「全き者となりなさい」

及川 信

創世記 17章 1節〜14節

 

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」
神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(以下省略)



 聖書を読んでいて、ハッとすることがよくあります。ハッとして、ドキッとして心が沸き立ったり、痛んだりする。そういうことがあります。今日の箇所を読んでいても、色々とありました。
 今日の箇所を読んで心に浮かんだ沢山の言葉の中から、最初にご紹介したい言葉は、ローマの信徒への手紙に記されているパウロの言葉です。彼はアブラハムの子孫であるイスラエル人に関して、こう言っています。

「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」

 アブラハムの子孫であるイスラエル人が、信仰に生きることなく、むしろ不服従に陥っている。その現実にパウロは激しく心を痛めています。しかし、イスラエルの不信仰にもかかわらず、彼らは神に選ばれた民であることは変わることがないと確信し、宣言するのです。神の賜物(カリスマ)と招き(クレーシス)は取り消されない。
そして、ヨハネという人は、そのことを手紙の中でこう表現しました。これは民族としてのイスラエルに限ったことではなく、神の招き(クレーシス)に応えた者たち(エクレシア=教会)に対する言葉ですが。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 神は、神を愛さぬ者たち、つまり、罪人を愛し、その愛ゆえに最愛の独り子を罪人の罪を償ういけにえとして十字架につけた。ここに神の愛がある。
 今日の箇所を読んで黙想しつつ最後まで心に残った聖書の言葉は、この二つです。
 先日、あるアメリカ映画を見ました。その中で、自身は薬物中毒になりながら、息子の帰りを泣きながら待ち続けている黒人女性が登場しました。その息子は弟の方で、兄貴はエリート刑事なのです。弟は、拳銃で人を脅しては高級車を奪う強盗です。母親も、弟がどうしようもない悪人になっていることはうすうす気づいている。でも、息子がどれほど落ちぶれてしまっても、母親の息子への愛情は変わらない。ただひたすら帰ってくるのを待っているのです。酒を飲み、薬を打ちながら、悲しみを紛らわせつつ、待っている。息子が真っ当な社会人になったら帰ってきて欲しいとか、刑務所で罪を償ってから帰ってきて欲しいとかではない。とにかく、いなくなってしまった息子が、この胸の中に帰ってくる。そのことだけが、その母親の願いなのです。しかし、弟は、つまらない行き違いで呆気なく殺されてしまい、死体となって母親の許へ帰ってくることになります。その間、息子は母親のハの字も思い出すことなく、悪事にいそしんでいるのです。でも、母にとって、その子は、ずっと自分の愛する息子であり続けている。息子は自覚していなくても、母の愛ゆえに、その男は、息子として生きているのです。母が愛していなければ、その男は何者でもない、nothingになってしまう。
 創世記一七章に入ります。

「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。』
アブラムはひれ伏した。」


 直前には、こうありました。

「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」

 アブラハムが、神様の召しに応えて見知らぬ地に旅立ったのが七十五歳の時です。そして、カナンの地に着いたときに、子孫に土地を与えるという約束を神様から与えられました。以後、彼はその約束を信じて旅を続けているのです。しかし、その旅を十年続けた時、アブラハムとサラの夫婦は、神様の約束の実現を待つことが出来ずに、自分達の力で子供を作りました。イシュマエルとは、そういう子供です。つまり、アブラハムは神様に服従しなかった。背いたのです。それも無自覚にではなく、意図的、自覚的に背いたのです。それはアダムとエバにおいても同じです。心のどこかで、それが背きであること、不服従であることを知っているのです。しかし、彼らは待つことが出来ない。この世における幸福、生活の保障を求めて、自分で自分を生かそうとしたのです。これはアブラハムがアブラハムであることを失ったということです。信仰と服従に生きることにおいて、彼は彼であったのに、彼は自ら、その資格を捨てたのです。それがどれほど惨めなことであるか、彼は夫婦で見捨てた女奴隷ハガルが帰ってきた時に、痛切に知らされたはずです。
 それから十三年の年月が経ち、彼はもう九十九歳です。若い時の十三年と高齢になってからの十三年では意味が違います。特に子供を産むということにおいて、この十三年は決定的な意味を持ちます。この先の十七節を読めば、その意味がよく分かります。神様はアブラハムに、男の子を与える約束をするのですが、その時、アブラハムは一節と同じように「ひれ伏し」ますけれども、下を向いて笑いました。そして、心の中で「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と、神様を嘲るのです。これは当然の思いでしょう。誰だって、そう思う。しかし、信仰とは人間の思い、願望とは違います。同じなら信仰など何の意味もありません。そして、アブラハムはその旅立ちの時から信仰の父になるべく生きているのです。彼の自覚がどうであれ、神様はそういう者として彼を生かしているのです。そこで言われる「信仰」とは何であるか、信仰に生きるとはどういうことであるか。この問題を巡って、来月も再来月もこの創世記一七章をいろいろな角度から読んで参りたいと思います。
今日は、「神の選びは変わらない。その賜物と招きは取り消されない。神は、神を愛さぬ者をそれでも愛している。その神様の愛を信じるとはどういうことか」について、御言の語りかけを聴き取っていきたいと願っています。
 創世記のアブラハム物語を読んでいますと、彼の様々な面が見えてきます。一筋縄ではいかない人物なのです。信じたかと思うと疑っているし、従順であると思うと逆らっている。神様の前にひれ伏したと思うと、心の中では神様をあざ笑っている。それじゃ、信仰を捨てたかと思うと、神様に言われたとおりに従う。そういう複雑な人間です。しかし、私は程度の差こそあれ、人間は皆複雑だと思います。言っていることとやっていることの乖離があるのは当たり前ですし、さっき言ったことと今言っていることが違っていても、左程、驚くには価しない。気分や状況によって言うことはどんどん変わるのです。さらに命が掛かれば、主イエスを裏切ったペトロの如く、突然、「あの人のことは知らない」と言うのです。「一緒に死なねばならなくなっても、知らないなどとは言いません」と言うのも本心だし、「あの人のことは知らない」と言うのも本心なのです。そのペトロを責める資格のある人は、ここには誰もいないでしょう。
 しかし、アブラハムは最後には、たしかに「信仰の父」と呼ばれるに相応しい人物になっていきます。そして、ペトロもまた、後には偉大な使徒になっていきます。それは何故か、が今日の箇所の大きな問題です。

「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。」
 これは、実に深い言葉です。

今月の二一日に「詩編の集い」という有志の集まりがあります。午前と午後の時間を使って、じっくりと一つの詩編を共同で学ぶ会です。以前はオリーブの会の方たちの学びの会であったようですが、今は、どなたにも開かれています。聖書をああでもないこうでもないと言い合いながら一緒に読む楽しさは滅多に味わえないことだと思いますから、お時間のある方は是非参加されたらよいと思います。今年私が選んだのは詩編十三編です。それは、こういう書き出しです。

「いつまで主よ わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」


 私は「詩編の集い」のご案内の文章にこう書きました。
「私たちの心の中にいつもある問いは『主よ、いつまでですか』というものではないでしょうか。春の一日、共に詩編の御言に浸りましょう。」
 アブラハムが子孫と土地の約束を与えられてから十三年が経った時、彼はついに約束の実現を待ちきれずにハガルとの間に息子を作りました。しかし、それは神様の約束の子ではありませんでした。彼は、それからまた十三年待たされます。そこに、彼の不信仰に対する裁きがあることは確実だと思います。彼は、九十九歳になりました。しかし、まだ子供は与えられない。「主よ、いつまでなのですか」と心の内でどれだけ叫んだか、分かりません。そして、この時はもう諦めてしまっている。そう思います。そういう時に、神様が現われるのです。
 そして、私は昨日になって、フト、「いつまで??」と叫んでいるのはどっちなんだろう?と思いました。ひょっとしたら、神様の方こそが、「アブラハムよ、いつまでわたしを忘れているのか?いつまで、わたしの前に出てこようとしないのか」と叫んでいるのかもしれないと思ったのです。そして、その叫びは、私に向けての神様の叫びでもあったのではないか、と。そして、改めて今日の箇所の言葉を読んでみると「あなたはわたしに従って歩みなさい」とありますが、このヘブライ語を直訳すると「あなたは私の顔の前を歩きなさい」(walk before me)となります。神様の御顔の前を歩く。神様の目の前で人生という旅路を歩く。それが神様に従うということなのです。その反対に、神様の御顔を避けて、神様の前から離れて、自分勝手に歩く、生きる。それが罪です。そして、罪が深まって行きつく先は死です。この死は、肉体の死を意味しているのわけではなく、神様に造られた人間としての死、神の像としての人間の死です。
小さな子供が、自動車が猛スピードで行きかう道路や悪の誘惑や危険が満ちた道を歩くときは、親の手をしっかり握って歩くか、親の目の前を歩かなければなりません。「もう僕は一人で歩けるよ」と言って、親の手を振り切り、「待ちなさい」という声も振り切って、あらぬ方向へ自分勝手に歩き始めたら、その子は車にぶつかったり、引っ掛けられたり、轢かれたりします。あるいは、悪い大人に騙されて、とんでもない目にあったりするのです。事故にしろ、誘惑にしろ、かすり傷程度で済めばよいですが、時には重症をおう場合もあるし、最悪の場合は死んでしまのです。神様の顔の前から離れるということは、そういうことなのです。安全に最後の目的地まで行くためには親の目の前を、あるいは親の手をしっかりと握って歩かなければなりません。
アブラハムは幾度も誘惑に負けた人間です。神様の顔の前から離れた人間です。自分で選んだ道を歩いたことがある人間です。そして、相当に深い傷を負ってきた。しかし、それでも主はアブラハムの前に現われる、現われてくださる。アブラハムの前に現われてくださる。彼を見捨てない。そして、「いつまで私を避けて生きているんだ、いつまでわたしの顔の前から離れて生きているつもりだ」と仰って下さる。この箇所は、そういうことを語りかけている。そう思いました。
今日の長老会において、中渋谷教会に転入会を希望される方とイースター礼拝で洗礼を受けることを願っておられる方の試問会を致します。特に長老制度を採っている教会において、試問会は、最も大切な仕事であると言うべきものです。「試問」と言うと、同じ発音で学識経験者などに意見を求める「諮問」と混同されがちですが、試験をするという意味の試問会です。何故、そういうことをするのかと言えば、長老会にとっての最大の仕事は「教会の信仰」を守ることであり、また教会員が誰であるかを確定し、その教会員の信仰生活を育てることだからです。ですから、長老会は「教会の信仰」とは何であるかを絶えず学び、身につけなければなりませんから、今日も長老会の最後には長老研究の時間をとる予定にしています。宣教を担当する長老である牧師が求道者の方に福音宣教をして、教会の信仰が聖霊によって与えられたと確信できたらその方を長老会に推薦し、長老会で信仰の告白と受洗をしたいという希望を述べて頂きます。長老全員が、たしかにこの人には自分達と同じように聖霊によって教会の信仰が与えられたと確認できれば、神様への感謝と賛美をもって受洗を承認することになっています。
転入の場合は、日本基督教団の教会で洗礼を受けた方と、他教派で洗礼を受けた方では試問会に至る経緯が多少違いますが、いずれにしろ「日本基督教団信仰告白」を告白することを前提とし、さらに中渋谷教会規則を守り、中渋谷教会の会員として相応しく生きることを長老会の席で約束していただくことになります。
私たちは、神様を信じて生きていきますと約束をする。そして、礼拝を重んじ、会員として相応しく生きると約束をします。今日の箇所に出てくる言葉で言えば、神様との間に契約を結ぶのです。それは、神様が私たちに約束してくださっていることを知ったからです。独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活を通して、私たちに新しい命を与えて下さるという約束を信じて、「私たちは生涯、信仰に生きます。あなたに従います。御顔を前から離れません。」そう約束したのです。そして、その徴として洗礼を受けたのです。アブラハムとその家族は割礼を受けました。それが契約の徴でした。私たちにとっては割礼ではなく、洗礼が契約の徴です。パウロは、こう言っています。

「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリスト共に復活させられたのです。」(コロサイ二章一一節〜一二節)

 古代教会の洗礼式においては、水からあがった受洗者に司教が油に浸した指で額に十字を切ったそうです。羊に焼印を押して所有者が誰であるかを明確にするのと同じです。洗礼を受けた者は、キリストの十字架の贖いによって、罪と死の奴隷であったのにキリスト者、キリストの僕として頂き、罪の子から神の子として新しく生まれた。そのことを明確にしたのです。これが神様の約束です。私たちキリスト者は皆、その約束を信じ、私たちも約束をしてキリスト者の歩みを始めました、僕の歩みを始めました、神様の子としての歩みを始めたのです。あるいは、これから始める方もいる。そういう方には夢も希望もないことを言いますが、私たちは等しく約束を破ります。教会生活から離れしまうこともあります。見た目は教会生活を続けていても、罪は幾らでも犯すことは出来ます。イエス様の手を振り切り、「待ちなさい」「帰ってきなさい」「そっちに言っては駄目だ、危ない、死んじゃうから行かないで・・」。そういう叫び声に耳を塞いで、一人で罪の世界に飛び込んでしまうことや、知らず知らずの内に迷い込んでしまうことだってあるし、騙されてしまうこともある。とにかく、私たちキリスト者は、人によって程度の差はありますけれども、「脛に傷がある」とか、「叩けば埃が出る」どころじゃない場合も多々あるのです。時には、全身傷だらけ、埃まみれになっている。あの洗礼の時に洗い清められた体、新しく与えられた命など、一体何処に行ってしまったのか分からない。そういう状態になってしまうこともある。
 アブラハムの十三年、イシュマエルが生まれてからの十三年。この十三年が何であったのか。そのことを思い巡らすと尽きることがないのですが、先ほど読んだ一七節を読む限り、彼はハガルとイシュマエルの事件以後、必ずしも悔い改めと信仰の日々を送ってきたわけではないことは分かります。彼は、神様が男の子を与えると約束された時、笑いました。そして、一八節を読むと、「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」と言うのです。つまり、彼は神様の約束なんて信じていないのです。自分たちの策略で作った子を跡継ぎとしようとしているのです。それで良いと思っている。神様が何を約束しようと、子供が新たに与えられるなんて、これっぽっち思っていない。一五章にあった、「あなたの子孫は空の星のようになる」という神様の約束を信じたアブラハムはここにはいない。彼は、信じていないのです。そして、約束を破っているのです。これが私たちの信仰の父の姿です。そして、まさに彼こそ、私たちの父です。私たちは彼の子です。
 どういう意味で、そう言えるのか?それはアブラハムも私たちも実にいい加減な信仰者であるという点で、そう言えるのです。しかし、それだけではない。もっと根本的な点で、そう言えるし、言わざるを得ないのです。
 そもそもアブラハムが聖書にどのようにして登場したかを振り返ってみますと、これは一〇章のノアの系図に遡ります。つまり、彼が生まれる前から彼に至る系図があって、そして選びがあるのです。何故、アブラハムに至る系図が選ばれているのかは神様の秘めたるご計画ですから、私たちには分かりません。そして、アブラハムは、彼自身が神様を求めてついに神様に出会ったとか、神様を見つけたという人物ではありません。彼はある時、神様に呼びかけられた、招かれたのです。そして神様を信じる信仰を与えられ、神様から託された使命を果たすために派遣されたのです。それが、彼に与えられた賜物です。すべては神様から始まるのです。神様が、彼が生まれるずっと前から彼を招くために準備をし、彼が漸く七十五歳になった時に、満を持して「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と命じられたのです。神様が彼を招き、神様を信じる信仰という賜物を与えて下さり、世界を祝福に変える基となるという大きな使命を与えて下さったのです。それを受け止めて、彼の新しい旅が始まりました。しかし、その旅は困難の連続だったし、誘惑や試練の連続でした。彼はその困難を乗り越えることもあったし、誘惑や試練に負けることもあった。まさに私たちと同じ。そして、さらに同じなのは、アブラハムがどれほど不信仰に陥り、不服従に陥っても、彼を選んだ神様の選びは変わらない。その賜物と招きは取り消されないということです。そして、アブラハムが神様を愛していない時も、神様を忘れている時も、神様に背いている時も、神様はアブラハムを愛しているし、アブラハムを忘れていないし、アブラハムを追い求めている。「いつまでお前は、いったいいつまでお前はわたしの顔の前から離れているのだ」と叫びながらです。そして、ある時、逃げようもない形でご自身を現わして下さるのです。私たちに対しても同じです。
 私たちは今、礼拝を捧げています。この礼拝は、私たちがここまで来ているから、ここで捧げている。しかし、ここまで来るというのは空間的にここまで来るということだけではなく、電話を通して礼拝を捧げている方もいるし、病床で見た目は一人で捧げている方もいる。礼拝とは、神様の御顔の前に立つことから始まります。そして、その礼拝の最初にあるのは、神様の招きの言葉、招詞です。私たちが神様を求める前に、私たちが神様を見つける前に、神様が私たちを求め、見つけ出し、招いてくださっている。「私の顔の前に立ちなさい。私はここにいる」と招いてくださっているのです。そのことがなければ、私たちは立ちたくても立てないのです。礼拝は、神様が賜物として与え、招いて下さって初めて捧げることが出来るものなのです。今日も、その「賜物」と「招き」は変わることなく、与えられています。私たちが、神様に選ばれ、愛されているからです。その選びと愛が変わらないからです。
 私たちは洗礼を受けた後も、何度も何度も御子主イエス・キリストの手を離し、さ迷い歩く愚かな罪人です。でも、神様はその罪の数だけ、私たちを赦し、そして新たに御前に招いてくださっている。そして、「今日から、新たにわたしに従え、全き者となれ」と仰ってくださるのです。この「全き者」とは何か?どのようにしてなることが出来るのか?これが最後の問題です。
 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。この食卓に与るためには洗礼を受けていることが必須条件です。この後読む「式文」の中に、こういう言葉があります。

「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招く。」と勧められています。かえりみて、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして、信仰と真実とをもって聖餐にあずからねばなりません。


 恐ろしい言葉です。そして、これは本当の言葉です。裁きは確かにあります。そして、悔い改める者に与えられる赦しも確かにあります。
先日、ある方が私に向かって、「この言葉を聞く度に、目の前に回ってくるパンに手を伸ばして取ってよいものかどうか、非常に、逡巡する」と仰いました。それは当然です。逡巡もしないで取って食べることのほうがおかしいと言うべきでしょう。しかし、逡巡して、結局、取って食べないとすれば、それはさらにおかしいのです。
 先週、ヨハネ福音書の説教において私が最後に強調したのは「来る」という言葉でした。バプテスマのヨハネは、「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と証言しました。「その方」とは、世が造られる前に既に神と共にいた独り子なる神イエス・キリストのことです。その方が「来る」と彼は預言をし、ある日、その方が自分の方に「来た」時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証をしたのでした。そして、その神の小羊は、十字架の死の後に復活をされて弟子たちの所に「来た」のでした。罪の闇の力に押し潰され、生ける屍のようになっている弟子達、鍵をかけ、窓を締め切った部屋に隠れている弟子たちの所に「来て」下さったのです。そして、釘を打たれた跡が残る掌、槍で刺された跡が残るわき腹を見せながら、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったのです。この時の弟子達、それは主イエスの顔の前から離れてしまった弟子達です。キリストの者という十字の徴をつけてもらった羊なのに、羊飼いが捕まった途端、まるで羊飼いのことなど昔から知らなかったというふうに逃げ隠れしてしまった弟子達です。彼らから主イエスの所に行く術はありません。「一緒に死んでもよい」と言うまでに愛していた主イエスを捨ててしまったのだし、主イエスは死んでしまったのですから。彼らは主イエスを裏切り、そして、自分自身ことをも裏切りました。そして、罪の闇の中に死んでいたのです。その彼らが集まっている部屋に主イエスの方が「来て」下さった。現われてくださったのです。不信仰なアブラハムの前に全能の神が現れて下さったように、弟子達に裏切られた主イエスが弟子たちの前に現われたのです。そして、掌を見せ、わき腹を見せながら、
「心配しないでいいんだよ。私はまだ、いや、今こそ、あなたたちを愛しているんだから。何も心配しないでいい。あなたたちの弱さを、私は良く知っている。あなたたちは罪の力には勝てない、闇の力には勝てない。そんなことは前から良く知っている。だから、私が代わりに死んだ。そして、神は私を甦らせてくださった。私はもう罪と死の力に勝利している。だから安心しなさい。わたしは今でも、いや今こそ、あなたたちを愛している。赦している。心配するな。あなたのために私は死に、私は甦り、そして今生きているのだから。私を愛し、私を信じなさい。そして、聖霊を受けて、罪に死に、新しく生き直しなさい。聖霊を受け入れれば、私があなたを愛したその愛で生きることが出来る。私に赦されたように赦すことが出来る。でも、あなたたちは、私から離れたら、何も出来ない。私から離れれば、そこには死の闇しかない。いつでも私の顔の前に生きなさい。いつも、私の顔を見ながら生きなさい」
と語りかけて下さったのです。
 礼拝の中で、聖餐のパンが回ってくる時、ぶどう酒が回ってくる時、それは主イエスが私たちの所に「来て」下さる時です。幾度も御前から離れてしまう私たちを追い求め、私たちにご自身の姿を現し、語りかけてくださる時なのです。
「取って、食べなさい。これはあなたのために裂かれた私の体。飲みなさい。これはあなたのために流したわたしの契約の血だ。あなたは約束を破った。洗礼を裏切った。でも、私は約束を守る。私はあなたを選んだのだ。そして、あなたに与えた洗礼という賜物と招きは今日も変わることなくあなたに与える。私はあなたを裏切らない。私は今日もあなたの神、あなたを愛している。だから、この愛を信じて生きるために、取って食べなさい。そして飲みなさい。ただ、その時にのみ、あなたは私の前で全き者となるのだから。全き者となりなさい。」
祈ります。
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