「信仰によって生きる人々こそ」

及川 信

創世記 17章15節〜26節

 

神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。(中略)諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。(中略)」神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。アブラハムは、(中略)男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。(後略)

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。



 創世記一七章の一四節までに関して三度にわたって語ってきました。今日は、先に進みますが、今日の礼拝がペンテコステ礼拝(聖霊降臨を覚える礼拝)であることも心に留めつつ、ご一緒に読んで参りたいと願っています。
 今日のところで初めて、子供が生まれる時期が「来年」と規定され、さらにその子の名は「イサク」であるということが出てきます。その意味は、「彼は笑う」という意味です。
「笑い」、これはこれで深く広い世界を持っているものです。私たち人間は、楽しかったり可笑しかったりする時だけ笑うのではありません。嘲笑、哄笑、失笑、苦笑、微笑、談笑、冷笑、嬌笑、含み笑い・・、たくさんの笑いがある。人と人をつなぎ合わせる笑いもありますし、その関係を引き裂く笑いもある。前任地の松本にいた頃、友人の家族とスキーに行った時、まだ幼稚園のお子さんが転んだのを見て、お父さんが嬉しそうに笑ったのです。それは単純に、ちっちゃい子供が頑張っていることが親として嬉しくて笑っただけなのです。でも、その笑いを見たその子は、「お父さんが笑った」と言って傷ついてしまい、お父さんは、やっぱり笑いながら「笑っていないよ」と言うのですが、「いや、笑った」と言って、頑なに心を閉ざしてしまう。そういうことがありました。
聖書の中には、今日の箇所にもありますように、人間が神様を笑うという場合と神様が人間を笑う場合があります。その一つ一つの例を今挙げることをしませんが、イサクという名前の中に込められた意味合いも、一つや二つではないということをまず覚えておきたいと思います。
一七章において大事なもう一つのことは、「神様による命名」ということです。神様が名前をつけるのです。命名者というのは、実に大きな存在であることは言うまでもありません。誰がどういう意図で名前をつけたか。これは大きなことです。先日も、ある方にお子さんが生まれたのに二週間も名前がつかないので、私としては不思議で仕方なかったのですが、その方によれば、「生まれてきた赤ちゃんの顔を見て、ゆっくりと考えたい。だって一度つけたらそれは一生のものだから」ということでした。たしかに、その通りです。名前は、(改名をすれば別ですけれど)一生のものだし、その人の人生に大きな影響をもたらすことは事実だと思います。私も、牧師である父から「信」と名づけられて、信という名前と信仰とが無関係だと思うことは相当に困難なことでしたし、それは土台無理な話ですから、未信者の時はずっと重荷でしたし、今は前よりもさらに重荷です。クリスチャンを親にもつ方の中には、動揺の方がいると思います。義とか善、真理、愛、恵み、望みなど、聖書に頻繁に出てくる言葉をつけられていると、そこを読むたびにドキッとする。そういうことがあるだろうと思います。
創世記一七章では、神様が、それも全能の神様がアブラムの前に現われ、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と語りかける言葉で始まります。そして、その神様が、アブラムに向かって、「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」と語りかけているのです。「名乗りなさい」と訳されていますが、命名者は神様です。そして、そこには彼を「諸国民の父とする」という神様の願いが込められているのです。神様は、そのためにこそアブラハムを選び、旅立たせ、子孫と土地に関する約束を与えられたのです。問題は、彼がその約束を信じ、その実現を待つことが出来るかどうか。ただそれだけです。
しかし、既に読んできましたように、アブラハムとその妻サラも、約束を信じたり、また疑ったりしてきました。そして、ついにアブラハムとサラの女奴隷ハガルとの間に一人の男の子をもうけるということまでしたのです。その子の名前、イシュマエル(神が聞き給う)も、神様が名付けたのですが、この出来事は、アブラハムの信仰が最初から最後まで動揺しない堅固なものではなかったことを表しています。そして、今日の箇所は、さらにその事実を裏付けていると言ってよいでしょう。
主なる神様は、ここでアブラムをアブラハムという名前に変えるだけでなく、その妻サライをサラ(女領主)に変えます。つまり、この夫婦を新しく生まれ変わらせるのです。私たちは二週間にわたって、ヨハネ福音書におけるニコデモとイエス様との対話を読んで来ましたが、そこでイエス様が「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることが出来ない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と仰いました。その新しく生まれるということが、今、ここでアブラハムとサラにおいて起ころうとしている、いや、神様が起こそうとしていることなのです。そして、それは古い自分、神様を信じることが出来ない罪なるアブラムが死ぬということが前提です。神様は今、古い命の死と新しい命の誕生という御業をなそうとしておられるのだと思います。

アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。

「アブラハムはひれ伏した。」つまり、神様を礼拝したのです。しかし、彼は「笑った」。神様の言葉を聞いて笑ったのです。そして、ひそかにこう言った。(原文は「心ではこう言った」)

「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

今風に言えば「ありえねー」と言った。心の中では。しかし、口ではこう言ったのです。

「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」

 つまり、「神様、あなたが仰ることは到底信じられません。それにもう結構です。私にはイシュマエルがいます。彼が跡を継いでくれればそれで満足です」と言ったのです。
 しかし、神様はこう仰る。

「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。(中略)わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

神様は、あくまでも神様の約束の実現として生まれる子、イサクとの契約に拘ります。それは、やはり霊と肉の問題に関ります。イシュマエルは、あくまでも肉の子です。アブラムとサライが自らの知恵を絞って自分達の将来を確保するために産んだ子です。しかし、イサクは神様の約束の子です。ここに、霊という言葉そのものは出てきませんが、全能の神様の力を発揮する媒体として霊が働き、肉では不可能なことを為さることが前提とされているのです。この霊の働きを信じること。受け入れること。そこに自分自身の全身全霊を投げ出し、委ねること。ただ、そのことが求められているのです。アブラハムは。

「神は、こう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。」

 これが一七章一節の「アブラハムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた」から延々と続く神様とアブラハムの対話の終結部です。残されたことは、アブラハムがどうするか、だけです。
アブラハムは、自分自身、またイシュマエル、そして家に属する者すべてに割礼を施しました。ここで繰り返し強調されていることは、「皆」「すぐその日に」という言葉です。そして二節の「私に従いなさい」との関連で確認されているのが、「神が命じられたとおり」という言葉です。アブラハムは、神様が彼から離れて天に昇って行かれたその日にすぐ、神様が命じられたとおりに、自分自身を含めて男子全員に割礼を施しました。割礼とは、具体的には男性器の包皮の先端を切り取るということですけれど、麻酔もなく、今のメスのような鋭利な刃物もない時代に、こういう外科手術をすること自体、とんでもない痛みを伴いますし、ばい菌でも入れば非常に危険なことでした。実際、創世記をこの先も読み進めていくと、ヤコブの子らに騙されて割礼を受けた男達は、三日目になってもまだ痛みに苦しんでいて、剣をもって戦うどころではなく、その村の男たちが皆殺しにされるという恐るべき話が出てきます。大の大人が割礼を受けるというのは、何日にも亘って痛みに苦しみ続けるということなのです。そういう恐ろしいことを、九十九歳のアブラハムは自分自身に対してしたのだし、家の男子すべてに対してしたのです。私は、そのことの中に、ご自身の愛と信頼を幾度も疑い、裏切る罪人を、それでも愛し、赦し給う神の痛みのしるしを感じます。神様は、この契約のしるしを通して、ご自身の愛とその全能の力を疑い、約束の実現を疑ったアブラハム、またサラを赦し、彼らを新たに神の民として誕生させて下さっているのです。その神の痛みを伴う愛と赦しを知らされたが故に、心の奥底で笑ったアブラハムは悔い改めて、その日の内に、一人の例外もなく、激しい痛みを伴う割礼を施したのだと思います。
 アブラハムの肉の子孫、それは後に「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。彼らはこの契約を守るべく、割礼を施し続けましたし、今もそうです。割礼を受けるということが、彼らの律法になっていったからです。しかし、その律法は次第に本末転倒のものとなっていきました。神様が与えた契約の内容とは、ユダヤ人の不信仰、不服従の罪を赦し、新しく生かす神様の愛と赦しなのです。ユダヤ人はその愛と赦しに応答して、罪を悔い改め、神様を愛し、人を愛し、赦して生きていくことが、求められているのです。そのための具体的な内容が律法の条文に記されているのです。割礼は、その契約(律法)を生きる神の民であることの印です。
神への愛と人への愛に生きることがなければ、そのしるしそのものがユダヤ人の罪の象徴になるのです。そして、実際、そういうことになってしまいました。ユダヤ人の中では、割礼を受けていれば、それが神の民の印であるということになり、律法の字面を守ることが、神の御心に従うことだとなっていったからです。そういう誤解の中で、ユダヤ人たちは、神の民としての実質を自ら捨て去り、神様との契約を破ったのですが、彼らにその自覚はない。彼らは、律法を守っている自分達こそ契約の民だと思っているのです。主イエスは、その誤解を正し、その欺瞞を批判し、悔い改めを求めました。そして、自らの罪に気づき、悔い改めて主イエスを神の子、キリストと信じて従えば、罪を赦され、新たに生きることが出来るという福音を宣教されました。しかし、ユダヤ人、特に律法に忠実に生きていたユダヤ人は、その主イエスを許すことが出来ませんでした。彼らは、ついに、主イエスを「神を冒涜した大罪人」として処刑することで、彼らとしての神への愛を貫いたのです。
しかし、主イエスは、そういう彼らの罪を背負って十字架の死を耐え忍ぶことを通して、神の御心を生き抜き、神への愛を貫き、隣人への愛、さらに敵への愛を貫いて下さったのです。だから、神はキリストを死人の中から甦らせ、罪と死の力にも打ち勝つ勝利者として天に上げられたのです。そして、主イエスは、今も聖霊において、私たちの只中に生きておられるのです。
先ほどは、ガラテヤの信徒への手紙の三章からを読んで頂きました。その直前、二章一九節以下で、かつてキリストを迫害していたユダヤ人の一人であるパウロはこう言っています。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死が無意味になってしまいます。」

 彼は、それまでの自分に死んだのです。復活の主イエス・キリストとの出会いを通して、彼がそれまで正しいと思っていた律法の守り方が、全く間違っていたことを知らされたからです。彼は、彼を愛し、彼のために十字架の上に身を捧げてくださった神の子キリストがおられることを聖霊の導きの中で信じさせられる時、それまでの自分に死に、全く新しく神の子イエス・キリストを信じる信仰に生きる者とされました。そして、迫害者から伝道者へと劇的に造り替えられたのです。その彼の伝道によって、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたのに、今、後から入ってきた偽伝道者の言葉に惑わされて、偽りの信仰へと陥りつつあるガラテヤ教会の信徒に向かって、彼は、こう語りかけます。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

私たちキリスト者は誰でも、聖霊の導きの中でキリストと出会い、キリストを信じる信仰を与えられました。具体的には、聖書に記されている福音を聞いて信じたのです。礼拝における説教、信徒による証しを通して、私たち人間の罪は神の御子イエス・キリストの十字架の死によって赦され、復活によって私たちは新たにされ、その命は永遠であるという福音を聞いて信じ、その信仰を告白し、洗礼を授けられたのです。そのことにおいて、私たちは今、新しい命に生かされている。そこに聖霊の導き、その働きがあったとしか言い様がありません。これが恵みです。賜物、プレゼントなのです。キリストによる罪の赦しも、新しい命も、それを信じる信仰も、私たちが獲得したのではなく聖霊の賜物として与えられたのです。そして、その信仰に生きる者に、神様はさらに霊を授け、奇跡を行われるのです。
「奇跡」と言うと、皆さんは、どんな人でもビックリして腰を抜かすようなことばかりを想像されるかもしれません。それこそ百歳と九十歳の夫婦の間に子供が生まれるとか、目の前の海が真っ二つに分かれるとか、岩から水が出てくるとか、病気が治るとか、死人が生き返るとか、そういうことをイメージするでしょう。そういうものもたしかに奇跡です。神様の御業です。しかし、そういうものだけが神様の御業なのではありません。
先週は先週で、私にとっては色々なことがありましたけれど、東京教区総会の時に、僅かな時間、普段から親しくしている若い牧師さんとお茶を飲みながら話す時間がありました。その方は、韓国から日本に来て、日本で召命を受けて神学校に入り、今、日本基督教団の教会で日本人に伝道をしてくださっています。私は、それだけでも感謝しているのです。彼にしてみれば日本語を使って説教をするだけでも大変なことです。説教とか祈りというのは、言葉が結実していないと語れないものだからです。また、彼が育ってきた韓国の教会の信仰と日本の教会の信仰は、良くも悪くも相当にタイプが違うし、顔は似ていても日本人と韓国人は民族としての気質が違いますから、傍目で見ていても、本当に大変な苦労をして牧師をしておられるのが分かります。毎月の牧師研修会でも、いつも真摯に学び続けて、懸命な努力をしておられるのです。その牧師と、教会のことや説教について話している時、ちょっと唐突にこういうことを仰いました。
「私のような者が毎週、毎週、説教壇に立って説教すること自体が、本当に奇跡なんだから。『皆さん、私がこうして牧師として立たされている姿を見て、それだけで神様を信じてください』と言いたいですよ。」
 私は、本当にそう思いました。牧師になろうと思って日本に来たわけでもない純朴な韓国青年を、神様はある時、その長く強い腕をもって捉え、全く異なる教派のいくつもの教会をあちこち引きずり回し、日本人の妻を与え、今は、学者でもある牧師が二代続けて牧会してきた教会に赴任させ、その若さ故に侮られたり、学者のような知識がないが故に見くびられたりもしながら、必死になって伝道し、自分なりの説教の言葉を求めている。そういう牧師を、神様は今日も新たに力を与えて語らせている。その毎週繰り返される現実、変わることのない風景のような現実の中に、神様の奇跡がある。この牧師はその奇跡に心を打たれている。そして、この奇跡に生かされている。私はそのことを知って、やはり深く心打たれ、神様の憐れみを心の中で賛美しました。「私を見て、神様を信じてください」。そう言えれば、それは本当の証しです。
 また、お気づきの方もおられると思いますが、階段を上がった所にNさんという方の病床洗礼の模様を写した写真を貼っておきました。先週日曜日の臨時長老会の決定に基づいて、翌日の月曜日の午後三時に久我山病院の会議室をお借りして洗礼式を行うことができたのです。Nさんは、数年前に中渋谷教会の特別伝道礼拝にも来られたことがありますけれど、私の母が五〇年以上、教師として勤めさせていただいているキリスト教保育をする小鳩幼稚園の事務員として、つい最近まで務めておられた方です。私にしてみれば、生まれたときからずっと「信ちゃん」と呼ばれて可愛がって頂いてきた親戚の叔母さんみたいな方です。娘さんは、もう二十年前に、荻窪の教会で洗礼を受けてクリスチャンになっているのですが、Nさん自身は、ずっと教会には着かず離れずの関係で生きてこられました。誰が見ても、いつかは洗礼を受けるだろうという雰囲気なのですが、その一線を越える時が来ない。二年ほど前にお会いした時、「Nさん、歩けるうちに教会に来なきゃ駄目じゃない」と言うと、「そうなのよ、信ちゃん」とは言うのですが、なかなか来ないし、どこかの教会に行っているということも聞きませんでした。
 そのNさんに、何故洗礼を授けることになったかというと、二二日の月曜日に、ちょっとした要件で兄の家に電話して兄嫁と話していた終わりに、小鳩幼稚園に勤めている兄嫁から、Nさんが末期の腎臓癌で治療も出来ない状態であり、ちょうどその日に久我山病院に転院したことを知らされたのです。私は翌日の火曜日に、小鳩幼稚園に勤めていたこともある妻と共に見舞いに行きました。そして、挨拶もそこそこに、「Nさん、洗礼を受けないの?」と尋ねると、いつものように「そうなのよ、そのつもりで三鷹教会にも通っていたのだけれど・・」と仰るので、「それじゃ、三鷹教会の牧師さんに電話しようか」と言うと、「それはしないで欲しい」ということでした。「とにかく娘と相談する」ということになって、その日は祈って別れました。その後の、成り行きは省略しますが、本人と娘さんの希望を受けて、中渋谷教会の洗礼式として私が執行することが決められました。さらに病院のお医者さんも、「そういうことは病人にとっても非常に良いことだ」と仰ってくださったそうで、立派な会議室を洗礼式用に提供してくださいましたし、途中出入りしながらでしたが、看護士さんらと共に式に列席までして下さいました。その医者は、洗礼式が終わるまでは、意識が混濁しないようにと、それまで使わざるを得なかった痛み止めのモルヒネを抑えて、座薬で痛みを紛らわせて下さり、Nさんは、月曜日に、私の問いかけに対して、なんとか聞き取れる声で「信じます」「望みます」と答えることが出来たのです。教区総会が終わった木曜日からは毎日お見舞いを続けさせていただいていますが、木曜日には声は多少出ても、言葉にはならず、娘さんの朱実さんにお聞きしても、あの月曜日が声が言葉になるという意味ではタイムリミットでした。
木曜日に娘さんを病院の近くである勤め先に車で迎えに行き、病院までご一緒したとき、私が「本当に神様は生きていらっしゃることが分かりますね」と言うと、朱実さんは、「神様は生きて働いていらっしゃることを、ここまでマザマザと見させられると、もう信じざるを得ないです。これは本当に奇跡だと思います」と仰いました。私も本当にそう思います。神様が生きているだけでなく、生きて働いておられる。そして、一人一人の人間を追い求め、罪の赦しと新しい命の福音を語り聞かせ、信仰を与え、洗礼を授けてくださる。そのすべてに生きて働く聖霊の導きがあるのです。まさに神の御業としての奇跡があるのです。私たち一人一人は、その御業の道具として用いて頂けるのです。
 パウロが言う如く、神様は「あなたがたに霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる」お方です。その奇跡とは、何よりも聖霊によって、私たちに信仰を与えて下さるという奇跡です。そして、その信仰によって私たちを新しく造り替えてくださるという奇跡です。そして、さらに信じる私たちを通して、福音を宣べ伝え、キリスト者を新たに誕生させる道具として用いてくださる奇跡です。私たちは奇跡の子だし、奇跡の母でもあるのです。教会とは新たにキリスト者を生み出す母だと、宗教改革者のカルヴァンは言いました。
 不信仰なアブラムは、神様の愛と赦しによって新たにアブラハムとされ、神様の愛と赦しを信じる信仰を生き、その信仰において諸国民の父となっていきました。私たちは、御子主イエス・キリストを通して与えられた新しい契約を聖霊の導きの中に信じることが出来、聖霊によって新たに造り替えられ、今、信仰によって生きています。生かされています。そのこと自体が奇跡であり、恵みです。その恵みを受けている私たちは「私を見てください。そして、神様を信じてください」と言えるのです。そのことが、恵みを無にしないということなのです。
 昨日、Nさんをお見舞いした時、耳元で読んだ聖書の言葉はローマの信徒への手紙の言葉です。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

 Nさんは、ベッドから起き上がることは出来ません。それこそ、奇跡でもなければ、再び起き上がることは出来ないでしょう。しかし、朱実さんは、洗礼式が終わった後の挨拶で、こう仰いました。
「八十年間、愚直に生きてきた一人の女性の歩みを、神様は今、本当に意味あるものとして下さった。その事実を知り、ひれ伏し、感謝するほかありません。」
 アブラハムも九十九歳で新しい歩みを始めることが出来ました。パウロは迫害者として人を殺していた人なのに、主イエスに出会い、伝道者として人を生かし、最後は多分殉教したのでしょう。私たちも、それぞれ人生の途上で、神様の恵みによってキリストと出会い、新しい人生を与えられています。それ以来、すべては主のためなのです。生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。だって、主が私たちのために肉を持って生きて下さったし、死んで下さったし、今は聖霊において私たちの中に生きて下さっているのですから。私たちは、この主イエス・キリストを信じて生きることを通して、主のために生き、そして死ぬことが出来るのです。
 昨日、Nさんにこの言葉を読んで、私は耳元でこう語りました。「Nさんは、自分は何も出来ない。こんな歳で洗礼を受けるなんて恥ずかしい、申し訳ないと思っているかもしれないけれど、この間の洗礼式を通して、参列したキリスト者である私たちが、神様が生きて働いていることを改めて知らされてどれだけ励まされたか分からないよ。そして、まだ教会に通っていない幼稚園の先生や、お医者さんや看護士さんたちに、神様の愛を、今生きて下さっているキリストを証ししてくれたのは、Nさんだよ。Nさんは、今、主のために生きる者とされたのだから、本当に有難いことだね」と言って、祈りました。Nさんはもう「アーメン」という言葉も出せませんでしたが、小刻みに頷かれていました。
 聖霊において生きて働く神様を、ただただ賛美せざるを得ません。
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