「永遠の契約」

及川 信

創世記 17章 1節〜14節

 

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」

 先週の五月三日は憲法記念日でしたし、その前からある新聞では未だに議論のある「東京裁判」や「靖国神社」に関する特集記事が組まれていました。また、最近顕著になってきた「格差社会」に関する記事もあり、それらの記事を読みつつ、戦後の日本の社会、あるいは国家の有り様について色々と考えさせられてきました。
そんな最中に、高齢の教会員の方が若者にバッグをひったくられたと伝え聞いたので、お電話をしたら、実はバッグをひったくられたのは二度目だと知らされ、さらに驚かされました。ひったくる拍子にその方がアスファルトの道路に転んでしまったら、間違いなく骨折するでしょうし、頭でも打てば大怪我をするかもしれないのに、そんなことはお構いなく、幾ばくかの現金欲しさに、老人のバッグをひったくっていく若者たちが今は何人もいる。自分の子どもがそういうことをやっていると、その親は知っているのか?親はいるのか?家庭はどうなっているのか?その若者の育った環境、心の有り様についてもいろいろと考えると、何とも言えない思いになります。
そういう若者たちを見て、政治家や官僚たちが、「教育基本法」の変更を画策し、また憲法も変えて、その中に愛国心教育を取り入れようとしています。彼らの言う「愛国心」とは、たとえば、日の丸が掲揚されれば起立して礼をしたり、「君が代」を大きな声で歌って天皇制国家を待望したりすることであり、あるいはお国のために戦争に出かける、あるいは誇りを持って自分の子どもを送り出すことでもあるでしょう。つまり、国家権力に服従して、人殺しをすることが「愛国心」という言葉にすり替えられている場合が少なくありません。私は私なりに、この国とそこに生きる人々を強く愛しており、私なりの「愛国心」を強く持っているがゆえに、彼らが進める教育基本法や憲法の変更には強い危惧を感じます。しかし、それよりも何よりも、そういう動きの背後にある、社会の荒廃、人心の荒廃にこそ、強い危惧を感じます。多くの人が、自分の心の置き場を見失っている。社会やそこに生きる人々への愛とか責任感を失い、漂うように刹那的に生きている。そのことにつけ込む形で、「愛国心」の必要性が説かれ、北朝鮮や中国の脅威が喧伝され、戦争が出来る国への法整備が着々と進められていくことに危惧を感じます。そして、戦勝国によって主導された「東京裁判」以来植えつけられてきた負け犬根性を拭い去り、今こそ、日本独自の伝統文化を誇りとして、新しい日本を作り出すべく新憲法を制定し、天皇も靖国神社に参拝できるような道筋を作ろうとしている。その安易さに呆然とする思いです。そこには、些かの罪意識も感じられないからです。一人の人間を「現人神」に祭り上げることが出来る国民は、自らの「罪」を感じ取ることも出来ない民であることを、今更ながらに痛感させられます。
創世記一七章の前半を月に一回読み続け、今日で三度目の説教となります。この一七章が書かれた時代がバビロン捕囚期であることは前回語りました。それはつまり、イスラエルの民が主なる神様に対して度重なる背信の罪を犯した結果、神の裁きの鞭として用いられたバビロン帝国に滅ぼされ、さらに多くの人間がバビロンに連れ去られた時代です。その時代の人々は、強大なバビロン帝国の文化、宗教、経済の力に押しつぶされ、呑み込まれそうになっていました。国が滅びただけでなく、民族の伝統や文化、宗教も滅びるかもしれない危機の時代、それがバビロン捕囚時代です。当然のことながら人心は混乱し、腐敗し、荒廃し、多くの人々は自分が何者であるかが分からなくなり、心の置き場所を失って、自暴自棄に反乱を起こす人もいれば、それとは逆に無気力に沈み込んでいく人々もいましたし、バビロンの文化や宗教にさっさと同化していく人々もいたのです。
しかし、そういう人々の中で、何故こういうことになってしまったのかを深く検証し、祈りの中で神様に尋ね求め、そして、現実の奥にある神様の御心を示されていった人々もいました。そういう人々が、天地創造物語に始まる壮大な物語を書き、既に存在していたアブラハムの物語にも自分たちの経験を書き込んでいく。そのようにして、聖書の文書は出来上がって行ったと思います。
最終的な形である現在のアブラハム物語において、一六章でアブラハムは、妻の女奴隷であったハガルとの間に子どもを作りました。それは、一五章で子どもを与えると約束し、契約まで結んでくださった神様に対する決定的な裏切りであり、背信行為なのです。神様は、そういうアブラハムに対して、厳しい裁き、あるいは過酷な訓練を与えました。その後の十三年間、彼には子どもが生まれず、彼はついに九九歳になったのです。つまり、最早子を作ることは出来ないし、妻のサラだって十歳年下ですが、最早子を産むことは出来ない。彼らはついに子孫を残すことが出来ないままその人生を終えざるを得ない。そういう裁きを受けていたのです。その裁きを受ける中で、彼は自分の行為が何であったかを知らされたでしょう。つまり、自分としては良かれと思ってやったことに重大な罪があったことを知らされたと思います。それが、神様が裁きをお与えになる意味です。
そして、自分自身の罪を知った彼の前に、神様が現れたのが一七章です。神様は、彼に「あなたをますます増やす」「ますます繁栄させる」「このカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」と語りかけました。これはまさに神様が全能の神であるが故に言えることです。しかし、神様はその全能の力をもって、最初に何をなさるのかと言えば、新しいアブラハムをお造りになるのです。それまでの名であった「アブラム」を「多くの国民の父」という意味の「アブラハム」に変える。新しい名を与えるのです。これは彼を新しくするということです。そして、そこには、彼が犯した罪、裏切りと背きの罪を神様がお赦しになったという事実があります。アブラハムを新たに造り、新たに出発させる力とは、神様の赦し、罪を赦す愛の力なのです。その愛によって赦されて生きる。つまり、これから後も、神様が彼の神であり、彼の子孫の神であり続けてくださる。それは永遠に変わることのない契約であると仰るのです。その契約を信仰によって受け取る印として、アブラハムとその家族、さらに彼の家に属するものは奴隷たちも、割礼を受けよと、神様にお命じになりました。
割礼とは、男性器の包皮部分を切り取ることです。つまり、決して消えることのない印となります。アフリカや西アジアのかなり広い範囲でこういう習慣は見られるそうです。しかし、その起源や目的については、よく分からないようです。イスラエルの民は、カナンの地に定着後、この習慣を取り入れたようですが、バビロン捕囚の時代に、バビロン人にはこの習慣がなかったこともあり、イスラエルと神様との間の永遠の契約の印として定着するようになったのです。割礼は、神の約束を信じた民の印として他の民族とイスラエルを画然と分け、すべての点で希望も誇りも持つことが出来なかった彼らの尊厳を支えるものとなっていったのです。
今日ご一緒に御言葉から聴かなければならないことは、この神様の永遠の契約と契約を信じる印に関する問題です。
世の中には口約束で済むこともたくさんありますが、契約を結んで、その印を残さなければならないこともあります。契約書を作成し、署名捺印をして保管をする。それに違反すれば当然処罰される。そういう契約とそれに基づく印がなければ、社会も国家も成り立ちません。ですから、人間の共同体には「契約共同体」としての側面があります。特に聖書における共同体、つまり旧約聖書(旧い契約の書物)に登場する神の民イスラエルも、新約聖書(新しい契約の書物)に登場する新しいイスラエルであるキリスト教会は、まさに契約共同体です。同信の仲間が集まっている友好団体ではありません。
先月は特に、その契約共同体としての姿がよく見えた月でもありました。というのは、いくつもの式が執行されたからです。四月一日には、結婚式がありました。またその翌日の第一日曜日には長老任職式(按手礼式)がありましたし、その翌週には教会学校教師任職式があり、イースター礼拝には洗礼式がありました。さらに翌週には奏楽者任職式があり、先週は入会式がありました。それらの式の中では、勧告がなされ、誓約がされ、宣言があり、祈りがありました。また、結婚式では誓約の印に指輪が交換されましたし、按手礼式では長老たちによって頭に手を置かれるという行為がありますし、洗礼式では水を滴らせるという行為があります。また、洗礼を受けた者だけが、つまり神様との契約関係に入った者だけが与る聖餐式では、パンとぶどう酒が配られ、それを食べ、飲むという行為がありましたし、今日もこれから、聖餐式がもたれます。これらの式は、一つ一つ、契約締結の式であり、その契約関係を確認する式だと言ってよいのです。
神の名の下でなされる結婚式は、結婚する両人が神に属する者たちであることが前提とされていますし、さらに今後は、夫は妻に属し、妻は夫に属して、一つの家庭という共同体を形成することを神様に向かって誓約をし、また神様から夫婦であることを宣言されるものです。長老の按手礼式とは、選挙という人間的手段を通して選出された背後に神の選び、キリストの召しがあることを信じ、これ以後、牧師、同労の長老と共に長老会に属し、教会に仕える者として立てられることです。先週、発行された「会報」を読めば、三人の方たちが、まさにキリストの召しを受けてその職務に就かれた霊的な消息を知ることが出来るでしょう。
そして、旧い契約の印である「割礼」に代わって新しい契約の印となったのは「洗礼」ですが、誓約と水の注ぎを持ってなされる洗礼式を通して、私たちはひとりひとり「新しい神の民イスラエル」、キリスト教会の正式なメンバーに加えられるのです。キリストの体なる教会に属するのです。その洗礼を受けて初めて、今日も聖餐の食卓において配られるパンとぶどう酒を頂き、「御国の世継ぎ」とされていることを確認し、確信することが出来るのです。つまり、教会に属することが天国に属することである、洗礼を受けることが永遠の救いの契約に入ることであることを、確認できるのです。
「結婚することだって、長老になることだって、クリスチャンになることだって、心の中でそう思っていれば良いことで、形式的な儀式をあえてする必要などないではないか」という考え方もあってしかるべきですし、そういう考え方にも一定の意味があると思います。何故なら、私たちはあまりに安易に形式主義に陥るからです。目に見える儀式の背後に、神の選び、神のご計画があることを信じ、その神様がいつでも御心に従って生きることを強く求めていることを忘れたり、無視しながら儀式を執り行い、またその後の歩みをするのなら、神の名によって執り行われるその儀式はむしろ有害なものになります。
一七章の冒頭でも、神様はアブラハムに向かって、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と命じられています。この言葉は、神様に従わず、己の思いに従って歩んだアブラハムに対して、悔い改めを求める言葉です。そして、神様の命令に従って割礼を受けるとは、まさに神に従い、全き者となる初めの一歩ですけれど、その初めの一歩は、次の二歩三歩に引き継がれていかなければ何の意味もないのです。いつも新たに罪を赦し、自分を新たに造り替えてくださる神様の愛を信じ、その御心に従って歩み続けてこそ、割礼を受ける意味があるのです。
しかし、以後の数百年の歴史の流れの中で、神の愛を信じて生きる民の印であった割礼は、形式主義に落ちたユダヤ人の印となってしまいました。割礼は、「自分たちは神の民であり、他の民族とは違うのだ」という悪しき選民思想の目に見える印となってしまったのです。
そのことに対して、パウロは新約聖書のローマの信徒への手紙の中で、こう言っています。

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。


 パウロは、ここで不信心な者を義として下さるお方が神さまだと言っているのです。神様は、人間の不法を赦し、罪を覆い隠し、罪ある者を罪ある者として見做さないお方であると言っている。しかし、それはどうしてなのか?神様は、ただ太っ腹でそういうことを為さっているのか?神様は清濁を併せ呑む鷹揚なお方だから、私たちがどんな罪を犯そうが、不法を働こうが赦して下さるお方だと言っているのかと言えば、それはとんでもないことです。彼はそんなことは言っていません。パウロは、「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と言っており、アブラハムはこの信仰を生きた最初の人であると言っているのですが、神様はすべての人間の罪を赦し、新しい命を与えるために、ついにご自身の独り子を世に送り、十字架につけて裁き、復活させ、その御子イエス・キリストの救いの御業を信じる者の罪を赦し、新たに永遠の命を与えるという契約を立てて下さったのです。この新たな永遠の契約を結ぶために提供されているものが霊と水とによって授けられる洗礼です。私たちは、神様の恵み、その選びによって、御子主イエス・キリストの血による新しい契約を信じて、洗礼を受けたキリスト者とされているのです。この恵みは、神様にどれほど感謝してよいか分かりません。
 パウロは、コロサイの信徒への手紙の中でこう言っています。少し長いのですが、神様の恵みと感謝の現わし方について深く教えてくれる言葉だと思いますので、読ませて頂きたいと思います。

「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(二章一一節〜一四節)
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。(中略)古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」
(三章一節〜一五節抜粋)

 私たちの国は、百数十年前に、今で言うグローバル化の波に襲われて、それまでの幕藩体制を終わらせ、天皇を中心に据えた中央集権国家を作って一つの体になろうとしました。そして、富国強兵、殖産興業の道をまっしぐらに突き進んだのです。その果てにあの戦争があり、無条件降伏があったのです。そして、新たな東西冷戦構造の中で、新憲法の制定があり、日米安保体制の下、一丸となって高度経済成長を成し遂げてきました。そして、今、社会の格差は広がり、先行きの見えない不満と不安が蔓延しています。様々な分野で不正が行われており、犯罪数は増加し、低年齢化し、さらに凶悪化し、検挙率は低下している。そして、自殺者数は増加している。そして、ついに自衛隊は海外に派遣され、教育基本法や憲法を変えて、国が人の心にまで影響力を与えようとしています。すべては「平和と繁栄のため」であり、「その根本に国を愛する心がなければいけない」と、多くの政治家が語ります。しかし、問題は人間の罪なのに、そのことを一顧だにしないで、愛国心の必要性を説くとき、その愛国心とは結局、敵を作り出すことにのみ働くのです。最も愛国心が高揚する時は、戦争の時なのですから。恐ろしいことです。
しかし、神様の愛は、あの十字架において極まるのです。神様は罪無き独り子であるイエス・キリストをあの十字架につけて殺すことで、敵として殲滅すべき私たちの罪を赦し、信じる者たちを復活のキリストと共に生かして下さるのです。私たちの信仰は、このキリストにおいて現された敵をも赦す神様の愛を信じる信仰であり、この愛こそが永遠の契約であることを信じる信仰です。その信仰に生きる印として、私たちは永遠に消えることの無い洗礼を授けていただいているのです。その洗礼を受けている私たちは、今日これから聖餐に与ります。これはまさに今読んだように、「上にあるものを求める」ことです。御国が来ますように、御心が天に行われるように、地にも行われますようにと祈りつつ、私たちは終わりの日に完成する御国、天国を信じるのです。そして、その信仰をもってこの世を生きる。それは、ユダヤ人とギリシア人、割礼を受けた者と受けていない者の区別や、身分や階層の区別もなく、「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」ことを信じ、神に愛されているように愛し、神に赦されているように赦し、キリストの平和が実現することを祈りながら生きるということです。 今日、世界中の教会で、数十億のキリスト者が、上にあるものを求めつつ、聖餐を守り、祝っているのです。神様の愛の勝利を確信し、その愛の内に生かされていることを感謝し、喜び、そしてこの愛に生きようと新たに決意をし、祝福を受けているのです。 信仰と希望と愛に生きる。それは神様の聖霊のお力を頂かなければ一日たりとも、いや一瞬たりとも継続できない歩みです。私たちは、まことに愛に乏しい存在だからです。しかし、キリストによる永遠の契約を知らされる前は、「罪の中に死んでいた」だけの私たちは、今や、洗礼を授けられて新たに「キリストと共に生かして」頂けるのですから、今日も新たに御言葉と御霊と聖餐の御糧を頂いて新たな力を与えられ、神に従う、全き者として、新たな歩みを始めましょう。
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