「全能の神、私の神」

及川 信

創世記 17章 1節〜14節

 

「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。
わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。・・・・・・


 前回に引き続き創世記十七章前半の御言に聞きます。来月もう一度同じ箇所の御言に取り組んでから先に進もうと思っています。
 前回はいつものように物語の文脈の中で、「全き者となりなさい」とは何を意味するかに集中しました。今日は、少し違った角度からこの物語を読んでいきます。それは、この物語の歴史的背景とか、物語が出来上がっていく過程を考慮するという角度です。
 つい先日、イスラエルの選挙で中道勢力が勝利したという報道がありました。その中道勢力は「対話なき分離政策」をとっていると言われています。パレスチナ自治政府と対話をしないまま、撤退する所からは撤退し、占領を続けるところは占領したまま、大きなコンクリート壁でイスラエルとパレスチナを分断し、パレスチナの過激派のテロからユダヤ人の身を守るという政策のようです。こういう政策を掲げる政党が今後しばらくはイニシアチヴを取るのであろうイスラエル共和国とは何か?そこに生活している「ユダヤ人」と自らを呼び、また呼ばれる人たちは何者か?その問題はあまりに複雑ですし、長い歴史が背後にあって、とても私の手には負えません。なにしろ現在のイスラエル共和国には、百カ国近い国々から「帰還」してきた様々な肌の色、目の色をした「ユダヤ人」が住んでいますし、初代首相のベン・グリオンはこういう言葉を残しているのです。
「我々は三〇〇〇年間、定義なしでユダヤ人として生きてきたし、今後も然りである。ユダヤ人は宗教共同体とか民族といった定義もあろうが、ユダヤ人という意識だけで充分である。」 この「定義なき人々」は、三〇〇〇年のうちの二五〇〇年間、主権国家を持たないで世界各地を迫害と差別にさらされながら、しかし、逞しく生きてきた人々です。その彼らが、第二次世界大戦後に、あのホロコーストを乗り越えて、ついにイスラエル共和国を作ったのです。それは「歴史の奇跡」とも言われる出来事ですけれども、なぜ、そういうことが起こるのか?その問題を考える上で、どうしても避けることが出来ないものは、アブラハムに対する約束が記されている創世記です。創世記に記されているアブラハム物語が、現代のイスラエル共和国に深い影響を与えており、数千年の世界史に対して決定的な影響を与えている。それは、動かしようもない事実です。
私たちはアブラハム物語をずっと読み続けていますが、この物語も一人の人が一気に書いたものではなく、何百年もの間、口伝えで伝わり、さらにいく通りの物語が書かれ、さらにその話が編集されて現在の形になっていると考えられます。ですから、実に複雑にして壮大な物語になっているのです。アブラハムという一人の人から始まったイスラエルの歴史が、逆にアブラハムという一人の人の中にどんどん入り込んでくる。イスラエルの民はアブラハムの物語から神様の御心を教えられつつ、アブラハム物語に自分達がした経験や、そこで示された神の御心を書いていく。この物語には、そういう不思議な形成過程があります。そして、私たちキリスト者はアブラハム物語を読みながら生きていますけれど、それはアブラハムに与えられた約束を自分に与えられた約束として聞きながら、生きているということであり、そういう意味ではアブラハム物語は、今の私たちの物語なのです。
 それでは、今日の箇所一七章がいつどこで書かれたか?これはかなりの確度で「バビロン捕囚時代だ」と言えると思います。バビロン捕囚時代、それは紀元前六世紀です。
 日本は先の戦争で「無条件降伏」をしたと言われていますが、天皇の住いである皇居が破壊されたわけではないし、靖国神社も破壊されませんでした。国家の統帥権を持っていた天皇も死刑にされませんでした。戦後すぐに始まった冷戦構造の中で、天皇制は残り、自治もほどなく回復し、多くの戦犯も釈放され、首相になった人もいますし、隣の国の戦争特需で一気に経済復興も成し遂げた。それが、日本の「敗戦」です。
しかし、ユダ王国の敗戦は、文字通りの「滅亡」でした。靖国神社にあたるエルサレム神殿は完全に破壊されました。皇居に当たる王の宮殿も跡形もないほど壊されました。神殿で働いていた祭司たちは、殺されるか、バビロンに連れ去られるかしました。いわゆる公務員も同じです。そして、万世一系のダビデ王朝、「その統治は永遠に続く」と神様に約束されたダビデ王朝の最後の王は、バビロンの王によって目の前で王子たちを皆殺しにされ、自身は両目をつぶされてバビロンに連れて行かれたのです。そして、政府高官、技術者、職人、軍人全員なども連れ去られ、金銀財宝のすべてが略奪されました。日本で天皇の目が潰されてアメリカに連れて行かれ、皇族は皆殺しにされ、靖国神社も皇居も焼き放たれ、政府要人や学者、職人、軍人すべてを殺すかアメリカに連れ去られてしまい、残された庶民と後から強制的に移住させられた他の民族の人々との結婚が進めば、日本は滅亡したでしょう。実際、世界史の中で、そのようにして消えていった国は無数にあるのです。ユダ王国の滅亡は、そういう滅亡です。それが、どれほど大きな傷であるかは、詩編一三七編を見ると分かります。それはこういう言葉で歌い出されます。

「バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。」


 バビロンの人々に、「歌って聞かせよ」と言われている歌は「主のための歌」ですから、シオン、エルサレム神殿で歌っていた讃美歌です。そして、この詩を残した人は神殿の楽団で竪琴を弾いていた人かもしれません。礼拝の度に、会衆の讃美歌を伴奏しながら歌っていた楽士の一人でしょう。その人にとって、バビロン人の嘲りが、どれほどの屈辱であったか、それは想像するだけでも気の毒で心が痛みます。
 しかし、彼は嘆き悲しみの中で、最後にはこういう言葉でその詩を締めくくります。

「娘バビロンよ、破壊者よ
いかに幸いなことか
お前がわたしたちにした仕打ちを
お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」


 この詩は、最後は深い憎しみの吐露で終わるのです。「聖書」の中にこんな詩があって良いのかと怒っても、その怒りは所詮、この人が味わった苦しみを味わったことがない者の戯言に過ぎないのだと思います。目の前で子供らが岩に叩きつけられて殺されていく様を見たら、誰だってこういう憎しみを覚えるのではないでしょうか。そして、今、パレスチナ人が自分達を占領し、圧倒的な武力をもって弾圧するイスラエル人に向けて抱く憎しみは、このイスラエルの詩人が支配者であるバビロン人に抱いた憎しみと、同じだと思います。そして、植民地時代の朝鮮の人々が日本人に対して抱いた憎しみも、やはり同じだったのではないでしょうか。
 創世記一七章が書かれたのはバビロン捕囚時代であり、書いた人はその文体や思想から言って神殿に仕える祭司であったろうと言われます。捕囚直後、すべての人が、一種の放心状態であったでしょうが、屈辱と恥辱を経験する中で、次第に憎しみと怒りをたぎらせていく人々がいました。暴動を起こすとか反乱を起こすとか、今で言う「過激派」も生まれたようです。しかし、その反対に完全な無気力に落ちてしまった人々もいる。また、すっかりバビロンに馴染んで、バビロンの神々に帰依した人もいる。実際には色々な人々がいたはずです。しかし、ある人々は、現実を見つめ、その真相(深層)を見つめていきました。何故、「永遠」と言われたダビデの王朝は滅んだのか。何故、神聖不可侵であるはずのエルサレム神殿は異邦人に陵辱され、破壊されたのか。そういう民族的宗教的な問いは、さらに進んで、そもそも人間の歴史とは何か?世界とは何か?そして、人間とは何なのか?そういう根源的な問いになっていったのです。そして、その問いは神へ向かって行かざるを得ない、祈りとならざるを得ないものです。そういう深刻な問い、祈り、それはいつの日か必ず、神様によって応えられるのです。その応答がいつ与えられるかは全く分かりません。何年も何年も経ってからである場合もありますし、数十年経ってからである場合もある。とにかく、聖書には、その応えが記されている。祭司が書いたから一般に祭司文書と呼ばれる一群の文書はまさに祭司の祈りに対して神様が応答して下さった御心が現われている。私は、そう思います。
 一七章の時点のアブラハム、それは神様の約束を疑って、サラの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという子供を作ったあとのアブラハムです。それは、神様の約束と祝福を信じて生きるべきアブラハムが決してしてはならないことでした。彼はこの時に大きな罪を犯したのです。その罪に対する裁きが十三年間続き、彼は、この時九十九歳になっています。つまり、人間的には、子供を作ることは不可能な状態になっているのです。ひとりの子を産むことも出来ないのですから、増えることなど出来ません。彼は静かに自分の死を待つ以外にない老人になっている。この十三年間、それは明らかにアブラハムが犯した罪に対する神様の裁きの時です。しかし、神様の裁きには必ず救いの道が隠されていますし、裁きによって悔い改めに導かれていく時、神様は必ず新しい道を開いて下さるのです。私もただその恵みによって、今もこうして生かして頂いています。
神様は、九十九歳になったアブラハムに現われて、こういうことを言われました。 「アブラハムとの間に、新たに契約を立て、子孫を増やし、彼を諸国民の父とする。そのために、アブラムからアブラハムという新たな名を与える。そして、神様はアブラハムとその子孫の神になり、カナンの地を永久の所有地として与えるという永遠の契約をたてる。この契約を受け取るために、アブラハムとその家族は割礼を受けなければならない。それが契約のしるしとなる。」
 先程言いましたように、イスラエルにとってアブラハムとは過去の人でありながら、常に現在の自分達自身でもあるのです。アブラハムに言われたことは、今の自分たちに言われていることなのです。だから、二五〇〇年間も国がなくても、国が出来てしまうのです。イスラエルの人々、神を信じる人々は、いつも自分達はアブラハムであり、その子のイサクであり、ヤコブであり、ヨセフであるという思いで聖書を読んでいるのです。
となると、バビロン捕囚の屈辱の中にいた人々が、このアブラハムに対する神様の言葉を読んだ時、どう受け止めるのかと言えば、こういうことではないでしょうか。
「アブラハムは確かに罪を犯した。だから、裁かれた。私たちも同じだ。私たちは神様の約束を信じて生きる民として選び立てられていたのに、神様が私たちの願った通りに子供を与えてくれない、土地を与えてくれないと言っては、自分の知恵や策略で手に入れたいと思うものを手に入れる生活をしてしまった。それじゃまるで他の神々を拝んでいる人と同じではないか、現世利益を求めて生きている人々と同じではないか。神様は、そういう私たちに対して、幾度も幾度も預言者を遣わして警告して下さったのに、私たちは誰も耳を貸さず、むしろ預言者たちを迫害してきた。しかし、彼らが言っていたことは本当だったのだ。預言者エレミヤは、いつも、『背信の子らよ、主の許に帰れ』と言っていた。それなのに、私たちは帰らなかった。そして、ついに神様はそういう私たちに対して怒りを爆発させ、バビロンの王を、私たちを打つ鞭として遣わし、私たちを滅ぼされたのだ。でも、それで終わりではない。神様は、無から有を生み出すことがお出来になる全能の神様は、信仰を捨てて無価値になってしまった私たち、信仰的には死んでしまった人間を、お見捨てにならないのだ。アブラムを見捨てないで、新たにアブラハムとして生かしてくださった神様は、そして九十九歳の老人から新たな子孫を作り出して下さった神様は、この私たちをも新たに生かし、子孫を生み出し、世界に神の愛とその力を広める民として、神の代理人の王として立ててくださるのだ。全能の神様は、そういう御業をなさる。」
 祭司の祈りに応えて神様が与えて下さった言葉は、捕囚の民の悔い改めと新しく生きる希望を与える言葉として響いていったのです。
 それはまさに祭司資料である、あの創世記一章のメッセージとぴったりと重なります。混沌が覆い、闇が覆っていた世界に光と秩序を造り出し、命なき世界に命を造り出し、すべての人間を神に似せて造り、産めよ、増えよ、地に満ちよ、と語りかけて下さる神様。それは、屈辱と恥辱にまみれ将来に何の希望も見出せず、ただ奴隷の身として死ぬだけであったイスラエルの人々にとって、唯一の希望だったのです。また、人間の罪に対する徹底的な裁きとしての大洪水の後、やはり「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と語りかけてくださり、虹の契約をもって祝福して下さった神様、祭司は繰り返し、繰り返し、恐るべき裁きの後に罪を赦し、新しい命、新しい祝福を与えて下さる神様の愛を告げるのです。
 『ユダヤ大事典』という本を読んでいて、改めて「うーーん」とうなってしまったのは、「アブラハムの子孫」という言葉が持っている射程距離の長さと広さです。「アブラハムの子孫」とは、民族性を現わしません。ユダヤ人と自ら自覚し、人からそう呼ばれる人々はあらゆる民族と人種に跨っています。しかし、「アブラハムの子孫」はユダヤ人だけではない。アラブ人もそうなのです。パレスチナ・アラブ人もそうだし、中東に住んでいる多くの人々はアラブ人です。彼らはアブラハムとハガルの間に生まれたイシュマエルの子孫です。このイシュマエルとサラとの間に生まれたイサク、この異母兄弟の複雑な関係が未だに解決できない世界史上の大問題なのです。兄弟だけに正統争いが生じるし、近くに住んでいるので、色々なものの奪い合いが起こって、仲良く出来ない。ですから、三千年も前に書かれた聖書の問題が、実は現代の問題なのです。そして、新約聖書において「アブラハムの子孫」と言えば、ユダヤ人のことではなく、キリスト者のことです。イエス・キリストご自身が血筋においてアブラハムの子孫であるだけでなく、罪の呪いに堕ちた世界に愛の祝福をもたらす使命を与えられた方としてアブラハムの子孫なのです。そのイエス・キリストによって罪を赦して頂き、新しい命を与えられている私たちは、皆、割礼ではなく、洗礼によって、アブラハムの子孫なのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこう言っています。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

 そうなりますと、アブラハムの子孫というのは、たとえば宗教の分類で言うと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のすべてに跨り、人口的には世界の人口の半数を優に越え、地域で言うと、世界中に、「自分はアブラハムの子孫である」と自覚している人々がいるのです。これもまた、驚くべきことです。紀元前何百年、あるいは千何百年に「アブラハム」に語られた神様の約束、「あなたは諸国民の父となる、あなたは世界の祝福の基となる、あなたの子孫にこの土地を与える」という約束は、二五〇〇年、三〇〇〇年の年月の流れの中で、様々な意味において今も尚実現の途上にあるのです。聖書は、そういう意味でも、過去の書物でも何でもなく、今も起こっていることが書かれている書物なのです。
 そして、私たちはアブラハムの子孫として、今日、何を聞いているのか。「信じる者は赦される」という福音を聞いているのです。私たちは誰もが罪を犯します。罪を犯しながら生きているのです。でも、全能の神様は、本当に信じ難いことをして下さいました。「新しい契約」を立てて下さったのです。それは、独り子の十字架という契約です。罪なき神の独り子を、世の罪を取り除く小羊として、あの十字架の上で裁いてくださった。その血を流させて、その肉を裂いて、殺されたのです。ただ、そのことによってしか、私たちの罪を赦すことが出来ず、私たちを呪いから解放して祝福の命に生かすことが出来ないからです。罪は裁かれて赦されるのです。その裁き、死に至る罪の裁きを、罪なき神の独り子が身代わりに受けてくださることを通して、私たちの罪が赦される。その道を開いてくださった。天国へと至る道を開いてくださったのです。その道を歩くための通行権が洗礼です。主のみ前に罪を告白し、主こそが罪の贖い主であることを信じ、赦しを乞い求めるならば、その人の罪は赦されます。今日も、この後配られるパンとぶどう酒を、悔い改めと感謝と信仰をもって食べることによって、洗礼を受けている私たちの罪は赦され、新しい命が与えられるのです。そして、新たに使命を与えられ、派遣されるのです。私たちの場合はクリスチャンネームを与えられるということはありませんが、今日も新たに「あなたはキリスト者、クリスチャン、私の者だ」と呼びかけられるのです。そして、「あなたの子孫にこの土地を与える」と語りかけられている。
私の子孫、皆さん一人一人の子孫、それは誰ですか?それは新しく生まれるクリスチャンです。それが、アブラハムの子孫である私たちの子孫です。私たちの教会でも昨年、主のご降誕を祝うクリスマスに二人のキリスト者、アブラハムの子孫が生まれました。そして、再来週、主の復活を祝うイースターにまた一人のクリスチャン、新しいアブラハムの子が生まれようとしています。キリスト者である私たちは皆、約束の相続人なのです。その約束とは、ただ単に日本にクリスチャンが増えるというレベルに留まりません。ユダヤ人もギリシャ人もパレスチナ人もイラク人も日本人も朝鮮人も中国人もなく、身分階級の差別もなく、性の差別もなく、互いに愛し合う御国が必ず完成するという約束です。私たちはその約束を信じて生きる民ですし、そうであるが故に約束を相続することになるのです。そんな夢みたいな約束を信じることが出来るか、とお思いになるでしょうか?もちろん、私たちの目の黒いうちに実現しなければ信じないというなら、この約束は信じることが出来ない約束かもしれません。しかし、私たちはそんな小さなレベルで生きている人間ではないのです。神様の約束は数千年かかっても必ず実現するのです。そして、神様にとって千年は一日、一日は千年という言葉も聖書にはあります。そういう全能の神様の約束を、私たちは聞いて信じているのです。私たちは、この信仰が与えられているから、今日からの一週間の歩みも希望を持って踏み出すことが出来るのです。
 最後にヘブライ人への手紙一一章の言葉を、少し飛ばしながら読んで終わります。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

 「神は、彼らのために都を準備されていた」とは、そのまま「全能の神は、私たちのために都を用意されているのである」と言い換えても少しもおかしくないのです。祈ります。
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