間達の中で互いにダンスを見せあい、自分の存在を認めさせようとしますし、その中のごく少数の人は、教会の礼拝の中で、心の中の苦しみや嘆きや希望をダンスにして、神様に自分自身の全部を見てもらい、またその叫びを聞いてもらおうとしていました。そして、自分を捧げようともしていました。
その映画の中で、若者たちが深く感動しつつ聴いていた讃美歌があります。それは、あの有名なアメイジング グレイス(驚くべき恵み)です。しかし、この歌を作ったのは皮肉なことに、元は悪徳奴隷商人として荒稼ぎをしていたジョン・ニュートンという人です。彼は、その後、激しい悔い改めに襲われて信仰を持ち、さらに牧師になり、この歌を初めとするいくつも讃美歌を作りました。

「驚くべき恵み なんと素晴らしい響きだろう
 この恵みによって 私のような惨めな悪党も救っていただいた
 私はかつて見失われていた(迷子だった)
でも今は見つけ出されている
かつては何も見えなかった でも今は見えるようになった」


 「讃美歌第二編」や「讃美歌二一」にも、異なる訳で収録されていますが、私はこの讃美歌を聴きながら、先週与えられた御言を思い出しましたし、また今日語るべき御言をも思い出して、深く考えさせられました。
 先週は、「神を見る」という事柄に関して御言に聴いたのでしたが、最後の方に、ルカによる福音書を引用しました。主イエスが約束どおり復活されたことを信じることが出来ない弟子たちは、失意と悲しみの中に、故郷であるエマオに帰って行きます。彼らは、その時、もう主イエスの弟子であることを止めてしまっているのです。そういう彼らに復活の主イエスが現れてくださいました。しかし、その当初、彼らには、それが主イエスだとは分からなかった。男の姿は見えても、主イエスの姿は見えなかったのです。その後、主イエスによる聖書の説き明かしを聴き、主イエスがパンを裂く姿を見たときに、彼らは目の前にいる方が主イエスであることを見出すことが出来たのです。そして、主イエスが自分達の悲しみや絶望を見つめて下さり、それを喜びと希望に変えるために熱心に語りかけ、祈り、パンを裂いてくださったこと、主イエスは、自分達を見捨てないで、捜し求め、見つけ出し、愛し続け、命を与え続けてくださる方として今も生きておられることを知ったのです。その時、彼らは、彼らがいるべき地、エルサレムに帰ったのでした。弟子を止めた彼らは、悔い改めて、再び弟子として、さらに使徒としての歩みを始めたのです。
 今日私たちに与えられている創世記の御言は、一見すると、このことと何の関係もないように見えますが、実は、深い関係があると私は思います。その一つは、与えられた約束を信じることが出来るか否かという問題です。また目に見える現実(人)の中に神の姿を見ることが出来るか否かという問題もあります。

「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。」

 これが一六章の書き出しです。しかし、一五章には何が記されていたかと言えば、神様の約束が記されていたのだし、その約束を信じるアブラハムの信仰が記されていたのです。
アブラハムの子が「天の星のようになる。」神様はそう約束し、アブラハムはその約束を信じたのです。神様は、「その信仰のゆえにアブラハムを義とした。」これはアブラハムが信仰の父であることを決定付ける言葉です。しかし、その出来事があってから恐らく一年程度が経った頃、つまり、約束の直後にサラが妊娠すれば出産があってもおかしくない頃になってもサラは妊娠すらしない。神様は、この時から十年も前に子孫を与えると約束し、少し前には、その子孫は「天の星のようになる」という言葉まで添えられて再び約束してくださり、アブラハムは主の約束を信じたのです。しかし、その約束は実現していない。この現実をどう見るのか?そして、どう対処するのか?
 サラはこう言います。今日、お渡ししたプリントの直訳の方で読みますが、
「さあ、見てください。主が、わたしが子供を産むことを妨げているのです。」
 彼女は、約束して下さった主なる神様ご自身が、出産を妨害していると見たのです。そして、夫であるアブラハム、主の約束を信じたアブラハムに対して、「見なさい、これが現実よ。目を覚ましなさい」と言っているのです。つまり、「主の約束を信じて待っている方がおかしい。もう私たち自身が行動を起こすべきだ」と言っている。
 彼女にはハガルというエジプト人の女奴隷がいました。(彼女の由来についての推測は省略します。)子供を産むということ、それは既婚の女にとって、当時は最大の務めであり、子供を産めない妻は、その存在の価値すら奪われかねないものでした。サラには、そういう女としての、妻としての悲しみがあったのです。そして、彼女の不幸は、その悲しみの原因は主の妨害にあると確信したところにあります。
 そして、主の約束を聞いて信じたはずのアブラハムは、ここではサラの声を聞き、その声に従うのです。アダムが、神様からの戒めを聞いていたのに、蛇に従ったエバの「声に従って、取って食べるなと命じた木から食べた」(創世記三章一七節)ように、アブラハムも主の声ではなく、サラの声に従い、主が見せてくださった天の星ではなく、サラに「見なさい」と言われた不妊の現実を見て、彼女の解釈に従ったのです。信仰の父と呼ばれる人物が、です。
 三節はさりげなく事の次第を書いてありますが、「アブラムの妻サライ」は「エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの妻とした」と書かれています。妻である女が、自分の奴隷を夫の妻として与える。そのようにして、自分の子を得ようとする。そこにある悲しみを思わないわけにはいきません。当時、妻の奴隷が夫との間に産む子を妻が抱く時、その子は法的には夫婦の子として看做されました。そうやって家系を繋げて行くことは世の東西を問わず行われてきたことです。そして、これが信仰による旅立ちから十年経ったある日、彼ら夫婦が立てた計画なのです。
 そして、その計画は即座に目に見える形で成功していきました。しかし、人間の計画には必ず見落としがある。去年流行った言葉で言えば、必ず「想定外」のことがあるのです。所詮は人間が考えることですから、当然です。彼らは、ハガルの心の中のことなど全く見ていない。奴隷ですから、自分達と同じ人間として見ていなかったのかもしれません。人間の心は、実に繊細です。傷つきやすく、そして、高ぶりやすい。
 ハガルは、

「自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」
 これは直訳すれば、
「自分が身ごもったのを見ると、彼女の女主人は彼女の目に軽くなった」となります。ついこの間まで重い存在であった主人が、妊娠と同時に軽い存在になったのです。ハガルにしてみると、今や自分はアブラハムの妻の一人であり、さらに身重になった妻です。自分の方が重いのです。そうなると、一気に高ぶる。それが人間です。
 サラは、この想定外の現実に愕然とします。そして、深く傷つき、「逆切れじゃないか」と言いたくなるようなことをアブラハムに言うのです。

「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを見ると、わたしは彼女の目に軽くなったのです。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」

 一体、どこが「あなたのせい」なのか一見すると分かりません。でも、彼女にしてみれば、そうなのです。彼女は、自分の女奴隷をアブラハムの妻として与えた。だから、今、その妻の管理責任は自分ではなくアブラハムにある。かつての奴隷が、自分を軽く見ることを放置しているのはアブラハムの責任だ。アブラハムの管理不行き届きで、正妻、あるいは第一夫人である私の尊厳が踏みにじられている。どうしてくれる?!と言っている。そして、アブラハムはここで被告人でありつつ、裁判官の役割をするように求められてもいます。彼を通して、主の裁きが具体的に現れるようにサラは求めているからです。しかし、彼女はかつて「主が邪魔をしているから子供が生まれないのはけしからん」と言っていたのです。そして、アブラハムは主の言葉よりも妻の言葉に従ったのです。だから、今度も彼は自分が期待したとおりの裁きをしてくれるだろうと踏んでいると、私は思います。「主が裁かれますように」というのは建前で、実際には、自分の思い通りに事が運ぶようにアブラハムを脅していると、私は思います。しかし、彼女が体裁を取り繕うために口にした「主の裁き」は、後々に、思いもかけない方法で、たしかにアブラハムとサラに与えられることになります。この時、彼女も彼もそんなことになるとは全く思っていませんが・・・。
 そして、アブラハムは今度も彼女の期待に見事に応えるのです。主に対して「どうしたらよいのでしょう?」と訴えるわけでも、祈るわけでもありません。彼は、あっさりとこう言います。

「見よ、あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの目に良いと思うことをしなさい。」

 あの時のアダムといい、この時のアブラハムといい、同じ男として身につまされるほど情けない姿がここにあります。アダムもアブラハムも、実はエバやサラの手中にあるとしか思えません。信仰の父と言われるアブラハムの一つの側面がここにはあります。また、サラも新約聖書のペトロの手紙の中では、「神を仰ぎ望んでいた聖なる女」と言われ、「夫に仕え」アブラハムを「主と呼んだ」と言われており、日本基督教団の「式文」の中には、結婚式で読むべき言葉の一つとなっています。しかし、最近ではあまりに男尊女卑的だということで読まれなくなりつつあります。私はそういう意味だけでなく、創世記に記されている事実とあまりにも違うと思って、少なくとも結婚式では読まないようにしています。アブラハムとサラは、エゴをむき出しに生きている普通の夫婦です。少なくとも、この段階では。
 こういう手順を踏んでハガルを奴隷として取り戻したサラは、仕返しとばかりにハガルに過酷な服従を強いました。それがこの時のサラの目には「良いこと」だったのです。ハガルはついに耐え切れずに逃げ出しました。サラの計画通りです。
 サラの悲しみは同情するに余りあります。子供を産むことが出来ない高齢の妻の悲しみがあります。しかし、奴隷として生きていたハガルの悲しみも、そこにはあったのです。サラは、そのことを知らない、あるいは軽く見ていました。それが裏目に出ます。妊娠と同時に、ハガルはサラの悲しみを倍増させる態度に出ました。サラを軽く見たのです。しかし、それが裏目に出ます。ハガルは妻になったつもりでも、サラの意識では未だに女奴隷ですし、夫であるべきアブラハムにとっては、ハガルとサラとでは全く違う存在なのです。そして、彼は、自分の立場を守るために、ハガルをあっと言う間にサラの手に渡してしまうのです。皆がそれぞれの思惑を実現させようとしつつ、すべてが裏目に出て、そして自己保身に汲々としている。ハガルは逃亡し、アブラハムとサラは、これで一件落着と安心したのです。しかし、物語はむしろここから始まります。ルカ伝に出てくるあの二人の弟子が、主イエスが十字架に架かって死んでしまったことで、すべてが終わったと考え、失意のどん底の内に、エルサレムを逃げ出すところから、むしろお本当の物語が始まったようにです。
 ここでは、「主の御使い」が登場します。恐らく、一人の男の姿として現れた。もちろん、ハガルは最初その男が主の使いだとは分からない。こういう所もルカ福音書に似ていて面白いでしょう?
その使いが、ハガルに語りかける言葉、これは今日ここにいる私たちすべてに対する神様の語りかけだと思います。

「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」

 この「どこから来て、どこへ行くのか」という問いは、物語の文脈で言えば、「サライの許から逃れて故郷であるエジプトに行こうとしているのです」というのが唯一の答えでしょう。この時のハガルには、行き先もないので、「逃げているところです」としか言いようがないのですが・・。しかし、この問いは、そういう具体的な答えを求める次元だけのものではないと思います。この問いに含まれている次元は、私たち人間は、一体どこから来て、どこへ行こうとしているのか?私という人間は、どこから来て、どこへ行こうとしているのか?あなたは何者であったのか、今は何者であり、これから何になろうとしているのか?つまり、人間とか、個人のアイデンティティを問う問いだと思います。
 御使いは、ハガルに対して、わざわざ「サライの女奴隷ハガルよ」と呼びかけています。そして、ハガル自身も「私の女主人サライの面前から逃げているのです」と答えるのです。何故、彼女は逃げることになったのでしょうか?女主人が辛く当たったからです。しかし、その原因は、どこにあるのでしょうか?彼女が妊娠の現実を「見た」途端に、かつての女主人を軽く見た、見下げたことにあるのです。サラはハガルに正妻の座を譲ったのではありません。第二夫人としての座を与えたけれど、それはあくまで、サラに子供を産むためです。そのことを承知の上でハガルは奴隷から妻になったのです。しかし、そこで彼女は自分を見失い、サラの心も見えなくなりました。そして、見下されていたように見下したのです。彼女が逃げざるを得なくなった原因の一つは、彼女自身が作ったものです。御使いは、その事実を知らせようとしていると思います。

「あなたの女主人の所に帰りなさい。そして、彼女の手の下で服従しなさい。」

 「あなたの女主人」、他の誰の主人でもない。あなたの主人の下に帰れ、そこにあなたの生きる場がある。そこにあなたがあなた自身になれる場がある。そこには苦しい服従の生活があるかもしれない。しかし、ただ逃げるだけの流浪の旅の中に、あなたはあなたとして生きることは出来ない。そして、あなたがた帰ることで、アブラハムとサラも、帰るべき所に帰ることが出来るようになる。御使いは、そういうことを語っているのではないか?そんな気がします。
 そして、「帰る」とは、「どこへ行く」と同じように深い言葉です。帰る所が主の許であれば、それは「悔い改める」という意味になる言葉なのです。
 しかし、ハガルがサラの下に帰るというのは、彼女にとってあまりに酷なことです。それは、モーセがあのエジプトへ帰ることを命じられたのと同じくらい酷なことです。その命令の前に、声もなく佇む彼女に向かって、御使いはこう語りかけます。

「見よ、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの悩みを聞かれたから。」

   ここでも新共同訳聖書では書かれていませんが、「見よ」という言葉が実はあります。彼女が見るべき現実。それはかつて彼女が見た現実と同じです。しかし、かつて彼女が妊娠の事実を見たとき、知った時、彼女は即座に高ぶりに陥りました。しかし、今、彼女は、この事実の中に、主の愛があることを知らされました。主が、彼女の悩み、その心の中の呻きを聴いてくださったから、自分は妊娠したのだということを知らされたのです。これはまさに、驚くべき神の恵み、アメイジング グレイスの中に自分が生かされていることを知らされたと言うべきことです。その時、讃美と信仰告白が彼女の口から出てきました。

「あなたこそエル・ロイ、わたしを見てくださる神。」

 今まで自分は見失われていた。誰も彼も自分を見捨てた。そして、私も自分自身を見失っていた。自分が誰であるかも分からなかった。自分の姿を見ることが出来なかった。何処へ行こうとしているのかもわからなかった。ついに、迷子になってしまった。でも、今、私は見捨てられていないことが分かった。私は主に見出された。主は私を見ていてくださる。私の心の中の悲しみや怒り、悩みを主なる神様は聞いて下さっている。その事実を感謝し、讃美しつつ、彼女は信仰告白をしたのです。
 その後に続く言葉は、翻訳の可能性がいくつかあります。しかし、何であれ、主なる神様が自分を見ていてくださることを知り、その神様を見つめながら生きることが出来る喜びにハガルが満たされたことは事実です。その喜びに支えられて、彼女はアブラハムとサラの下に帰って行くことが出来たのです。
主はまことに憐れみ深いお方です。高ぶりに陥ったハガルを厳しく裁くだけではなく、裁きを通して、彼女が何者であるかをはっきりと教えて下さいました。ハガルは過ちを犯しましたが、今でも神様に愛されている女なのです。神様はいつも彼女のことを見つめ、彼女の心の呻きに耳を傾け、共に生きてくださり、そして、子供を与えて下さるのです。その愛を知って、ハガルはアブラハムとサラの許へ帰っていきました。帰るべき所に帰った。彼女は悔い改めたのです。
 アブラハムとサラ、彼らはハガルの逃亡で一件落着と思っていたかもしれません。彼らは、自分達の計画がすべて裏目に出て、後悔していたでしょうが、それ以上のものではなかったと思います。しかし、後悔と悔い改めは違います。後悔は失敗した時にするものです。悔い改めは、自分が罪を犯したことを知らされた時にすることです。彼らは、まだ悔い改めてはいない。神に対して罪を犯したとは思っていないからです。そういう者たちに、これから「主の裁き」が、かつてサラが口先だけで言っていた、「主の裁き」がやってきます。
 一五節は直訳すればこうなります。

「ハガルはアブラムに息子を産んだ。」

 これは一節の「アブラムの妻サライは彼に子供を産まなかった」と対になっていることは明らかです。妻が夫のために子供を産むことが出来ず、妻の女奴隷がアブラハムのために子供、それも息子を産むのです。ここに神の計画があります。ここからまた大きな物語が始まって行くのですが、これが旅立ちから十年が経った時、アブラハムが八六歳の時の出来事です。ここで注目しなければならないのは、
「アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた」とあることです。
 どうして、彼はハガルが産んだ子を「イシュマエル」と名付けたのか?それはアブラハムもサラも、ハガルからすべてを聞いたからでしょう。それ以外に考えられません。彼女が逃亡してから何があったかを聞いたのです。主が何をハガルに言ったかを聞いたのです。
その時のアブラハムとサラの思いは一体どんなものだったでしょうか?私は、本当に「顔から火が出るほど恥ずかしい思い」だったと思うのです。「すべてを見られていた・・・・・・・。自分達の言動のすべてを神様は見ていた。ご存知だった。それだけじゃない、自分達の心の中にあったことも皆、見ておられたし、聞いておられた。」そのことを知ったのです。彼らの恐ろしく暗く惨めな心の中、その信じると言っても信じていない不信仰、人を見下す傲慢、人を見捨てる冷酷、その浅ましさ、すべてを神様は見聞きしていた。そして、今、ハガルを自分達の所に連れ戻すことを通して、自分達の惨めな姿を白日の下に曝している。「主が邪魔しているのよ。いつまで、その主に頼っているのよ、冗談じゃないわよ」というサラの思いと言葉から始まった彼ら二人の心の動きと行動は、こうして白日の下に曝されて見るとき、顔を挙げ得ないものです。彼らは、そういう惨めな自分達の姿を、何日もの荒野の放浪を経て、ボロボロになりながらも、深い喜びと感謝をもって帰ってきたハガルの姿と言葉を聞きながら見させられた。その時、彼らは初めて、「私たちは主に対して罪を犯したのだ」ということを知ったでしょう。主の約束を忘れ、いや無視し、主を軽んじて自分勝手な計画を立てて、人を利用したその罪を知ったのです。その時、彼らはハガルに詫びたでしょう。そして、主のみ前に立ち返った。「悔い改めた」のです。そして、アブラハムとサラ、そしてハガルは、互いの罪を主のみ前に告白し、主にあって和解したのではないでしょうか。その主の御許、それが、ハガルが帰る所であり、実はアブラハムとサラもまた、この主の御許に帰るべきだったのです。それが、神様のご計画だったのです。

「アブラムは、ハガルが産んだ彼の息子にイシュマエルと名付けた。」

 この言葉の中に、今言ったすべてのことが詰まっていると、私は思います。主はすべてを見ており、また主はすべてを聞いておられる。そして、主を見失い、自分を見失い、結局、罪を犯してしまう者たちを、それでも憐れみ、追いかけ、見つけ出し、語り掛け、悔い改めに導く。ハガルをサラの下に帰し、あの弟子達をエルサレムに帰して下さるのです。そこに神様のご計画があるのです。
 私たちの目に見える現実、それは一体いつになったら世界に平和が実現するのよ?!と叫びだしたいような現実です。そして、私たちの目に見えない現実、それは私たちの心の中の現実ですが、これもまた一体いつになったら清められるのよ?!と言いたくなる現実です。内も外も、汚れており、惨めこの上ない状態です。信じると言ったのに信じないし、従うと言ったのに背く。愛すると言ったのに憎む。そんなことを繰り返しています。でも、神様の約束は必ず実現するのです。私たちの罪の汚れは清められ、体は贖われ、世界は世の終わりには必ず神の国として完成します。完成させるのは神様ご自身です。神様が、再び主イエス・キリストを裁き主として送る時、天地は完成します。それがいつかは私たちには分かりません。しかし、それは私たちのために死んで甦られた主イエス・キリストの約束です。だから、必ず実現します。主は、ご自身を憎み殺す者たちの罪の赦しを祈り求めつつ、身代わりに裁かれて死んでくださいました。そして、ご自身の十字架において、神と人が和解し、人と人が互いに赦し合い、和解する場を作り出してくださったのです。そして、そのことをいつも新たに記念し、その愛による和解の場に与るように、聖餐の食卓を用意して下さったのです。主イエスは、こう仰いました。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」


 この食卓、それは主イエスが仰る如くに、父の国、神の国の食卓に繋がります。私たちが主を信じて、この食卓に帰ってくる時、神は、その御子イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちの罪を赦し、そして、私たちを復活の主イエスに繋がらせ、神の子として受け入れてくださいます。そして、神の子である私たちは、いつの日か必ず完成する神の国の福音を伝道しながら歩むのです。
私たちは、かつては世に生きていた人間です。そこで様々な自分の計画を立てて生きていたのです。どれも空しいものばかりでした。皆、失敗しました。そして、かつては「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」と問われたら、何と答えてよいかわかりませんでした。命の出所も行き先も分からなかったからです。でも今、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」と問われたらこう答えることが出来ます。
「私は、かつては罪の奴隷でした。でも、今は恵みによって主の僕とされました。だから、私は今、道であり、真理であり、命であり、誰もがこの方を通らなければ父の御許に行くことが出来ない主に従い、主に仕えつつ、いつか完成する天の御国を目指して歩んでいます。神様は、驚くべき恵みによって、世の闇の中で何も見えずに迷子になっていた私を見つけ出し、はっきりと見えるようにしてくださいました。一人でも多くの人が、この主の恵みを信じることが出来ますように。そして、一人でも多くの人が洗礼を受けて、この地上に備えられている救いの食卓に与ることが出来ますように。この主の愛が溢れた食卓にこそ、私たちが帰るべき所があるからです。ここでだけ、私たちは神様との和解を与えられ、憎みあっていた人間同士も互いに和解することが出来るからです。主を讃美しましょう。主に感謝しましょう。ただ主にこそ、栄光がありますように。アーメン」


【参考】
語創世記16章 部分的直訳(  )内はヘブル語
16:1 「アブラムの妻サライは、彼に子供を産まなかった。」
16:2 「さあ、見てください(ヒンネー・ナー)。主が、わたしが子供を産むことを妨げているのです。」
     「子供を獲得できるかもしれません。」
     「アブラムはサライの声を聞いた(シャーマー)。」
     「十年」
16:3 「アブラムの妻(イッシャー)サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの妻(イッシャー)とした。」
16:4 「自分が身ごもったのを見る(ラーアー)と、彼女の女主人は彼女の目(アイン)に軽くなった(カーラル)」
16:5 「彼女は自分が身ごもったのを見る(ラーアー)と、わたしは彼女の目(アイン)に軽くなった(カーラル)。」
16:6 「見よ(ヒンネー)、あなたの女奴隷はあなたの手(ヤーラド)の中にある。あなたの目(アイン)に良いと思うことをしなさい。」
     「サライは彼女に服従を強いた(アーナー)ので、彼女はサライの面前から逃げた。」
16:8 「私の女主人サライの面前から逃げている」
16:9 「あなたの女主人のところに帰りなさい(シューブ)。そして、彼女の手(ヤーラド)の下で服従しなさい(アーナー)。」
16:11「見よ(ヒンネー)、あなたは身ごもっている。・・その子をイシュマエル(シャーマー)と名づけなさい。主があなたの悩み(アーニー)を聞かれた(シャーマー)。」
16:13「あなたこそエル・ロイ(わたしを見てくださる神 ラーアー)。」
     解釈が分かれる
「わたしを見る(ラーアー)神を私は見た(ラーアー)ではないか」
「ここでも、わたしを見ていられるかたの後ろを拝めたのか」
「神を見た後でも私はこうして生きている。」
16:15「ハガルはアブラムに息子を産んだ」
     「八六歳であった」(旅立ちから十年後)

キーワード * ヒンネー(見よ) 16:2(サラ)、6(アブラハム)、11(主の使い)
ラーアー(見る、知る)16:4(ハガル)、5(サラの台詞の中のハガル)16:13(神・ハガル)
イシャー(妻) 16:3(サラ、ハガル)
ゲベレット(女主人)
カーラル(軽い)16:4,5(ハガルの目にサラが)
シャーマー(聞く)16:2(アブラハムがサラの言葉を)
           16:11イシュマエル=神は聞く
           16:11(主がハガルの悩みを)
アーナー(服従を強いる)16:6(サラの行為) 16:9(使いの命令)16:11(アーニー)主の行為)
アイン(目)16:4(ハガルの目) 16:6(サラの目)
ヤーラド(手)16:6,9(サラの手)
シューブ(帰る 悔い改める)16:9(ハガルがサラの許へ)


 Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.
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